129.関ケ原(終焉)
二話連続投稿の二話目です。
これで関ケ原の合戦は完結です。
父、徳川家康が開けた道を全速で駆け抜けていく徳川秀忠。
「うぉおおおおお!」
自分を鼓舞するように奇声のような雄叫びを上げて無我夢中で駆け抜けた。
「若殿ーっ!大殿にご挨拶なされませ!」
大久保忠隣が慌てて追いかけるも秀忠は小姓と共に真っ直ぐに走って行った。砂埃を避ける様に扇子を扇いでいる家康の下に、秀忠に付き従っていた天海が袈裟の上から胴鎧を着込んだ姿で現れた。
「まだ戦の事に手一杯の様子にて…まだまだ精進が必要かと存じます。」
天海は静かに頭を下げる。家康は秀忠が間に合った事に安堵し、心にも余裕が出て来ていた。それ故、秀忠の暴走じみた行動を見ても不安や怒りは覚えなかった。多少の事は付家老の青山忠成や大久保忠隣、榊原康政や本多正信など軍事的補佐もできる家臣を付けているので問題ないと考えている。天海の詫びにも寛容に答えた。
「問題ない。あの勢いを生み出す為に、ゆっくりとした進軍をさせ、儂等が時を稼いだのだ。後は儂と此処で見守っておれ。」
「はい、先生。」
天海は昔の呼び方で家康に返事すると袈裟の埃を綺麗に払って恩師の隣に立った。家康はちらりと弟子を見る。
「……此度の戦の記録を後で見るといい。これほどの大軍勢でこれほどの緻密でこれほど苦労したな戦は、二度と無いであろう。」
「しっかりと確認させて頂きます。」
天海が静かな口調で答えると家康は、小姓が用意した床几に座って深く深呼吸をした。横に天海が傍に付いたのを確認すると目つきを鋭く変えて前方の砂煙を睨みつけた。家康本陣の眼前では真田昌幸と榊原康政、大久保忠隣隊が敵の主力である宇喜多秀家隊に総攻撃を仕掛けていた。
9月16日、日が暮れ始めてようやく戦場に終わりが訪れる。
南宮山の徳川方の説得に応じて武装解除し下山した。安国寺恵瓊は投降を良しとせず、戦場から逃亡を図ったが、島津義弘隊、池田輝政隊の追撃を受け尾張との国境付近で捕らえられた。
宇喜多秀家も秀忠軍の主力による総攻撃で逃げ場を失い真田信繁によって捕縛され、小西行長も福島正則によって討取られた。
石田方の最前線が壊滅させられた事を受けて諸将は次々と降伏を申し出て、一気に石田方の抵抗勢力は瓦解し四方に散る様に逃亡し始めた。敗北を悟った三成は仲間の逃亡を助けるべく、自部隊を前線に展開し、必死に抵抗した。大谷吉継は朽木、脇坂、藤堂、京極の軍勢に囲まれ逃げ場を失い自決した。三成も最期まで抵抗していたが、島清興が討取られた事で戦線を維持できなくなり、疲労で倒れたところを田中吉政に捕らえられた。
戦局は徳川秀忠軍が戦場を蹂躙した事で石田方が総崩れとなり、主だった将は捕らえられるか討取られるかして軍勢は崩壊し掃討戦に移って行った。
9月17日、徳川方の軍勢は近江にまで進軍し、金森長近、井伊直政、細川忠興で佐和山城に籠城する石田正継を囲い、大津城へと向かった。大津城は投降した吉川広家の説得で20日に開城し占拠していた毛利元康は麾下の兵を連れて退去した。
近江の石田方諸城を平定した徳川軍は22日に京に入って公家衆らと面会して反乱の平定の帝へのご報告を関白を通じて奏上する。その後に伏見城下に仮陣を敷いて捕縛した石田方の将らと面会した。
仮陣では徳川家康、秀忠を上座に、松平忠吉、本多正信、正重兄弟、本多忠勝、榊原康政、井伊直政、長坂信宅、天海を右手に座し、福島正則、池田輝政、藤堂高虎、黒田長政、細川忠興、京極高知、加藤嘉明、小早川秀秋、真田昌幸を左手にして面会を始める。
陣幕の外から最初に入って来た者は…縄も掛けられておらず、甲冑姿でもない初老の男であった。右手側は此処に居るはずのないものが来た事に驚き、左手側は誰なのか判らずに驚いていた。家康も入って来た時には驚いたが、直ぐに用向きを察した為穏やかな口調で彼を出迎えた。
