108.秀吉と家康
一週空けての投稿となり、申し訳ございません。
この二月、ほんとにリアルが忙しくて筆が進まず、ストックを食いつぶしてしまいました。
執筆は再会できたので再び定期投稿して参ります。
2023/05/29 ×:利長 → 〇:利家
天正19年11月、豊臣秀吉は甥の秀次を養子とする。弟秀長と息子鶴松を失ったことで自身の後継を明確化し諸大名を跪かせ、秀次への政権移譲も進め始めた。同時に秀吉の関白という地位を引き継がせる為に、秀次の官位を権大納言、内大臣と昇進させ、自身は関白職を辞した。
天正19年12月28日、豊臣秀次は関白に就任する。畿内の情報収集をしている服部衆から連絡を受けた徳川家康は、祝いの使者として結城秀康と板倉勝重に上洛するよう指示を出すと、重臣らを集めた。
最近の評定は、本多正信、正重、榊原康政、本多忠勝、井伊直政、長坂信宅、伊奈忠次で取り行っている。各々、家康の関東入封後に所領を与えられているものの、領地には行かず江戸屋敷に住い、家康の呼び出しに即座に応じれる様にしていた。これに家康の近習として服部正就を加えて評定を進める。
「豊臣家の体制が変わりつつある。先ずは半三、報告せよ。」
若い服部正就が重臣らの前に出て畿内の状況を説明した。秀吉は奉行衆の浅野長政、石田三成、増田長盛、前田玄以、長束正家に権限を与え、政権内の実務を担当させ始めた。彼らの運営は公正にして厳格なるも、武断派の家臣らからは煙たがられており、批判を受けつつある、との事であった。
また、秀次の側室として有力大名や名門貴族から娘を差し出させており、秀次政権の構築をも図りつつあった。既に秀吉と同世代になる将らは隠居を始めており、黒田長政や加藤清正といった若い世代の将が家中で活躍し始めていた。
「徳川家も儂と共に戦場を駆け巡った忠臣らは老齢の年を迎えておる。だが若い世代が十分に育っておらぬと思うが如何?」
家康の問いに重臣らは黙り込む。徳川家中でも早くから若返り策を進めているものの、松井康重、酒井家次、本多康重、本多成重、高力正長といった、三河譜代衆の次世代がまだ十分に育っていなかった。徳川家と豊臣家の若年世代の力の差は、単に次世代の年齢層の違い(秀吉の次世代は1560年代生、家康の次世代は70~80年代生)だけではなく、経験の差も大きい。
「…このまま殿が家督を譲られては、徳川家は大きく弱体化致しましょう。これに乗じて他の大名がのし上がって来ることは必定。」
榊原康政の言葉に他の重臣らも頷く。康政としては早く本当の血筋である秀康、若しくは長丸に家督を譲らせたいと考えていたが、今は出来ないことを十分に理解していた。
「兎に角、関白が替わる事で畿内も何らかの動きがあろう。我等はいち早くそれを察知し、乗り遅れない様にする事が肝要じゃ。」
家康の言葉でこう締めくくられ評定は終わる。徳川家は豊臣政権の中で第二位の地位に座しているが、何時蹴落とされてもおかしくはない事を再確認した。
天正20年1月、秀次は聚楽第に居を移し政務に従事し始める、住まいを譲った秀吉は新たに伏見に城を築いて隠居するも、伏見城周辺には多くの大名屋敷が立てられ、家康もそこに常駐した。しかしながら、新たな発令、官位授与は秀次の名で行われ、伏見に諸大名が集まり、聚楽第から発布されるという二元的な運営体制となった。
この体制で最初に行われた一大イベント…
朝鮮国への侵攻、史実でいうところの「文禄の役」である。
秀吉は3月に各大名へ軍役動員令を発布し、九州へ向かうよう指示された。徳川家にも書状は届き、その内容を見て恐々とした。
後日、会津から蒲生氏郷が家康を訪ねて江戸城にやって来た。家康は此れを迎え入れ氏郷と面会した。
