105.小田原城攻め
定期投稿になります。
遂に小田原城攻めが始まりました。
今話では武将名が多く登場しますので、後書きで解説しています。
天正17年3月29日、豊臣秀次率いる七万の大軍が伊豆山中城を攻めた。先鋒を任された徳川家康は兵力を頼りに強引に表門をこじ開け、木村定光隊、一柳直末隊が中へと攻め入る。運悪く一柳直末が鉄砲に撃たれて討死したものの、守将の一人である松田康長を討ち取って落城させた。城主の北條氏勝は城を脱出し逃げられてしまったが、短期での攻め落としに満足し、丹羽長重に城内の後始末を任せて小田原城へと向かった。
一方、韮山城に向かった織田信雄軍は城の堅牢さに攻めあぐねていた。一旦無理な城攻めを止めて包囲策に切り替える。秀吉からそのまま包囲を続ける様命じられ信雄は兵糧攻めと降伏勧告の策へと移った。
秀吉は秀次からの知らせを受けて、沼津城に残っていた全軍を進軍させた。4月2日には箱根山まで進んで本陣を敷くと、各隊に小田原城を包囲するように軍を進める指示を出す。豊臣軍は徳川家康を先頭に次々と小田原へと侵入し、城をぐるりと覆うように包囲した。4月8日には織田信雄の軍も合流し、小田原城は十万を超す大軍で囲われた。
4月9日、北條家に属して小田原城に入っていた皆川広照が城を脱出して豊臣方に投降する。これで小田原城内の事が豊臣方に知られる事となり、城内には凡そ五万の兵が詰めている事が分かった。秀吉は北関東勢の諸将らに下野の北條方の城を攻める様に使者を送ると、家康にも相模の諸城を落とすよう命じた。
4月20日になって戦況が大きく動く。相模の諸城攻略に向かった徳川家康は、投降した北條氏勝の先導で相模平定を終え、更に武蔵国江戸城も開城させた。本多忠勝と鳥居元忠八千を江戸城に残し、家康は小田原に帰陣する。
同じ頃、北国勢の上杉景勝が松井田城を落城させる。その後は、箕輪城、厩橋城、金山城と上野国の重要拠点を占領し、館林城まで兵を進めた。
北関東勢の佐竹義宣らは4月29日に鹿沼城、壬生城を落城させ、皆川城、小山城へと進軍する。
そして伊豆下田城を落城させた豊臣水軍が小田原に到着し、海上から城を包囲した。
豊臣秀吉は本陣を小田原全貌を見渡せる石垣山に移し、そこに城を築き始めた。家康が石垣山に到着した時には城の土台となる石垣積みを行っている最中であった。家康は築城の様子を横目に陣幕に入り、秀吉に相模平定の報告を行う。秀吉は大いに喜び、労をねぎらった。
「随分としっかりした城を御作りになられるようで…。」
家康は築城の事について触れてみる。秀吉は嬉しそうに返答する。
「北條の奴らを驚かせてやろうと思うてな。奴らから見えない位置に城を築き、出来上がったら前方の木々を切り倒して奴らに見せつけてやるのよ!」
秀吉はやや興奮気味に喋った。そして思い出したかのように手招きして、家康を中央に配置された床几に座らせた。家康の向かいには見知らぬ将が座っている。
「おおそうじゃった!貴殿にも紹介しよう。此方は立花宗茂…筑後柳川の領主となった西国一の無双者よ。」
向かいの男が頭を下げた。
「左近将監宗茂に御座いまする。…徳川殿のお噂は兼ねがね耳にしておりまする。」
秀吉はにやにやした表情で二人の挨拶を見ていた。家康は前世の知識で名を知っていた為、感心するように眺めていた。
「貴殿の本多殿とどちらが強いかのぉ…どうじゃ?」
秀吉は喜々とした顔で家康に尋ねた。
「…申し訳御座りませぬ。本多平八郎は江戸城の守りに就かせてしまいました。」
秀吉は残念そうにしながらも笑って頷いた。そしてパンと両膝を叩く。
「では、次は武蔵を平定するぞ。弥兵衛。一万の軍勢を組んで武蔵平定に向かえ。」
控えていた浅野長吉が短く返事する。
「江戸城に某の兵が八千居りまする。如何様にもお使い下され。」
家康は長吉に言葉を掛ける。長吉は「忝い」とだけ返事して立ち上がって陣幕を出て行った。
「…そう言えば、奥羽の諸侯らの動きは如何に御座いまするか?」
長吉退出後、家康は話題を変えて問いかけた。秀吉は少し浮かない顔で答える。
「津軽為信…と申す者と戸沢盛安が既に参陣しておる。」
「…津軽?」
家康は前世の知識で誰なのかは知っていたが、敢えて知らない素振りで聞き返した。
