123.関ケ原(初戦)
定期投稿です。
此処からはずっとクライマックスの予定です。
慶長5年7月25日早朝、下野国小山の陣。
「某も内府殿に所領をお預け致す!如何様にもお使い下され!」
山内一豊の一言を皮切りに、細川忠興、池田輝政、福島正則、田中吉政など次々と家康に所領を預ける発言が飛び交う。石田三成挙兵の知らせに、最初こそ不穏な空気の流れた評定であったが、福島正則が「三成如きに自らの武威を貸すものか!儂は進んで内府殿に付いて奴の首を取ってやる!」と息巻いた事で、大坂城に妻子を残した大名らの目つきが変わった。去就を定め兼ねていた者らも徳川方に付く決心をし、誰も三成方に付く事も無かった。
それは家康がこれまで気付いて来た各大名との関係性以上の効果があり、東国に親徳川派が多かった状況から畿内、東海にまで影響力を手に入れた事になる。これは石田三成から見れば大きな誤算になった。徳川家康に同行した大名は全て徳川方となった。
一方石田三成は、同調者集めには苦労していた。上杉征伐が決まった事を6月に知ると、上杉家と連絡を取りつつ、大坂城の奉行衆と密かに打合せを行った。計画の発案こそは毛利家の安国寺恵瓊であったが、詳細計画を立案して増田長盛、長束正家、前田玄以に説明すると、彼らは「毛利家が動くなら」と加担を了承する。6月15日には敦賀から到着した大谷吉継を説得して仲間とし、家康が大垣城を出た知らせを受けて大坂城へと入った。
6月24日、石田三成は奉行衆らと共に淀と面会する。三成は計画の全貌を淀に説明し、徳川家康討伐の承認と豊臣家の御旗を求めた。
「…石田殿には悪いが、出せぬ。妾は今、徳川家康の上杉家討伐を支持しておる。確たる証拠も戦での実績も無く、その支持を覆すことは豊臣家の威信に関わる故、できぬ。」
淀は悔しそうな表情で返答した。それは初手で徳川家には先を越されたと言う意味ではあるが、淀の態度を見て三成は豊臣家を味方に引き入れる事は可能だと判断した。
「御方様は我らを否定されなかった。ならば家康と一戦して勝つ事で家康を逆賊として豊臣家の名で討伐する事は可能!」
そう頭の中で判断すると、無理に淀からの承認は引き出さず、秀頼の安全を守る内容で淀の信頼を得ようとした。
「大坂城本丸周辺は奉行衆の兵で安全を確保するように致します故、我らの行動は黙認下さいませ。そして必ずや家康と一戦して勝利を得た後、改めてお願いに上がりまする。」
淀は片桐且元の顔色を確認してから三成に向かって頷いた。三成にとっては今はこれで十分であった。一戦して勝つ自信はある。そう息巻いて広間を退出した。だがこれは大きな誤算となる。
7月に入ると、徳川軍の動向を監視しつつ、三成は次の作戦に移る。既に家康の命を受け兵馬を整えて家康に合流しようとする西国の大名らを畿内通過時に停止させ、味方に引き入れる作戦である。
この作戦で鍋島勝茂、龍造寺高房、毛利勝永を摂津に停滞させた。
7月15日、奉行衆は大阪城内の警備を強化。各大名の妻子を集め監視するように指示を出した。同日、毛利秀元が安芸より船で大坂に到着し、三千の兵で押し寄せて西ノ丸の留守居をしていた天野景康を追い出した。大坂城の状況が徳川方に知られる決定的な状態となり、奉行衆は毛利輝元、宇喜多秀家の名で諸大名に激文を発布した。そして畿内の有力大名から人質を取る為に各地に兵を送り込んだ。
7月18日、毛利輝元、宇喜多秀家が揃って大坂城に到着する。二人は秀頼に拝謁し、大坂城西ノ丸と豊臣家の財貨兵糧を一時的に預かる事を淀に説明して黙認させた。この時点で大坂城に集まった大名は、宗義智、大谷吉継、平塚為広、河尻秀長、吉川広家、小早川秀秋、小西行長、長曾我部盛親、毛利勝永、鈴木重朝、山田有信、立花宗茂、南条元忠、織田信包、小出吉政、九鬼嘉隆、鍋島勝茂、滝川雄利、丹羽長重と西国の大名を中心に総勢八万にも及ぶ大兵力となった。
