131.天下安寧
今話にて「家康くんは史実通りに動いてくれません!」最終話となります。
此処まで読んで下さった読者の皆様、有難う御座います。誤字修正は少し間を置いてからの作業になると思います。(まだ前作の修正も終わってませんが・・・)
此れにて架空歴史の物語執筆は一旦終わります。
次回作ですが、超硬派ハイファンタジーを投稿予定です。
恐らく11月くらいからの投稿になると思います。
それでは本物語の最終話をお楽しみください。
慶長5年12月、徳川家康は帝に奏上する。これにより、豊臣秀次死後、空位のままであった関白に九条兼孝が就任した。彼は既に藤氏長者として関白に就任し、様々な宮中行事にも参加し経験豊富な公家衆の一人であったが、秀吉台頭後は朝廷内で孤立していた。秀吉死後はいち早く家康に接近し、宮中でも支持基盤を作り上げて徳川家に強く働きかけていた。家康もこれに応え、彼を関白に再任できるよう工作を行い、関ケ原の大戦で徳川家の権力基盤が完全に確立されたことで、兼孝の推任となった。
更に家康は、宮中を自分の息の掛かった公家で固めていく。これらはある官職に就任する為の布石であった。
慶長8年2月、家康が政務を取る伏見城に、ようやく帝が勅使を派遣する。それは家康を源氏長者とし、征夷大将軍に任命する宣旨であった。これにより、家康は武家の頂点となり、豊臣秀頼も含む全ての武家を家臣とする立場となった。
2月21日、家康は秀頼の住む大和郡山城に天海を派遣した。淀は天海の訪問を受け入れて面会に応じた。万が一の事を考え、秀頼は奥の間で待機させた。
謁見の間で淀は平伏する天海と面会する。天海は落ち着いた表情で淀に家康の将軍就任を報告した。淀は悲しげな表情をするも何故か安堵の気持ちに包まれた。
秀頼を主君とし豊臣家の再興を画策する公家や大名もまだいる。淀は日々その者らとの交流に酷く疲れていたのだ。秀頼は自分の子である。だが秀吉の子ではない。その事が肩に重く圧し掛かり豊臣を名乗る事にも苦しみを覚えていたのだ。
「…妾への伝奏ご苦労であった。…して秀頼殿の昇進はどうなっておる?」
豊臣家は摂関家の家格とされており、その踏襲は例に倣って位階の昇進をする予定であった。
「夏には従三位を得られるかと思います。さすれば…千姫様の御輿入れともなりましょう。」
「そうか…。」
困った表情で淀は答えると周囲に目配せした。侍女や控えていた小姓らが一礼して部屋を出て行く。二人きりになったところで淀は天海に改めて問いかけた。
「豊臣家が既に断絶する事は知っておろう?何故豊臣家に対する体裁を整えようとするのですか?」
既に淀には全ての事が煩わしくなっていた。嘗ては自分の子を豊臣家の当主として天下人とする事に全力を注いでいたが、息子の秘密を知られてからは急速にその願望が衰え、今は息子の安全を願うのみであった。そのような心情のところに、徳川家からの計らいは面倒事ととしか思えていなかった。
「我が主は無き太閤殿下に敬意を払っております。ひいては豊家をも敬意を払っておりまする。従って先の関白殿下の御養子で豊家長者たる秀頼君を蔑ろにして天下を治るはあり得ませぬ。…さりとて豊家の周囲をネズミがうろつかれても困りまする。…然らば他の大名とは異なる格で懐にお抱えしてできるだけ安全にお支えしたいとお考えです。」
「…養子?」
「はい…秀頼君は秀次公の御養子であらせられまする。証書も残っておりまする。経緯をご説明致しますると、太閤殿下は我が主の意見を聞き入れ、秀次公から秀頼君に混乱なく関白位を継承できる様、秀次公の養子になる手続きを進めました。しかし、石田三成を含む奉行衆らによって差し止められ、殿下はその決定を覆されました。我が主はその時密かに証書を仕舞いこみました。」
「し、しかし、それは無効なものでは?」
「今となっては経緯を知る者は居りませぬ。言い様によってその証書は有効にできるのです。……確かに秀頼君は太閤殿下の御子では御座いませぬが、先の関白の養子とすることは可能なのです。…これをどう使うかは我等徳川家次第。」
