17.潜伏
永禄4年3月1日。
瀬名氏詮の下に二俣の様子に関する報告がもたらされた。夜次郎の首が届けられた二俣では氏詮の姉で夜次郎に嫁いでいた輝が泣き崩れたと云う。父の氏俊も消沈して引き籠ってしまい、数日程出てこなかったと報告を受けた。
氏詮は報告をした藤林衆に銭を渡して下がらせると考えに耽った。
二俣の様子を見る限り夜次郎の死の偽装に瀬名家は加担していなさそうだ。そうなると怪しいのは松平家となるが…。先代当主様の懐にまで入った夜次郎が自身の存在を殺して松平家に肩入れする理由もわからず松平家としても彼を受け入れる理由もないように思える。今川家に三河に攻め込むだけの余力がないと見越しての行動であるなら、今川方の内通者を疑ったほうが良いな。
自室に戻った氏詮はふとしたことである考えに思い当たった。
今川方の内通者……。
もし、氏真一派の連中が自軍の内通者を疑った場合、誰が疑われるか。氏詮の頭の中には関口親永の顔が浮かんでいた。親永は今尼御台様の庇護を受けており、氏真と言えど易々とは手出しができない。だが、松平家との内通の疑いありとなれば別だ。氏真からすれば、側近である氏幸に関口家の家督を継がせたいと思っている故、あれこれ理由を付けて親永を引っ張り出そうとするだろう。その時に尼御台様に被害が及ぶ可能性もある。
氏詮は考えを纏めると人目に付かぬように寿桂尼の下へ向かった。
一方、駿河国小川城の城下には、服部半三と瀬名夜次郎が潜伏をしていた。半三の用意した身代わりの神人と入れ替わって服部一族が扮した夜盗に襲われた後、人目を忍んで小川城まで来たのだが、駿河脱出用に用意していた舟が伊丹康直率いる海賊奉行に検められるハプニングに見舞われていた。
舟は差し押さえられ、移動手段を失った夜次郎は別の手段での駿河脱出を検討中であった。
「夜次郎様、ここは持舟城まで移動しそこで乗れる舟を探しませぬか?」
半三の提案に夜次郎は首を振った。
「あすこは関口親永の居城。俺を知る者に出会うかも知れぬ。これ以上北に向かうのは危険だ。」
「ですが、此処よりは出入りの商人も多く、舟も見つけやすいです。」
「いやだめだ。」
小さな宿での言い合いは周囲に漏れていた。会話の内容を耳にした隣の者が「トントン」と襖を叩いた。瞬間的に二人は身をひるがえして戦闘態勢に入った。
「…何やら商いの匂いがしますなぁ。舟をお探しの様子みたいで。…話と銭次第ではお乗せしても宜しいかと思い声を掛けさせてもろたんですが…」
京訛りの声…夜次郎は何も答えずに外のほうに身体を動かした。
「…嫌われましたかな?こちらの身分を明かすんで交渉だけでもさせてもらえんやろか?」
半三は反対側の襖を開けようとしていたが夜次郎が制した。様子を伺うよう顎で指図する。
「音が止みましたなぁ。襖…開けても宜しいか?」
半三が夜次郎の合図で静かに襖を開けた。隣の部屋にはそれなりに立派な服を着た若い男が座ってこちらを見ていた。
「有難う御座います。私は中島四郎次郎と言います。父が京で呉服屋を営んでおりまする。」
京で呉服屋…四郎次郎…。夜次郎の脳内からは速攻でこの若い男の正体が検索された。周囲の様子を確認すると、姿勢を正して座りなおした。
「伊賀…まで行きたい。」
小声で四郎次郎に伝える。
「人数は?」
「二人だ。」
「十貫」
「高い!」
「私らも危険を冒すのです。それくらい頂かないと。」
「そんなにも持ち合わせておらぬ!」
「では出世払いでも宜しおす。」
「は?」
「先日、小川城主の長谷川様と商いとしておりました時に面白い話を聞きました。何でも長谷川様の領内で今川様の使者が殺されたとか…。」
夜次郎は顔を顰めた。海賊奉行が取り締まっているのはおかしいと思ったのだ。既に夜盗の捜索が始まっていることを確信し動揺した。
「この辺りには夜盗が潜んであるやも知れまへん。商人としては用心棒を雇いたいと思ておりましたのや。…如何でっしゃろ?」
夜次郎は考えていた。この若い男は間違いなく茶屋四郎次郎だ。つまり、将来徳川家の御用商人になる男。そんな男を此処で斬ってしまってはとてもまずい。だが斬らねば通報される可能性がある。斬らずにこの場を回避するには四郎次郎の提案に乗るしかなく、かなり躊躇っていた。
「……出世払いで良いのだな?」
かなりの時間考え込んで夜次郎は聞き返した。思わぬ返答に半三が驚く。
「宜しおす。」
「よ、夜次郎様!」
半三は思わず叫び慌てて口を押えた。だが、時既に遅く四郎次郎は予想外の名前に驚きつつニンマリと笑みを見せた。
