16.夜次郎暗殺
永禄4年2月16日。
この日、岡崎は雪が降っていた。瀬名氏広は岡崎城に到着すると出迎えた石川数正に用向きを伝える。その後城内の控えの間に通されて待たされた。そこへ鳥居忠吉が服部保長を伴って入ってきた。
「半三が此度の会見に自分も同室することを求めてきました。聞けば瀬名殿の御意向とか…。」
入ってくるなり厳しい表情で忠吉は夜次郎に問いかけた。夜次郎は「如何にも」と短く即答する。
「瀬名殿は今川家の使者として参ったと聞いており申す。如何なる用向きかお答え頂きたい。」
忠吉の口調は夜次郎を警戒する態度を示していた。夜次郎はまず今川氏真と瀬名氏詮の署名の入った書状を忠吉に渡した。
「今川家からの使者として参ったのは事実に御座る。その書状にある通り、松平家に誓紙を書かせることが役目となっておる。」
「我らは今川家の配下に戻る気は…」
激高し声を荒げた忠吉を夜次郎は身振りで制した。
「待たれよ。俺の話を最後まで聞くのだ。」
夜次郎は忠吉と保長に自分の考えを話す。二人は驚きで言葉を失った。
「…そ、そこまでして我が殿を…。」
忠吉は夜次郎の話に胸を打たれたようで今にも泣きそうになっていた。そんな老臣のことは無視して夜次郎は保長に話しかけた。
「半三、今川にいる忍については何か分かったか?」
「は、我等と祖を同じくする“藤林”の一派に御座りました。」
夜次郎は脳内アクセスする。藤林と言えば、伊賀の上忍三家のひとつだ。千賀地、百地、藤林のことで、服部家は千賀地の分家筋だったはず。…だが今川家と伊賀衆との繋がりが自分の記憶からは出てこなかった。
「半三、引き続き調査を行ってくれ。誰が主で仕えているのか雇われているのかもだ。」
「畏まりました。引き続き半蔵を伊賀に向かわせまする。」
「うむ。ところで鳥居殿、この件について蔵人佐殿は会って頂けるか?」
話を振られた忠吉は慌てて衣服を正して返答する。
「…勿論、お会い頂きまする。直ぐに支度を整えまするゆえ、お待ち下さりませ。」
こうして、夜次郎は約一年ぶりに松平元康と顔を合わせることとなった。
岡崎城本丸御殿、謁見の間。
広い部屋の下座に瀬名氏広が座り、後方の入り口近くに半三が控えた。中座には鳥居忠吉を筆頭として、大久保忠員、石川家成、酒井忠次の譜代衆、松平重吉を筆頭とする松平家の連枝衆が並んでいた。やがて足音が聞こえてきて皆が一斉に頭を下げる。松平元康が脇の入り口から部屋に入り上座に座った。
「今日は寒いな。…久しぶりだ夜次郎。今川の使者と聞いた。」
夜次郎は顔を上げて微笑んだ。そこには再会に嬉しさをにじませている元康がいた。
「お久しぶりに御座る。話したきことは数知れず…故に面倒事から済ませましょう。…これが書状に御座る。」
夜次郎は元康の性格を知ってか早々に話を進めた。書状を懐から取り出し、床に置く。小姓が恭しく受け取って元康に手渡した。
「…誓紙を差し出すよう書かれて御座る。」
読もうとした元康を制するかのように夜次郎は中身を端的に説明した。元康は視線を書状から夜次郎に移した。
「ほほう…今川から独立せよと申したお前が使者として誓紙を差し出せ…と申すか。面白い話よの。」
「殿、瀬名殿は…「じじい!黙っておれ!」」
忠吉が夜次郎から聞いた話を説明しようとしたが、大喝された。
「今川家として用向きはその書状にある通りに御座る。だが貴殿の言う通り、今の松平家の状況は我の一言により始まっておる。それを今更「誓紙を差し出せ」とは貴殿には言えぬ。」
元康は夜次郎の答えに納得する表情を見せた。
「で、どうするのじゃ?」
「書いて頂く。」
「書かぬわ!」
元康は声を荒げて即答したが、夜次郎は軽く笑ってその言葉を聞き流した。
「まあ、話を最後まで聞いてくれ。書いて頂いた誓紙は駿河の途中で奪われる。」
「はあ!?」
夜次郎の言葉に元康は素っ頓狂な声を上げた。
