109.文禄の動乱
定期投稿です。
本話とは関係ありませんが、「どうする家康」の鳥居強右衛門にはちょっと笑ってしまいました。
天正20年12月、太閤秀吉は元号を「文禄」に改めた。これは今上の帝である後陽成天皇の代始改元と触れていたが、明らかに新関白秀次の治世と成す事を諸大名、公家衆らに知らしめたものであると噂された。朝鮮への戦が長引き国内への影響を鑑みた秀吉による、新関白体制下での統治を意識した改元であった。
文禄2年1月、豊臣秀吉の朝鮮国侵攻は、明国の二十万にも及ぶ援軍とも対峙する事になり、停滞の装いを強めていた。そんな中、秀吉は状況改善の為に自身の渡海を決意し、対馬で指揮を取る奉行衆らに通達した。秀吉渡海を受けた石田三成を筆頭とした奉行衆はこれを中止すべく動き出す。つまり本国への報告に嘘を交え秀吉が渡海せずとも戦況が進んでいるように動いたのだ。
これによって、最前線への補給が更に滞る。更には補給線を断たれるような敵の反撃を報告に上げず、前線への兵糧不足が覆い隠されるようになった。
対馬の奉行衆からの報告を受けた秀吉は、懐疑的に受け取りつつも、方針変更の効果が表れている事に満足した様子を見せた。
「殿下、向こうでは順調に戦果を上げている様に御座いまする。此処は殿下御自ら渡海をせずとも半国を支配する事は容易に御座いましょう。渡海時期の御再考をお願いいたしまする。」
長束正家は秀吉の渡海には反対であった。内々の報告では、向こうで病気に掛かり苦しんでいると聞いていた。もし殿下が病に掛かるような事になれば…と考えており、何とかして秀吉の渡海を止めさせたかった。
「…まだ楽観はできぬ。…やはり余自ら直接指揮をせねばならぬ。」
秀吉はわくわくした表情を見せた。逆に正家の表情は青く悲壮冠を漂わせた。
3月18日、漢城が明、朝鮮軍に包囲され、危機的な状況を迎えていた。小西行長は明軍と講和交渉を行い、状況を秀吉に報告した。秀吉は急激な展開に激怒したが、どうする事もできず、漢城からの撤退を認めた。そして家康と利長を呼び出した。
呼び出しを受けた二人は微妙な表情で見合って苦笑いした。名護屋城内の大広間に通され待っていると、秀吉が現れ不機嫌な顔で二人を睨みつけた。事情の分からない二人は慄きつつも平伏する。
「…今海を渡っている奴らを撤退させ、お主ら予備軍を渡海させる。直ぐに支度を整えよ。」
家康は何かあった事を察知し事情の説明を求めた。秀吉は益々不機嫌な表情で舌打ちをしつつ、二人に説明した。
「奴らは余に嘘を付いて都合の良い戦況報告をしておった。実際には明軍に負けて講和を結んで釜山まで撤退している始末…此れでは明どころか朝鮮を従えることもできぬ!よって将を総入れ替えする!二人共疾く支度を進めよ!」
秀吉は立ち上がって大股で広間を出て行った。家康と利家は目を見合わせてどうしたものかと固まっていると、足を引きずりながら黒田官兵衛が広間に現れ、座して二人に挨拶した。
「某が殿下を怒らせ申した。殿下の策に忠実であろうとする余り、報告すべきものを言えなくなったのだと。某が渡海して軍を立て直すと申し上げたのだが…余の策が間違っておると申すか!と怒鳴られ、追い出されました。」
深々と頭を下げる官兵衛に二人はもう一度顔を見合わせた。黒田孝高と言えば、秀吉の軍師として信を得ている人物である。その男までもが追い返される事態と言うのは問題である。家康には秀吉が頭に血を上らせて正常な判断ができない状態ではないかと思った。官兵衛も同様の考えであり、二人に主君を宥めて頂くようお願いに参ったのであった。
