112.太閤落日
連続投稿二話目に御座います。
遂に秀吉の時代に終焉が訪れます。
史実ではその死因に諸説ありますが、本物語ではこのように致しました。
それでは、お楽しみください。
永禄2年9月、石田三成は秀吉の命により再び名護屋城に向かった。朝鮮国侵攻軍の後方支援役として、荷駄、舟、軍目付衆の管理を任され、戦況の報告を逐次行うよう厳命される。代わりに浅野長政、大谷吉継が呼び戻され、秀吉の補佐にあたった。
だが三成と前線を指揮する加藤清正らとは反目し合う仲であり、指示命令、連絡報告が当初から滞る事が散見された。戦における前線と後方の連携不足は思わぬ問題を引き起こす。
そして案の定、事件は起きる。
11月19日の三成からの報告を聞き、秀吉は加藤清正の守る蔚山倭城を最重要拠点と定め、城の防衛強化とそこからの戦線北上を命じた。11月27日にはその命が前線に到達し太田一吉、浅野幸長らが加藤清正に合流し、兵力も二万を超える規模となる。
ところが、12月に入って明国朝鮮国の連合軍が蔚山倭城に対し六万もの大軍を差し向け襲って来た。運悪く加藤清正が別地に出兵中の為、一万での防衛を余儀なくされるも、知らせを受けた清正の帰還、毛利秀元、蜂須賀家政、黒田長政らの援軍により、辛うじて城を死守し、連合軍の撃退に成功する。
慶長3年1月、蔚山倭城は激しい攻防戦による損傷が著しく、この拠点の放棄を三成を通じて秀吉に上申した。これを三成は消極的な全軍の士気を下げる行為と論じて秀吉に報告する。激怒した秀吉は家康や利家の反対を押し切って蜂須賀家政、黒田長政の更迭、名護屋帰還を命じ、更には総大将である小早川秀秋から筑前名島三十万石を没収し、越前北ノ庄十五万石に減封を命じた。これにより、秀秋は帰国を余儀なくされ、総大将は小西行長に引き継がれた。結果、前線の指揮は大いに下がり、後を引き継いだ小西行長に対する諸将らの不満が降り積もった。
慶長3年3月15日、秀吉の命で盛大な花見を取り行う。狙いは、諸大名に太閤殿下の健在をアピールする事であり、これには全国から大名、公家、高僧、賢人、商人らが集まった。
花見は大いに盛り上がり成功をおさめたものの、これ以降、秀吉は臥せる時間が長くもなった。認知症以外に別の病も発症している様であった。食欲も以前より細っており、諸大名らには見せられぬ顔つきになって来た。奉行衆は全国から名のある医者を呼び寄せ秀吉を診察させたが、病状は回復する気配は見られないものとなった。家康も自身の主治医である板坂卜斎を伏見に送ったが効果は余り無かった。
慶長3年4月2日、伏見城下徳川屋敷。
夕方になってのんびりと過ごしていた家康の前に本多正信と服部半蔵がやって来た。
「ようやく…事実が判明致しました。」
正信の最初の言葉で家康は何の件か察し、女中小姓らを遠ざけ、部屋に三人だけとした。
「淀の方様の御子は太閤殿下の御子では御座いませぬ。」
正信の言葉は家康も想定の一つであったものの、驚かざるを得なかった。そうではないかとは思っていた。御子の顔つきは秀吉とはまるで違う。秀吉の年齢的にも怪しいとも思っていた。だが事実として告げられるとやはりと言う思いより衝撃の方が強かった。
「では誰の子か?」
「…御方様の乳母として長年仕えている大蔵卿局の子で、大野治長と申す者…御方様の警護を任されておりまする。」
家康は前世の記憶にある名であることに納得し、同時に嘆息した。
「…間違いないか?」
家康の問いに半蔵も頷いた。家康は考え込む。この事実が明るみになれば、大変な事態を招くことになる。既に秀吉の血縁にあたる人物はおらず、豊臣家の後継問題が急浮上し、国内は再び戦乱の渦に巻き込まれる。豊臣政権は一気に崩壊し多くの大名が天下取りに名乗りを上げる事になるだろう。
「…如何致しましょう?」
正信の問いに家康はゆっくりと首を振った。
「今は内密にしておけ。但し、事実を知る者だけは、その証拠と共に我等で密かに匿っておくのだ。」
「…既に事実を知る元女中は保護致しました。…ですが証拠となるようなものは…。」
「其れでも良い。今は明かすことで我らも損をする。」
そう言って家康は二人を下がらせ一人考えに耽った。
慶長3年6月2日、家康は秀吉に呼び出され、伏見城に登城した。控えの間に着くと前田利家と石田三成が待機していた。三成は家康の姿を見ると不機嫌そうに顔を背ける。その様子に家康と利家が顔を見合わせて苦笑した。