翌日、身なりを整えた夜次郎と半三は中島四郎次郎の舟に乗り込んだ。和田灘から海へと出た舟は尾張を目指して西へと向かった。
船上では夜次郎と四郎次郎が話をしていた。四郎次郎は父の命で顔つなぎのために今川を訪れていた。たまたま立ち寄った小川城で使者が襲われた話を聞き、その経緯を調べていたところに二人の会話が聞こえ、使者を襲った輩だろうと思ったらしい。ところが居たのは殺されたはずの使者本人…四郎次郎は縁を結ぶ絶好の機会と判断したそうだ。
夜次郎は四郎次郎を試した。経緯を調べているのであれば、俺の目的とこれから先の予想を言ってみろと聞いた。
「ふむ…恐らくですが、松平家を大きくして主家をそちらに乗り換えようと思てはるのかと。」
大正解…この男は頭の切れる男だと確信した。流石歴史に名を遺す人物だと感心しつつ警戒も強めた。この時点ではまだ松平家との繋がりはなく、場合によっては掌を返される可能性もある。
「ではその為には何が必要だ?」
続けて質問をすると四郎次郎は困ったような顔をした。
「答えはわかっとりますけど、お答えできまへんなぁ…。」
答えは銭だ。これに四郎次郎が答えないということは出資できないと暗に拒絶している。
「では、誰なら用立てできる?」
「そりゃあ…尾張の御殿様…が宜しおすなぁ。」
「やはり織田家か…。だが…」
「仲が悪ろしおす。」
「…はっきりと言うな。」
「事実に御座います。」
「ならば…お主「そう言えば伊賀に行かれるとか。」……。」
話を変えられた。これは織田家との繋ぎを断る意思を指し示した意味になる。夜次郎は舌打ちしそうになった。こちらも伊賀へ行く目的ははぐらかし、その後は他愛もない会話で船上を過ごした。
夜次郎と半三を乗せた舟は二日を掛けて尾張の津島に到着した。
津島に入る舟は此処を支配する大橋氏の検査を受ける。しかし、茶屋の舟となれば簡単な確認だけで検査終了乗組員もすと街中へ通された。名のある商人は待遇が良い。ここからどうしようかと考えていると四郎次郎に声を掛けられた。
「さて、貴方様とは証文を交わす必要が御座ります故…お手数では御座いますが、私共の屋敷までおいで下さりませ。」
出世払いの約束のことを思い出し、夜次郎は四郎次郎に従った。此処は尾張。夜次郎にしても半三にしても敵地なのである。大人しくしておくのが得策であった。割と大きな屋敷に到着した一行は下女の案内で客間に通された。座って待っていると着替えを済ませた四郎次郎が姿を現した。
「遅くなりました。早速ですが、証文を作成致しました。ご確認下さりませ。」
下女が紙を恭しく差し出す。夜次郎は書かれた文章に目を通した。
借財、十二貫 返済時は百貫
返済期日、一城の主とならるるまで
返済まで中島家の女、芳を側女とすること
夜次郎は思わず笑った。
「なんと大雑把な証文に御座るな。」
証文と呼べるかも怪しい代物。これを真剣に作成していたかと思うと笑いが込み上げてきた。だが、四郎次郎は真面目な表情であった。
「そんなもんで宜しいかと思ております。」
「俺の名が記載されておらぬが?」
「貴方様の名を此処でお聞きしても、今の名を名乗ることは来ませぬ故。」
「これでは破棄しても構わぬと言っているようではないか?」
「破棄されるのであれば、そこにいる芳を切り捨てはったら宜しおす。…それで私は貴方様との縁も切れます。」
夜次郎は紙を渡してきた下女を見た。見目も服装もみすぼらしく無い。
「芳には貴方様の命令に服従するよう申し付けております。如何様にもお使い下さりませ。」
四郎次郎の言葉を受けて芳という名の下女が夜次郎に向かって平伏した。夜次郎は正直勘弁してほしいと思った。こういう場合、夜の相手も込み込みである。寧ろ手を付けることを前提としている。現代人の教養をまだ残している夜次郎には理解のできない話であった。
だが茶屋四郎次郎との繋がりを残して起きたい夜次郎にとっては、彼女を受け取るしか選択肢がなかった。だが夜次郎には疑問が残る。
「其方にとって我にそこまでする価値があるとは思えぬが…?」
夜次郎の疑問に四郎次郎は笑顔で答えた。
「勘…で御座ります。……商売人は己の勘を信じる場合も御座います。貴方様は…勘に頼ることはなさらぬようですが。」
夜次郎は唸った。確かに自分は勘には頼らない。何故なら歴史を知っており歴史から学んで判断することができるからだ。しかし、自分以外の者は何を頼りに判断するのか?あるいは自分が歴史から判断できない場合はどうするのか?