淀は天海の言う事の真意を測りかねた。秀頼が秀次の養子だとする証拠…それは豊臣家に群がる者らにも優位な証左でもあるのだ。
「秀頼君は太閤殿下の血は引いておらぬ。だが豊臣家を正当に継ぐお立場ではある。我が主は豊家を他の名家大名とは異なる、破格の待遇で未来永劫保護する事ができまする。豊臣家は徳川家が存続する限り、武家ながら公家と同等の扱いを保障致す所存。御方様…秀頼君の身の安全をお考えならば、お受け下さいませ。」
淀は理解した。豊臣家を大名家の中で特別視し価格を利用する事で自らの権威を高めるつもりであることに。そしてこれは未来永劫徳川家の庇護を受ける事で徳川家寄りも上に立つことは出来ぬと言う事。しかも淀としては弱味を握られている以上、受けざるを得ない。淀はゆっくりと天海に向かって頭を下げた。
「貴僧にお任せ致します。」
慶長8年7月、豊臣秀頼は従三位左近衛権中将に任官し、秀忠の娘、千を正室に迎えた。婚儀は大坂城で問い行い全国の諸大名がこぞって参列する。家康は秀頼の外祖父として、また武家長者として秀頼を下座に控えさせて孫の婚姻を祝った。
時代は完全に豊臣家から徳川家へと移った事を示していた。
婚儀を終えた家康は三人の息子を私室に呼び出した。偉大なる父を前に秀康、秀忠、忠吉は静かに座って父の言葉に耳を傾けた。
「諸大名、或いは朝廷への締め付けがひと段落したところで、儂は隠居する。」
唐突な宣言に三人はお揃いた。騒ぎ立てる三人を家康は落ち着く様に言うと話を続けた。
「儂は征夷大将軍となり、武家の棟梁となった。だが、徳川家が棟梁の家柄を得た訳ではない。この為には家康の家系が将軍を引き継ぐという実績が必要なのじゃ。」
三人は頷く。
「一年以内に職を辞して、秀忠に譲る。お主は徳川家当主として、将軍として、源氏長者として政務を取り仕切り、諸大名に将軍職は徳川家当主が務める流れを作り上げよ。」
秀忠は姿勢を正して返事する。
「秀康、忠吉は、将軍を補佐する親藩筆頭として「徳川」姓に復し、諸大名に睨みを利かせよ。」
忠吉がごくりと唾を飲み込んだ。三人とも関ケ原での合戦を経て申し分の無い実績を有しており、有能な家臣団も手に入れた。秀康には結城家の家臣だけでなく、旧北條家の家臣も付けており、北関東を席巻するよう大領を得ている。忠吉も交通、生産の便の良い尾張を領し、松平諸家を配下に与えて結束力を高めさせている。そして秀忠には、自身と天海で育てた有能な奉行衆のほとんどを付け、本多正信を側近に控えさせた。地理的、人材的、物資的に、この三家に叶う大名はいない。
「秀忠を首座とし、二人がこれを支えることで、徳川家は安泰となろう。家臣の声を良く聞き、正しいと思う道を皆で決め、何より団結の心で結束する事で、徳川家、或いは徳川譜代家は強く日の本を治めるであろう。……儂は三人に全てを託し見守る事にする。」
「わ、我等だけではまだ敵と戦えませぬ!何卒今後もご指導のほどを!」
秀忠は慌てる様に言葉を返す。だが家康は首を振った。
「儂を支えてくれた多くの将が、老いて公職を去っておる。儂だけが上座にしがみついている訳にはいかぬ。幸いにも若くて優秀な者らも多く居るのだ。世代は替わらねばならぬ。」
家康はそう諭すと、一人ずつ手を取った。そして一番不安そうな表情をする秀忠の額を小突く。
「お前が…徳川家を導く番じゃ。」
慶長10年4月、徳川家康は自身の将軍職辞任と秀忠の後任推挙を朝廷に奏上し、粛々と事は進められて秀忠は征夷大将軍に任じられる。
世間では「徳川家が将軍職を世襲せしむ」と噂し、多くの大名がこれを受け入れた。豊臣系の大名らが豊臣家に政権返還を求めるも、「豊家は天下唯一の氏を賜りし武家なり、源家棟梁はこれを未来永劫に庇護し奉るを誓約致す所存。よって引き続き武家の棟梁たる徳川家が帝に代わって政を取り仕切る」と言い切り、これに反発する大名へ圧力を掛けておとなしくさせた。