兵力を整えた石田三成は大坂城に腰を据えた毛利輝元を総大将とし、徳川討伐軍を編成する。徳川軍とは東海道で激突する事を想定し、中山道と東海道を進み清須で合流するよう進軍路と二軍編成の陣立てを組む。この時点で徳川軍は関東を中心に展開しており、毛利軍はこれを東西から挟み込むように配置する予定であった。
7月19日、宇喜多秀家を大将に四万の軍で京へ侵攻し、途中、「御味方する」と申し出た島津軍と合流して伏見城を囲む。城将の鳥居元忠に降伏の使者を送るも追い返された事で攻城戦に突入した。一方で21日には自身を大将として一万五千の軍で大和街道から東海道へ延びる街道を進軍する。続いて7月22日に織田信包を大将に丹波へ侵攻を開始した。
7月23日、関宿まで軍を進めた石田三成は、此処で諸大名からの使者と面会する。伊達政宗からは出来るだけ軍の進攻を遅らせる旨の返書を、佐竹義宣からは兵を動かさぬ旨の返書を受け、胸を撫でおろす。
「佐竹殿が動かぬと言われることは…相馬殿、蘆名殿、多賀谷殿も合わせて動かぬと思って良いと思いまする。」
島清興の進言に三成は頷く。東国勢に対しては余り期待していなかった為、佐竹家と伊達家が動かぬとなれば上杉家に対する大きな支援になると判断した。次に北陸勢に対して確認する。
「前田家、堀家、堀尾家は徳川軍に加担。丹羽家、青木家、大谷家が我らの誘いを受けております。…五分、とは言えませぬが北陸から攻め入られる事は無いと判断できます。」
前田利長も堀尾一忠も上杉討伐に兵を差し向けており、淡海を南下して向かってくる敵はいないと三成も判断する。丹後の細川領には兵も差し向けており、自軍が見るべき方角は、やはり東海道方面だけで良い事に安堵した。そうなると、注視すべきは徳川軍を迎え撃つ地である。
「当初の想定通り、美濃から近江に抜ける中山道に兵を差し向け、拠点を築く事になりましょう。」
清興の言葉に三成は力強く頷く。敵との決戦の場を想定し、岐阜城を守る織田秀信を味方に引き入れたのは正解だったと回顧する。後は主力をそこに差し向けて守りを固め、進攻を防ぎ、毛利軍を一気に投入して勝ちを得れば淀からの公的な支援を貰える…三成の戦略はこれで大筋を固めた。
「先ずは大垣城を接収する。これで敵は簡単には進軍できなくなる。」
三成は目的地を定め、全軍に指令を出した。
7月24日、徳川派と石田派の最初の衝突が行われる。丹波福知山城を石田派の織田信包の軍が包囲し、矢鉄砲の撃ち合いが行われた。翌25日には宇喜多軍による伏見城攻撃も始まり、徳川と石田との本格的な戦が始まった。初戦は石田方が優勢であった。
7月29日、伏見城が落城する。宇喜多軍の猛攻に耐え切れないと察した鳥居元忠が大手門を開いて突撃を敢行した。宇喜多軍は兵を左右に展開して突撃を受け流し、島津軍を元忠に迎え撃たせたが、此処で思いがけない事態が発生する。島津軍は鳥居軍を包み込むとそのまま宇喜多軍の右翼を蹴散らせて戦場から離脱してしまったのだ。余りの鮮やかな兵の動きに誰も追いかける事ができず呆然と見送った。伏見城内はもぬけの殻であり、予め示し合わせて城を脱出したと理解するまで多少の時間を費やす。結果、伏見城は手に入れたものの、島津軍の寝返りが発覚し、敵将には逃げられ、士気の向上には全く繋がらないものになってしまった。
8月1日、伏見城落城の報を聞いた石田三成は複雑な表情を島清興に見せた。初戦の有利からの敵への内応…。味方に引き入れた大名らへ動揺を与えかねない結果に三成は焦りを覚える。本来は此処で徳川方を牽制しつつ、大坂城からの主力郡の到着を待つ予定であった。
