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家康くんは史実通りに動いてくれません!  作者: 永遠の28さい
第八章:なにわの夢に消えゆく
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110.秀次賜死

定期投稿です。

プライベートの方もようやく落ち着き、執筆も順調に進んでおります。

もう少ししたら、連続投稿もできるでしょう。

物語も秀吉編の大詰めに迫っております。



 文禄2年8月3日、淀の方が再び男子を産んだ。畿内に戻って来た秀吉は又も男子が生まれた事に大喜びし、名護屋城への帰陣はせずに伏見城に留まった。朝鮮国出征軍も明国、朝鮮国共に休戦が締結された為、秀吉は一旦軍内の順次本国への帰還を進めるよう指示した。。

 徳川家康は秀吉に代わって名護屋本陣の統括と朝鮮国から戻って来た将兵の慰撫を行い、小西行長、加藤清正、福島正則、島津義弘を除いて全軍撤退するまで在陣した。

 これにより、豊臣軍は明国、朝鮮国との和平を結ぶ最終調整に入る。だが家康が駐留部隊に指示した内容とは異なる内容で、現地での和平交渉は行われていた。家康がそのことを知るのはまだ先の事である。


 名護屋城での指揮を終えた家康は、自領の兵を率いて畿内にまで撤収すると、秀吉に祝辞を申し上げる謁見を済ませ、急いで江戸に戻った。

 9月12日、江戸に到着した家康は領内の主要な将を集め、戦の報告も兼ねた評定を開いた。この評定からは元服を済ませた三男秀忠を自分の横に侍らせる。

 上座に腰を下ろした家康は、広間に集まる家臣らの顔を見て少し寂しさを感じていた。自身が名護屋城に詰めている間に多くの家臣が世代交代を行っていたのだ。大久保忠世、松井忠次、岡部元信、石川家成、本多広孝、本多信俊、本多重次らが隠居して子に席を譲っている。逆に大久保忠隣、松井康重、本多康重、本多成重、本多正純らが新たな重臣として評定の面々に加わっていた。


 家康は朝鮮出征の結果を皆に説明しながらある事を考えていた。徳川家は世代交代が進行中である。そしてそれは豊臣家でも同様…。既に弟秀長、蜂須賀正勝、細川藤孝といった重臣は一線を退き、此度黒田孝高も隠居した。豊臣家の軍事を支えていた蒲生氏郷、堀秀政も遠国に追いやられ、秀吉の周囲は石田三成や加藤清正といった若手が名を連ねており、徳川家よりも世代交代が進んでいる。

 そしてその中で家中を二分する派閥が生まれている事を調べ上げていた。石田三成を中心とした文治派と加藤清正ら武断派との対立。それは天下統一を成した後の武士の在り方の違いからの対立に近いと見ていた。これからは政治力に長けた者が政権を動かしていく。家康もそれは理解しており、領内でも早くから奉行衆らを育てて来た。奉行衆と各将らとの連携も綿密に行って来た。だが豊臣家はこの連携がうまくいっていないと感じていた。

 そこに来て、待望の男子出生となれば、何もしなければ家中は完全に実子派と養子派に分かれる。…つまり秀頼と秀次の後継者争いである。史実を知る家康は思っていた。この後に起こる秀次の失脚は、秀吉の意向ではなく、派閥争いの結果なのではないか。秀次は早くから武断派と共に戦に出ており、鷹狩などで交流も深めている。一方で実権を握りたい文治派は幼い秀頼を跡目とするほうが都合が良い。現状、武断派の多くは朝鮮国、九州への在番の為、畿内には居らず、政務を取り仕切る為に奉行衆らが秀吉の周囲に侍っている。そして肝心の秀吉は、小田原城攻め以降、精彩を欠いている様に感じていた。