代が替わっても徳川家の軍事力が衰える事は無く、小規模な謀反が起こっても悉く鎮圧され、公家も商人も民衆も「徳川の世」が継続されることを身に沁み込ませていった。
家康は居を幼少期に育った駿府に移し、隠居生活を始める。
家康は江戸との連絡役に本多正純を置き、周辺警備として隠居した老将を周辺の城の城番に配置して余生を送った。秀忠は父に配慮して、彼らに五千石程度の所領を与えている。
家康は持舟城城下の一角に“西風寺”という尼寺を建立した。秀忠や諸大名が普請を申出するも全て断り、持舟城主の服部正成に普請を命じて質素な尼寺を完成させる。住職には、長年亀姫の女中を努め、老齢を理由に出家していた“静雲尼”を呼び寄せてとある菩提を弔う様に命じた。
落成後に家康は鳥居元忠、瀬名信輝、雲光院を連れて西風寺を訪れた。持舟城の表門では年老いた半三が家康らを出迎え、子の正就の案内で西風寺まで歩く。先頭を進む半三正就の姿を見て家康は昔を懐かしんだ。
「半三も今や江戸に居を構える譜代衆の重鎮。雨風を凌ぐ家すらなかった二代前とは大違いじゃな。」
「全ては父が大御所様にお仕えして変わったのです。某もこうして隠居暮らしを楽しんでおりまする。」
「おかしいな。儂はお主にあの西風寺を守る重役を命じたつもりじゃがな。」
「失礼いたしました。日々、身を削る思いでお守りしております。」
家康と半蔵の仲の良い会話が続く。元忠は二人の会話の内容を不思議がった。
「大御所様は確かにここの普請は半蔵殿だけにさせましたな。…何か意味があるのですか?」
「…行けば判る。」
意味有り気な回答に同行する信輝がちらりと家康を見た。家康は穏やかな表情をしており、危機感を感じなかった信輝は黙って家康に歩調を合わせて進んだ。
やがて一行は西風寺に到着する。そこは大樹が小さな御堂への直射を庇う様に生い茂り、低めの垣根で周囲を覆っただけの寺と言うより別宅を思わせる雰囲気であった。正門では数名の尼に支えられて佇む老婆が此方に笑みを向けていた。家康が歩を早めて老婆の下に歩み寄り、その皺がれた手を取った。
「元気であったか。…うむその様子ならあと数年は此処で暮らしていけそうじゃな…静。」
老婆は自分の手を取る家康の手を見て懐かしむように返事をした。
「その名で呼ばれるは、数年ぶりに御座いまする。…ようこそお出で下されました。」
老婆は家康の指名で住職となった静雲尼であった。老婆を見た一行は元忠以外はこの尼が何者なのかはわからなかった。元忠が重い足を引きずって駆け寄る。
「お久しぶりに御座る。まさか生きてお出でとは…。」
「ほほほ…女はしぶといので御座いましょう。彦右衛門様もどうぞ此方へ。」
若い尼に身体を支えられながら静雲尼は伽藍へと案内する。その伽藍の奥には普段老尼が過ごす部屋があった。一行は案内された部屋に入り、家康が上座に座ると、老尼を囲むように元忠、半蔵、信輝、雲光院が座った。半三は外で警備にあたり、老尼を支えていた尼は一礼して部屋を出て行った。
「…お久しぶりに御座いまする、夜次郎様。」
老尼は老いた体を曲げて丁寧にあいさつした。
「やはり我だと判ったか。」
「貴方様がお生まれの頃からお仕えしておりましたです。直ぐに判りました。」
「…とと様、この御方は?」
一瞬で家康の正体を知る老尼に雲光院が小首を傾げて訪ねた。
「静……我の母に、仕えていた者だ。」
家康の答えに雲光院は驚く。家康の母に仕えていたとなれば齢は八十を超えていてもおかしくないであろう。事実、それくらい皺がれている。動きも非常に緩慢になっているが、健康そうであった。
「お陰様で未だ元気で尼を努めさせて頂いておりまする。」
「うむ。お主の最期は此処で過ごすのが良いであろうと思うてな。」
「夜次郎様のご配慮に感謝いたしまする。お陰様で毎日御方様の菩提を弔うておりまする。」
「御方様?」
今度は信輝が聞き返す。静雲尼の合図で半蔵が立ち上がり、庭手側の障子を開けた。綺麗に整備されたに我が景色として広がり、爽やかな風が室内に注がれる。