自陣に戻った二人は諸大名らに出陣の支度を整える様指示を出すと、軍議を開いた。徳川方からは本多正信、本多忠勝、榊原康政。前田方からは奥村長福、村井長頼が出席して、今後について話し合った。
「海を渡るのは構わぬ。だが、全軍の総入れ替えは難しい。せめて半々ずつ入れ替える様に進めたい。」
利家の案は家康の考えと合致した。
「儂も同意見じゃ。では具体的にどう分けて進めるか…弥八郎、案はあるか?」
「…先ずは佐竹殿、伊達殿、上杉殿らを渡らせ、お二方は後発組として残るが宜しいでしょう。」
「…先発組の入れ替えが終わるまでに、儂等に殿下への説得をせよ…と申すのだな?」
家康の問いに正信は頷いた。家康は考え込んだ。現実的な案である。前線の兵糧不足による士気低下に加え、明軍の介入による戦況悪化は、本国側への報告以上に深刻だと想定して行動する方がましだ、という判断である。家康は正信の策を採用し、利家に提案した。
「前線の取り纏めを上杉殿、佐竹殿にお願いをし、我らは太閤殿下への説得を試みたいと思うが、如何か?」
利家は重臣である村井長頼に視線を向ける。長頼は渋い顔で頷いた。それを見て利家も頷く。
「…殿下の御怒りを我等で受ける、と申されるのだな。…宜しい。徳川殿の案に乗ろうではないか。」
利家の返事に家康は深々と頭を下げた。
「貴殿がこの豊臣の政権の次代を憂いている事は、この儂でもよう分かる。…殿下の輝かしい功績にこれ以上の曇りを覆わぬよう、我らがその身を挺して申し上げなん。」
利家も覚悟を決めたようであった。家康らは上杉景勝、佐竹義宣、伊達政宗を呼び寄せ、全軍撤退の為の渡海作戦を説明した。
朝鮮上陸軍は上杉景勝を大将に佐竹義宣、伊達政宗、真田昌幸、戸沢盛安とし、目付け役として浅野長政に同行をお願いした。
秀吉説得班には、家康と利家に加え、堀秀治、蒲生氏郷、更には長束正家に加わって貰った。
3月25日、上杉景勝率いる六千が名護屋城を出立する。彼らの出航を見届けた家康らは秀吉への面会を申し込んだ。秀吉から見れば、外様と譜代入り混じっての面会申し込みに訝しみ、その理由をある程度察した顔で彼らと謁見する。
「…撤退の進言であれば受け付けぬぞ。」
秀吉は最初に機先を制した。利家は顔を青ざめたが家康は平然と且つ真剣な眼差しを持って一歩前に進み出た。
「現地の様子を見ずに殿下にそのような諫言は出来ませぬ。ですが、我等もこの後大軍を擁して渡海し、海向こうで十万を超す兵を従え敵を迎え撃つ身…。出来ますれば、某に幾ばくかの権限をお与えいただきとう存じます。」
家康は撤退案を受け入れさせるのは困難と判断して、瞬時に案を切り替えた。自身にある程度の権限を貰って家康の命令で撤退をさせるという方法にしたのだ。この場合、家康も一度は渡海せねばならないが、まだ可能性としてはあると踏んでいた。だが、秀吉は家康の考えを看破していた。
「お主が現地にて撤退の号令を掛けるか…。そう考えておるならば、お主を渡海させることはできぬぞ。」
秀吉は家康の案を即座にはねつける。だが家康は粘った。
「恐れながら、状況は我らが思っていたより深刻と推察致しまする。…敵は明軍の支援を受け兵力士気共に回復し、勢いを付けておりまする。前線では加藤殿、福島殿、黒田殿、小西殿といった殿下を幼少の砌よりお支えする股肱の臣が、これ以上異国の地で苦戦しながらも殿下の命をひたすら守らんと気張っておる中、我らが何もせずに殿下の御側に侍っておるのは心苦しゅう御座います!…どうか!某に全軍を動かす権限をお与え下さいませ!」
