119.大坂城入り
定期投稿です。
大河では七か月で「本能寺の変」が行われましたが、本物語は二年かけてしまってます。
・・・もう少し投稿頻度を上げられればいいのですが・・・頑張ります。
慶長4年3月19日、近江国佐和山城。
石田三成は豊臣秀頼の下での権力掌握を諦め、居城で自適な生活を送っていた。同僚に疎まれ命を狙われる中、政敵である徳川家康に度量の広さを見せつけられ、格の違いを思い知った三成は、無事に佐和山まで自身を送り届けてくれた結城秀康に自分が大切にしていた亡き主君秀吉から拝領した名刀を譲り、剃髪した。
そんな三成に、家康は大坂城で人質として暮らしていた正室うたと、二人の息子を送り届けて来た。しかも、長男については家康自らが烏帽子親となり「重家」の諱を与えて元服させたのであった。
三成は家康に感謝の文を送り、二人の息子に武芸や学問を教える日々を過ごすつもりでいた。
そこへ複雑な表情をして島清興が客の来訪を知らせて来た。三成は清興の表情に小首を傾げながらも訪ねて来た客に会う事にした。…その客とは、奉行時代にも親しく交流していた毛利家家臣、安国寺恵瓊であった。
慶長4年4月、石田三成を襲った豊臣系の大名らが謹慎となり、城内での執務に問題が出始めていた。三成の抜けた穴は、浅野長政、大谷吉継を復帰させるなどの対策を取っていたが、前田利家、石田三成、藤堂高虎、池田輝政と内務にその才を発揮していた人材の穴埋めは難しく、奉行衆を統括する増田長盛は家康に相談した。
家康は徳川家家臣から、榊原康政、板倉勝重、本多正重など伏見の補佐に江戸から連れて来ていた者らを大坂に向かわせ、大名間の調停役、取次、朝廷公家への応対、城下の警備などを請け負合わせた。
だが、この対応に激怒した人物がいる。同じく大坂城に滞在して奉行衆らを束ねる役目を請け負っていた前田利長であった。彼は、父の死後、領地と職務全てを引き継ぎ、父に代わって大坂城に入り、秀頼政権の確立をすべく尽力していたが、奉行衆が自分を無視して家康に助けを求めた事に腹を立て、奉行衆らを呼び寄せた。増田長盛、長束正家、前田玄以が利長と面会すると、三人は実績、経験の少ない利長に問題解決は難しいと考え、前田家に相談せずに対処しようとしたと弁明した。自身が若輩者で信用されていない事に利長は三人に暴言を吐くほど怒りを露わにするが、三人は悪びれずに「前田大納言殿ではお力不足です」と言い放つ始末であった。
ここで述べた通り、大坂城内の人間関係は、石田三成が居なくなったことで以前より悪化していた。三成が居た時はヘイトが彼に集中し、ある意味、人間関係のバランスが取れていたのだ。だが三成が奉行衆から去ると、各大名は自家の権力を高めようと躍起になりだしたのだ。その結果、大老に任命されたばかりの前田利家は城内での人間関係の構築ができておらず、孤立する結果となったのだ。
そして、これに対しても家康が仲裁行動に乗り出している。結城秀康を大坂城に派遣し、大名間の調整を行わせた。秀康は秀吉の人質時代に多くの豊臣系大名とも奉行衆とも親しくしていた事もあり、秀康の取り成しは丁度よい緩衝材となって大いに役立った。
だがこれは前田利長の自尊心を大きく刺激した。自分よりも年下で官位も下の者に仕切られた事で大坂城内でもその存在感も大きく下げられている。
慶長4年4月23日、伏見城下の徳川屋敷に家康と家臣一同が勢ぞろいし軍議を開いた。
議題は、天下取りを決心した家康が今後どう動くかについてである。先ずは本多正信が先陣を切って発言した。
「先ずは、誰を味方とし、誰を敵と見なして追い落とすかを決めるべきと存じます。秀頼君に替わって天下を動かすともなれば、それを良しとせぬ輩は出てきましょう。…そう言った輩は早めに潰すのが良いと考えまする。」
正信の言葉に家康は頷きつつ他の家臣に目を移した。すぐさま井伊直政が前に進み出る。
「加藤清正、福島正則あたりは豊臣家恩顧の者達…何かと理由を付け今の間に大坂から遠ざけるべきと心得まする。」
これにも家康は頷く。だが家康は言葉を発せず次の意見を待った。今度は天海が異見を述べた。
「先ずは大物をどうするか論ずるべきと心得まする。即ち…上杉、宇喜多、毛利、前田についてで御座いまする。」
天海の上げた名は家臣らの顔を強張らせた。主君と同格の大老衆。主君を師と仰ぐ天海は彼らを味方とするか敵とするかを決めるべきと進言したのだ。家康は口元を緩めて天海に尋ねる。
「四家とはどうするべきか?」
「……味方とするに能わず!」
