15.暗躍
お待たせいたしました。
清州同盟編スタートです。
永禄4年2月
駿河の領主からの誓紙提出を粗方終えた氏真は銭をかき集めて朝廷への工作を始めた。同時に遠江の国人領主への誓紙差し出しを命じる。朝比奈泰朝と瀬名氏広が各城を回って誓紙を集めるが、この行為は遠江の国人衆に不安、不信、不満を与える結果となった。
やがて誓紙差し出しは三河にも及んだが、多くの国人衆が差し出しに対して抵抗を示した。その理由は松平家の存在であった。桶狭間の戦い以降、松平元康は積極的に西三河の国人領主らに接触し三河の盟主として存在力を高めていた。これに同調するか今川方として留まるかで三河は揺れており、この報告は今川氏真を怒らせた。
「松平などは織田家に対する防衛が役目であろう!何を周辺の奴らを纏めようとしておるのだ!そもそも一国を統治する家柄ではなかろう!」
「松平家は我等から独立するつもりでは?」
側近の関口氏幸が自身の考えを口に出したが、氏真の扇子が飛んできた。
「そんなことをして何になる!?名門の血も引いておらぬ輩が一国を統治など問題外じゃ!直ちに使者を遣わして真意を問いただせ!」
今度は大原義鍾が意見する。
「恐れながら、三河への使者は松平家も含めて既に出しております。」
「返事は!?」
「…ありませぬ。」
「ならば返事するまで何度でも使者を出せばよかろう!所領没収も人質処分もちらつかせよ!」
「畏れながら!」
今度は瀬名氏詮が口を出した。
「畏れながら…人質に手を出せば、松平家のみならず他の国人衆にも大きな影響を与えてしまいます。それに殺してしまったら奴らに何の柵もなくなってしまいます。それは最終の手段として…「うるさいわ!」」
氏真は氏詮を蹴り上げた。顎に足が当たり氏詮はそのまま仰向けに倒れ込んだ。
「と、殿!妙案が御座います!」
氏幸が二人の間に割って入り膝を付いた。
「…なんじゃ?」
「松平への使者…瀬名氏広にやらせては如何でしょう?」
氏幸の言葉に氏真は興味を示した。
「二俣の瀬名氏広は松平元康とは仲の良い間柄。何らかの効果を得られると存じます。」
「面白い。」
氏真は肯定的に答える。氏詮が顎に手を当てつつ起き上がってゆっくりとした動作で平伏した。
「殿、夜次郎は今は殿の直臣では御座りませぬ。そこで某の名代として某から命じれば、奴は某の顔を立てるために成果を上げてくるでしょう。」
「直ぐに取り掛かれ!」
氏真は氏詮に命じる。氏詮は顎を擦りながらも執務室を出ていった。氏真はにやりと笑った。
「これでうまくいかなければ瀬名氏広を処分せい。うまくいけば松平元康を処分せい。どちらにしても儂には好都合じゃ。」
氏真は笑った。周囲の奉行衆も笑った。だが関口氏幸ら奉行衆の顔は引きつっていた。
今川館の奥屋敷。ここは歴代の今川当主の廟を奉る儀式的な建物として利用されている。此処には“尼御台”とも呼ばれたお方が世話係の侍女と共に暮らしていた。此処を訪れる人は少ない。用向きがあらば必要に応じて侍女が言伝を行うか、尼御台自らが今川館に出向くからだ。
此処に一人の男が尼御台を頼って訪ねてきた。その男とは関口親永である。侍女の案内で中に入り座敷に通される。親永は下座に平伏して館の主を待った。
やがて着物の擦れる音と共に主が座敷に入り上座に腰を下ろした。
「関口殿が妾を訪ねて来られるとは…如何なる用向きか?」
あまり歓迎されていない口ぶりに親永は吹き出る汗を堪えつつ口上を述べる。
「尼御台様におかれましては…「世辞はよい。」は…では、不躾ながら…関口家の行く末を案じ、尼御台様に庇護を求めとう御座います。」
「庇護?…貴殿は先代当主、義元殿の側近として権勢を誇っておったではないか?」
尼御台はわざとらしく首を傾げる。親永は更に頭を下げた。
「今は特に役目もなく、自領で日々呆けるだけの老臣に御座います。」
「…彦五郎殿も困ったものじゃな。目障りとは言え譜代の忠臣を蔑ろにするとはのう。」
尼御台の突き刺すような言葉に親永は返事ができなかった。彼女は親永を冷たい視線で睨みつけた。親永は頭ごなしにその視線を感じ更に頭を下げた。