「…以前に訪れた時よりも美しくなっておるな。」
家康がほろっと感想を漏らす。
「半蔵殿が毎日手入れをして下さいまする。」
「何だ…日課としておるのか?」
家康の問いに半蔵は自座を付いて頭を下げた。
「此処には父もおりますれば…。」
「輝も此処におる。」
家康は庭の一角の墓石を指さした。思わず雲光院が立ち上がる。
「……我にとって大切な者が此処にはおるのだ。半蔵、これからも頼んだぞ。」
「勿体なきお言葉…。」
半蔵は再び頭を下げる。その様子に静雲尼は袖で口元を隠して笑った。
「ほっほっ…天下を治る大御所様に頼まれては誰でも畏まりまする。」
家康は困った表情を皆に見せた。それは泣きそうで悲し気な表情であり、己が成し得た偉業に興味無さげな顔であった。
「……天下など、我は欲しくは無かったのだよ。唯…安寧の世を過ごしたかっただけなのだ。それに天下は秀忠様が治めておられる。多くの有能な家臣がそれをお支えしている。…我は此処でゆるりと過ごすのみじゃ。半蔵も左様に畏まらんでもよい。」
「ふん…義兄殿らしい。天下を望んだ某がまるで阿呆の様に見えるわ。」
氏輝が少し不貞腐れたように行った。家康は穏やかな笑みを義弟に見せた。それ以降、家康はぼうっと庭の景色を眺め続けた。控える者たちは家康が…夜次郎が飽きるまでじっと黙って座っていた。
元和2年1月、徳川家康は鷹狩を楽しんでいる中にわかに倒れ、駿府にて床に臥せた。自らの死期を悟った家康は天海に秀忠を呼び寄せる様指示する。江戸から大急ぎで駿府から来た秀忠を側まで来させて病で動かなくなった拳をゆっくりと上げて額を小突いた。
「お主は…将軍なのじゃ。……たかが先代が倒れた程度。取り乱して…どうする?」
「唯の…唯の父では御座りませぬ。偉大なる父君です!我が師に御座いまする!」
秀忠は自分を小突いた拳を握り締めて涙ながらに答えた。
「父…か。今じゃから言うが…儂は、お主の本当の父ではない。」
「…知っておりまする。」
秀忠の意外な答えに家康は目を丸くした。だが秀忠は動じる様子も見せずに言葉を続けた。
「されど、それが何で御座いましょう。某は真の父の顔など覚えておりませぬ!…貴方様が…貴方様が某を此処まで育てて下さいました。某には目の前の御方こそ“父”であり、敬愛すべき“師”で御座います!」
涙ぐむ秀忠にやや圧倒され、家康は傍に控える天海に目を向けた。天海は目を閉じて只微笑んでいた。
…言ったのは天海か。兄弟子としてか、実の兄としてか…いずれにせよ、我が危惧するような事ではなかったというわけか。
家康は秀忠の実の父ではない事に不安を感じていた。父を見殺しにした男として罵られるかもしれぬ。父を騙った者として放り出されるかも知れぬ。だが全てが杞憂であったを知り、ほっとした。急速に力が抜けていくのが分かり、夜次郎は最後の力を振り絞った。
「…儂からの…最後の指導…だ。儂を余り神奉するな。お主は…お主の考えに従い…日の本を…治めよ。」
そう言うと、家康はゆっくりと目を閉じた。
(……夜次郎…。………夜次郎…。)
誰かに呼ばれる声が聞こえて、夜次郎はゆっくりと目を覚ます。身体が以上に軽く感じる事を覚え、布団から起き上がった。暗がりの中で目を凝らすと懐かしき顔がゆっくりと浮かび上がった。
「く…蔵人佐・・・!?」
その姿は共に駿府で過ごしていた頃の…元服した頃の家康であった。一瞬はっとなって自分の身体を見回し頬に手を当てる。自分も何故か若返っていたのだ。どういうことなのか判らず呆然としていると、もう一度家康が声を掛けて来た。
(夜次郎、儂がこうしてお主の前にいる事がそんなに可笑しいか?)
その声はくぐもって聞える。しかし嘗て耳にしていた家康…いや蔵人佐元信の頃の声であった。
(よう頑張ったの……儂は嬉しいぞ。)
「お、おい…何を言って…」
(皆まで言わずとも良い。どうせ、お前の為ではない。己の身を考えてやっただけだと…そう言いたいのであろう?)