信念?勘?その時の気分?他人の意見?占い?…いや自分は判断材料を揃えたうえでの結論で判断する。だから、服部一族が手放せない。つまり、自分と四郎次郎は考え方が違っている。それは現代人の考え方と戦国人の考え方の違いと思ってもいい。ここで彼の意図を読むのは不毛だ。
夜次郎はそう結論付けて芳のことを受け入れた。
「分かった。期待の添える様努力しよう。だが、暫くは潜伏する。」
「宜しおす。私が期待しているのは十年後二十年後の話やと思てくれはると助かります。」
思わぬ形で茶屋四郎次郎と知り合った夜次郎。この芳という女性を手元に置いておくことで繋がりを持っておくことが可能ではあるが、果たしてそれが是なのか否なのか。夜次郎は自分の知る歴史を信じてこのまま進めることにした。
永禄4年3月4日。
夜次郎は津島に潜伏した。四郎次郎が用意した小屋で芳の世話を受けた。半三は報告の為に岡崎へと向かい、数日間は芳と二人きりの生活となった。
芳は親に借金の形に茶屋に引き取られ、やがて器量の良さを認められ、四郎次郎の下で働いていたこと聞いた。夜次郎は自分の母と重なる部分を彼女に見出し、自分の素性を教えた。芳も夜次郎の生い立ちを知って、気が楽になったのか、二人は割と打ち解けた間柄になった。夜次郎自身「こりゃ一線超えるのも時間の問題だな」と考えていたころだった。
「父から文が届きました。…至急岡崎まで夜次郎様をお連れせよ…とのことです。」
ある日、夜次郎が住む小屋を半蔵が訪れこう告げた。話を聞いてため息をつく夜次郎。芳は無言で支度を始めた。その様子を見て夜次郎はもう一度ため息をついた。
「芳、お前は此処で待て。」
「はい、旦那様。」
芳は夜次郎の命令に素直に返事をすると、半蔵に白湯を差し出した。
「半蔵様ですね。旦那様よりお名前を伺っております。芳と申します。」
半蔵は夜次郎に視線を向けた。目に怒りの感情がちらついている。夜次郎はもう一度ため息をついた。好きで芳と此処で過ごしているのではない。此処に辿り着くまでに色々と事情があったのだ。言いたいことを我慢し白湯を芳から受け取ると一気に飲み干した。
「半三からは何も聞いておらぬのか?」
「父上からは去るお方の世話を受けておられるとしか聞いておりませぬ。去るお方が女子だとは思いもしませんでした。」
「…芳はそのお方から遣わされた下女だ。そもそもお前ならここが誰の屋敷の一角かは知っておろう。」
半蔵は白湯には手を付けずに夜次郎の支度を待った。怒っているのはありありと見える。けれど芳はそれに動じず夜次郎の支度を手伝う。夜次郎は居心地が悪く感じた。
夜次郎はその日の内に津島を出立した。勿論道中で半蔵にこれまでの経緯を説明した。何とか溜飲は下がったようだった。
伊丹康直
今川家家臣。摂津からの流浪の末、義元に拾われ海賊奉行を務める。
茶屋四郎次郎
茶屋は屋号。本名は中島清延。店を継ぐための勉強中で顔つなぎの為に諸国を回っている。
芳
茶屋四郎次郎の屋敷で働く下女。親の借金の形に身売りされたのだが、四郎次郎に才を見出された。ひょんなことで瀬名夜次郎の世話係となる。