「南部家の家臣筋の者だったが、独立を企んだらしく、所領安堵を得る為にいち早く駆け付けてきよった。…見どころのある奴と思い安堵してやったがな。」
「他は?」
家康の次の問いに秀吉は眉を潜ませた。
「…まだじゃ。しかと連絡を寄越して来とるのは、最上家…くらいなのだがな。」
秀吉の言葉を聞いて家康は胸を撫でおろした。最上家とは家康が関東奥羽取次役として、親身に世話をした最上義光の事で、事前に参陣時期を知らせる様助言した相手であった。だがこれでいいわけではない。史実では隠居した父、義守が死去しその対応に追われ結局参陣が遅れるのである。
「最上殿は隠居した先代当主の体調が優れぬと聞いておりまする。何かあって最上殿の惨事が遅れるとなれば、取次役として某の面目にも関わる故、此方からも文を送り様子を窺っておきまする。」
「…ほう、大納言殿は最上を買っておられるようだな。」
「妹を伊達家に嫁がせ、伊達家に対して一定の影響力を持っている者です。役に立つ者であると考えております。」
「伊達家のぅ……。」
秀吉は顎に手を当てて空を見上げた。秀吉は伊達政宗と言う男に興味を持っていた。野心の塊のような性格で秀吉に対しても挑戦的な態度を取っており、こういう者を屈服させることを喜びに感じていた。その伊達家からは何の連絡もない。
「某からもう一度使者を送りましょうか。」
「……そうだな。少し脅して見るが良い。」
秀吉の返答に家康は頭を下げた。
5月に入ると、武蔵、下総の諸城が落城或いは開城していく。だが、忍城、鉢形城は豊臣軍の包囲に抵抗し難航した為、秀吉は浅野長吉に鉢形城へ向かうよう指示を出した。だが長吉は上総攻略を優先し徳川兵を含めた一万八千の軍は秀吉の命令が届く前に下総から上総に移動していた。
北国勢は鉢形城に囲いの兵を置いて武蔵での重要拠点である河越城へ向かう。松井田城攻めで豊臣軍に投降した大道寺政繁の呼びかけもあって、河越城はあっさり開城した。
この間にも北関東、奥羽の諸将が次々と参陣していた。5月16日には南部信直、23日には秋田実季、24日には多賀谷重経、結城晴朝が、27日には佐竹義宣、宇都宮国綱が秀吉の本陣に参集し、豊臣家に忠誠を誓った。
この頃、徳川家康は頻繁に堀秀政の陣を訪れていた。前世の知識では秀政は小田原城攻めの陣中で没する。家康はこの男を何とか生かし、今後の布石にできないかと、わざわざ高名の薬師を従軍させていた。そして史実通り秀政は5月22日に体調を崩し高熱にうなされた。家康は薬を調合させ、薬師を連れて秀政の陣中を訪れた。
「堀殿、某が日頃から世話になっとる薬師を連れて来た。…この薬を飲むが良い。」
家康は虚ろな秀政の口に丸薬を詰め込み、水を飲ませた。飲ませた丸薬は腹下しと熱冷ましでうまく効けば身体から虫が流れ出て助かる可能性があった。秀政の世話をする家臣らに残りの薬を渡し、便の清掃と水分補給を欠かさぬ様命じた。…後は秀政の体力次第であった。
この時期の家康は小田原城を囲む諸将の陣中を本宗していた。奥羽勢が次々と参陣し、取次役として彼らと直接対面すべく、津軽為信、戸沢盛安、南部信直、佐竹義宣、結城晴朝、戸沢盛安、宇都宮国綱と参陣した諸将らと直接挨拶を行った。特に戸沢盛安には定期的に文を送り、陣中での様子を窺った。彼も史実では陣中で没する者なのである。秀吉がこの戦いで徳川家の弱体化を狙う様に、家康もこの戦の中で奥羽諸将との繋がりを強めようと休む間もなく走り回った。
6月5日、秀吉は石田三成に二万の兵を与え、武蔵へ向かわせた。抵抗の強い、忍城、鉢形城、館林城を攻略する為である。浅野長吉にも早急に武蔵へ向かわせており、ここが制圧できれば、北條家は完全孤立するのだった。
石田三成出陣後、入れ替わるように伊達政宗が小田原に到着した。秀吉が正宗の到着を喜んだが、敢えて直ぐには謁見を許さず、数日待たせた。相手をじらしてどう出るかを見たかったようだ。
6月9日、ようやく正宗は謁見を許され諸将が居並ぶ前で秀吉と対面した。正宗は白装束に身を包み地面に座して遅参を詫び許しを請うた。諸将らは緊張に包まれ身動きできずにじっと秀吉の言葉を待った。だが秀吉は一言も発せず、ただじっと政宗を睨みつけていた。秀吉は正宗を利用するつもりでいた。正宗をして、一度奥羽各地に反乱を起こさせ、無用な諸侯を処罰して自分の寵臣を配しようと考えていた。そのことを事前に聞いていた家康は秀吉の許しの言葉を誘うべく、この静まり返った場で発言をした。