「お主はどうするのじゃ!?」
「ついでに殺される。」
「何を言うか!」
「本当に殺されはしない。だがそこまでの芝居をする必要が…御座る。」
夜次郎はそう言って、今川家で暗躍する忍の存在を説明した。元康は部屋の隅で身を折りたたんでいる服部半三を睨みつけた。
「忍とは如何なる者か?」
「…恐れながら申し上げます。忍とは人が居る所であらば何処にでも紛れ込み、相手に気づかれずにあらゆる情報を収集することを得意としております。本来は公家様や幕府の要人を自里に匿うことを生業としておりましたが、匿った相手へ情報提供をするようになってから特異な技を身に着けた者共になります。」
「半三もあの時は情報収集のために、夜次郎に雇われたと申すか?」
“あの時”とは自身が駿府で暮らして居た頃のことを指している。半三は「御意」とだけ答えた。
「そのような目的の為に手段を択ばぬ輩が今川にいると夜次郎は申すか?」
元康の言い方は服部半三を…服部一族のことをあまりよく思っていないことを示していた。夜次郎は心にむかつきを覚えたがぐっと堪えて話を続けた。
「そのような忍がどこかで我らを見ているやも知れぬ。その者らを欺くために服部半三殿の力をお借りし、駿河に入るあたりで夜盗に襲われたふりをしようかと考えた。」
元康は考え込んだ。暫く黙って考えたのちに夜次郎に確認した。
「誓紙は本当に…奪われるのだな?」
「半三殿を通じてお返し致す。」
元康は腕を組んだ。
「忠次…意見を述べよ。」
「は、誓紙紛失を咎められようとも我らに非は御座りませぬ。暫くは時を稼げます。」
酒井忠次は自家の利を解いた。
「家成はどうだ?」
「今川は瀬名様の暗殺を当家の仕業と決めつけこれを口実に戦を仕掛けるやも知れませぬ。」
石川家成は真逆の説を説いた。
「瀬名家の恨みを買うことにならぬか?」
元康は皆に問いかけた。本人を前に居並ぶ者は言いにくそうだった。
「皆、我が居ることで言いにくそうにされておるな。瀬名家からは恨みを買うことになりましょうや。…だが、瀬名家単独では松平家には及びはせぬ。」
夜次郎が皆の考えを代弁した。元康は笑った。
「相変わらず、はっきりと言う。…ではこれを口実に今川家、若しくは今川に属する者が我らを攻める可能性は?」
「ありませぬ。今の今川家当主は戦ではなく、権威を持って統治を目指しておる。咎めはしてくるが、それ以上のことはできぬ。ましてや忍の報告で夜盗に襲われたことを知れば…。」
「うむ。此処は夜次郎の策に乗ろう。」
元康は結論を出した。右筆を呼びだして誓紙を書くよう命じると最初の笑顔になった。
「夜次郎が今川の使者と聞いたときは吃驚したが、話を聞けば儂のことを考えてくれた内容で良かった。今宵は泊っていかれよ。」
「お言葉に甘えよう。」
その後の話は和やかに進み、夜次郎は予定通り松平元康の誓紙を手に入れることができた。
だが、夜次郎は寂しさを感じていた。
元康は気づいていなかった。
夜次郎自身は偽りで夜盗に殺された後、行く宛がないことに。
永禄4年2月21日。
大原義鍾は忍の報告に驚愕した。とんでもない報告に直ぐに関口善次郎道秀に報告した。道秀も大慌てで兄の惣五郎氏幸に報告した。
「そ、そそそ祖は真か!」
「死体も確認したそうです!間もなく瀬名家の者が首を持って到着するそうです!」
「首!?何故?」
「襲われた場所が問題に…島田の付近で夜盗に襲われたらしく…。」
義鍾の報告に氏幸はあっと声を上げた。駿河国大井川東部、島田の地は氏真直轄の領地であり、そこで夜盗で命を落としたとなれば責任の追及先は氏真になってしまう。それだけは避けねばならなかった。だが三人とも動転してしまい思考が停止していた。
そこへ瀬名氏詮が通りかかった。三人は慌てて氏詮を呼び止め事情を説明した。氏詮も驚きの声を上げたが、直ぐに冷静さを取り戻し、対処について頭を回転させた。