暫く待っていると小姓がやって来て三人を秀吉の病室へと案内した。病室には祐筆の和久宗是、医師の板坂卜斎が控えており、他には誰もいなかった。案内した小姓は一礼して部屋を出て行く。その様子に家康は内々の話である事を察して表情を改めた。
三人の下座を見届けて宗是が秀吉を抱え起こす。秀吉の顔は相変わらず悪い色をしていたが、その目はしっかりと家康を見据え、虚ろな雰囲気は見受けられなかった。
「…いよいよ余も死を間近に感じる様になってな。儂の後をどうするか考えておったのだ。」
声は弱々しいものの、言葉ははっきりと聞き取れた。いつも見る老い耽った秀吉ではなかった。
「御心配無用に御座います。この三成が万事今後の運営を滞り無く進めてい参ります。」
三成はやや前のめりの姿勢で答えた。秀吉は笑みを浮かべて三成の発言に頷き、家康、利家の順番で目を合わせた。
「…佐吉、お主は何事にも一人で全てをなそうとし過ぎる。それだけの能がある事は余も判っておるが…もそっと他の者と協力する事を覚えよ。」
秀吉は三成を静かに諭した。三成は表情を変えて黙り込む。
「…内府、大納言よ。見ての通り、佐吉は余の代わりに豊臣家を支えるに足る能力はあれど、如何せん家臣との折り合いも悪く、また不器用だ。…人望は大納言に叶わず、威厳も畏怖も経験も内府の足元にも及ばぬ。」
秀吉の言葉に三成の顔色がどんどん変わっていく。主君からのはっきりとした駄目だしに羞恥と憤怒を混じらせた表情を隠すように両手を付いて頭を下げた。
「治部殿の忠義と努力は我らもよう判っておりまする。御心配なさらずとも殿下の代わりを務めておられる。殿下はゆっくりと養生なされ、病を御癒し下さいませ。」
家康が業とらしく三成を庇う物言いで返事する。三成は肩を震わせ、秀吉は笑みを消して首を横に振った。
「儂は長くない。時折頭もおかしくなると聞いている。無理に言葉を選ばずとも良い。今日お主らを呼んだのは後事についてじゃ。」
秀吉は和久宗是に合図する。宗是が枕元から紙を取り出し、秀吉の胸元に置いた。
「内府、及び大納言には余の後事を託す。すべからく三成を助け、豊臣の…秀頼の世を盤石に保つようお願い致す。」
秀吉は紙の内容を読み始めた。三人は首を垂れて此れを聞いた。
秀頼の正室に家康の孫、千姫を嫁がせ、豊臣家と徳川家の縁を深める事。家康は秀頼の大叔父として幼き秀頼の代わりに政を見る事。利家は秀頼の傅役として傍に仕え、立派な豊臣家の跡取りとして養育する事。家康、利家が患うならば秀忠、利長が此れに替わって豊臣家を支える事。三成ら奉行衆はこの二人の補佐として豊臣家の為に政務に従事すること。万事において家康、利家の御意を得て決める事。
秀吉の読んだ紙は遺言状であった。自身が死んだ後の豊臣家を憂いて、頭のはっきりしている内に自筆で後事をどう託すかを書いたのであった。この場に和久宗是、医師の板坂卜斎が居る理由に家康は納得した。遺言状を読み終えた秀吉は苦しそうに咳込んで卜斎にもたれ掛かった。
「…内府よ。兼ねてより余に申し入れておった縁組の件、進めるが良い。家臣らもお主と縁戚となる事でお主の指揮に従順に従うであろう。」
秀吉の言葉に三成が強く反応した。以前から家康は秀吉の直臣らに自分の娘を輿入れさせることを申し入れていたが、三成が反対していた。秀吉も三成の反対を受けて保留としていたが、此処に来てこれを認めたのであった。
「お、お待ちください!その件はこの三成が反対を申し上げていたもので御座います!婚姻を結べば徳川家の権力の増大に繋がります!」
「…それで良いのだ。前田家にも同様に有力大名家との婚姻を言い渡す。そうして徳川前田の力を拮抗させ、政権の安定を図るのだ。」
秀吉の考えは徳川家、前田家の二強による政権内の勢力拮抗を作り上げての家中の安定化であった。家康は不満を口にする三成を親が子を宥めるかの様な目で見る秀吉をじっと観察した。顔色は悪いが目には生気があり、呆けた事を言っている様には見えない。だが、五大老という大大名から、徳川前田二強体制にするのは良策とは思えなかった。ナンバー2は増やした方が牽制の効果が高い。それを敢えてしない理由があるに違いないと想定した。
