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家康くんは史実通りに動いてくれません!  作者: 永遠の28さい
第九章:望まぬ天下の光
130/131

130.最後の舞台へ

定期投稿になります。

恐れ入りますが、本物語は来週で最終回になります。

最期まで宜しく閲覧をお願いいたします。



 慶長5年9月24日、徳川家康は大軍を擁して大坂城に向かって進軍した。家康の行軍に先立って、織田有楽斎、浅野幸長、高力清長、酒井重忠が25日に大坂城に到着し、淀と秀頼に謁見した。恭しく平伏する四人に上座から淀が不安そうな表情で言葉を掛けた。


「内府殿の使いとして秀頼君の御前に参じたる段、この淀が代わって承る。」


 有楽斎が顔を上げて返答する。


「此度は内府殿の大坂城到着に先立って、淀殿に美濃での大戦の結果をご報告すべく、罷り越して御座います。」


 淀は有楽斎の言葉を聞きながら四人の顔ぶれを見た。うち二人は徳川家臣である。迂闊な言葉は家康の怒りを買うかも知れぬ。毛利家や宇喜多家を破って名実共に日ノ本一の大名となった相手であることは、淀も十分に承知であった。


「して結果は?」


 淀は既に結果を知っていた。戦に参加した大野治長から詳細を聞いていたのだ。だから形式的な質問である。気にしているのは、わざわざ使者を寄越した理由であった。有楽斎が戦の詳細を抑揚をつけて報告する。淀は家康の真意を測るようじっと聞いていた。それほど長くもない内容であったが、高力清長と酒井重忠の補足を受けつつ、有楽斎は戦の詳細を説明し終えた。お褒めの言葉を頂くべく四人そろて平伏する。淀は考え込んだ。報告内容は普通である。怪しい所は全くなかった。


「内府殿は明日御到着予定…淀殿に置かれましては、謁見に見えし大名らに労いのお言葉を賜りたく。」


「承った。」


「委細は大野殿とお話させて頂きたく、我らは退出させて頂きまする。」


 清長と重忠が頭を下げ立ち上がる。大保治長に伴われて応接の間を出て行った。


「…淀殿、今は徳川殿には逆らわぬ方が賢明と存じます。」


 出て行く二人の徳川家臣に聞こえぬ様に有楽斎が小声で淀に語り掛けた。淀は小さく頷いた。だが、既に家康による仕掛けは既に始まっていた。有楽斎と幸長が退出後、大野治長が血相を変えて淀の下に戻って来た。



 慶長5年9月25日、徳川家康は豊臣秀頼に謁見し、石田三成を首謀者とする謀反人との戦について報告した。秀頼の第理として生母である淀が家康を慰撫し、褒美として砂金、銀子、銭、米などを送った。また、戦に関わった諸大名の賞罰について一任した。

 石田三成に加担した大名のうち、小西行長、大谷吉継、安国寺恵瓊、宇喜多秀家の処刑が決定しており、戦場を離脱した毛利輝元をはじめとする諸大名も領地召し上げた上での配流、蟄居が検討されていた。詳細は家康が出した案を承認するだけであったが、淀の心は此処に非ずであった。



「太閤殿下の御子である秀頼君の実の父親が誰であるか…内府殿は既に存じておりまする。」



 前日に治長から聞かされた言葉が頭の中に残っており、家康の言葉は淀の耳には入って来なかった。


「…大丈夫で御座いますか?」


 淀の顔色が悪い事に気付いた家康が、話を中断して心配そうに声を掛けた。


「う…うむ。」


 淀は力のない返事をする。慌てて大野治長が言葉を付け加えた。


「御方様は昨日より気分が優れぬご様子。内府殿、ご報告は早々に切り上げては頂けぬであろうか。」


 治長の言葉に家康はにんまりと笑ってから心配そうな顔に戻して答えた。


「それは大変に御座る。修理大夫殿は御方様をお連れしてご看病をお願い致す。……淀の方様、いっその事、御養生も兼ねて大坂城をお出になられては如何ですか?此処に居られては心休まる事も難しかろうに。この内府が御方様に相応しい場所をご用意致しまする。そこで暫くゆるりと過ごされては?」