「…殿下の御威光は既に全盛を過ぎておられる……。」


 突然の家康の独り言に集まっていた家臣らは驚いた。家康もはっとなって顔を上げた。慌てて本多正信に目をやる。正信は咳を一つして声をあげた。


「殿は太閤殿下も老いには勝てぬ事を仰っておられる。我等徳川家がこの先も政権内で高い地位を維持するにはこの事を鑑みて今後を考えねばならぬとお考えだ。」


 正信は家康に一礼した。家康は安堵の息を吐いた。無意識とは言え、余計な事を呟いてしまった事に後悔する。それは家康自身、これから先をどうする舞うか決めかねていたからだ。自分の意思が定まらぬまま次の事を家臣らに言うのは良くない。正信もそれを分かっていたようで家康が考えを纏める時間を稼いでくれた。


「殿下に御実子が生まれた事で家中は大いに揺らぐ事となろう…。」


 家康は意を決してこれから起こる事を自身の予測として説明した。


 豊臣家中は秀吉の後継者を誰とするかで分裂する。今の秀吉では政権を維持する為の最善の判断ができるとは言い難く、文治派武断派のどちらの派閥にも属さぬ者が秀吉の補佐をして政務を取り仕切るのが望ましい。それは徳川家が担うべき役目であると説くと、家臣らは驚きを見せていた。

 榊原康政や大久保忠隣は家康が秀吉の後釜を狙うのではと考えていた。だがそれは徳川家の家督を本当の家康の子に引き渡す時期を延ばすことに繋がる。故に徳川家の為にどうするべきかを判断しかねていた。家康は康政の表情に気が付いたがそのまま話を続けた。


「暫く儂は伏見に滞在する。儂が戻るまで江戸及び自領の事は秀忠と協議して進めよ。関東奉行衆及び榊原康政、井伊直政、大久保忠隣、内藤信成はこれを補佐せよ。…本多忠勝、鳥居元忠、大久保忠佐、長坂信宅、本多正信、服部正就は儂と共に伏見へ向かってもらう。」


 一同が平伏した。家臣らの所作を見守り、家康は康政に声を掛けた。


「…小平太。迷う事あらば、幾らでも儂に相談せよ。藤林衆らをお主に預ける。」


「…畏まりました。」


 家康の周囲には、真実を知り家督を本流に譲る機会を考える者と、真実を知りながら家康を演じる者に本気で忠義を尽くそうとする者、そして真実を知らずに目の前の男を本物と疑わずに付いて来る者…様々な思いを馳せて徳川家を支える者がおり、それをひしひしと感じる家康は、益々自分自身の立場をどうすべきが悩んだ。



 10月4日、徳川家康は一部の家臣を引き連れ伏見の徳川屋敷に入った。以降は一年のほとんどをこの屋敷で過ごすようになる。そしてそれは秀吉が亡くなるまで続いた。




 文禄3年1月、伏見城の改築工事が始まる。普請奉行は真田安房守が命じられ、家康はこれの支援を行った。この頃、家康は各国の諸大名らと親しく文を交わしていた。多くの大名が伏見を訪れる度に家康とも面会し、酒などを酌み交わしていた。当然、関白豊臣秀次とも酒を酌み交わし、鷹狩の供をするにまでなった。家康はこれらの交流を通じて、密かにだが着々と準備を進めていた。


 文禄3年2月16日、全ての準備を終えた家康は、秀吉を茶会に招いた。秀吉は数名の小姓のみを供を連れ、お忍びでの茶会であった。秀吉お気に入りの本多忠勝の案内で屋敷内の茶室へ案内されると、家康と本多正信、そして天海和尚が秀吉を迎え入れた。

