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家康くんは史実通りに動いてくれません!  作者: 永遠の28さい
第九章:望まぬ天下の光
125/131

125.関ケ原(前哨戦)

定期投稿になります。

関ケ原の合戦も三話目に突入しました。…あと三話くらいかと思います。



 慶長5年9月5日、真田勢を麾下に加えた徳川秀忠率いる中山道隊は美濃へ向けて進軍を開始する。その報は兵数も含めて9月8日には大垣城にいる石田三成に届けられた。更に9日には家康本隊が岡崎城に到着し、東から徳川勢六万が向かっている事を知ると、石田方の兵は動揺に包まれた。

 三成は再度毛利輝元に進軍を要請する使者を送るが、大坂から美濃までは十日は掛かる為、付近の軍勢だけで対処するしかないと考えていた。


「左近…敵は我等よりも兵数が多い。この場合は如何するのが良いか?」


 三成の腹心、島清興は三成よりも軍略に優れており、彼の才を認めて素直な気持ちで意見を求めた。清興は少し考えてから具申した。


「先ずは御味方の士気を上げる事が必要です。小規模ながらも敵と戦い勝利を収めて鼓舞致しましょうぞ。」


 清興の答えに三成は絵地図を睨みつけた。既に間者を四方に放って得た敵状が地図の上に書かれている。清興は大垣城の北西にある赤坂の地に置かれた石を指さした。


「敵の集結地は此処になりましょう。此処に少数を率いて挑発を行いまする。つられて追いかけて来た敵を大垣城までおびき寄せ、伏兵を使って挟み撃ちにするのは如何でしょうか。」


 清興の進言に三成は頷く。しかし直ぐに不安な顔を見せた。


「だが大垣城の周囲は敵に囲まれたままじゃ。かと言って北国街道への警戒を解く訳にもいかぬ。…我らは兵を二分されたままぞ。」


 三成の指摘に清興は腕を組んだ。この時、石田勢は大きく兵を分けていた。大垣城に籠る二万四千の兵と北国街道からの進攻に備えた二万一千、東海道沿いの二万五千、南宮山の抑えに二万と部隊の大半が大垣城西の街道が交わる場所に配置されていた。この為、徳川方が大垣城を一斉に攻めて来れば、二万で対処せねばならず、かと言って街道を抑える兵力を大垣に向かわせれば、徳川方が大坂へ向かってしまう可能性があった。次々と間者からもたらされる情報に対処した結果、このような配置になっており、陣取合戦においては石田方の不利になっていたのだ。


「…では、こう致しましょう。敵を誘い込んで蹴散らしたのち、夜陰に紛れて大垣城を出るのです。」


「夜襲か!」


 三成は興奮したように言い放った。だが清興は首を振った。


「それで家康の首が取れるか難しい所です。何と言っても三万もの軍勢です。それよりも敵を戦い憎い場所に誘い込む方が宜しいかと存じます。」


「戦いにくい場所…?何処だ?」


 三成の問いに清興の指が地図の左側に動き、街道の交差する点で止まった。


「関ケ原です。…此処は周囲を山に囲まれた盆地で進入路も中山道か伊勢街道しか御座いませぬ。此処に大垣城の兵を加えて囲めば、敵は全兵力を一気に投入する事は叶わず、我らは撃ち放題となりまする。」


 清興の進言に三成は目を見張った。確かに大垣城を捨てて関ケ原に集結させれば、我らは敵を囲うような配置となり、陣取は石田方有利になる。状況の打開に相応しい策であった。


「此処に家康を誘い込んで討取ればよい訳か!」


「流石に此処に徳川本隊が侵入するとは思えませぬ。しかし、敵軍の大半が此処に入り込み窮屈な布陣を強いられる事になり、我らは労せずして敵を各個撃破できまする。そうなれば徳川本隊も継戦能力を失い逃走を図る事となりましょう。」