 家康の進言に淀は言葉を失った。青ざめていた顔が更に青くなった。これは家康からの脅しであった。秀頼と淀を大坂城から追い出す。その為の進言であった。


「おお、それは良いお考えじゃ。大坂城は我ら家臣一同が守ります故、御静養なされるのも宜しかろう。」


 大げさな物言いで織田有楽斎が同調する。治長がキッと有楽斎を睨みつけた。彼は既に徳川派に組していた。にこにことした表情で淀に大坂を離れる事を進めている。


「る、留守居は誰とするのか?」


 気力を振り絞るような声で淀は家康に問い抱えた。家康は周囲を見回して頷いてから返事をした。


「片桐殿が適任と心得まする。」


 家康の言葉に淀は愕然とした。片桐且元を見ると苦悶の表情で淀を見返していたのだ。且元も家康の手に落ちたか。表情から察するに止むを得ずなのであろう。だがこれで淀には味方となる大名はいなくなったことを悟った。


「……万事、内府殿にお任せ致します。」


 淀は抗う事を諦め、家康の進言に従った。子の出生の秘密を握られ、豊臣家恩顧の家臣らも篭絡されたとあっては、武力を持たぬ淀にはどうする事も出来なかった。家康は淀の表情を見て敗北を認めたと判断し、満面の笑みで見返した。


「全てこの家康めにお任せを……。」




 豊臣家を二分した大戦は集結した。


 この戦は大きく三か所で戦火が上がる。一つは会津上杉領を中心とした上杉対奥羽諸大名との戦。直江兼続を中心とした上杉家臣団と伊達、最上、堀、蒲生の連合軍との戦である。上杉軍は当主の景勝が消極的であった事と、敵に四方を囲まれ各方面からの散発的な侵攻に耐え兼ね、決戦する前に徳川方に降伏する事で集結した。二つ目は九州である。加藤清正、黒田如水を中心とした徳川派が、石田三成の挙兵に呼応した諸大名らと戦果を交えるもおおむね徳川派の勝利に終始した。

 そして最後は畿内から美濃尾張にかけての広範囲の大戦である。畿内の諸大名の人質を抑える為の小競り合いから始まり、近江、美濃、尾張へと戦火が拡大し、最終的には関ケ原での決戦が行われて、徳川方が勝利した。


 勝った家康は大坂城二の丸に居座り戦に関わった諸大名の賞罰を敢行した。全国の諸大名がこぞって家康に謁見を求め、家康は彼らとの面会に終始する。

 最初に面会したのは上杉景勝であった。景勝は筆頭家老の直江兼続、本庄充長を引き連れ家康の前で深々と頭を下げた。


「中納言には本意ではあらねど、この儂にたてついた報いは受けて貰わねばならぬ。所領は先ほど申し渡した通り米沢のみとする。」


「…寛大なるご処置、深く感じ入り奉りまする。以後は徳川家の御為、誠心誠意尽くす所存に御座いまする。」


「期待している。その為に大罪人たる二人も活かしておくのだ。領内の統治、家臣の統制、儂への奉公…決して忘るるなかれ。」


 家康は敢えて上杉家の処罰を軽くした。そのことで徳川家に対する忠誠心を高めさせ、奥州の抑えの一人として活躍できるようにした。これにより上杉家は完全に徳川家の支配下におさまった。既に忠誠を誓っている最上家と合わせて秋田、伊達、南部、佐竹への抑えとした。

 上杉家から奪った領土の一部は、最上義光、伊達政宗に与え、戦に加わらなかった佐竹義宣は所領の常陸を召し上げ出羽へと転封した。家康が特に厚遇したのが出羽角舘の戸沢盛安で、上杉征伐に果敢に挑んだ事を認め、榊原康政の娘を養女として盛安に嫁がせ、常陸に加増転封させて親族待遇とした。勿論、終始家康の味方をしていた、堀秀政、蒲生氏郷にも旧上杉領を分け与え、東国への備えは万全なものにした。


 続いての謁見は前田利長であった。彼は島津義弘と共に参上し、自身の功と引き換えに宇喜多秀家の減刑を求めた。同席している家臣らが激高する中、史実を知る家康はほっとした表情で真剣な表情の二人を見た。


「前田中納言殿の妹は秀家の正室に御座ったな…。で、島津殿は何故?」


「前田殿の想いに感じ入ったまで。此度は某の独断で徳川殿に御味方し頂いた褒美。どのように使おうと家臣らには文句を言わせぬ。」


「別に左様な事は聞いておらぬ。儂が必要なのは宇喜多家の力を削ぐ事。その目的は既に達成しておる。正直、賞罰も家臣らに任せたほどだ。この先、幾人かが儂に談判してくるであろう。儂はよっぽどの事がない限り応じるつもりだ。」