「お主が来たと言う事は…北も終わったか。」
男は罪人を座らせる為に敷いていた茣蓙には座らずにその後ろで膝を付いて一礼した。
「会津より、上杉中納言殿の書状を携えて罷り越して御座います。火急の事と存じ某がこの場にて代読仕る。」
男の言葉に家康が頷くと、立ち上がって懐から訴状を取り出し音を立てて広げた。
「家中の説得に時を要したる段、真にもってお詫び申し上げなん。上杉家は当主は内府殿に刃向かう意思これ無く、只々自家を憂いての態度と思し召し下さりたくこい願い奉る。今は全ての刀を捨て伊達、最上殿に従い領内を開けつつあり。後に景勝自ら上洛致し内府殿にお詫びを申し上げたく…」
男は大老の一人、上杉景勝の書状を朗々と読み上げた。その内容は明らかに降伏を示すものであり、自分たちが石田三成と戦っている間に、家康は上杉と交渉を行っていた事に驚いた。家康も思い通りの内容であることに満足し、何度も頷いていた。
「源五郎、良き知らせを持って参ったな。直ぐにでも景勝上洛の支度を進めさせよ。…処分は儂と会うた時の態度で決めると申し付けておけ。」
男は瀬名源五郎信輝であった。左手の面々は彼の事に付いては知らないが、もたらされた報告が奥羽の反乱が収束した事を知らせるものであった事に歓喜した。信輝は無言で一礼すると書状を一番近くにいた天海に手渡して陣幕から出て行った。
「皆も聞いたであろう。上杉も己の愚を認め負けを認めおった。これで一連の騒ぎはひと段落致したぞ。…あとはゆっくりと捕らえた者の顔を拝むと致そう。」
右手の者も左手の者も軽く笑い合った。反乱が完全に鎮圧できた事に安堵の表情も見せていた。
信輝と入れ替わって入って来た者は縄で縛られていた。ぼろぼろの袈裟を纏いやつれた表情の坊主姿であった。男が茣蓙に座ると家康は威厳のある声で話しかけた。
「安国寺恵瓊…お主の所業は既に調べ尽くしておる。主家の権威と武威を利用し、石田治部を唆して挙兵に及びたる段、真に許されざる行為。…申し開く事はあるか?」
恵瓊は黙って家康を睨みつけた。身体を震わせて立ち上がろうとしたが横に居る槍を手にした兵に無理矢理地面に押し付けられた。
「貴様如きに天下を操られるなど片腹痛し!拙僧は死んでも貴様に仕える気はない!」
恵瓊は這いつくばりながらも声を張り上げた。
「儂もお主の忠義など露ほども求めてはおらぬ。…斬首が待っていると思え。」
ゆっくりとした口調で言い返すと兵に合図を送った。恵瓊は二人の兵に抱えられて無理矢理立たされると、連れて行かれた。
敗者との対面は続く。生きて縛られたまま対面もあれば、首桶に入った状態での対面もあった。宇喜多秀家、平塚為広、糟屋武則、河尻秀長が生きたままでの面会となり、大谷吉継、吉治、小西行長、島清興が首だけでの面会となった。そしていよいよ石田三成との面会となった。陣幕の奥手から入って来た男を、左手側は憎しみの籠った目で睨みつけた。何かを言おうとした福島正則を制して家康は床几から立ち上がって泥にまみれた三成を見た。
「……お主が此処まで大規模な反乱を引き起こすとは思わなかったぞ。」
家康の声に三成は感情を乗せることなく答えた。
「其れだけ徳川殿に天下を任せる事に危機感を感じておったので御座る。」
「貴様如きが天下を語るでないわ!」
福島正則が激高して立ち上がる。同調するように池田輝政も顔をまっかにして立ち上がった。家康は二人に座るよう指示して三成を見つめ返した。
「…儂が秀頼君に替わって天下に号令を掛ける事が、それほど危険か?」
「危険に御座る。これまでの所業が語っておる。秀頼君の御裁可なく、勝手極まる振る舞い…まるで天下人のような振る舞いに御座る。」