「此度の挙兵、徳川殿には大きく負担を強いるもの故、お助けする様、関白殿下より仰せつかっており申す。お困りの事などあれば何なりと某に申し出下され。」
氏郷の言葉を家康は言葉通りには受け取らなかった。此度の動員、徳川家は三万の兵を送るよう命じられている。これは、まだ関東の統治が不十分な状態である現状を見ればかなりの賦役になる。全兵力の2/3にあたるのだ。これに対してどのように考えているのかを探る為に蒲生氏郷を寄越したと考えて間違いなかった。秀吉は家康を警戒している。ひしひしと感じていた。
「お気遣い忝く。幸いにも期日まで半月ほどある故、どうにか集められそうで御座る。」
家康の穏やかな返事に心苦しくなったのか、氏郷は真面目な表情をして前に進み出た。
「…此処だけの話、余計な不服を口になさらぬ様。太閤殿下は、徳川殿を試しておられるとお考え下され。」
氏郷からの意外な言葉に家康は素直に頭を下げた。
「御忠告、痛み入る。我等は殿下の御為に黙々と精勤に励むのみ。不服などは以ての外。されど、ものの拍子につい口ずさむ事もあるやも知れぬ。気を引き締めて行いなん。」
同様の忠告は堀秀政からも書状で届いた。二人は家康との関係性を重視してこちらに身を寄せつつあると感じていた。家康は蒲生家、堀家との関係をより強くすべく、こまめに書状のやり取りを行う様にした。
天正20年4月12日、朝鮮攻略軍の一番隊が釜山に向けて出発した。対馬領主の宗義智、南肥後の小西行長を中心とした一万八千もの軍勢であった。続いて4月15日には二番隊の加藤清正、鍋島直茂ら二万三千が名護屋城を出発する。その間にも続々と全国から兵が九州に向かっていた。家康も三万の軍勢を引き連れ5月には江戸を出発した。
6月2日、家康率いる関東、陸奥の大軍勢が肥前名護屋城に到着した。先に名護屋城に入城して指揮を取っていた秀吉に挨拶をするも、部隊の大多数を予備兵力として名護屋城外の陣所で待機する様命じられた。
指定された陣所に兵を収めて休ませると、家康は直ぐに軍議を開いた。今回引き連れた将は、本多忠勝、榊原康政、井伊直政、松井康重、石川康通、本多康重、長坂信宅、本多成重、酒井重忠、本多正信、本多正純、服部正成であり、重臣と若手を混在させていた。だが渡海する事も無く名護屋陣所で待機のままであれば、何も学ばせることもできない。
「我らを大軍で呼び寄せ、予備軍として待機させる……これに如何なる意味があると思うか。」
家康は甲冑姿で集まる重臣らに尋ねた。榊原康政が発言しようとしたが家康は手で制した。家康の視線は若い家臣らに向けていた。康政は瞬時に主君の意図を理解し身を引いた。その様子を見て松井康重、本多康重、石川康通、本多正純らが顔を見合った。やがて正純が恐る恐る発言する。
「恐れながら…徳川家の兵力を此処に置く事自体が目的かと。」
「…何故そう思う?」
「豊臣家の兵力が九州に集まっている今、謀反の兵を起こされては困る故、殿とその兵力を留める為…かと。」
正純は父である正信の表情を窺いながら答えた。
「では奥羽の諸大名が少ない兵で参集しているのは?」
伊達家や最上家等、奥羽の諸大名は千以下の兵数で在陣しており、自国に兵力を温存得来ている。これに対して正純は即座に答えた。
「奥羽の諸大名の石高は徳川家とは大きく異なります。また、この名護屋とは離れた距離の為、当主との連携も難しく、少ない兵でも問題なしと…判断したものと考えまする。」
家康は頷いてから正信を見た。正信は難しい表情をしていた。
「…正信、お主の意見を述べよ。」
正信はゆっくりとした動作で家康に身体を向けて一礼した。
「然らば…殿への嫌がらせと、奥羽の諸大名に対しては……相手にしておらぬものと、心得まする。」
正信の答えに家康は大きく頷いた。康政も目を閉じ同調する頷きを見せる。