「我が軍も急ぎ北上し、宇喜多殿と合流すべし!」
三成の指示で敵状把握もそこそこに宇喜多軍との合流を急いだ。本来は十分に各大名と書状を交わして見方を増やしてから大垣に進む想定をしていたが、味方の動揺を防ぐ為に、先に美濃周辺を確保する方針切り替えた。
8月2日、石田軍は大垣城に到着する。城主の伊藤盛宗は三成に城を明け渡しそのまま石田軍に味方した。直ぐに織田秀信からも連絡があり、石田方に味方するとの返答を受ける。そしてこれに竹ヶ鼻城の杉浦重勝、福束城の丸毛兼利、犬山城の石川貞清が呼応し、石田軍に味方した。
8月5日には、尾張黒田城、清須城に一柳直盛、福島正則が帰城したとの知らせが入り、三成は二人に使者を送る。二人共三成と仲は悪かったが、秀頼君の為の戦と説得すれば味方すると考えての交渉であった。この時点に石田方は大垣城に一万五千、岐阜城に三千六百、犬山城に二千までしか布陣しておらず、主力の毛利秀元は伏見から佐和山に向けて進軍中。宇喜多秀家は伊勢攻略の為に本隊から抜けて南進中であった。
8月5日、徳川家康は小山から福島正則ら東海道勢を見送った後、江戸に帰城する。そこで秀忠も含めた重臣らを集めて軍議を開いていた。議題は陣立てである。既に福島正則ら家康に味方を表明した軍勢は尾張に向かっており、そこからどう攻めるかを早急に決める必要があった。先行して井伊直政と本多忠勝を派遣して尾張に向けて進軍中の諸将が先走らぬ様指示を出したものの、石田方の動きが今一つ掴めておらず、服部衆からの報告待ちであった。だがある程度の予測は立てておく必要がある。
「前田勢は何処まで進んでおる?」
「越中を通過したところに御座います。あと2~3日で丹羽領に入る事になるでしょう。」
「上杉勢の動きは?」
「北から南部、戸沢、最上、秋田、西から堀、溝口、南から蒲生、結城の軍勢で囲っており、まだ動きはありませぬ。」
「伊達はどうした?」
「…未だ動かず。」
「使者を送れ。これ以上命令を無視するのであれば敵と見なす。」
「はは!」
「佐竹義宣からの返答はまだか?」
「未だ届かず…親族衆の説得に手間取っておられる模様。」
東国勢の状況について、家康の問いに藤林保正が明確に応える。
「源五郎はどうした?」
ふと気づいて家康は瀬名信輝の行方を尋ねた。保正は一度周囲を確認して小声で「会津に向かいました。」と返答した。家康は少し天井を見て考えに耽り納得したように頷いた。
「源五郎から連絡が来たら直ぐに我に知らせよ。」
保正は短く返事して一旦下がった。次に家康は服部半蔵を呼んだ。
「敵の兵力について、判るだけ答えよ。」
「大坂城に毛利輝元二万、伏見城に毛利秀元、吉川広家、小早川秀秋の三万、伊勢方面に宇喜多秀家がおよそ二万で進軍中、美濃大垣城に石田三成一万五千…となっておりまする。」
「伏見…彦右衛門は如何した?」
「島津殿と脱出し尾張清須城に向かいました。」
「ならば良し。…大坂城からの知らせは?」
「まだありませぬ。」
半蔵の答えで家康は渋い顔をした。家康はこれを待っているのだ。大坂城で秀頼の周囲を守る者からの連絡を。家康がこの戦で最も恐れているのは、豊臣秀頼の名で徳川家討伐を掲げられる事。そうなれば尾張に進軍中の大名らは一斉に踵を返して江戸へと攻め込んで来る。そうなれば上杉家を囲む東国勢は勝ち馬に乗って寝返る可能性は格段に上がるのだ。徳川家は一気に東西から挟撃される危機に陥るのだ。
「大坂城の…淀の動きを完全に把握せねば、徳川軍は動く事は出来ない。半蔵、これを肝に銘じ、服部衆を総動員して内情を事細かに調べ上げるのだ。」
家康の命令に半蔵が表情を引き締めて返事する。他の家臣も静まり返って家康の言葉に耳を傾けていた。下座から下がる半蔵を見送って、家康は姿勢を正した。そして居並ぶ家臣を見渡す。家臣らも家康に身体を向けて姿勢を正した。