 家康は茶屋四郎次郎が用意した極上の茶葉に金箔を添えた豪華な茶を点てて秀吉を持て成した。


「…これは…お主にしては珍しい茶を用意したな。」


 秀吉は手に取った椀を覗き込んで嬉しそうに呟いた。


「殿下の御威光に沿った茶にしてみました。苦みも抑えられておりまする。」


 家康の返答に秀吉は一口啜る。直ぐに良い笑顔を家康に向けて言葉を発した。


「うむ。旨いな。」


 ゆっくりと茶を味わいながら秀吉が茶を飲み干すと家康はゆっくりと身体を秀吉に向けて平伏した。


「本日は、殿下に申し上げたき儀が御座います。」


「…聞いてやろう。」


「某は数月を掛けて、殿下と一度は敵対せし大名らと親しく文を交わしておりました。彼らは既に殿下に心服し、殿下の治める世にその身を捧げんと誓っております。……ですが殿下の次代については考えが統一されておりませぬ。」


 家康の言葉で秀吉の目が鋭くなった。老いてもその眼光に衰えは無く、側に控える小姓らがその身を震わせた。


「この家康は密かに大名らと通じて次代の豊臣家を如何様にしてお支えするか聞き回りました。…そして多くの大名が関白秀次様を柱とする政権維持を望んでいる事を確認致しました。」


 家康は懐から幾枚もの書状を取り出し、秀吉の前に並べた。秀吉はちらりと家康の目を伺ってからそのうちの一枚に手を伸ばし中身を確認した。


「これらは豊臣家の次代について思うところを述べた各大名の文に御座りまする。何れも秀次様を主と仰ぎ誓紙を差し出す事にも同意しております。」


 秀吉は家康の言葉を聞きつつ文を眺めていた。家康は話を続ける。


「この家康が思うに、豊臣家の二代目は秀次様とし、お拾様が成人された後、その席を御譲りになられるのが宜しいかと心得まする。」


 秀吉は家康を睨みつけた。


「出過ぎた真似とは重々承知しております。ですが太閤殿下の臣として只その命に従うだけでは穏やかならずと思い、処罰も覚悟して斯様な真似を致しました。……関白秀次様は道理を弁えた人徳のある御方に御座います。これを我らがお支えし、同時にお拾様のご成長を助け、家督相続を促せば、荒事もなく政権の移譲もできましょう。」


 秀吉は暫く家康を見つめていたが、やがて床に置かれた文を払いのけて前に進み、家康の手を取った。


「やはりお主は余の忠臣じゃ。…拾の事を頼んだぞ。」


 家康は秀吉の手を握り返し「はっ」と短い返事をして頭を下げた。


 秀吉が上機嫌で家康の屋敷から去っていくのを見送り、家康は振り返って天海の顔を見てため息を吐いた。


「……殿下は衰えられた。儂の知る殿下であれば、人の話を鵜呑みにせずに、十分吟味をなさり、儂の言葉に警戒心を持って当たられる御方であった。」


「…覇気だけは衰えておられぬご様子……。ですがあれでは我らのせっかくのご進言も、別の誰かの甘言に乗せられひっくり返されるやも知れませぬ。」


 天海の見解は家康も同感に見ていた。それほど秀吉の思考と決断力は目に見えて衰えていた。



 4月以降、秀吉は秀次の名で各大名の官位を昇進させた。前田利家、宇喜多秀家が中納言に昇進し、8月には上杉景勝、毛利輝元も中納言となった。この昇進には家康の働きがあった。家康は同格の大名を増やすことで豊臣家中に突出したナンバー2の存在(つまり自分自身)を無くそうと言う魂胆であった。そして秀吉はこの四名と徳川家康を合わせて「五大老」とし、改めて秀次の補佐を任じる。

 だが6月には、政権内の実務を担当する奉行にも権限を与え、五大老の動きをけん制する体制を作った。これには浅野長政、前田玄以、石田三成、増田長盛、長束正家が充てられた。