「…其処を追いかけて討取る訳か!」


 清興は頷いた。その仕草に三成は拳を握り締めた。勝ったような気にさえなった。それほど清興の策が素晴らしいものに見えた。


「家康本隊の動向を探り直ぐに手を打つが良い!…先ずは味方の士気を上げようぞ!」


 清興は勢いよく返事した。三成は腹を括った。此処で敵に大打撃を与える。毛利輝元の動きが鈍く援軍を期待できない状態の今、この策に賭けるしかなかった。そしてそれは最早成功したかの様に感じ取っていた。



 慶長5年9月11日、徳川家康は清須城に到着した。福島正則と藤堂高虎の出迎えを受け、家康は城内に入った。美濃の状況を聞く為に軍議が開かれる。


「岐阜城はどうなっておる?」


 家康の問いに高虎が答える。


「既に麓の御殿も山頂の天守も我らが制圧し、織田秀信殿は降伏しておりまする。」


「其れは重畳。…各隊の配置は?」


「池田、浅野、山内隊が大垣城の北西、赤坂の地にて陣を張っており、犬山城に筒井、蜂須賀隊。その他の隊は岐阜城に居りまする。」


 東海道勢の軍監を努めていた本多忠勝が答えると家康は満足そうに頷いた。


「敵の動きはどうなっておる?」


 家康は今度は傍に控える服部半蔵に聞いた。


「は、大垣城に凡そ二万…石田三成が詰めているものと思われまする。この南宮山に菊花は広家と毛利秀元の一万八千が、麓に安国寺恵瓊と長束正家の三千が抑えており、北国街道沿いには小西行長、宇喜多秀家の二万一千が北からの攻撃を警戒しており、近江へ向かう道筋には大谷吉継、朽木元綱、脇坂安治の六千が控えておりまする。」


「…小早川秀秋は何処に居る?」


「この…松尾山に布陣して御座いまする。」


 半蔵の答えに家康は笑みを浮かべた。想定通りだったからだ。後は首尾よく敵全軍を関ケ原に誘い込み、此方の不利な状況を作り上げた所で……家康は膝を叩いた。


「先ずは大垣城を攻めて敵を西に追いやろう。明日にでも岐阜城へ向かう。皆は支度をせよ。」


 福島正則、藤堂高虎が、家康の下知に従う返事をする。家臣らも頭を下げたが、本多忠勝が心配そうな表情で家康を見返した。


「殿……秀忠様の御到着をお待ちには…?」


「大垣城を奪うのに秀忠の軍勢を待つ必要は無い。…あ奴の活躍する戦はまだ先だ。」


 忠勝は俯いて返事をする。彼の思いとしては秀忠に手柄を立てさせたいと意見しているのであろう。家康には分かっていたので、忠勝を責めたりはせず、諭すように言い添えた。


「既に真田を従わせるという功を立てておる。案ずるな。」


 家康の言葉に忠勝は頭を下げると、機を見ていた福島正則が大声を張り上げた。


「では内府殿!某が岐阜城まで案内致しましょう!」


 正則は勢いよく立ち上がると身振りで家康に出陣を促した。家康は軽い苦笑を見せて立ち上がり正則の案内に従った。



 9月10日、雨天に悩まされながらも、徳川秀忠率いる中山道隊三万が信濃を通過して美濃に入った。進路沿いには石田方に味方を表明していた河尻直次が籠る苗木城があり、これを落とすべく真田昌幸、信幸親子隊、酒井家次隊、本多忠政隊に攻撃を命じた。敵兵は一千ほどしかおらず、朝から攻撃を始めて夕方には本丸への門がこじ開けられ、城主河尻直次は降伏した。本多正信は次戦に備えて兵の休息を進言し、秀忠はこれに従い、木曽川を挟んで対岸の平地に陣を敷いて休息を取った。周辺には石田方に与する諸城が点在するものの、大軍を相手にできるほどの兵力を有する城は無く、門を閉じて籠城に備えていた為、大した危険もなく此処で二日を過ごした。十分な休息を取った秀忠軍は12日の早朝から進軍を再開した。


