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11.二人の桶狭間(前編)

ここからは三話構成で桶狭間における二人の考えの違いを描いていきます



 永禄3年5月12日。


 今川義元は三河の沓掛城に入城した。彼の下には多くの将兵が同道しており、その数は四万となっていた。松平元康と瀬名氏広もその中に含まれており、元康は岡崎の家臣らと合流して二千の兵を率い、氏広は氏俊の副将として五百の兵を率いていた。


 城内で軍議が行われ、夜次郎は城外に設置された野営地で義父である氏俊の帰りを待っていた。その間前世の知識に再び脳内アクセスして桶狭間での瀬名家の行動を引き出そうとしていたが、やはり自分の記憶にはなく、この先の行動指針が立てられずにいた。


「お久しぶりに御座います、夜次郎様。」


 そこへ家臣に連れられて半三が姿を現した。


「元気そうだな、半三。」


「はい。我が息子、半蔵はお役に立っておりますでしょうか。」


「ああ、お前に似て真面目で重宝しておる。今も周辺の様子を探りに行かせておる。」


「それは何より……処で…」


 息子の活躍に目を綻ばせながら次の瞬間に声を落として夜次郎に一歩近づいた。夜次郎は何かあると感じて体を半三のほうに倒した。


「…今川軍の中に(しのび)が紛れ込んでおります。」


 夜次郎は半三を見返した。半三は黙って頷く。


「何処の手の者だ?」


「それは残念ながら…只、紛れている隊は皆駿河から出陣している故…。」


 半三の言葉に夜次郎は今川氏真が浮かんだ。だが、氏真と忍との結びつきが自分の前世の記憶からは出てこない。


「何故忍だとわかった?」


 夜次郎は半三に素朴な質問をぶつけた。


「身のこなし…です。我らと同じ伊賀を祖とする輩…に御座ります。」


 伊賀か…自分の知識には伊賀のことについては余りない。故に半三の報告だけでは考えをめぐらせることはできなかった。


「その忍…何者なのかを調べることはできるか?」


「…今は難しいかと。戦が終われば縁者を伊賀に向かわせて調べることもできますが…。」


「任せる。それに半蔵も連れていけ。あ奴に伊賀の者との関係を作らせろ。」


 夜次郎の意外な命令に半三は驚きそして嬉しそうに頷いた。半三は伊賀に縁者や交流のある人物がいるが、半蔵は三河で生まれ育っているため伊賀は見知らぬ地。彼に伊賀へ通じさせるということは夜次郎が半蔵に期待しているという表れだ。半三は直ぐに返事をして引き続き忍の動向を伺う旨を残してその場を辞した。


 陣に一人となった夜次郎は考えに耽った。


 この戦…史実通りに行けば織田軍の急襲を受けて今川義元は横死する。史実での記録が正しければこの軍議で松平隊は大高城への兵糧運び込みの指示を受け、瀬名隊は先発隊として鳴海城へと続く街道に派遣される。そして本隊が鳴海に向けて進軍を開始後に天候が悪化し、その最中なのか回復後なのか信長率いる徒歩衆の急襲を受ける。


 自分の知識をもってすれば史実を回避することも可能。だがそれが正解なのかと言われると根拠は何もない。ならば史実通りに進ませるのがベストなのかと問うと、それも明確な理由も見当たらない。映画なんかにある、未来を知る人物が結末を変えるために、現状の危機を回避するというのはあるが、夜次郎は未来の事象を知っていても自身の未来を知らない。この為今から起きるイベントが瀬名氏広にとって吉なのか凶なのかがわからないのだ。