 家康の言葉に榊原康政らが驚いた。


「殿!それでは反抗の目を生む事になりますぞ!」


「反抗する気を起こさせねば済む事。重要な事は強い軍事力を我々が維持し続ける事。その為にはある程度の敵の存在は必要なのだ。秀家を生かすことでこれになるとは限らないが…倒すべき相手は一定数必要だ。敗者となった者らの除名嘆願を受け入れ、反乱の目は残す。お主らも儂に反旗を示すのであれば構わぬ。儂はお主以上の力でねじ伏せるだけだ。」


 家康の挑戦的な言葉に二人は恐怖に近い戦慄を感じた。既に利長は家康の恐ろしさを十分に味わっている。義弘も強すぎる覇気に抵抗する意思を失ってしまった。


「徳川家は豊臣家に代わって天下を預かる身…秀頼君に御力無き今、誰かが強権を持って進まねば何もできぬのだ。お主らも天下泰平の為に尽くすが良い。」


 家康の不敵な言葉に二人は平伏するしかなかった。


 次に面会に現れたのは吉川広家であった。用向きは判っていた。徳川家に協力したにも関わらず、毛利家への仕打ちが酷すぎる事であろう。だが家康には決定を覆す気は無かった。そもそも領地割りは既に決定しており、再調整も難しく面倒くさい。何より、輝元本人の謝罪がない事が気に食わなかった。応対した瞬間から家康は不機嫌さを前面に出し、広家を威圧した。余りの表情に広家も最初から委縮していた。


「貴様は儂との約束を違えた。」


「た、違えてなど居りませぬ!主輝元も大坂を出ておりませぬ!秀元も南宮山から動いておりませぬ!」


「…だが毛利元康が動いたではないか。」


 家康の低い言葉に広家が口を噤んだ。合戦に毛利家は宗家の輝元、実弟の元康、両川の広家、秀秋、従弟の秀元に兵を出させていた。この内、小早川秀秋については家康自身が交渉して寝返らせている。広家には残りの毛利軍を動かさぬ様に要請していたのだが、毛利元康は輝元の指示で大津城攻略に兵を動かしたのだ。家康は此れを咎めていた。


「されど直接徳川殿の兵とは戦うておりませぬ!」


 広家は必死に弁明する。だが家康は強硬な態度で広家を責めた。


「大津城を守る将は儂に忠誠を誓ったのだ。儂の兵も同じ。儂との約定を違えて徳川家に弓引きたる罪を重く受け止めよ。」


 広家の主張は家康に退けられ、当初通り、長門一国に減封が確定した。



 その他多くの大名と面会し各々の主張と陳情を聞き、最終的な論功を確定した。勝った大名は徳川家から加増、又は移封加増され、負けた大名は徳川家の名で、減封、没収された。領主の入れ替わった土地は実に650万石にも及び、日本全土の大名配置が大きく変わった。

 京から東海道、関東にかけては、徳川譜代の大名で固められ、親徳川派の大名がその周囲をぐるりと囲む配置となった。伊達、最上、堀、蒲生などの豊臣時代から親密関係だった大名らは好条件で加増された。逆に家康に加担しながらも豊臣系の大名は大領ながらも遠国に配置され、福島正則、細川忠興、池田輝政、田中吉政、山内一豊らは遠ざけられた。

 そして豊臣家の相続人である秀頼は、実母淀の療養も兼ねて大和への移封となった。220万石あった所領も70万石にまで減らされた。だが以外にもこの事に文句を言う大名はいなかった。家康は豊臣系の大名に十分な根回しを行い、秀頼と淀を気遣う忠臣を装って、体よく大坂城から二人を追い出した。

 大坂城は苦渋の決断で家康側についた片桐且元を城代として周辺領も徳川直轄地とする。これで江戸から京、大坂、堺までを徳川領に染めて日ノ本の支配体制を仕上げた。



 論功が済んで、ひと段落付いた11月、家康は重臣を集めて評定を開いた。居並ぶ将の顔を一人ずつ見て微笑んだ。


「皆、年を取ったな。」


「それは殿も同じに御座います。しかし、それだけ死線を潜り抜け、強靭に精悍になり申した。この皺ひとつひとつが誇りに御座います。」


 鳥居元忠が代表して答えると皆も頷いた。家康も相槌を打つように頷き返す。


「皆の苦労のお陰で儂は天下を治る者となった。儂が望んでいた安寧の世も目前だと考えておる。…だが、今のままでは徳川家は序列一位の天下の臣に過ぎぬ。天下を治る家系となり、他の大名を臣下として従わせる必要がある。」