「これは服部衆と藤林衆に調べさせる必要があるか…。」
家康は心の中で呟くと熱心に三成を諭す秀吉に視線を戻した。
秀吉の遺言状は石田三成が頑固なまでに徳川家前田家の婚姻施策を拒否し、調整することとなった。何度か、三者と秀吉とで協議を重ね、大名らに公表できたのは8月5日になってからであった。
全国の大名家が大坂に集められ、老いやつれた秀吉と若すぎる秀頼の前に並ぶ。遺言状を読み上げ、五大老と五奉行がこれに血判を押した。これにより、正式に新たな体制による政権運営がスタートし、諸大名らは秀吉に代わって五大老からの連名による指示を受けての活動となった。徳川家康は政務一切を取り仕切る為に伏見城に入り、前田利家が秀頼補佐として大坂城に入った。
この時、家康は密かに政権下の有力大名らと文のやり取りを始めていた。
家康自身、ある時期から史実通りに事を進めようという意識は持っていない。史実通りに進める事がどれほど精神的な負担を強いられるか、その身をもって十分に理解していたからだ。この時も、秀吉死後に自分が権力を奪取できるよう画策していたわけではなかった。
だが、これまでの出来事を見ると、限りなく前世の記憶にある史実に近い結果になっており、史実との違いは僅かでしかない。この事を考慮し、三成に反対された婚姻施策を進めていたのであった。
慶長3年8月17日、山城国伏見城。
この日、石田三成は主君である秀吉に面会する為に登城していた。遺言状を大名らに公開してからは、意識の混濁した日々が続いていたが、板坂卜斎から久方ぶりの意識明瞭との連絡を受けたのだった。
病室に入り平伏する三成に秀吉は朝鮮国侵攻の状況を問うた。
「…小西行長の指揮の下、島津隊、鍋島隊、長曾我部隊らが海岸線の諸砦を防衛しておりますが、敵の大軍を活用した波状攻撃に押し込まれております。ですが、彼らは攻勢に転じる機会を窺い善戦しておりまする。」
三成は小早川秀秋の強制帰国以降の劣勢を隠すように言葉を選んで報告した。秀吉の眉が動き何やら考え込んでから聞き返す。
「島津家、毛利家、宇喜多家の兵力も投入せよ。これ以上時を懸ける事は出来ぬのだ。」
三成は「はっ」と短い声で返事する。既に西国大名らは投入済であった。それでも小早川秀秋、黒田長政、蜂須賀家政を更迭した事による指揮系統の乱れが響いて豊臣軍は後手に回っている状態であった。
「…小西摂津守殿の指揮に不満を持つ者が多く、統率に乱れが生じておりまする。」
三成はその場を取り繕おうとして余計な一言を言ってしまった。三成の報告に秀吉はベッドの上から枕を投げつけた。
「余の命で小西行長を総大将にしておるのだ!普段からいがみ合っておるのは知っておったが…大事を優先すべきであろうが!」
秀吉は声を張り上げ、そしてむせ込んだ。板坂卜斎が慌てて水を手渡しゆっくりと飲ませた。
「…卜斎、水の替りを持て。」
秀吉に命じられ、卜斎が一礼して部屋を出て行った。三成は投げつけられた枕を抱え、秀吉の側に寄った。枕を返そうとしたのだが、その三成を秀吉は叱りつけた。
「…お主に実績を作らせてやろうと此度の陣立ても、前線への命令もお主にやらせたのだが、旨く行っておらぬではないか!それを、家臣同士の不和を理由とほざくか!」
秀吉の激昂した言葉に三成は手に持った枕を強く握りしめた。…そういうつもりではなかった。自分に嫉妬して事ある毎に対抗しようとする武断派の奴らを抑えつける術が欲しかっただけだった。それを叱責されて三成は大いに自尊心を傷つけられた。
「ち、違いまする!私は事実を包み隠さず殿下にお伝えすべきと考え…」
「そういうところが、内府や大納言に及ばざるところなのだ。これを言えばどうなるか…余を中心に考えず、己を中心に考えておるから余計な一言を余に伝えてしまうのじゃ!」
秀吉は三成の言い訳を遮り、言葉を畳みかけた。三成の枕を持つ手に更に力が入る。
「…秀次の時もそうじゃった。お主の行動は他者を陥れ、それと引き換えに自身の身の安全を計っておるのじゃぞ!」
秀吉の言葉は三成の行動原理の確信であった。そして三成が認める事のできぬ、自身の闇の部分でもあった。それを主君である秀吉から直に指摘され、心の平衡感覚を失いかけた。秀吉としては三成を成長させる為に業と厳しい言葉を掛けたのだが、三成には今までにないほどの屈辱を浴びせかけられた様に受け取っていた。