天海の朗々とした声での明快な拒絶は、今度は家臣らを凍らせた。それは顔だけではなく全身を硬直させるほどの強硬な意見であった。だがこれに家康は満足そうに頷く。
「そう進言するからには、何か手を打つ案を持っておるのだな?」
家康の問いに天海は自信ありげに返事した。
「毛利家、宇喜多家については、家中の分裂を起こせる手立てが御座います。前田家は先の一件で大坂城内で孤立しつつあり、排除に苦労せぬかと思いまする。…後は上杉家をどうするか…に御座います。」
家康は自分の前世の記憶と照らし合わせて納得して頷く。
「毛利と宇喜多は天海に任せる。…家老衆を巻き込むように進めるのだ。」
天海は家康の了解を得られて笑みを見せて平伏した。
「前田大納言はどうしている?」
家康の次の質問に榊原康政が答える。
「城に出仕せず屋敷に籠っておるそうです。…奉行衆の態度がよほど気に入らぬようですな。」
「領地に戻るよう仕向けよ。戻ったらば直ぐに儂に知らせるのだ。」
康政は短く返事して頭を下げた。そして家康は本多正信に顔を向けた。
「上杉とは決戦を想定する。上杉との戦を通じて東国勢の臣従を図るのだ。その策は弥八郎に任せる。」
正信は身体を震わせた。相手は大大名で、上杉謙信の兵法を知る猛者ばかりが集まった強兵集団である。思わず武者震いが出てしまった。家康はそんな正信の姿を見せて笑った。
「弥八郎でも恐れる事があるのか?…だとしたら、これからは震えっぱなしになるぞ。儂も腹を括っておるのだ。お前もしっかりと腹を括れよ。」
この言葉に本多忠勝が相槌を打った。
「…震える者は江戸へ戻れば宜しい。殿、江戸には殿の御側で働きたいと申す者が大勢いるそうです。その者らにも活躍の場を設けて下さりませ。」
忠勝の発言に他の者も身を乗り出した。自分も殿の役に立ちたいと騒ぎ始める。家康は手を挙げて皆を穏やかに鎮まらせた。
「…皆の気持ちはよう分かった。弥八郎、お主は江戸に戻り、上杉攻略の策を考えよ。…他の者は儂の指示に従え。」
家臣らが一斉に平伏する。当主が天下取りに本気を見せた事で家臣らの心は高揚していた。いつも以上に声を張り上げ頭を下げ、そしてその思いを寄せた。
慶長4年6月29日、家康の寝室に瀬名信輝が密かに訪れた。家康は夜番の小姓を下がらせ信輝を部屋に引き入れる。信輝は月夜の光を避ける位置に座り、調べた内容を報告した。
「毛利家の安国寺恵瓊が佐和山を訪れる頻度が増えておりまする。恐らく殿に対抗する為に三成を焚き付けておると思われます。」
「…毛利が天下取りに動いておるか。」
「いえ、本国では激しく人は行き交っておりませぬ。…恐らく恵瓊の独断かと。」
「ならば天海に任せておこう。恐らく家中が二分するぞ。」
家康の判断に信輝は静かに頭を下げる。そして一呼吸おいて次の報告を始めた。
「前田大納言殿が大坂を発たれました。」
この報告家康は喜びの表情を見せた。
「遂に逃げたか!よし!浅野長政に連絡せよ。例の仕掛けを使うのだ。」
信輝は再び平伏した。そしてしばらく沈黙してから小声で家康に話しかけた。
「…兄者、浅野殿を動かせば、もう後戻りはできませぬぞ。」
義弟の囁きに義兄は眉を顰めた。
「今更何を言う?我は決めたのじゃ。もう振り返りもせぬ。」
家康の迷いのない返事に信輝は少し微笑んだ。そして自らも表情を引き締める。
「ならば某も覚悟致そう。この命、義兄の為に燃やし尽くさん。」
そう言って信輝は立ち上がり、部屋を出て行った。家康は布団に寝そべると明日の為に目を閉じる。
「…もう後戻りは…必要ないのだ。」
家康もまた決意を新たにしていた。
慶長4年7月2日、徳川家康は大坂城から二人の人物を呼び寄せた。
織田上野介信包と織田有楽斎。織田信長の実弟で淀の叔父にあたり、秀頼の側近を務めている二人であった。二人は家康に拝謁すると恭しく頭を下げる。
「ようお越し下された。大坂城の事については儂も耳にしておる。淀殿は如何の御様子で御座るか?」
年長の信包が家康の問いに答えた。
「心乱したる様にてご立腹で御座る。…毛利殿も宇喜多殿も本国に戻っておられる故、余計に前田殿の帰郷が腹立たしく又、不安を募らせておいでです。」
信包の説明に家康は大きく頷いた。心配そうな表情を見せる家康に有楽斎が話を持ち掛けた。
「大坂城に大老が不在なのは家臣らの動揺を招きまする。ついては、内府殿の大坂城入りをお願いしたい。」