 結論が出ない。出ないときは史実通りに進ませると夜次郎は決めている。余計なことは行わずに自身と蔵人佐(家康のこと)の身を守ることに専念することに決めた。



 義父、氏俊が軍議から戻ってきた。


「…本隊の進軍にあたり、先行の行軍を仰せつかった。明日の早朝に沓掛を出立し南回りの道を通って鳴海城の手前まで進軍する。」


「目的は中島砦に御座いますか?」


「うむ。だが我らは斥候役に徹し、城攻めは蒲原殿と決まった。」


「それは重畳に御座います。兵を失わずして功を上げられるのであればそれに越したことは御座いませぬ。我らは既に服部一族に周辺を調べさせております。その情報を蒲原殿に引き渡して城攻めに貢献いたしましょうぞ。」


 夜次郎の言葉に氏俊は目を細めた。


「…ふむ大将首を取るだけが手柄ではないか。では半蔵が戻り次第軍議を開き行路を検討致すか。」


 二人は軽く笑って家臣に酒の用意をさせた。ほどほどに飲んでぐっすり眠れるように…というあまり意味のない言い訳を言いながら。


 その後大高城と歩調を合わせるため、沓掛からの出発は松平隊が大高到着後に変更された。先に兵糧を積んだ荷駄隊の指揮を任された松平隊が沓掛城を出て行く。瀬名夜次郎は元康とは言葉を交わすことなく別れた。




 永禄3年5月8日、駿府、今川館。


 新たに今川家当主となった氏真は自分に回される書類の多さに辟易し筆を置いて扇遊びに興じていた。そこへ小姓から駿河奉行に昇進した関口惣五郎がやって来た。


「殿、乱波からの連絡が届きました。隠居様ご一行は予定通り三河に到着されています。」


 惣五郎の報告は予定通り過ぎる内容のため、氏真はつまらなさそうな顔をする。


「そんなことはどうでも良いわ。儂が知りたいのは戦の後の家臣配置だ。駿河を儂に預け自身は三河へ移ると言いながら、駿河にはお前の父を始めとする先代当主派の輩が残っておるのだ!」


 語尾が荒くなった。惣五郎は慌てて頭を下げた。


「申し訳ございませぬ。乱波に指示を出している与次にきつく申し付けておきまする。」


「そうではない!あ奴らを追い出す算段もせよと言うておる!」


「そ、それにつきましては…お婆様(ばばさま)のお知恵を拝借できないかと…。」


 氏真は扇子を惣五郎に投げつけた。


「それくらい…自分で考えよ!関口の当主の座が欲しいのであろう?」


 惣五郎は“関口”の名を言われ赤面し平伏した。慌てて部屋を出て行く。その様子を目で追いかけもせず氏真は別の扇子を手に取って遊び始めた。


「儂は名門今川家の当主なのだ。都から来る公家衆の相手に忙しい。こんなのは奉行衆で回せばよいこと。いちいち儂の決済など必要なかろうに…。」


 やがて氏真は執務を放り出して外に出て行ってしまった。氏真にとっては当主としての普段の仕事はつまらないものであり、それを日々勧めてくる奉行衆どもは存在自体がうるさい者と考えるようになっていた。

 その様子を見て今川家の当主に疑問を持ち始めている者が一人。前年に惣五郎と同じく小姓から奉行衆として側に仕えることとなった瀬名源五郎氏詮(うじあきら)である。




 永禄3年5月18日


 松平元康は義元の指示で兵糧を大高城に運び込んでいた。沓掛城から大高城へ向かうには南を大きく迂回する必要があるが、元康は砦間を中央突破する作戦を用い、多少の犠牲を出しつつ大高城への運び込みに成功。そのまま砦の攻撃部隊に加わった。

 松平元康の大高城到着を確認した義元は丸根砦、鷲津砦への攻撃を朝比奈泰朝、松平元康に命じ、自身も大高城に向けて沓掛城を出立した。瀬名氏俊を先発隊として沓掛から南回りで鳴海まで続く街道を進み、途中の中島砦を攻撃すべく蒲原氏徳がその後を追った。



 永禄3年5月19日暁


 朝比奈、松平による砦攻撃が始まる。打って出てきた丸根砦勢は松平勢に打ち返され、日が昇る頃には壊滅した。鷲津砦は籠城戦を取るが松平と朝比奈勢に囲まれて成す術がない状態であった。


