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家康くんは史実通りに動いてくれません!  作者: 永遠の28さい
第九章:望まぬ天下の光
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126.関ケ原(前夜)

定期投稿で、久しぶりの二話連続投稿です。

理由は・・・九月中に完結させようと意欲が沸いているからです。



 慶長5年9月13日、近江国大津城で籠城を続けていた京極高次が毛利元康軍の攻撃に耐え切れず開城した。城兵の命と引き換えに、高次は毛利軍の捕虜となり、大津城は石田方の手に渡った。

 石田三成は毛利輝元の援軍が送られていないと思っていたが、輝元は一万の軍勢を元康に預けて送り込んでいたのだ。毛利軍は宇喜多秀家と合流後、伊勢方面に進軍したものの、京極高次が徳川方に呼応して籠城した事を知り、立花宗茂と共に攻城戦を始めた。その後宇喜多秀家は三成の要請に応じて美濃へ向かったが、元康は輝元の命でそのまま大津城攻めを継続する。その結果、徳川家康本隊との直接対決に間に合わず、京極高次の降伏だけを勝ち得ただけとなった。

 だがこの大津城戦は両軍に混乱を生じさせた。石田方には元康、宗茂が本戦に間に合わず、徳川方には毛利軍全軍が進軍していると言う誤情報が伝わった。



 9月14日、池田輝政からの報告で大垣城から石田方の兵が不在であることを知った徳川家康は、再度情報整理の為に、服部半蔵を呼んだ。半蔵は家康の前に広げられた絵地図で知り得る現状を説明した。


「現在、大津城に多くの兵が攻め寄せております。旗差し物から毛利軍…。」


 この時点で半蔵も大津城を攻めていた軍を輝元本隊と誤認していた。青ざめた表情の半蔵に家康は冷静に言葉を掛ける。


「輝元が大坂城を空にして全軍を差し向けるとは考えにくい。それに京極殿の籠城に手間どった事で三成と合流できておらぬのは重畳。京極殿が引き付けている間に三成との戦を始めるのだ。」


 前世の知識で、輝元が動いていないという確証は持っていたが、高次が既に降伏していることまでは把握できていなかった。


「で、大垣城に居た者らの行方は?」


「島津殿の報告では、西に向かったしか判りませぬ。ですが、我等の兵配置から南の伊勢街道を通って向かったものと思われまする。」


 家康は半蔵の報告で絵地図の伊勢街道に目を向けた。伊勢街道の向かう先は関ケ原。そこには石田方の兵が半円の形で陣を敷いていた。家康はじっと考え込んで絵地図を睨みつける。半蔵も暫くは黙って見守っていたが、耐え切れず次の報告をした。


「それと朗報が……。御子息様が美濃をこちらに向かって進軍しておりまする。石田方の国衆の邪魔が無ければ16日には赤坂に到着されると思われまする。」


 家康の表情が変わる。それも良い方向に変わっていた。


「三弥左衛門」


 家康は居並ぶ家臣から、本多正重を呼んだ。正重がゆっくりと頭を下げる。


「秀忠と合流せよ。…お主の考えた策を弥八郎と小平太に説明するのだ。あ奴らなら意図を理解し絶好の機会に此処へ来るであろう。」


「直ぐに向かいまする。」


 正重は一礼して立ち上がると陣幕を出て行った。他の家臣はポカンとした表情で様子を見ている。家康は家臣らを安堵させる為に正重考案の策を説明した。話を聞いた家臣らは驚愕しやがて歓喜の表情に変わった。


「成功すれば三成に付いた奴らの戦意を大きく挫く事ができよう。後は儂に味方した大名らとの連携を如何にうまく進めるかじゃ。」


 家康は自身の笑みを含めて言うと、白石を手に取り絵地図の前に立った。家臣らは固唾を飲んで家康を見つめた。家康はじっくりと考えて石を置いた。


「これより本陣を移動する。中山道を西に進み、平塚為広の垂井城を接収し仮の本陣と致す。黒田長政、細川忠興、筒井定次、田中吉政を第一陣とし関ケ原付近まで進軍…。」


 家康は白石を動かしながら説明する。


「第二陣は古田重然、織田有楽斎、金森長近、生駒一正、寺沢広高、小平太に忠吉じゃ。福島正則、藤堂高虎、京極高知は伊勢街道から関ケ原に侵入させ、伊勢街道を封鎖せよ。」


 そして家康は南宮山麓にある黒石に触れた。


「儂は密かに吉川広家と交渉を行う。…半日、いや一日、時を稼ぎ、秀忠の軍の到着を待つ。秀忠が赤坂に到着した辺りで、石田方の目を西に向けさせる為に、池田輝政、浅野幸長、山内一豊を残して全軍で関ケ原の盆地に侵入するのだ。」