有楽斎は前田利長が大坂城を出て行った事で城内に出入りする家臣らが動揺しており、大坂城を預かる淀自身も大老不在の城内に豊臣家統制に不安を感じている事を説明し、家康に大坂城での取り締まりを願い出た。だが有楽斎の話に家康は困った表情を見せた。
「儂は此処で政務を預かる身…。その儂が大坂城で秀頼君の側に仕えるとなると、豊臣家の政務と内務、双方を面倒見る事になろう。…それは些か度を越した権限を得る事になろう。」
家康が説明するとこれに同意するように同席する天海が頷く。だが有楽斎は直ぐに首を振った。
「ですが、今は淀の方様の不安を取り除くことも必要。此処は内府殿に大坂城にお越し頂きたい。」
有楽斎の懇願に家康はわざとらしく天海の方を見た。その視線が気になり有楽斎も天海に視線を向けた。
「……実は妙な噂が御座いまして…我が主を暗殺せんと企てている者がおるとか。」
天海の答えに二人は思わず腰を浮かせた。
「左様な話、我等には聞こえておらぬ!」
家康は慌てふためく二人を優しく宥めた。
「…真意は儂等も解っておらぬ。…どうであろうか?お二人から城内の奉行衆に調べる様頼んではもらえぬか。こればかりは事の真意がはっきりせねば、淀殿の願いと言えど、怖くて伏見を出る事ができぬ。」
家康の言葉に二人は顔を見合わせた。そして伏見城を辞し早速噂の調査を奉行衆らに依頼した。
奉行衆らの調べで噂は事実であることが判明した。増田長盛が結果を持って伏見城の家康と面会する。長盛が調べた結果では前田利長を首謀者とし、元奉行衆の浅野長政、秀頼側近の土方雄久、大野治長らの名前が連なっていた。家康は怒りを滲ませて立ち上がり、長盛に対して声を張り上げた。
「大老や秀頼君の側近たる者が何という所業じゃ!豊臣家を傾斜させたる極悪人となろうぞ!」
怒り心頭の姿を見せる家康に長盛は恐れおののいた。今にも兵を持って対応せんという家康の態度に何とか戦を回避できないかと頭を働かせた。
「お、お待ち下され!これらの企みは既に明るみとなりました!これを理由に職を罷免し、蟄居させることでお納めできませぬか!…今、徒に兵馬を動かすは他の大名らを刺激する事に繋がりかねませぬ!」
長盛は必死に家康に押さえて頂くよう懇願した。その態度に家康は暫く長盛を睨み返してからゆっくりと上座に座った。
「……良かろう。増田殿の顔を立ててそれで良しと致そう。だが、奴らの身は儂が預かる。」
「だ、大納言殿の御身を預かるは他の大老らの不審を招きます!…此処は人質を内府殿が預かる事で、手を打っては頂けませぬか?」
長盛の提案に家康は爪を噛む仕草を見せて苛立っている事を見せつけた。そうして長盛を十分に怯えさせた後、ようやく返事をした。
「…では前田大納言に申し付けよ。身の潔白を証明する為に、江戸に人質を寄越せとな!」
慶長4年7月8日、徳川家康は自身の暗殺を目論んだとして大納言前田利長を始め、浅野長政、土方雄久、大野治長の職を解き、蟄居を命じた。浅野長政、土方雄久、大野治長らは武蔵に下向し結城秀康の用意した屋敷での謹慎を申し付けられ、前田家は利長の母である芳春院を江戸に送り、家康に敵対する意思がないことを示した。
そして家康は新たに江戸から千五百の兵を呼び寄せ万全の体制を整えて6月19日に大坂城下の大名屋敷に入城した。
これら一連の家康の強硬な政策に、大老上杉景勝が意を唱えた。堂々と家康を非難し大坂城から退去する様に文を送りつけて来た。
うた
石田三成の正室。豊臣家臣、宇多頼忠の子で三男三女を儲ける。
石田重家
石田三成の長男。弟と共に大坂城で小姓として仕えていたが、父隠居後に家康によって元服し、佐和山城へと送り届けられる。
織田信包
豊臣家家臣。織田信長の弟で淀の叔父にあたる。秀吉の側近から秀頼の傅役となり、大坂城で淀の相談役を務めている。
織田有楽斎
豊臣家家臣。織田信長の末弟で秀吉の御伽衆として仕えていた。秀吉死後は秀頼の相談役として大坂城に出入りしている。
前田利長
前田家当主。利家の長子で父の死後、その遺領と官職を引き継ぐ。しかし家康に暗殺の企てを疑われ、奉行衆の仲介で江戸に人質を送る事で徳川家との戦を回避した。以降は徳川家臣としてその支配下に収まる。
芳春院
前田利家の正室。前田家が謀反を疑われた際に自ら進んで人質として江戸に下向したと言われる。
大野治長
豊臣家家臣。淀の側近で秀頼の警護を任されていた。史実でも淀との密通の噂があった。
土方雄久
豊臣家家臣。織田信雄の家臣から秀吉の直臣となり、秀吉死後は秀頼の側近となる。家康暗殺の企てに加担したとして、所領を没収され常陸佐竹氏に預けられた。