三成の反論に家康は表情を変えて目を光らせた。
「…天下人?……では尋ねる。お主の思う天下人とは…一体誰じゃ?」
「無論…豊臣秀頼君に御座る!」
胸を張った三成の回答に家康は鼻で笑いゆっくりと立ち上がった。
「三成…天下人とは…京におわす帝に他ならぬ。我等武士や公家が帝に代わって人心を治め、安寧に努め、政に携わるのだ。…儂でもなければ亡き太閤殿下でもない。ましては未だ何の職にも就かれておられぬ秀頼君は帝から政務をお預かりすること等到底できぬのだ。」
家康は暴言とも取れる言葉で三成に反論した。左手側の大名らがざわついた。家康は落ち着くようにもう一度手で制すると三成への話を続けた。
「信長公は帝が定める職に就かず政を行おうと進めた為に、朝廷を重んじる家臣の手に掛かった。太閤殿下は関白の職に就く事で天下に号令を掛ける大義を得た。そして後継者たる秀次公に職を譲られたのだ。…では今は誰が帝に代わって政を行う?」
現状、豊臣秀次死後は関白職は空位のままで天下を預かるに足る人物はいない。家康は何を言わんとしているのか。三成は意味を測りかねてじっと家康を見つめていた。おもむろに家康は書状を取り出した。
「此処に右大臣今出川晴季様より頂いた書状がある。…これには内大臣徳川家康に帝に代わって天下を治る事を認めた内容だ。」
家康の言葉に全員が驚いた。家康は秀吉死後、公家衆と人脈を持つ板倉勝重や宗誾を通じて朝廷工作を密かに進めて来た。それはこの「帝から天下を任せる」と認めた書状を得る為であった。といっても職を得るほどの効力を持っているわけではない。あくまでも新しい関白若しくは征夷大将軍を任命するまでの暫定処置の意味合いである。だがそれでも家康には十分な内容であった。
徳川家康が天下に号令を掛ける職を得るのは史実でもまだ先である。ましてや秀吉死後直ぐに将軍位を得る事は難しい。よって「帝に代わって」を強調した文書を手に入れ「帝の代理人」という大義を得ていたのだ。
「秀頼君が御成人されれば、朝廷から関白職を賜り政を進める事もできよう。だが今、関白のおられる状況に、誰かが天下を預からねばならぬ。」
関白は空位、当然太政大臣もおらず、現状の最高職は右大臣の今出川晴季、又は内大臣の徳川家康だけ。その晴季から家康に「天下を任せる」と書状を送っていればそれは大きな大義となる。家康は自身の武力を背景に傍若な振る舞いを行っていたかのように見せていたが、実際はちゃんとした根拠をもって取り仕切っていたのであった。三成は此処に来てようやくそれに気づいた。いや他の大名らも初めて知ったのだ。
「今儂は正式に天下を預かっておる。その儂にお主は刃を向けたのだ。相応の報いは当然であろう。此処に並ぶ大名らが、豊臣家への恩に関係なく儂に従うは当然であろう。」
三成は張っていた肩の力をゆっくりと抜いた。自分と家康の考え方に大きな隔たりがある事に気が付かされたからだ。しかも家康の考えが正しいと思ってしまったのだった。その考えに至ってしまうと、もうどうやっても自己の弁護も主張も正当性も何も言えなくなってしまったのであった。
「我らが主と仰ぐ豊臣家は、主家だから従うのではない。あらゆる手を尽くして各国を平定し、朝廷に認められて天下を治るに相応しい職を得られたからこそ、従うのである。秀頼君は前関白の御子に過ぎぬ。それをどう活かすかは、豊臣家に仕える家臣次第なのだ。お主は太閤殿下の御恩のみを利用し、儂はそれでは足りぬと考え、朝廷からの一先ずの措置を賜り道理を得て任に当たった。どちらが道理を得ておるかは瞭然であろう?」
福島正則らも三成も反論できない正論を言い放たれ、黙っていた。家康は再び床几に腰を下ろす。そして三成への言葉を続けた。