「そうではない!…い、いやそうだが…」
(そんな事はどうでも良いのだ。…ただ、礼を言いたかったのだ。…儂が当主では、斯様な結果にはならなかったのだからな。)
「違う!儂は…我は天下など欲しくは無かった!ただ、お前と共に歩みたかっただけなのだ!」
夜次郎は揺らめく蔵人佐に手を伸ばす。蔵人佐の姿は一瞬消えて少し後ろに再び現れた。
(儂はずっとお主の側におったぞ。)
蔵人佐はすっと夜次郎の懐を指さした。夜次郎は自分の懐に手を入れる。そして何かに気付いてそれを取り出した。
それは半分血で染まった栞。
母、西風が作り、蔵人佐が最後の時に持っていた栞であった。
夜次郎は視線をその栞から揺らめく蔵人佐に移した。蔵人佐は笑みを浮かべる。そしてゆっくりとその姿が消えて行った。夜次郎は直後に意識が混濁した。
自分がこの世界に降り立ってからの出来事が次々と浮かんでは通り過ぎていく。駿府の藁小屋から始まり、自分と関わった様々な者の顔が浮かんでは消えていく。そして最後に年老いて白髪姿となった自分自身の顔に辿り着いた。そしてその隣にもう一人の白髪頭の自分とそっくりな男が立つ。生きていればこのような顔であったのだろう。夜次郎はそう思ってふっと笑った。
「…我が友よ…」
そう呟くと急速に意識が薄れて行った。
元和2年4月17日、徳川家康…薨去。
遺体は増上寺に埋葬され、葬儀も譜代のみの参列で内々に取り行われる。
その後、天海の指揮の下、一周忌を盛大に取り行い、日光東照社に分霊され、「東照大権現」の神号を贈られた。
家康は、徳川幕府の始祖として“神君”、“権現様”とも呼ばれ、人々から崇拝される。
家康の分霊は何か所かに行われたが、人知れず行われた場所があった。
駿河国持舟城下西風寺の一角。小さな社を建て、ひっそりと墓が祀られている。その横には、母と、真の正室と、これに仕えた家臣も祀られていた。
西風寺は、代々持舟城主たる服部家が守護するものとして長く祀られていたという。
淀
豊臣秀吉の側室で秀頼の実母。秀吉死後、秀頼の母として政権運営に影響を与えようとするが、徳川家に秀頼の秘密を握られその野望を諦める。関ケ原の合戦以降は大和郡山に移り住み、徳川家の庇護を受けながら余生を過ごす。
天海
家康の長子で信康という。夜次郎の教えを受け、徳川家を率いる次代として成長するも、武田家(瀬名信輝)の謀略により謀反人に仕立て上げられ、自害を命じられる。夜次郎の機転で助けられ、僧に身をやつして過ごし、その後「天海」として夜次郎を支えた。
瀬名信輝
夜次郎の正室の弟。瀬名家の相続、主家である今川家を相続せんと画策し主家を滅ぼす。その後は武田家に仕えるも、武田家滅亡と共に野に潜伏。紆余曲折を経て義兄である夜次郎に仕える。天下統一後は旧領である瀬名郷を与えられて余生を過ごした。
鳥居元忠
駿府の人質時代から夜次郎と親しくしていた、徳川家股肱の臣。史実では伏見城の戦いで討死するが、この世界では島津義弘の助けを借りて生き永らえる。天下統一後は駿河丸子館を与えられ、夜次郎と共に余生を過ごす。
雲光院
夜次郎の正室、輝の前夫の子で須和という。聡明で博識であることから家康の側室として、夜次郎の側に仕えていた。家康死後は秀忠に仕え、和子が入内の際に守役として京に滞在し、帝より従一位を授かる。
静雲尼
夜次郎の実母、西風に仕えていた。西風死後は築山御前に仕え、その後は亀姫に仕えて嫁ぎ先の奥平家の奥女中として過ごす。出家後は夜次郎に召し出され、西風寺の住職として過ごす。
服部半蔵正成
半三保長の子で、幼少の頃から服部衆の一員として夜次郎に仕えていた。父の死後、服部党の頭として服部衆を率いて諜報部隊として夜次郎に貢献する。天下統一後は駿河国持舟に所領を与えられ、譜代大名として幕府に仕える。
徳川家康
今川家の人質となりながらも独立を果たし徳川家当主となるが、本能寺の変後は瀬名夜次郎氏広が扮して当主を務める。主君であり友でもある家康の死を隠し、徳川家存続の為にまい進し、やがて前世の知識を活かし乱世の荒波を乗り越え天下安寧の世へと導く。死後は神として祀られ、日光より江戸幕府の行く末を見守った。