 大高城側の様子は、伝令からの報告でつぶさに状況が義元に伝わっていた。もたらされる報告内容は義元を満足させている。


「蔵人佐の奴、戦に置いては猪突なところがあるようだが、思った以上の成果を上げておるな。」


 義元の嬉しそうな言葉に側近の松井左衛門佐宗信が答える。


「囲碁の打ち方から、もっと堅実な動きを見せるのかと思うておりましたが…勝ち気に焦っているようにも見えますが。」


「…お主には危うく見えるか。なら、この戦が終わればその辺りを指導していけばよい。」


 左衛門佐の分析は一蹴しこのまま勝ち気に進もうとする義元。そこへ次なる伝令がやって来た。


「蒲原隊、中嶋砦の敵と衝突を開始!」


 伝令の言葉に周囲は歓声を上げる。義元も報告を聞いて口はしを釣り上げた。




 瀬名隊は中嶋砦の兵が向かってきているのを確認すると、予定通りに街道を左へ逸れ後続の蒲原隊に伝令を送った。そしてそのまま林の中に身を潜めたまま蒲原隊に道を譲る。自身は敵が後ろに回り込み挟撃されるのを防ぐため、そのまま林の中を左後方へと展開させた。街道沿いでは歓声と怒号が聞こえ始め蒲原隊と織田軍との戦いが始まったことを確認する。


「蒲原殿は大丈夫であろうか。」


 瀬名氏俊は心配そうに遠くを見るが、夜次郎は首を振った。


「ご安心くだされ。敵は五百程度。二千を率いる蒲原殿によって返り討ちに合うでしょう。我らはこのまま左回りに林の中を前進致しまする。足元を取られぬよう歩くことに集中下され。」


 夜次郎の言葉に氏俊は頷くと隊列を整えながら前進した。やがて半蔵の報告で蒲原隊が敵将を討ち取ったことを聞く。夜次郎は木々の隙間から空を見上げた。



 史実通りに進んでいる…蒲原隊にぶつかった相手は佐々政次と千秋季忠だ。それから午後になれば豪雨に見舞われるはずだ。そして運命の時が訪れる。我らはその時何処に居ればいいのか。…少し歩みを抑えておくか。



 夜次郎は部隊の行軍を停止させた。斥候を放ち周囲の様子を確認させる。陽の光はまだ差しており雨の降る気配はなかった。




 松平元康は興奮していた。初陣の時とは異なり、身近に人同士の戦いを感じる戦に全身を高揚させていた。彼はもっと間近で戦を感じられるよう前へ前へと進む。酒井正親、忠次、石川家成、数正らは主君を守ろうとさらに前へ前へと押し進み、結果的に松平隊は常に最前線で戦う格好となっていた。家臣達が口々に後ろに下がるように進言するが聞き入れる素振りはなく、眼をぎらつかせて織田軍を睨みつけ前へと進んで行った。


「殿!お待ちくだされ!」


 酒井忠次は元康の腕をつかんで強引に止めた。元康は振り返るとその腕を睨みつけ次いで忠次を睨みつけて怒鳴り上げた。


「何をするか無礼者!」


「殿!この戦は殿お一人の戦に非ず!殿をお支えする我らと歩調を合わせ、殿と共闘される朝比奈様との歩調を合わせての戦に御座います!」


「それがどうした!」


「殿は今どなたに歩調をお合わせになられておりまするか!」


「知らぬ!」


「…は?」


 元康の思いもよらない返答に、忠次は間の抜けた返事をした。


「敵が儂の視界に入らば脚が勝手に動く!これが戦かと心が高まっておる!邪魔するでない!」


 元康は忠次の手を振り払った。


「い、いかん!殿をお止めしろ!殿は錯乱なされている!」


 忠次は声を張り上げた。これを合図に何人かの若い家臣が元康にとびかかり前に進もうとする元康を抑えつけた。正親が朝比奈隊の下へ走り、元康気分すぐれず、先陣を譲り給う」と伝え朝比奈隊に戦を任せて後退した。朝比奈隊は鷲津砦を攻撃し織田秀敏、飯尾定宗を討ち取った。