 家臣らが一斉に頭を下げた。家康は更に細かく石を動かして秀忠到着後の行動を家臣らに説明し理解させた。これは家康方の諸大名の猪突や規律違反を行わせず敵の挑発にも乗らずに軍を動かす為のものであった。更には家康は此方に内通している石田方の名を挙げた。不要な戦闘を避け、家康の合図で確実に寝返らせる為に予め密書も用意すると説明した。


「…この陣立てを諸将らに説明する。…異論のある者は居るか?」


 皆が首を振る。家康は頷いて策を決した。


「諸将を集めよ。…最後の軍議じゃ。」


 家康は諸大名らを呼び集め軍議を開いた。石田方との決戦の場所、そこに至るまでの各隊の進軍路、此方の攻勢のタイミング、敵が後退した場合の追撃路などを絵地図を持って丁寧に説明した。言い終えると諸大名らは黙り込んだ。余りにもこれまでの戦の仕方と異なるからだ。


 戦国時代の戦は、武将にとって晴れの舞台であり、戦功を挙げる為に各隊が競い合って戦場へ駆け込む事が多い。戦闘が始まれば勢いで前に進む者も多く、統率、連携が取れなくなる場合もしばしば見受けられる。此度の戦では、家康はこれを徹底的に禁じた。他の部隊との連携を最重視し、感情的な行動を慎み、敵将の首を取る事も禁じた。そのうえで敵の動きに合わせた陣形の変更を事細かに取り決め、確実に、漏れなく石田方の兵を誘い込む事に徹する事を厳命したのだ。

 福島正則をはじめ、諸大名は困惑した。家康からの徹底した集団戦の指示…しかも敵と積極的な戦闘ではなく、劣勢を装った後退戦の指示。完全な勝ち戦を目指し緻密に考え出されたその策に、その表情は次第に恐れへと変わっていった。


「この戦に勝った暁には、秀頼君、及び朝廷に上奏し活躍に能うる褒美を約束致そう。」


 そう締め括ると家康は立ち上がった。そしてゆっくりと軍配を持った手を上げ、勢いよく振り下ろした。


「出陣じゃ!」


 家康の号令に諸大名が一斉に立ち上がって雄叫びを上げ陣幕を出て行った。9月14日昼前に徳川方は大きく兵を動かし始めた。




 同14日、石田三成は長曾我部盛親に街道の警戒を指示した後に伊勢街道を関ケ原に向かって北上した。途中、平塚隊、河尻隊を関ケ原へ先行させ、自身は何度も立ち止まって各将への書状を書きながら徳川方の様子を窺った。


「敵は中山道沿いに兵を展開し西を警戒しております。既に此処に我らの味方が集結している事も知っておりましょう。…ですが、大坂へ向かうには必ず通らねばならぬ場所……迎え撃つには絶好の場所になりまする。」


 島清興の力強い言葉に三成は頷く。彼自身も家康を叩くなら此処が最適だと確信していた。ならば南宮さ山の毛利秀元勢をもう少し西に動かしたかった。


「敵に南宮山を取られては此方が劣勢となりまする。毛利殿の位置はこのままで宜しいかと…。」


 三成は清興の進言を聞き入れた。軍事に関しては全幅の信頼を寄せている為、理由までは問わない。ただ彼の考えた陣立てで勝利できると信じて彼の言葉に従った。


14日夜には関ケ原に到着し、入念に周囲の地形を確認しながら北国街道沿いの笹尾山へと進めた。途中で小西行長が状況を報告する為に三成を訪ねて来る。三成と面会した行長は満面の笑みを浮かべていた。


「吉報で御座る!近江の大津城が降伏いたしましたぞ!攻め落としたのはなんと毛利兵部大輔殿に御座る!…毛利中案権殿は我らに援軍を送って下されておったぞ!」


 行長の報告に三成の顔も綻んだ。


「其れは重畳至極!毛利殿が加われば我らの勝ちは決まったようなもの!疾く布陣を済ませ家康らを迎え撃たん!」


 大津城を攻め落とした毛利元康、立花宗茂らの軍勢が加われば、石田方の総兵力は十万を超え、徳川方をも凌駕すると三成は考えた。


「万全の布陣を敷き、援軍の到着を待ちましょう。早ければ明後日にも到着する距離に御座いまする!」


 清興が興奮気味に言うと三成も行長も大きく頷いた。…だが、大津城を攻略した毛利勢はこの時関ケ原に向かって進軍はしていなかった。正確には主君の次の指示を待っていた。大坂城の毛利輝元が大津城陥落の報を聞くのは15日になってからである。これは毛利元康の主君も、戦の総大将も毛利輝元であったが故の結果である。この為、毛利勢の援軍は家康と三成の直接対決には間に合わなかった。