「まず、首をもってこちらに向かっている者とは首実験と称して殿より先に会おう。銭を握らせて襲われた場所を別の場所だと言わせるのだ。」
「ど、何処に?」
「島田の少し南に長谷川紀伊守殿の領地がある。その近くで襲われたということにする。長谷川殿には某のほうから連絡をする故、貴殿らは瀬名夜次郎の首のほうを頼む。」
四人は早速取り掛かった。当主様への事前報告は
惣五郎氏幸が行い、善次郎道秀と与次義鍾は使者の応対にあたった。氏詮は夜次郎が殺されたとは信じられなかった。あの男が易々と殺されるとは思い難く裏があるのではと思いたかった。
やがて使者が到着し、首実検にて瀬名夜次郎であることを確認して氏真へのご報告となった。
「…使者の話では数十の野武士を装った男どもに襲われた由に御座います。」
経緯を含めて首の入った箱を前に氏幸が主に説明した。氏真はその報告を面白くなさそうに聞いていた。
「…で、この首は瀬名氏広で間違いないのか?」
「惣五郎、善次郎、源五郎の三人で確認致しました。確かに瀬名氏広に御座ります。」
その言葉に氏真は気色の悪い満面の笑みを浮かべた。扇子でそこらじゅうを叩いて嬉しさを表現しだした。
「そうか!死んだか!気に入らぬ輩であったから嬉しさの余り舞を思いついたぞ!」
「殿!折角の松平家の誓紙を何者かに奪われたのですぞ!」
「…そんなのまた書かせれば良いではないか。」
「誰を使者にたてましょうや?」
「……。」
「松平家のことです。難癖付けて書くことはないでしょう。もしかしたら氏広の死について糾弾するやも知れませぬ。」
「この儂をか?」
「はい。事実は瀬名氏広が駿河にて何者かによって襲われて命を落とした。…殿にはその犯人を探し出し処罰する義務が生じました。いずれこのことは松平家の知るところとなりましょう。何か言って来るやもしれませぬ。その前に今川家として手を打つ必要が御座います。」
氏真は扇子を氏詮に投げつけた。
「たかが陪臣の死について儂が動かねばならぬのか!」
「殺された場所が問題です。」
「長谷川紀伊守を処罰すれば良かろう!ついでに夜盗狩りも命じておけ!」
「では、長谷川殿を今川の法と照らし合わせて適正に処罰致しまする。」
「まったくどいつもこいつも無能で役立たず…。」
氏真はぶつぶつと文句を言った。奉行衆はいつものごとく聞こえぬふりをして各々の作業に戻っていった。氏詮は首を使者に帰すべく箱を持って廊下を歩いていた。もう一度箱を開けて首を確認する。
……違う。似ているが髭が違う。あ奴の髭はもっと立派で真っ直ぐな毛であった。この首の髭は波打っており手入れがほとんどされていない…。
氏詮は使者に首と銭を渡す。使者が館を出て行くのを見届けると、伊賀衆の者を呼んだ。使者の後を追うように命じると、自身は尼御台の屋敷へと向かった。
松平家
西三河を中心に展開していた氏族で三河安城の松平家を宗家とする一族。清康の代に居城を岡崎に移し後の徳川宗家となる。桶狭間の戦いの頃に宗家に仕えていた松平家は以下の通り。
松平玄蕃允清善
松平家家臣。竹谷松平家の当主で、早くから松平宗家に従っている。
松平景忠
松平家家臣。五井松平家の当主で、桶狭間の戦い以降に宗家に仕えている。
松平伊忠
松平家家臣。深溝松平家の当主で、先代より宗家に仕えている。
松平重吉
松平家家臣。能見松平家の当主で、桶狭間以前より宗家に仕えている。家臣団のなかで高齢であり鳥居忠吉と並んで岡崎重臣として活躍する。
松平源七郎康忠
松平家家臣。長沢松平家の当主。桶狭間の戦いで父政忠を失い、一時勢力を失っている。後に徳川十六神将の一人に数えられる。
松平親乗
松平家家臣。大給松平家の当主。酒井忠次と共に駿府で徳川家康の世話を行った
松平信一
松平家家臣。藤井松平家の当主。家康の三河時代を支えた猛将として活躍する。