「…さりとて、道理を得ても勝たねば水泡に帰す。道理は無くとも勝てば道理も得られん。…結局は雌雄を決する必要があった。そしてお主は儂を脅かした。正直焦ったわ。ふふふ…褒めておるのだ。改めてお主の能力は得難きものと思うたわ。」
怒りを表すでもなく、淡々と三成の事を褒める。家康は実際に関心していたのだ。史実で知っていたとは言え、家中では嫌われ者として扱われているこの男が本当に自分と互角に戦える兵力を用意できるのかと。そして兵数が互角であることが判った時戦慄した。同時に安堵もした。家康はもう一度立ち上がり、そしてゆっくりと三成の近くまで歩いて行き腰を下ろしじっと三成を見つめた。
「…礼を言うぞ。お主のお陰で邪魔な奴らを排除する口実ができたわ。」
家康は三成にだけ聞こえる声で話しかける。三成は真剣な表情で家康を見返した。
「全ては某の謀にて豊臣家を憂いる方々を誑かし、挙兵に及びたる仕儀。願わくば某以外への温情を賜らんことを。」
三成は両手を縛られたまま深く頭を下げた。家康は軽く笑って三成の肩を叩いた。
「処罰を与えたいのはお主ではないのだ。」
そう言うと家康は顔を三成の耳に近づけた。
「……老いたる太閤殿下をお主が弑するとはな。其に至る経緯は儂には判らぬ。…だがそこからお主は豊臣家の亡霊に取りつかれたておったのだ。…もう、十分であろう。後は儂に任せよ。悪いようにはせぬ。」
「ば、馬鹿な事を!某がそのような事を!」
「証拠は挙がっておる。…安心せよ。この事は誰も知らぬ。」
「…!」
三成は口を噤んだ。何故知っているのかと自答するも三成には思い当たる節が無かった。それよりも知っているのにその事実を知らしめようとはしない家康の意図が判らなかった。唇を噛み締め黙る三成に家康は更に小声で語り掛けた。
「お主が守ろうとしている豊臣家の血は、もう絶えておるのだ。秀頼君は太閤殿下の御子…ではない。…誰も豊臣家の御為に御奉公は出来ぬのだ。」
家康は言い終えると立ち上がって自席へ戻った。床几に座るとじっと三成を見つめた。三成の顔色は蒼白に虚空を見つめて震えていた。
石田三成は噂として耳にした事はあった。秀吉は多くの側室を抱えながらも子が生まれぬのに、淀から続けて二人も生まれた事に疑問を感じていた。だが主君の事故、考えないようにしていた。だが心の中でずっと違和感として残っていたのだ。それが家康の一言で晴れる。だがこの事実は三成にとって生きていく糧を失う事であった。
此処に石田三成の豊臣政権維持の夢は潰えた。
慶長5年9月23日、石田三成ら数名の謀反人は徳川軍に守られて大坂城へと入城した。彼らは24日まで罪人として大阪城の表門の前で晒された。その後京都へと移送され、9月30日に斬首された。
石田三成
豊臣家家臣。幼少の頃に秀吉に見出され、側小姓として羽柴家に仕える。元服後は算術に長けた奉行衆としてその能力を発揮し、豊臣家臣団の中心人物として秀吉を大いに補佐する。性格の問題で他の家臣との折り合いが悪く、秀吉死後、不和を生み出して職を解かれる。その後政権復帰の為、打倒家康の為、各国の大名を味方に付けて挙兵に及ぶも関ケ原の合戦にて惨敗し捕らえられる。最後は市中引き回しを受けて京都三条河原で斬首される。享年41歳。
島清興
石田家家臣。石田家の軍事顧問的な存在で戦下手な三成の参謀として関ケ原で活躍するも、徳川家の猛攻を受けて討死する。
蒲生頼郷
石田家家臣。石田家の猛将として多くの戦場で活躍する。関ケ原の戦で隊を預かって奮戦するも命を落とす。
小西行長
豊臣家家臣。石田三成の挙兵に応じて兵を挙げるも関ケ原の戦で命を落とす。三成とは幼少から仲が良く。三成の良き理解者であった。
大谷吉継
豊臣家家臣。石田三成と共に奉行衆として豊臣家を支える。上杉征伐に際して三成から挙兵を打ち明けられこれに加担するも最後は関ケ原にて命を落とす。