116.全軍撤退
・・・いやあ、最終回、良かった。涙が出ちゃいました。
特に虹色に輝くパー〇ットのシーンは激熱でした。
作者もあんな感動するシーンが書ければと思いながら余韻に浸っております。
物語は豊臣軍の撤退に話になりますが、撤退の描写ではなく撤退によって起こった事の描写になります。
それでは、お読みください。
慶長3年8月18日、五大老の一人、会津の上杉景勝が上洛する。秀吉霊前に拝謁後は徳川家康、前田利長との協議を行い、東国勢の監視強化の為に会津国内の兵力増強と葬儀の為の金銭供出を支度する事で話がまとまった。景勝は諸々の準備の為に直ぐに会津に帰国する。伏見城には京の情勢にも詳しい本庄充長を連絡役として滞在させ、家康との連携が密になるようにした。家康も充長には盛んに情報を提供し、上杉家には状況を逐一連絡するようにしていた。
8月25日、朝鮮侵攻軍に秀吉薨去を伝える使者団が大坂城を出立する。増田長盛が長を務め、これに本多忠勝と鳥居元忠が主君代理として同行した。
彼らを見送った家康は直ぐに浅野長政を呼び出して面会した。長政は奉行衆にも名を連ね、親族衆の最年長にもあたるのだが、秀吉の死をきっかけに隠居を願い出ていた。諸般の影響を鑑みた家康は隠居を思いとどまるよう説得する為に呼び寄せたのであった。
「…弾正殿、この時期に隠居さるるは家中への動揺を招く。その儀、この家康に預からせてくれまいか?」
「…内府殿の言い分、尤もと存ずるが…殿下と共に駆け抜けて来た某には、些か疲れました…。既に家督も息子に譲り、何の未練も御座り申さぬ。」
長政の意思は固いようであった。長政が政権から身を引けば、親族衆の力が大きく失われ、奉行衆を抑える力の一つが欠けてしまう。勢力均衡を図る家康としては、もう一つの派閥である武断派の帰国までは、三成らを抑え込めるようにしたかった。
「貴殿が…」
家康は長政を思い留まらせようとしてある事を思い出した。史実では浅野長政は家康によって蟄居を命じられている。家康は暫く考え込んで不意に立ち上がった。長政は家康の挙動に身体を強張らせた。家康は無防備に長政に近づき、彼の側に座って耳元に顔を近づけた。
長政にしか聞こえない声で家康は何事か囁いた。一瞬驚いた顔をして家康を見返した。家康は更に小声で囁き、にこりと微笑んだ。反対に浅野長政は驚愕のまま汗を流して家康の話した内容に怯えていた。
8月27日、江戸から徳川秀忠率いる関東軍五千が到着した。一団には結城秀康、松平忠吉の他に榊原康政、井伊直政ら徳川家の主力を率いる将から、高力清長、松平家忠、板倉勝重ら奉行衆、そして軍事、政治顧問の本多正重、天海が同行していた。家康は到着した軍を徳川屋敷、伏見城に二か所に分散して駐留させ、天海らを伏見城天守に迎え入れた。
「御久しゅう御座いまする、父上の命により、精兵を率いて参上仕りました。」
秀忠が代表して家康に挨拶すると、家康は直ぐに家臣らに各々の配置を命じていく。井伊直政は徳川屋敷の、榊原康政は伏見城内の警備を命じられ、直ぐに配備に取り掛かった。奉行衆らには家康の下に集まる服部衆からの情報整理と公家衆らの対応、天海には前田玄以の補佐を命じた。そして息子らを連れて秀吉が安置される御霊前の間へと連れて行った。
秀吉との関係が深かった秀康は秀吉の亡骸に涙するも、秀忠と忠吉の表情は緊張していた。二人は徳川家と豊臣遺臣との間で争いが起きることを予想していた。これは、二人の傅役である大久保忠隣、井伊直政が事前に教えていたものと思われる。こう見ると、徳川家の家督相続者としては、秀康は家臣にも恵まれておらず、譜代衆との関係も深くない事で、外さざるを得ないと家康は感じていた。