「…誰かが太閤殿下に大名衆の危険性を説いているようですな。」


 天海が腕を組んで唸る家康に言葉を掛ける。


「恐らく石田治部の仕業に御座りましょう。噂ではあの者は太閤殿下の無二の忠臣を自負しておるようで、自分以外の家臣が殿下の側に侍るのを嫌っている節が御座います。」


 これに本多正信が服部衆から得た情報を付け加える。家康は荒く鼻息を吐いた。表情にはイラつきが現れていた。


「全く何をしたいのか…。政権を混乱に陥れてどうする気なのだ。」


「…ご自分の地位を盤石にする為で御座いましょう。それがご自分の立場を狭めている事に気付いておらぬようです。」


 正信の見解に家康は舌打ちしながらも頷いた。奉行衆に権限を与えるのは危うい。保身や出世を目論む小大名や国衆らが彼らに群がり、結果的に自分達の身動きを失わせてしまう事になる。家康は正信と天海の二人に問いかけた。


「儂はどう動くべきだ?」


 これに正信は即応した。


「太閤殿下の許しを得て石田治部を敵視する者らを取り込むのは如何でしょうか。」


「…婚姻か?」


 正信は静かに頷き、これに天海も同調した。


「奉行衆が何かを企めば、すぐさま徒党を組むよう仕向けるのも良いかも知れませぬ。」


「できれば政権内でかき回すような動きは避けたがったが……致し方ないか。」


「出来れば、奉行衆らに知られぬ様に許しを得られるよう…何かあった時に、優位に働くものと考えまする。」


「…相分かった。」


 こうして、徳川家は水面下で伊達政宗、福島正則、蜂須賀家政、加藤清正、黒田長政、細川忠興、蒲生氏郷、堀秀政らと頻繁に文のやり取りを行った。



 文禄4年2月、関白豊臣秀次は病に倒れ一月ほど政務を離れた。回復はしたものの、この間に穏やかならぬ噂が飛び交った。


 謀反の噂である。前田利家と浅野長政が噂の真意を確かめるべく独自に調査を進めたが、6月に入りこの噂が秀吉の耳に入ってしまう。関白の職務を蔑ろにして遊興に耽り、太閤殿下の直臣を自家に取り込まんと頻繁に交流しているとの噂は秀吉を大層怒らせた。

 7月には奉行衆らによる詰問が行われ、秀次は逆心無き事を誓紙に認めるも、秀吉の下に出頭する様言い渡された。秀次は直ぐに伏見を訪問したが、秀吉は会おうとせず逆に秀次を拘束した。五大老連名による申し開きも間に合わず、秀次は剃髪を命じられて高野山に蟄居を言い渡されてしまった。


 家康は服部半蔵を直ぐに山形に送った。史実通りならば、最上義光の娘が秀次の側室にならんと京に向かう途中であったはずだった。

 半蔵は上洛途中にある駒姫の一行に遭遇し、家康の密書を見せ何とか義光の下へ返した。


 8月2日、秀次は切腹させられ三条河原にてその首を晒された。秀次の子、側室、侍女衆ら全てが捕らえられその首の前で全員が処刑された。





大久保忠隣

 徳川家家臣。大久保忠世の長子。本能寺の変以前から旗本衆として家康に仕えている。秀忠の傅役に任じられ若手の中では発言力が高まっている。


松井康重

 徳川家家臣。松井忠次の子。父と共に家康の信頼が厚く。所領も江戸に近い武蔵国を割り当てられいる。


本多康重

 徳川家家臣。本多広孝の子。父にも劣らぬ武勇の士で旗本衆の一人として家康に仕えている。


本多成重

 徳川家家臣。本多重次の子。父の後を継いで奉行衆に名を連ねる。


本多正純

 徳川家家臣。本多正信の子。奉行衆の一人として家康に仕えており、若くして才を発揮し一目置かれつつある。


豊臣秀次

 秀吉の姉の子であり、養子となり関白職を引き継ぐ。秀吉ほどの有能さはないが、凡庸ではなく、家臣の意見を良く聞き、諸大名との交流もそつなく行っていた。秀吉から賜死を命じられた本因は不明だが、政権内の権力闘争に巻き込まれた不遇の人。



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