「…大殿様より「進軍急ぐなかれ」と伝令を受けております。」


 本多正信は進軍する秀忠の馬の隣に自馬を寄せ、小さな紙きれを差し出して進言した。秀忠は紙きれを確認後、小首を傾げた。


「父は既に岐阜城に到着される頃と聞く。我等も急ぎ兵を向かわせるべきではないか?」


「美濃国内には石田三成に味方する輩が降りまする。これにしかと睨みを利かせるのも我等の役目…。兵に十分な休息を取らせたのも来たる大戦に最上の活躍を見せんが為。大殿の下に一刻も早く参集するが全てでは御座いませぬ。」


 正信は経験不足の秀忠に教え諭すように説明する。家康からはこの戦を通じて多くの事を学ばせるよう命じられており、正信はあらゆる事を細かに説明して秀忠に学ばせていた。天海はその様子を遠くから眺めていた。そして独り呟く。


「我が弟は、多くの事を学ぶであろう。…私が先生から多くの事を学んだ様に実際に見聞きする事で重要な経験を積む事になる。…ですがもう一人くらい弟の師を努める者が居っても良いかな。」


 そう呟くと天海は馬を進軍の先頭を行く真田隊に向かわせた。



 9月13日、徳川家康本隊は六万の大軍勢を引き連れて美濃赤坂の地に到着した。各隊を大垣城と関ケ原方面に対処できる様布陣させると、諸将を集めて軍議を開いた。この時赤坂には、福島正則、細川忠興、加藤嘉明、黒田長政、田中吉政、藤堂高虎、京極高知、山内一豊、池田輝政、生駒一正、金森長近、寺沢広高、浅野幸長、一柳直盛、中村一栄が集まっており、有馬豊氏は一千の兵を率いて先行して中山道を西に展開させており、竹中重門、古田重然は岐阜城との連絡路拠点の防備に当たっていた。岐阜城守備は関一政、織田有楽斎とし、周辺の安全確保を目的に島津義弘、津軽為信、森忠政を大垣城の南側に向かわせていた。


 諸将が集まった段階で、家康は目の前に大きな絵地図を広げ、服部半蔵に敵兵の配置図を作らせた。白石の入った袋を赤坂の位置にどんと置き、そこから数個を取り出して、中山道沿いに東西に、大垣城の南側に、岐阜城に置く。諸将はこれが自軍の配置だとすぐに認識した。続いて黒石を一つずつ置いて行く。その多くが街道の交差する関ケ原の周辺に置かれ、大垣城の位置に袋ごとどんと置いた。


「これが敵味方の配置に御座りまする。」


 半蔵は家康に一礼して絵地図から離れた。家康は一呼吸おいて絵地図の前に立った。


「我らは東、西、南に囲まれた様な一に布陣をしており、一見不利なように見えるであろう。」


 家康の言葉に何人かが頷く。


「だが此れは敵の分散した兵力を各個撃破する好機と捉えよ。…今最も厄介なのはこの大垣城である。最初の標的はこの城じゃ。明日にでも総攻撃を行う。先陣は福島左近衛権少将殿、池田備後守。」


「おう!」


「東に迂回して、加藤左馬助殿、黒田筑前守殿。」


「おおう!」


「南からは、一柳監物殿、細川左少将殿。」


「おおおう!」


「南宮山に構える敵の備えとして京極丹後守殿、田中兵部大輔殿。」


「おおおおう!」


 家康の指示が行われる度に返事の声が大きく力強くなっていく。


「残りは西の軍勢に備えて中山道を守って頂く。」


「おおおおうう!」


「皆々方の士気は十分に高まっておられるようじゃな。これであれば我が軍の勝利は間違い無しじゃ!この内府…感謝致すぞ。」


 家康は血気盛んな諸大名に満足げに頷く。


「なんの!豊臣家を私物化せんと挙兵に及びたる輩なんぞ、我等だけで蹴散らしてくれるわ!」


 福島正則が立ち上がり興奮気味に拳を上げる。これに呼応するように他の大名らも勢いよく立ち上がって拳を高々と掲げた。家康は盛り上がる諸大名を笑顔で座るように制すると、ゆっくりと立ち上がった。