 日が変わって15日の夜明け前、石田方はおおむね布陣を完了した。北国街道、近江に向かう中山道沿いに七万五千の兵が三日月状に配置された。関ケ原を挟んで反対側の南宮山には毛利秀元ら三万が配置され、徳川方の兵を誘い込む準備は出来上がった。まだ日は昇らず薄暗い霧の立ち込める中、三成は清興に状況を確認した。


「左近…敵方はどうなっておる?」


「物見の知らせでは、黒田、細川、加藤殿らの軍勢が此方に向かって進んでいるとの事…。他の軍勢も順次こちらに向かっている様子なれば、昼過ぎには正面に敵を捉える事となりましょう。」


「伊勢街道沿いはどうなっておる?」


「福島、藤堂殿の旗印を見たと知らせを受けておりまする。敵はその街道の結び目で合流して此方と構える予定に御座いましょう。」


「左近、策を申せ。」


「……されば、敵が合流して陣構えを始める頃合いを計って突撃するが宜しかろうと。」


 清興の策に三成は大きく頷いた。進軍してきた軍勢が陣を敷くにあたり、ややバラつき索敵能力が落ちる。その隙をついて襲い掛かれば必ずや混乱するであろうと思ったのだ。




 9月14日夜、徳川秀忠軍本陣。


 秀忠の下に父の使者として本多正重が到着した事を受け、秀忠は進軍を停止して緊急の軍議を開いた。秀忠を前に正重は恭しく挨拶し、家康からの指示を説明し始めた。


「御父君はこれより某が申し上げる策に基づいて西進する様お命じになられました。」


 正重の言葉に天海が問い返した。


「秀忠様の軍には既に本多弥八郎殿、榊原小平太殿といった軍略に通じた者ありなん。これに三弥左衛門を遣わされるとは、どのような御了見を表されるか?」


 天海の質問は当然であった。秀忠は初陣であり主な任務は徳川家康に味方せぬ周辺諸城の攻略だと考えていた。それがもう一人軍師を寄越して自分の指示に従えとは状況が見えなかったのだ。


「この先の関ケ原の地にて…決戦を致しまする。」


 正重の言葉に一同が驚愕した。三成との決戦は必ずあると理解はしていたが、こんなにも早く訪れるとは想定いなかった。軍議に集まる家臣らの顔が強張る。兄である本多正信の表情は複雑であった。秀忠に戦を学ばせる事も使命として課せられていたが、じっくりと学ばせる前に最終局面を迎えた事に悔しさを滲ませたのだった。


「兄上、これから策を申し上げます。殿は榊原殿と兄上ならば、意図を判るであろうと仰っておりました。」


 そう言うと正重は秀忠の許可を受けてから、決戦の策を説明した。各隊の陣取りから侵攻路を聞いている途中で、榊原康政は主君が意図している決戦内容に気が付いた。正信を見ると正信もその表情から察したようであった。

 説明し終えた正重は上座に腰を下ろしている秀忠に一礼した。秀忠は策を聞いても良く分からなかった為、側に控える天海を見ていた。天海は一応意図を汲み取ったが、秀忠に理解できる様一つ一つ正重に確認していった。そして秀忠の顔は蒼白になった。


「わ、儂が…止め…を?」


「徳川家の跡取りとして功と実績を得んが為に御座います。この戦が終われば正式に御嫡子と成られるのです。」


 秀忠は天海の言葉に唾を飲み込んだ。身体も顔も引きつっている。無理もない。此度が初陣なのである。怖気づいてもおかしくないのであった。だが家康の跡継ぎと言う立場が辛うじて秀忠を踏み止まらせていた。逃げる事は出来ない。他の者を行かせる訳にもいかない。自分が二代目として家臣を率いて戦場に向かわなくてはいけないのだ。


「若殿、露払いは味方の諸大名が行いまする。後は我らが覇気を持って敵陣に立ち向かうのみに御座いまする!」


 正重は力を込めて秀忠に進言した。秀忠は震えながらも頷いた。既に汗で顔はぐしゃぐしゃだった。


「…判った。先鋒は誰に任せるが良い?」


「恐れながら…。」


 天海がスッと前に進み出た。


「若殿への忠誠を示す為にも、真田家に任せるが良いでしょう。」


 天海の言葉に本多兄弟が頷く。秀忠はそっと榊原康政に視線を送ると康政もまた頷いた。秀忠は震える膝を何度も叩き、恐怖で重くなってしまった腰をゆっくりと上げた。


「……此れより我らは死地へと向かう!…目指すは豊臣家を私欲に用いんと挙兵に及びたる石田三成らの陣じゃ!父の命に従い街道を突き進むべし!」


 秀忠の号令に家臣らは呼応して立ち上がった。こうして秀忠軍は夜の中山道をひたすら西へ向かって進みだした。




 やがて、運命の9月15日の朝が開ける。


 だが、石田三成らの前に、徳川方の兵は姿を見せてはいなかった。





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