9月1日には、大坂から前田玄以が伏見城に到着した。彼は片桐且元を伴い、強気な態度で家康との面会に臨んだ。
「内府殿に置かれましては、太閤殿下に替わって此処伏見城にて政務を取り仕切っておられるが、些か強引とも言える作法にて諸大名や公家衆らに命じられておると聞く…。此度も江戸より私臣を引き入れ政務に参画させ、領兵を引き入れてこの伏見城を私物化しているのではと、諸方から訴えが起こっており申す。」
家康は声高な玄以に淡々とした態度で最後まで聞くと、そのまま表情を変えずに言い返した。
「…で?太閤殿下が居られぬ事を隠して取り仕切っておるのだ。多少の強引などもせねば、回せぬであろう?…周囲の不審や不満を上手く抑えて儂を補佐するのが、奉行衆の役目では御座らぬか?」
家康の聞き返しに玄以は顔を紅潮させた。
「度が過ぎておると心得まする!内府殿は御政務を我が物として行っている節が御座る!」
「…何処が?」
「もっと大納言殿や我等奉行衆に伺うべきで御座ると申しておるのです。」
「…殿下は左様な事をして政務を取られておったか?……違うで御座ろう。その方らこそ、儂からの相談あって然るべきと思うのが間違っておろう。言いたき事が御座れば、文なり直なり儂に進言なさるべきで御座ろう。殿下にはそうされていたのではないか?」
玄以は口を閉じた。家康は伏見城に入ってから、かなり独断で取り仕切っていた。それは、一々大坂の奉行衆に相談していては、採決が遅れるからである。そしてそれは今の豊臣政権においては致命的…秀吉がいない事による政権弱体化を知らしめることになるのである。それを理解できず、独断をなじって来る玄以に家康は腹を立てた。
「我らは、早急に秀頼君を主君として、新たな体制を構築せねばならぬのだ。多少強引に高圧的になろうとも、適切なる時期まで、殿下の事を秘匿し、不満を抑えつけねばならぬのじゃ。玄以殿はそれを御理解しておるか?」
家康は更に正論で畳みかけた。前田玄以は咄嗟に言い返せず歯ぎしりした。ここで様子を見かねた片桐且元が発言する。
「内府殿の言い分は尤も至極。されど、事前に我等にやり様について申し出て下されば、奉行衆らも上がって来る不満を抑える事もできましょう。…此処は互いに歩み寄った形にはできまいか?」
家康は喜々とした表情を且元に見せた。
「其は当然至極。今の御指摘はこの家康も過ちを認めよう。玄以殿、これからは殿下御不在である事を念頭に訴えを吟味されよ。」
「ぐ……で、では内府殿、貴殿の私臣や私兵を引き入れたる談…此れは如何とする?」
「若し、誰かが殿下の事を知り、天下に覇を唱えんと伏見を襲って来たら…如何する?兵力の増強は先の御前会議にて取り決め申した内容ではないか?」
「多すぎでは御座らぬか?」
「念の為で御座る。此処は大坂城ほど防御に適しておらぬ上に、先の地震で一部は壊れたままなのだ。」
家康はあくまでも防衛の為と主張した。だがこれも事前に大坂城に申し入れておれば良かったと反省し、玄以に向かって頭を下げた。内府から先に頭を下げられては、玄以もこれ以上の追及ができなくなり、言葉に窮していると、今度は家康の方から玄以に質問した。
「では、玄以殿…貴僧の役目である葬儀の準備は進んでおるか?」
玄以は顔を強張らせた。何故知っているのだという目で家康を見返す。
「…まだ…で御座る。殿下の薨去を秘密にして準備というのは…骨が折れる仕事にて…。」
「此処に控える僧は、天海と申す。多くの宗派と深い人脈を持ち、特に東国では名の知れたそうで御座る。貴僧に預ける故、如何様にもお使いなされよ。…役に立つであろう。」