「…秀忠、お主に三万の兵を預ける。我の命を持って中山道を西進して美濃へ向かえ。」
秀忠が緊張した面持ちで頭を下げた。秀忠取っては初陣にもあたる戦だ。それが大軍勢の大将に抜擢となると体の震えが止まらなかった。身体を震わせながらも気丈に構える秀忠を見て家康は微笑んだ。
「案ずるな。お主一人で行かせる訳ではない。…大久保衆、本多衆、酒井衆と、徳川家の譜代衆をお主に付ける。弥八郎、お主が秀忠を補佐せよ。」
家康は徳川軍の主力家臣を秀忠に付けた。更には自分の懐刀とも言える本多正信も付けた。それは烏合の衆を集めた混成の三万ではなく、徳川家精鋭の強力な三万を預けたことになる。秀忠の表情が更に青ざめた。口をパクパクして引きつらせている。家康は軽く秀忠の膝を叩いた。
「徳川家の家督をお主に譲る日も近い。徳川家中が心よりお主に仕えるよう…今から寝食を共にするのだ。ありのままのお主を皆にさらけ出し、ありのままの彼らを全て見るのだ。」
「は…ははっ!」
秀忠は父に向かって平伏する。その様子を天海が末席から眺めていた。秀忠は父が入れ替わっている事を知らない。実のところ、父と触れ合った記憶はほとんどない。秀忠にとっては目の前の夜次郎が父と言っても差し支えなかった。それは下野で守備する秀康も、秀忠の隣で興奮して見守る忠吉も同じであった。天海はそれを複雑な気持ちながらも見守るように見つめる。心の中で年の離れた弟たちを羨みながらも決意を持って眺めていた。…先生の意思はこの子らは引き継ぐであろうと。
8月17日、島津義弘と鳥居元忠が清須城に到着する。正則は彼らを迎え入れ、同時に石田方の状況について貴重な情報を手に入れる。石田三成が大垣城に構えている事を知ると、東海道勢がにわかに色めき立った。
「直ぐにでも大垣城に攻め込むべき!」
好戦的な池田輝政が声を上げると、多くの将がこれに同調した。だが歴戦の勇将、鳥居元忠は騒ぎ散らす自分より年下の将らを落ち着いた声で宥めた。
「大垣に居る石田三成は敵の主力では御座らぬ。主力は大坂で秀頼君を抑える毛利大納言、そして伊勢に兵を展開する宇喜多中納言で御座る。此処で下手に兵を動かし、敵方の有利に進むようになれば江戸で機会を窺う内府様の怒りを買う事になりましょう。それに大垣城ばかりに拘っていては足元をすくわれます。岐阜、犬山にも敵兵はおります。」
元忠の冷静な言葉に諸将は落ち着きを取り戻す。今は尾張と美濃を境に陣取っている段階であった。下手に兵を動かすことは徳川方全体を大きく不利に導く可能性もあった。そうなれば江戸で指揮を取る沈着冷静な大将、徳川家康の逆鱗に触れる事であろう。諸将は怖れを感じて互いに見合わせた。
8月18日、江戸から本多忠勝、井伊直政が軍監として清須城に到着した。すぐさま諸将が集められ、家康の言葉を皆に伝えた。
「儂が来るまで尾張の地を死守せよ。…我が主は朝廷、及び大坂城内の内通者と交渉を続けております。…お考え下され。若し大坂におわす秀頼君が敵の脅しに屈し豊臣の御旗を渡されては…貴殿らは賊軍と成り下がるのです。逸る気を抑え、お待ちあれ。必ず、我が主が事態を打開する手を打つでしょう。」
忠勝の言葉は諸将らを黙らせた。「秀頼」の名を出されて反する事は出来ない者らなのだ。唇を噛み締めながら、拳を握り締めながら、忠勝の言を受け、待つことを選択した。
家康と三成の戦いは、初戦は五分である。城を落としたのは石田方であり、伏見だけでなく丹波丹後の諸城も落とした。だが、徳川方は上杉の動きを封じ、北陸道をかき回し、寝返りを起こして石田方の士気低下と疑心を引き起こした。戦は始まったばかり。家康と三成の戦いは此処から更に混迷と緊張と沸騰が増していく。