家康の真剣な眼差しでの懇願に、秀吉は信を計り兼ねてじっと見つめていた。不意に前田利家と視線が交わる。
「……某からもお願い致す。大納言殿は本気でこの国の事を、殿下の事を憂いて申しておる。…儂も殿下との旧来からの友として、大納言に同行し彼の地を見定めて来る。」
利家は秀吉に付き合いの古い友人として語り掛けた。秀吉はじっと家康を見つめ推し量っていたが、やがてため息をついて笑みを浮かべた。
「……徳川大納言、お主は昔と変わって真に信を得るのが上手くなったものだ。…お主を総大将に任じて敵国の状況を把握せよ。全軍からの知らせを全て大納言に報告し、進軍か撤退かの判断を余に報告せよ。…後は余が決める。」
秀吉は扇子で家康を指して命じた。これで釜山及び対馬からの報告は奉行衆を通じて一旦家康にもたらされ、そこから秀吉に報告が行われる仕組みに変わった。
会見を終え、長束正家は家康の陣幕を臨時の総大将府とすべく、慌ただしく動き回る。前田利家も重臣らを引き連れ家康の陣幕に床几を移動させた。
家康らとの謁見から自室に帰って来た秀吉は寝転びながら考えに耽った。
徳川家康という男…心の底が計り知れぬ。自身に有益な男と思い自軍に加えたものの、信の置けぬ相手と見定め圧力をかけていた。…だが直接会えば、忠節に厚く構えたる顔に心が揺さぶられた。官兵衛とも佐吉とも、また小一郎とも異なる男である。又左衛門もあの男を信用している。…はたして老い先短き余にとって益なる者か、今一度見定めようぞ。
そう考えて秀吉は座り直した。
文禄2年4月、豊臣軍は漢城を明軍に明け渡して完全に挑戦の中央から撤退した。既に両軍とも多数の犠牲者を出しており、特に明軍は停戦及び帰国の機会を窺っていた事から小西行長と独自に会談する。小西行長はその内容を石田三成ら奉行衆らに伝え、明軍との交渉を進めた。
その間にも上杉景勝ら奥羽衆らは釜山にて状況把握に努め、その内容を偽りなく纏めて本国に伝達した。知らせを受け取った家康は、前田利家らと協議し、秀吉へと報告する。これによって秀吉は、軍令違反を犯した大友吉統を更迭して本国送還を命じた。吉統は改易処分を受け、所領没収と言う措置を受ける。
5月13日、家康への連絡なしに石田三成らが明の使者を連れて名護屋城に帰城した。三成は家康らを介さずに秀吉に明軍の使者との面会を秀吉に申し出た。秀吉は三成からの独自の報告を聞き、5月23日には明の使者と面会した。家康がこの事を知ったのは、三成が使者を連れて前線へと戻った後であった。
「明国とは休戦致した。」
5月24日、秀吉に呼ばれて謁見した家康はそう告げられた。前田利家も長束正家もどうしてそうなったのか聞かされておらず、呆然とした表情で言葉が出なかった。家康を総大将として情報収集を掛けていたはずが、自分たちの知らないルートで秀吉に進言し了を得ていたのだ。…石田三成の手で。
「明は大軍を長期に在陣させることに飽いたそうだ。国内の諸問題を抱えつつ余と対峙するのは得策ではないとして、和議を申し入れて来た。…明は余を対等の相手として交流する事を約したぞ。」