「…まあ、関口殿が妾に何をしてくれるのか…次第によっては考えても良いかと思うておるが?」
纏わりつくような物言いに身体を震わせつつも親永は返事をした。
「…某も今川の端に名を連ねる者として、宗家の行末を案じておりまする…。しかしながらこのところの御当主のやりようには……。これでは今川家は家臣の離反を招き駿河一国をも統治できなくなってしまいます!」
「……で?」
「某の全てを尼御台様にお預け致しまする。如何様にもお使い下さりませ。それで今一度今川をひとつに纏めるべくお力添えを…。」
尼御台は親永の言葉を聞きつつじっと見つめていた。心の奥底を覗くような視線。沈黙はしばらく続いた。尼御台も今川家のひとり。このままでは今川家は瓦解していくのではという懸念があった。それに使える駒を増やすのも悪くないとも考えた。
「……良いでしょう。貴方を妾の名で庇護します。さすれば彦五郎殿も手出しはできぬでしょう。その代わり、妾の為に働いてもらいますぞ。」
「はは!何なりと!」
親永はめいいっぱい頭を下げ返事をした。こうしてかつては敵対していた義元派の老臣と寿桂尼が手を組むこととなり、その後関口親永は密かに遠江、三河の有力者、更には武田とも連絡を取るようになる。
関口親永が出て行ったのち、寿桂尼ひとりとなった座敷に若い男が入ってきて彼女の側で片膝を付いた。
「よろしいのですか?現当主とは敵対することになりますが。」
「彦五郎殿も当主となった途端に妾を遠ざけるようになった。良い機会です。」
「しかし、前当主とは違いご本人にも周囲の者らにも実績が御座いませぬ。この上当家の重鎮らからも背を向けられては…。」
寿桂尼はため息を吐いた。
「妾の後ろ盾があってこそ前当主といがみ合っておれたと言うに…妾の手をはたいて何をしようとしているのやら…。」
「上総介様は新たな職を得ようと朝廷に働き掛けております。」
「…いまどき朝廷から任官されることに何の意義があろうや…まあ、それがわかっておらぬのがそもそもの問題なのであろうな。」
「上総介様は血筋を重んじるお方故…。」
「源五郎…貴方もそんな思想に取り込まれてはなりませぬぞ。」
寿桂尼の側に座った男は瀬名源五郎氏詮であった。氏詮は少しはにかんだ。
「嘗ては私も、その思想に囚われ上総介様にお仕えした者の一人に御座います。今では父上にどう謝罪しようかと…。」
「瀬名殿は前当主とも距離を取っておった…今の貴方と考えが異なるやもしれぬ。それにあの夜次郎がおる…今暫くは距離を取っておくが良い。」
氏詮は寿桂尼の口調が変わったことを感じた。
「夜次郎…あ奴は何者なのでしょう?」
氏詮の問いに寿桂尼は目を閉じて考えに耽った。暫く考えていたが「分からぬ」と答えた。氏詮はクスリと笑った。
「失礼いたしました。婆々様がそれほど考えられるのを初めて見ましたので。」
「それほどあ奴は掴めぬ男なのだ。貴方もこれから二俣に行くのでしょう?あ奴は鼻が利く…悟られぬようにな。」
寿桂尼に注意を受け、瀬名源五郎氏詮は頭を下げた。
永禄4年2月12日。
二俣城に駿府からの使者が到着した。使者は瀬名氏詮。駿河本領の領主であり、瀬名家の当主である。夜次郎は直ぐに食事を用意し、氏真からの書状を受け取った。内容を確認して頷く夜次郎。氏詮は夜次郎の行動をつぶさに観察した。
「……松平殿の説得の件、承知いたしました。必ずや誓紙を受け取って参りましょう。」
力強く返事をする夜次郎に氏詮は頷く。正直に言えば素直に承知するとは考えていなかった。だが、平然と答えるには目算があるのだろうと思い、これ以上は松平の件に触れずに、二俣の近況について聞いた。
「今川家の御威光宜しく平穏に御座ります。ただ…松平殿と同じく誓紙について渋るものも多く、今も義父上は匂坂に向かっておりまする。」
夜次郎は次々と二俣周辺の諸豪族の状況について説明した。その内容は今川家にとっては決して良い内容ではないが、謀っているような雰囲気はなく、寧ろ今川家の為に懸命になっているように思えた。
「相分かった。引き続き今川家の威光を示し遠江衆の誓紙を集めるよう父上に申し伝えてくれ。」
「はは。」
氏詮の指示に夜次郎は平伏して承った。