「太閤殿下は既に国外に目を向けておられ、国内の事は関白殿下に任せるおつもりだ。…その国内で危険視しているのは、我等徳川家…。ここに圧力をかけて躊躇わせるのが狙いであろう。逆にその他の大名は危険視されておらぬ。これが太閤殿下の御考えじゃ。」
「我らは…偉くなったものですな。」
本多忠勝が笑みを浮かべながら言葉を発した。家康も笑って頷く。若手衆は二人の不敵さに唖然とした表情を見せていた。
6月19日、家康はいつもの様に予備軍の諸将を集めて軍議を開いていた。予備軍にもたらされる戦況は前線の報告から4~5日経過した内容の為、知らせを受けてもどうする事もできず、淡々と名護屋城本陣にもたらされた報告を半日後に受けているだけであった。
今日も七番隊の宇喜多秀家軍が開寧に本陣を置き、最前線の小西行長隊が平壌に到達した報告を受けて喝采を使者に送っただけであった。使者が退出したら軍議は終了となるが、家康は諸将らに思い切って声を掛けた。
「各々方、我らはこの後も暇で御座ろう。徳川家で酒も用意するで、此処は一つ戦の現状について皆で論じるのは如何かな?」
家康の声に何人かが反応する、戦好きな伊達政宗や戸沢盛安が真っ先に席に座り直して喜々とした表情を浮かべた。
「大納言殿、面白そうで御座るな。某は遠慮なく相伴に預からせて頂く。」
政宗が言うと、前田利家がこれに応じた。
「どれ、では若造の囀りを儂も聞くとするかな。」
嘗ては槍一つで戦場を駆け回っていた利家は昔を思い出したかのように笑みを浮かべて席に戻った。その様子を見て諸将らは次々と席に戻る。生真面目な蒲生氏郷もやれやれといった表情で席に戻った。
「…では戦況について思うところを述べられたし。誰でも良いぞ。」
家康が諸将の顔を一人ひとり見ながら言うと、直ぐに蒲生氏郷が手を挙げた。
「此処での発言は他言無用とし如何なる無礼も問わぬ…で宜しいか。」
真面目腐った顔で氏郷は家康に問いかけた。家康は大きく頷く。
「此の儂と、前田参議殿が約束しよう。」
これに利家も頷いた。それを聞いた氏郷は一呼吸おいてやはり真面目な顔で発言した。
「この戦…さっさと退却せべきである…と心得る。」
いきなりの結論発言に皆の顔が強張った。家康も顔から笑みを消し、堀秀長に次いで豊臣の臣として歴の長い氏郷の表情を注意深く観察した。
「ほう……左近衛少将殿の発言と思い難いものであるな。真意を申して頂けると有難い。」
氏郷は咳ばらいを一つして真面目な表情を変えず答えた。
「…前線では既に兵糧不足に晒されております。このまま前線を押し上げれば、その状況は益々広がるでしょう。そうなると兵の士気を維持する事は出来ませぬ。」
「…だが今撤退しても敵の土地を奪えぬぞ。太閤殿下の御望みは明を征服する為の足掛かりの確保である。…これは如何する?」
「対馬に近い釜山と巨済島に頑強な城と砦を築き、兵を引いて立て直しを図るべきと存ずる。…さすれば時期を改め万全の体制を持って朝鮮国に臨むことができまする。」
ここで伊達政宗が異を唱える。
「えらく消極的な対応で御座る。某ならば、此処で一気に全兵力を投入し、兵糧が尽きる前に敵の全拠点を叩く!」
これに戸沢盛安と南部信直が同調した。
「食う物など、占領先から調達もできよう!」
「貴公はただ向こうに渡りたいだけで御座ろう?」
家康は笑いながら正宗の意見を制した。だが全軍進軍の意見は意外な人物からも沸く。
「某も我らが渡海する案には賛成で御座る。」
それは堀秀政であった。
「参議殿の懸念は某も感じておる。既に対馬で兵糧を管理する奉行衆らへの不満も届いていると聞く。此処は戦線を後退させ釜山の地盤を固めるべきで御座る。」
「…全軍で?」