 直後である。


 空がにわかに陰り、陽が黒い雲によって覆われた。やがて雨が降り出し、大粒の雨に替わり、視界も一気に悪くなって戦は中断した。街道は泥濘(ぬかるみ)に覆われ、街道上の部隊は敵味方関係なく避難を始めた。

 義元本隊も水溜まりを避けるために街道を外れる。右前方に小高い丘があった。開けた土地であり、視界の悪い雨中でも比較的安全な場所であると判断した松井左衛門佐は進言する。


「御隠居様!向こうに開けた場所が御座いまする!あすこで休息を取らせましょう。」


 松井左衛門佐は大雨の中で右前方を指さす。今川義元は視界の悪い中、目を凝らしてその方向を見やる。木々はまばらにしかなく、低い草の生い茂る丘で水溜まりが形成される様子もない。


「良し、向かえ。」


 義元は街道を外れ丘の上へ向かうよう指示した。義元が休息に向かった丘は左右に街道が続いており、右手側には川面が流れていた。川は突然の大雨によって増水が予想される。左手は蒲原氏徳が先行し更に井伊直盛も向かわせていた。中央の丘の下手側は森へと続いており伏兵の可能性を考えた義元は調査を指示した。松井左衛門佐は雨しのぎになると考えて自ら兵を率いて本陣を離れて行く。更に荷駄を雨風から守るために後方に下がらせた。更に更に他の部隊の状況を確認するために馬廻衆を走らせた。


 五千はいた義元本隊は大雨が降ってからは二千五百にまで減っていた。それも各々が丘の上から下へ流れ生まれた雨水の川を避けるため隊列は丘全体に広がっていた。


「…戦の最中の雨は鬱陶しいのぅ。風流のかけらもない。」


 返事をする者もいなくなったことに不満を覚えつつも致し方なしと義元は屋根のある輿へと足を進めた。輿の周囲には百程の近臣しかいない。

 雨は益々強くなり、昼間にもかかわらず周囲に闇をもたらし、あらゆる音をかき消してしまっていた。



 今川義元は知ることはなかったがこの丘には周辺住民の間で呼ばれている地名があった。




 丘の名は「おけはざまやま」という。






松平蔵人佐元康

 今川家臣。桶狭間の戦いに参加。大高城への兵糧運び入れ、丸根砦の攻略など功績を上げるが、大戦を前にして錯乱し家臣達に進軍を止められる。


瀬田夜次郎氏広

 今川家臣。桶狭間の戦いに参加。斥候部隊として一番手を進むが、敵発見と同時に後続に道を譲り、中嶋砦の南側で潜伏する。


瀬田氏俊

 今川家臣。桶狭間の戦いに参加。五百の兵を率いる将だが、義息の氏広に差配の全てを任せている。


服部半蔵保長

 松平家臣。息子半蔵の後方支援として桶狭間に従軍。


今川上総介氏真

 今川家当主。事務作業が嫌い。家臣の無能を嘆いている。桶狭間の戦い後の重臣の再配置を気にしている。


関口惣五郎氏幸

 今川家臣。新当主の奉行衆の一人。


瀬名源五郎氏詮

 今川家臣。新当主の奉行衆の一人。


蒲原氏徳

 今川家臣。桶狭間の戦いに参加。今川本隊の第二陣として鳴海に向かって進軍しその途中の中島砦を壊滅させる。


酒井忠次

 松平家臣。元康の護衛として桶狭間の戦いに参加。


松井左衛門佐宗信

 今川家臣。桶狭間の戦いに参加。義元の参謀として本陣に従軍。


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