 家康は言葉を区切ると、板倉勝重に合図を送った。勝重は一礼して中座から前へ進み出た。そして丸めた書状を取り出し家康の前に広げた。


「これなるは、殿が以前“三河守”に任官なさる際に書き記した松平家の家系図です。家系を遡って行けば、世良田家の傍流、得川家に辿り着きます。……更に遡れば、新田家、足利家に辿り着きまする。」


 家康が広げられた系図を確認して頷くと、勝重は丸めて家康に渡した。家康は懐に仕舞うとじっと前を見据えた。


「…足利家は“源氏の血を引く”家柄として武家の頂点に立たれた。その家系は全盛の武威を失い、小領主ながらも他の大名らから敬意を払われ存続しておる。…同じ“源氏の血を引く”儂は、他の系譜とは違う事を示さねば、天下を治る家系とは言えぬ。ならば儂は“源氏の血を引く”家系で唯一ちなる為に動く。」


 家臣一同が驚く。そして主君が目指すものが何であるかを悟る。


「…儂は……征夷大将軍になる。」




上杉景勝

 五大老の一人として会津120万石を有するも、豊臣秀吉死後に家臣団の暴走で家康と敵対する。関ケ原の合戦後はいち早く降伏の使者を送り、改易こそ免れたものの米沢30万石に減封された。


直江兼続

 上杉家の筆頭家老。義に厚く天下簒奪を狙う家康を敵視して謀反を起こす。戦後、罪を許されて上杉家を大きく支える。


本庄充長

 上杉家の重臣。石田三成を唆し乱を招いた張本人であるが、罪を許され上杉家に留まる。だが半年ほどで家督を子に譲り江戸で隠居生活を送る。


佐竹義宣

 東国の有力大名として常陸54万石を預かるも、関ケ原の合戦に加わらなかった事で、出羽秋田20万石に転封となる。


最上義光

 出羽最上24万石の大名。豊臣政権時代に娘を秀次に嫁がせるも直後に秀次が更迭され、あわや娘も処されるところを家康に助けられる。以降は徳川家と懇意を通じ、娘を松平忠吉に差し出し、親族扱いを受ける。関ケ原では終始徳川方として上杉の抑えに徹し、57万石の加増を受ける。


戸沢盛安

 出羽角舘4万5千石の大名で、小田原征伐の頃から家康と通じている。関ケ原の合戦でも積極的ン位上杉と交戦した事から家康の養女を娶り、親族扱いを受け、常陸6万5千石の加増移封を受けた。


堀秀政

 越後春日山30万石の大名。小田原征伐の頃から家康に接近しており、秀吉死後は直ぐに江戸へ人質を送った事で家康からの信頼を得ている。関ケ原の合戦後は会津の一部を加増され45万石となった。


蒲生氏郷

 下野宇都宮18万石の大名。豊臣政権期には会津92万石を領するも不興を買い転封される。この時に家康と親密になり関ケ原において徳川方に味方する。戦後は会津の一部を加増され60万石となる。


前田利長

 父利家の死後、その地位を継承して大老となるも家康暗殺を企てたとして職を解かれ家康に屈服する。関ケ原では家康の命を受けて北陸道を南下して石田方の後背に回り込み、勝利に貢献した。戦後、能登と加賀の一部を加増され、122万石の大大名となる。


島津義弘

 朝鮮国との戦い後、家康の要請を受けて京に留まり、関ケ原の合戦においても当初から徳川方として伏見城の守りに就き戦功をあげた。加増は微増ながらも琉球の従属化の認可を得る。


毛利輝元

 毛利元就の孫で五大老の一人。石田三成の要請で徳川討伐の総大将となるも、三成敗報を受けて大坂城を家康に明け渡して本国に帰還した。戦後は長門一国に減封されるも何とか大名として生き残る。


吉川広家

 吉川元春の三男で、輝元時代の吉川家当主。早くから家康に接触し、宗家存続の為に動くも結果的に大幅な減封を招く。



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― 新着の感想 ―
[一言] まあ徳川はちょっと何とも言えんが、関口氏は今川家祖の次男の家柄だから遡れば足利ですわね。
[一言] 来週で終わりかぁ。 家康の代わりになってからの展開が面白かったです。 本物は出てきてもイライラさせるだけだったので…。 来週の更新も楽しみにさせて頂きます。 追記 人物紹介の部分の誤字脱字…
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