家康の問いに秀政は頷いた。家康は顎に手を当て髭を扱いた。居並ぶ諸大名の表情を見るに、理由はどうあれ、渡海して戦をしたいとの思いはあろう。兵力は申し分なく、攻城戦や野戦では負けはない。だが実際補給部隊をゲリラ的に叩かれ、兵站を切られている。何より此処に居る者も含め、大勢が把握していない問題があるのだ。…それは日本との食文化の違いである。敵軍から兵糧を奪ってもそれを自軍の兵糧にできない事がある為、前線での兵糧不足が起きているのだ。
家康は前世の知識でそれを把握しており、またこの戦の結果についても知っている。だからこそ、彼らが状況をどのように理解しているのかが知りたかったのだ。意見は直も出し別れ、撤退派と総攻撃派に二分した。しかし大勢は総攻撃派である。どうやってこの場を治めようか考えていると、前田利家が不意に立ち上がった。
「参議殿、如何なされました?」
堀秀政の声に応えつつも利家は陣幕内を歩き回り家康の横に来て立ち止まった。皆が利家の動きに注目していた。
「…さて…大納言殿、皆様々な思いで紛糾しておるな。彼らを焚き付けたのは貴殿だ。如何にして収める気かな?」
にこやかな表情で家康の懐を試すかの様に利家は家康の横で腕を組んだ。家康は小さくため息をついて一同を見渡した。
「…先ず、我らは太閤殿下にお仕えする臣で御座る。如何に考えようとも殿下の御考えに沿う事がやるべきことである。」
皆の表情が強張る。秀吉の存在はそれほど大きいのだ。家康は立場上、太閤秀吉の意向を重んじる事を明確にしたうえで自身の見解を語った。
「報告では我らは勝ち続けている。なのに兵糧不足を訴えている。…負けぬ故に誰も太閤殿下に後退を進言できぬのだ。…ならば海を渡った者の誰かが負け戦を引き受け、実情を添えて殿下に侵攻策の改めを申し上げねばならぬ。…我等から海の向こうへは伝令を行かせられぬ…。誰かがこの事に気付いてくれれば……儂が殿下に申し上げる事ができるのだがな。」
思いも掛けぬ現実的な家康の考えを聞き、一同は言葉を失った。皆が顔を見合わせ家康の深謀に嘆息した。最初に撤退案を述べた氏郷は正直に尊敬の念を抱いた。同時に秀吉と長年の親交のある利家は秀吉が家康を警戒する理由を改めて思い知った。予備軍に置かれ大した報告を受けぬ中で、これほどの結論に達する家康の智謀に他の大名らも怖れを成した。
7月に入り、小早川隆景隊が朝鮮軍の反撃を受けて全州から撤退した事が報告されると、秀吉は家康の進言を受けるまでも無く、方針変更を決意する。
明国侵攻の為に朝鮮半島全域支配を計画して各隊を進軍させていたが、南諸地域の重点支配の為の進軍に変更し、北部まで侵攻していた小西行長隊、加藤清正隊、黒田長政隊、島津義弘隊を後退させた。秀吉の方針変更を間近で見ていた前田利家は、軍略に対する秀吉の思考と家康の思考が似通っている事を改めて感じ、家康に対する危機感を募らせた。
朝鮮侵攻軍
本隊
一番隊 一万八千人
大将:小西行長
副将;宗義智
二番隊 二万三千人
大将:加藤清正
副将:鍋島直茂
三番隊 一万二千人
大将:黒田長政
副将:大友義統
四番隊 一万四千人
大将:島津義弘
副将:毛利勝信
五番隊 二万五千人
大将:福島正則
副将:蜂須賀家政
六番隊 一万六千人
大将:小早川隆景
副将:立花宗茂
七番隊 一万七千人
大将:宇喜多秀家
奉行衆:石田三成、増田長盛、大谷吉継
八番隊 一万五千人
大将:浅野幸長
副将:中川秀政
九番隊 二万五千人
大将:豊臣秀勝
副将:長谷川秀一
水軍 九千人
大将:九鬼嘉隆
副将:藤堂高虎
旗本 二万七千人
大将:豊臣秀吉
奉行衆:長束正家、山崎家盛
予備軍 七万四千人
徳川家康
佐竹義宣
伊達政宗
前田利家
結城秀康
織田信雄
秋田実季
堀秀治
最上義光
戸沢盛安
南部信直
津軽為信
上杉景勝
真田昌幸
蒲生氏郷