家康の紹介で中座に座する高位の僧衣を纏った展開が頭を下げた。
「では玄以殿、この者を使うて葬儀の準備を疾く進め垂れたし。」
家康はそう言って、広間を早々に立ち去った。玄以は部屋から出て行く家康を見つめ、思い通りに家康を詰問できなかった事に歯ぎしりしていた。
9月3日、大坂城に戻って来た片桐且元は西ノ丸に住まう北政所を訪れた。伏見での家康とのやり取りを報告し、彼女の見解を伺った。
「…内府殿は敢えて苛烈な態度で政務を取り仕切る事で、太閤殿下御不在の疑惑を背けさせているように思えます。」
北政所の答えに且元も頷いた。
「某も同様に考えまする。」
「ならば淀殿に伝えられよ。今は内府殿に従って平静を装い、名護屋から虎之助らが戻って来るのを待つのが良い…と。」
「彼らが戻れば、石田治部の暴走めいた行いも慎まれる事になりましょう。北政所様の御言葉、しかと淀の方様にお伝えいたしまする。」
「…内府殿へは牽制のつもりで、私から文を出しておきましょう。内府殿ならば、私からの文の意味を理解して淀殿への配慮を考えてくれるでしょう。」
「お手数をおかけいたしまする。」
且元は丁寧に頭を下げた。且元が玄以に同行したのは、淀が家康の行動を豊臣家を陥れる為の専横と疑っていたからであった。だが、実際に家康と対面した且元はその気配を感じ取れなかった。この為、北政所に事情を説明し、判断を仰いだのであった。
今の所、北政所と家康の考えに大きなずれは無かった。秀吉の死を隠蔽して葬儀の準備を整え、豊臣家の軍事部門を大坂に参集し、盤石な体制で葬儀と家督継承を取り行う。多少強引な所もあるが、家康はこれに向かって政務を進めていた。寧ろ心配なのは石田三成の方だと認識していた。
大坂城の本丸に戻った且元は、家康への詰問への返答と、北政所の見解を報告して、自身の所見を述べた。
「御方様…内府殿は豊臣家の為に全力を尽くしておられると、某は考えます。念のために北政所様にもお伺い致しましたが、某と同様の見解を示されました。寧ろ危うさを漂わせているのは、石田治部殿の方と心得まする。……あの者は内府殿を不必要に敵視し、争いを招く恐れが御座いまする。」
且元の報告に淀は眉を顰めた。彼女としては、家康が豊臣家の転覆を狙っている方が有難かった。彼女もまた家康と言う存在が気に入らなかったのだ。しかし、彼女単独で家康と直接対決するのは危険であると理解はしており、且元の言葉に「相わかった」と答えて下手な行動は慎むことにした。いずれ家康と対抗できる力を手にした時に行動を起こせば良い。そう考えていた。彼女が待つ力とは、秀吉への忠義の厚い武断派の諸将らの事であった。
10月8日、朝鮮国侵攻に加わっていた大名が大坂にようやく戻って来た。最初に大坂城に本丸に登城し淀と秀頼に拝謁したのは、五大老の一人、宇喜多秀家であった。秀家は名護屋城で後方支援の任を受けていたことで、誰よりも早く陣払いをして駆け戻って来たのであった。途中、自領で兵の大半を置いて一千ほどの兵で入城した秀家は、淀の要望を受けて、伏見にある秀吉の遺体に拝謁後に、大坂城にて秀頼の警護を請け負う事となった。
10月10日、宇喜多秀家は伏見城で徳川家康の歓待を受ける。家康は秀吉との面会を終え、涙で目を腫らす秀家を温かく迎え入れ、酒を振舞い労を労った。
「中納言殿、御無事での帰還…真によう御座った。…されど殿下の事をお守りできず、この家康、貴殿に何とお詫びを申して良いやら…。」
秀家は家康からの酒を受け取りながら、首を振った。
「内府殿のせいでは御座いませぬ。内府殿は我らの事を気遣っておられる事を、本多殿からも伺っておりました。…消え去りし命を惜しんでいても何も始まりませぬ。これからは我らも大坂に滞在致しまする。何かあれば、直ぐに某を頼って頂きます様。」