秀吉は嬉しそうに明の使者との会見結果を家康らに報告した。利家と正家は安堵の表情を浮かべて祝辞を申し上げる。家康も二人に同調して平伏するが、内心納得していなかった。明が、というより中国が自国以外と対等関係を結ぶのはあり得ない。皇帝は唯一無二で他と並ぶべき者無しだからこそ「皇帝」なのだ。前世の記憶を持っている家康だからこそ、この休戦協定には嘘がある事を見抜いた。…だが現時点えでは嘘の証拠などない。それにこれで朝鮮国との無謀な戦も鎮静化できる。そう考えて敢えて異論を述べず、黙って秀吉の決断に従った。
「…嘘、でしょうな。」
戻って来て事の次第を本多正信に説明すると正信はこう返した。そして家康も納得する。
「其れよりも、大坂で問題が起きました。……淀の方様が懐妊あそばしているそうに御座いまする。」
正信の報告に家康は驚いたが、前世の記憶を掘り起こして頷いた。この時期拾、後の豊臣秀頼が生まれたっけ。それを思い出して史実通りに進んでいる事を理解しての頷きであった。
「…余り驚かれないご様子。…ですが同時に良くない噂も耳にしておりまする。」
「何だ?」
「淀の方様は誰の御子を身籠られたのか?」
家康は正信に近寄り顔を寄せた。
「……事の真意を明らかにせよ。銭を使うても構わぬ。」
史実においても様々な憶測があった。成人後の容姿が秀吉とかけ離れていた事もあり、托卵説も起きている。家康は後々の事を考え、徹底的に調査する様、正信に命じた。
文禄2年6月、朝鮮国との戦が落ち着きを見せ始める。明国は豊臣軍とは距離を置いた位置に陣を置き、豊臣軍は釜山周辺に恒久的な砦を築いて、持ち回りで在番するよう体制を変更した。7月には一部の部隊が順次帰還する様にもなった。
文禄2年6月29日、豊臣軍は在番の諸将を糾合して朝鮮国の晋州城を陥落させた。明軍の援軍を得られなかった朝鮮軍は多数の使者を出して城を奪われて撤退し、豊臣軍は釜山、巨済島、晋州と朝鮮南部海岸線の主要都市確保に成功した。
「敵の王子二名の身柄と巨済島海域の確保…これで朝鮮国との講和条件は整った。…朝鮮国の併合こそは、無能な武辺者らのせいで失敗したが、明へ攻め込む為の最低限の砦は得られた。」
巨済統沖に停泊する豊臣軍の船上で石田三成は呟いた。その声を聴いた小西行長が近付き同僚の方を叩いた。
「…友よ、焦ってはならぬぞ。此度の戦は我らの被害も甚大なのだ。…今は兵を引きその身を休める時ぞ。」
行長の言葉に三成は悔しそうな表情を見せながらも頷いた。自分の考えた陣立てに問題はなかった。だが予想外の明軍の介入と身内の不甲斐無さに歯を噛み締めた。
「…殿下が徳川家康に信を置かれたのは想定外であった。やはり私は殿下の御側に仕え、何者も近付けぬ様お守りすべきだ。…太閤殿下をお支え致す者は家康でも利家でもない。この私であるべきなのだ。」
三成は力強く言い切る。行長はそれを見て供を安心させるように頷いた。
「徳川大納言にいいようにされぬ様、明国の使者を直接殿下に謁見させたのだ。殿下はきっと貴殿を厚く信頼されるであろう。」
朝鮮国への出征を通して、家中の派閥争いは本格的に燃え上がっていた。
石田三成
豊臣家子飼いの武将。奉行衆として渡海の為の舟管理、兵糧管理、本国との通信監理を一手に引き受け豊臣軍全軍の軍監を担っていた。秀吉の第一の忠臣と自負している。
小西行長
豊臣家子飼いの武将。朝鮮国侵攻の一番隊として最前線で指揮を取る。石田三成の盟友で良き理解者。
長束正家
豊臣家家臣。丹羽長秀に仕えていたが、秀吉の直臣となり、奉行衆として辣腕を振るう。