これ以上、殿下から…豊臣家の命脈を握る私が屈辱を受けるべきではない。
正常な判断を失いつつある三成は、これ以上の屈辱を受けぬ為に思考を巡らせた。そしてその思考は本来あり得ぬ方向へと向かって行った。
結果的に見れば、秀吉は普段からもっと石田三成に厳しく接して事に当たるべきであった。自分のお気に入りでもあることから、何事につけても甘やかして接していた事が、三成自身にも気付かぬうちに増長を産んでいた。そしてその増長は他者を受け入れられぬ自尊心へと変貌し、「豊臣家を支えられるのは自分しかいない」というねじ曲がった思想を産み、他の家臣らを見下し自分を否定させぬ様な態度を取った。そしてその思想は主君である秀吉をも悪意で包み込んでしまった。
豊臣家を支えるこの私が、殿下に此処まで言われる筋合いはない。
三成は無意識のうちに枕を秀吉の顔に押し付けた。突然目の前が真っ暗になり呆然としていたが、直ぐに息苦しさを感じて手足をばたつかせた。三成は秀吉の動きを封じる様に更に強く枕を押し付けた。
「…貴方は左様な事を言うべきではない!私は幼き秀頼公をお支えでき唯一の男なのだ!…後は私にお任せあれ…されば豊臣家は安泰に御座いまする!」
呪文のようにぶつぶつと呟きながらも、三成は力を緩めようとはせず枕を秀吉の顔に押し当て続けた。秀吉はもがもがと言葉にならない声を発して暴れたが、その勢いが段々となくなり、やがてぱたりと止まった。それでも三成は直も枕を押し当て続け、自分に言い聞かせるように独り言を呟き続けた。
慶長3年8月18日早朝、病室の前で寝ずの番をしていた石田三成に代わって秀吉の世話をしようとした小姓が異変に気付き、板坂卜斎を呼ぶも、既に息はしておらず、死亡が確認された。
徳川家康も石田三成からの知らせを受け、伏見城に駆け付けたが、彼の見たものは、顔色が黒く変色した天下人の姿であった。
加藤清正
豊臣家家臣。北肥後十九万五千石の大名で堅城熊本城を築城。慶長の役では一番隊を指揮した。
太田一吉
豊臣家家臣。豊後臼杵十万石の大名。丹羽長秀に仕えていたが、その死後に秀吉の直臣となる。慶長の役では釜山の在番衆として小早川秀秋の指揮下にいた。
浅野幸長
豊臣家家臣。父浅野長政が奉行衆として帰国した為、父の兵を引き継いで小早川秀秋の指揮下となる。秀吉に嘘の報告をされ、石田三成を憎んでいる。
毛利秀元
毛利家家臣。元就の四男、穂井田元清の子で輝元の養嗣子になる。慶長の役では輝元に代わって八番隊として毛利軍を指揮する。
蜂須賀家政
豊臣家家臣。子六正勝の子で阿波十八万石の大名。加藤清正と共に武断派の大名として石田三成を敵視している。
黒田長政
豊臣家家臣。官兵衛孝高の子で、豊前中津十二万五千石の大名。短気な性格で石田三成とも仲が悪い。
大蔵卿局
大野定長の室で、淀の方の乳母を務めた。その信頼は厚く、秀吉死後も淀の方に仕え彼女を支える。
大野治長
豊臣家家臣。定長の子で母の関係で淀の方の警護役、秀頼の側仕えになる。
和久宗是
豊臣家家臣。三好家の家臣から足利義昭に仕え、義昭追放後は信長に仕え、その死後、秀吉の祐筆となる。
板坂卜斎
足利義昭にも仕えた医師家系の師。家康に仕えて侍医を務めていたが、秀吉の病を診るべく伏見城に在城していた。
五大老
徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家の五人の年寄衆で、政務軍務の代行、秀頼の補佐教育、大名らの監視、取り纏めを任された。
五奉行
豊臣政権の奉行衆の中で特に有力な者らの通称で、浅野長政、石田三成、前田玄以、増田長盛、長束正家の事を指す。彼らは政権運営の執行担当者として訴訟採決、寺社統制、行政執行、土木整備、財政管理を担った。
豊臣秀吉
下級武士、若しくは有力百姓から成り上がり、天下人にまで上り詰めた不出生の英雄。織田信長が討たれると、短期間で明智討伐を実行して、旧織田家臣を取り込み権力基盤を受け継ぐと、毛利、前田、長曾我部、上杉、徳川と次々と大大名を傘下に収め藤原五摂家のみに許されてた関白職に就任し位人臣を極めた。高い官位による権威と堺を支配下に治め得た財政基盤を元に西国、東国の大名らを屈服させ天下統一を果たす。しかしながら晩年は親族衆の追放や、強引な外征により評価を下げる事になる。