「忝い。されど…淀の方様より大坂城への滞在を懇願されたとか。」
「太閤殿下の御葬儀が取り行われるまでは大坂に居るつもりで御座る。伏見とはそれほど離れてもおりませぬ。何時でもご連絡くだされ。」
家康は感激したように微笑んで秀家の手を取った。
「…太閤殿下亡き今、幼い秀頼君をお守りするのは大老の任を受けし我等の勤め…。互いに手を取り合って盛り上げましょうぞ。」
秀家は家康の言葉に感激し、涙を流した。宇喜多秀家は戦国時代には珍しく、素直な性格で政における駆け引きが苦手な性格な人物であった。それ故、家康の言葉を秀家は言葉通りに受け取っていた。秀吉から一字を与えられ、前田利家の娘を養女として正室に迎え入れ、五大老の一人として小早川秀秋よりも厚遇を受けている彼は、完全に家康を信用していた。
10月22日、朝鮮国からの帰国軍の第一陣が大坂に到着した。浅野幸長、鍋島直茂、島津義弘、これに加えて秀吉存命時期に更迭されていた、蜂須賀家政、小早川秀秋、黒田長政らが兵を率いて大坂城に入り、これに合わせて、三河吉田の池田輝政、尾張清須の福島正則が上洛した。これら諸将は大坂城と伏見城を忙しく行き来する。その中で、徳川家康の所にも彼らは面会に訪れている。家康は亡き秀吉との思い出話を織り交ぜながら彼らを労い、諸将らは家康が私心なく伏見で諸般を取り仕切っている事に安堵ど信頼を心に流し込んだ。
家康と三成との大きな違いの一つとして、政権内での立場の違いがあった。家康は大老の筆頭でもあり、秀吉に替わって政務を取り仕切っている事から、早々に諸将らと直接の面会も行い、腹を割った話もできた。逆に三成は奉行衆という立場から、どうしても事務的な手続きが先に行われ、家康より後回しにされがちになり、お陰で三成の評判が家康と対比する形で悪くなっていったのだ。
11月中旬には全ての軍が朝鮮国から撤退し、12月初旬には全軍が大坂に帰還した。この時、畿内には大小数十の軍が畿内のあちこちに滞在し、その総兵数は五万に達するほどであった。
畿内の体制も整えられ、葬儀の準備もめどが立ったことから、ようやく豊臣秀吉の死が公表された。
上杉景勝
上杉家当主。長尾政景の子だが、上杉謙信の養子となり上杉家当主となる。秀吉に臣従後は大老に就任、中納言に任じられ豊臣家を支える大大名となる。
本庄充長
上杉家家臣。本庄繁長の次男で大宝寺家の養子となり最上家と争う。上杉家が秀吉に臣従後、領内で一揆が勃発してその責で領地を没収され暫く京に滞在する。
浅野長政
豊臣家家臣。家康とほぼ同世代であり、秀吉薨去に伴い隠居を求めていた。後に家康暗殺を企てたとして、武蔵で蟄居を命じられる。
家康の息子三人
次男秀康は結城家の家督を継ぎ、四男忠吉は東条松平家を継いでおり、「徳川」を名乗る事を許されていたのは三男秀忠のみであった。
宇喜多秀家
宇喜多家当主。豊臣秀吉から寵愛を受け、備前、美作、備中播磨の一部を領する大大名。五大老の中で最年少ではあるが、小牧長久手、気修征伐、四国征伐、九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役と戦の経験は豊富。
池田輝政
豊臣家家臣。父恒興の死後、豊臣家直臣に組み込まれ、親族衆の待遇で東三河十五万五千石の大名となる。三成とは反目し合う仲であり、密かに家康と通じ、家康の娘、督姫を継室に迎え入れる。
福島正則
豊臣家家臣。秀吉子飼いの武将で賤ヶ岳の七本槍に数えられる。秀次の旧領である尾張清須二十四万石を与えられ、加藤清正と並ぶ豊臣軍の中核をなす。