その後、氏詮は父の帰りを待たずに二俣城を後にした。寿桂尼の言いつけを守り瀬名家とは距離を保つためだ。氏詮は改めて自分の立場に気分の悪さを感じていた。表向きは当主氏真の奉行衆として諸事の差配をしながら、裏では寿桂尼との繋がりを作り今川家存続のための工作を行う…。そのために父親との確執も解くことができないままなのだ。
氏詮は帰る途中、夜次郎の顔を思い浮かべた。余り特徴のない顔でまじまじと見る機会がなかったのだが、随分と濃く形の良い顎髭を蓄えておった。背は低いものの中々逞しく見えた。姉上とは睦まじくやっているのであろうか。子はできたのであろうか。普通の家族としての思いが頭の中を駆け巡る。
「…いかんな。某も精進せねばならぬのに。」
氏詮は自らに活を入れて駿府へ足を進めた。
一方、夜次郎のほうは部屋に籠り一人考えに耽っていた。数ある想定の中で、最も来てほしくなかったケースが来たからだった。
瀬名氏広自らが松平元康へ今川の使者として岡崎へ向かう。
この命令を受けた時点で夜次郎は覚悟していた。
“瀬名夜次郎氏広”という人間を抹殺することに。
夜次郎は輝を呼んだ。輝はいつもよりも増して神妙な面持ちをしている夫の表情を見て何かを悟った。昼間に弟が今川の使者として夫と会っていたことを知っている。何か夫にとって不利になることがあったのだろうと直感した。輝は夜次郎の前に座った。
「……此度、今川の使者として岡崎へ行くことになった。」
夜次郎はゆっくりと話し始めた。
「知っての通り岡崎の城主は俺の友人である蔵人佐だ。…だがあ奴は今川家からの独立を果たそうとしている。」
輝の表情が強張った。
「今川の御当主様は松平から今川家に忠誠を誓う誓紙を手に入れたいのだ。その命を受けた者は必ず誓紙を差し出させ駿河に持ち帰らないと主家からの不興を賜ることになる。」
輝は頷く。
「…だが、俺は蔵人佐からは誓紙は取れぬ。…何せ蔵人佐に今川からの独立を薦めたのは俺だからな。」
輝は顔を見上げた。そこには笑っている夜次郎の顔があった。
「なぜそのようなことを?」
「それが遠江で我らが過ごすのに良い状態になると考えたからじゃ。…この状態を保ち続けるための策はいくつかあったのだが…先手を打たれた。」
輝は夫の言っていることを理解した。つまり松平家を今川傘下に組み入れれば瀬名家を此処に置く必要はなくなり、本家である弟に全てを相続させればよく、松平家が要求を突っぱねればそれを理由に夫と父の地位を奪えばよいということだ。当主に疎まれている者はきっかけさえ与えてしまえば簡単に処罰の対象とされてしまう。瀬名家は今そのきっかけを与えられてしまったのだ。
「俺は明日三河に向かって此処を発つ。」
輝は頷く。
「…恐らく、此処へは戻ってこれぬであろう。」
想定していた通りの言葉。輝は離縁されることを覚悟した。
「だから今晩は俺と一緒に此処で過ごして行ってくれないか?」
あまりの想定外の言葉に輝は何を言われたのか理解するのに時間がかかった。そしてこんな時に何を言っているのかと怒りそうになり、なぜか涙が出てきた。何を言っていいのかもわからず嗚咽に塗れた。
夜次郎は輝の側に歩み寄り優しく抱きしめた。輝も夜次郎の腰にしがみ付くように手を回した。
夜は更けてゆき、二人は肌を重ね合った。
輝はこの時、初めて夜次郎と本当の夫婦になったと感じた。今までは娘を通じて家族の繋がりは感じていたが夜次郎との直接の繋がりは感じられていなかった。だが今宵は繋がりを強く感じる。例えそれが最後の繋がりであったとしても輝には後悔はなかった。ただただより強く感じようと無我夢中で夜次郎にしがみ付いた。
翌日、瀬名氏広は服部衆を何人か引き連れて二俣を出発し、三河岡崎へ向かった。
瀬名源五郎氏詮
今川家家臣。氏真の側近で駿河奉行衆のひとりであるが、寿桂尼の庇護を受け、家中を暗躍している。
関口親永
今川家家臣。氏真によって閉職に追いやられ、将来を憂いて寿桂尼の庇護を求める。
寿桂尼
今川氏親の正室。歴代当主の後ろ盾として今川家を支えているが、当主との折り合いは悪い。今は義元旧臣と瀬名氏詮を手足として今川家存続の為に暗躍している。