「石田三成めは戦経験も少なく、歴戦の勇将たる貴公らの敵ではないであろう。…だが、三成の激に応じた西国の大名らは強い。朝鮮出征で共に戦った者は良く分かっておろう。三成だと侮っては痛い目に会うであろう。心して掛かられよ。兵糧は十分に用意した。策も既に弄しておる。後は貴殿らの働きに掛かっておる!」


 家康は拳を振り上げた。同時に諸将が立ち上がり声を張り上げた。家康は将の士気が十分に高まっている事を確信して半蔵に目で合図を送った。半蔵が小さく頷いて立ち上がる。


「各々方!内府殿御出馬に御座る!!いざ行かん!」


 徳川方は9月14日夜明け前に大垣城攻めを行うと決定した。諸将の配置を決め、士気も最高潮に達していたが、この士気の高さが仇となる。この夜、石田方から夜討ちを掛けられ、これに怒った中村一栄、有馬豊氏が退いて行く敵兵に誘われて部隊を進めてしまった。敵の夜討ちと味方の追撃の知らせが家康本陣に届くと本多忠勝が麾下を率いて飛び出した。慌てて家康が忠勝に叫ぶ。


「必ず連れ戻して参れ!」


「承知!」


 家康の言葉に返事すると、忠勝は険しい表情で馬に跨った。十数騎を引き連れ闇夜へと消えていく。家康は忠勝が見えなくなるまで目で追った後、右手の親指の爪を噛んだ。


「…機先を制されたか!三成陣営にも老練な奴が居る!」


 13日深夜の石田方の夜襲は、中村隊、有馬隊をおびき出して伏兵との挟撃で打ち崩し、石田方に勝利をもたらした。辛うじて本多忠勝の援軍により全滅は免れたものの、小規模ながら前哨戦を取られてしまった。これにより石田方の士気は大いに回復した。

 翌日早朝、徳川方は福島隊、池田隊を進めて大垣城に攻め寄せたが、石田方の兵は夜のうちに抜け出していた模様でもぬけの殻であった。



【徳川方(赤坂本陣)】

徳川家康………二万五千

松平忠吉………三千

本多忠勝………一千

井伊直政………三千

長坂信宅………三千

福島正則………五千

細川忠興………五千

加藤嘉明………三千

黒田長政………五千五百

田中吉政………三千

藤堂高虎………二千四百

京極高知………三千

山内一豊………二千

池田輝政………四千五百

生駒一正………一千八百

金森長近………一千百

寺沢広高………二千四百

浅野幸長………五千五百

一柳直盛………一千二百

中村一栄………一千五百

有馬豊氏………一千


【徳川方(唐栗守備)】

竹中重門………二千

古田重然………一千


【徳川方(岐阜城)】

関一政…………一千

織田有楽斎……一千二百


【徳川方(福束守備】

津軽為信………五百

島津義弘………一千五百

森忠政…………二千



【石田方(大垣城)】

石田三成………六千

長曾我部盛親…五千五百

平塚為広………一千

宗義智…………五百

伊藤盛正………一千

鈴木重朝………一千

河尻秀長………二千

木下延重………二千五百


【石田方(北国街道)】

小西行長………四千

宇喜多秀家……一万八千


【石田方(中山道守備)】

大谷吉継………四千

朽木元綱………一千

脇坂安治………一千

小早川秀秋……一万六千


【石田方(南宮山)】

毛利秀元………一万五千

吉川広家…………三千

安国寺恵瓊……一千五百

長束正家………一千五百


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― 新着の感想 ―
[気になる点] >東に迂回して、加藤左馬助殿、黒田筑前守殿 この頃の黒田長政は筑前守じゃなくて甲斐守ではなかったですか?
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