「…恐れながら、中々面白き男に御座いますな。斯様な者こそ殿下の配下となれば大いに活躍を期待できるかと存じまする。」
家康の発言に秀吉の睨む相手が切り替わる。
「…期待?…確かに余の前で見栄を切る度胸はあるようだが…?」
「若く、才気も覇気も十分に備わった威勢もいずれは殿下の御為になるかと思います。多少の野心など殿下の度量で抑えつけられるもので御座いましょう。」
政宗は鳥肌を立たせた。家康の声に恐怖を感じたからだ。全てを見透かされたような感覚を覚え、ここに来て汗をかき身体を震わせた。秀吉は「フン」と鼻を鳴らすと立ち上がって刀を抜くと、正宗の首筋にゆっくりと宛てた。ひやりとした感覚が正宗に伝わる。
「……もう少し参陣が遅ければ、お主の首を飛ばせたのだがな。此度は大納言に免じて許してやる。」
秀吉はそう言うと刀を鞘に納め自分の席に座った。諸将らは内心でほっとしていた。以降、伊達政宗は本陣の客将となり家康と共に小田原落城まで見物するのであった。
秀吉と正宗の謁見は終わり、諸将が解散すると家康は秀吉に呼ばれて直ぐに陣幕へと戻った。
「おお、先ほどは良き進言をしてくれた。礼を言うぞ。」
秀吉は先ほどとは打って変わって穏やかな表情で家康を迎えた。家康は恭しく頭を下げ床几に腰を下ろす。
「此れも殿下の思し召しの通りに御座いまする。伊達殿は某に一応の恩義を感じて、連絡してきましょう。…これで伊達家の動きを某を通じて殿下の御耳に入るようになりまする。」
「うむ。だが大納言よ。気を許してはならぬぞ。貴殿が伊達なんぞに取り込まるる事は…ないと思うておるがの。」
「ははは…胆に銘じておきまする。」
「さて…小田原城攻めもいよいよ大詰めじゃ。今月中には此処を残して全て豊臣の物となろう。」
「此れも、殿下の御威光の賜物と心得まする。」
「世辞はよい。…完全に孤立したところで総仕上げじゃ。」
「では降伏を促しまするか。」
「余からは何もせぬ!……余の意図に気付き、完全に心折れ降伏を申し出るまで、余はただ待つのみ!」
秀吉の力の籠った言葉に家康は不安を感じて顔に表した。秀吉がその顔を見てにこりと笑う。
「…心配せずとも良い。貴殿の娘婿については一度所領を没収し蟄居とするが、赦免してお主に預ける。それから好きなように所領を与えるが良い。」
家康は頭を下げた。自身の家臣として北條家を存続させよと命じられたのだ。希望していた結果ではないが納得せざるを得ない。秀吉は家康が渋々承諾している事を察し、家康の横に立って肩を叩いた。
「…北條の所領は全て没収する。それは貴殿を関東に移封せんが為。…駿河からの奥州諸侯への睨みつけは都合が悪かろう。」
家康は、遂に来た、と身体を震わせた。前世の知識より、何時かは言われるであろうと予想していた言葉である。家康は振り向き驚く表情を秀吉に見せた。秀吉はしたり顔で家康を見返した。
天正18年6月23日、北條氏照の守る八王子城が陥落し、秀吉は忍城を除いた北條領全域を占領した。そして6月25日には石垣山城が完成し、周辺の木々を切り倒して小田原城に籠る北條方に見せつけた。
効果はてきめんであった。7月5日には北條氏直自らが豊臣方の陣に赴き降伏を願い出た。小田原城は開城され、北條氏政、氏直親子、北條家宿老の面々が次々と捕らえられ、城兵らは皆武装解除する。7月7日には豊臣家臣による小田原城接収が始まり、7月13日には秀吉自身も小田原城に入って大広間で戦勝の儀を取り行った。次いで、このまま軍を逗留して休息後、奥州への仕置きを行うことを宣言し、自身に恭順の意を示した奥州諸将らに出兵を命じた。
木村定光
豊臣家家臣。信長時代から秀吉に仕えており子飼いの将として賤ヶ岳の戦以降を転戦する。秀吉の信頼も厚く、越前府中に所領を持つ。
一柳直末
豊臣家家臣。黄母衣衆の一人として活躍し、豊臣政権発足後は大垣城主など前線の上州を歴任する。山中城攻めで討死する。
丹羽長重
豊臣家家臣。丹羽長秀の長男で、父の死後に越前、若狭を相続するも、勢力縮小目的で秀吉の減封を受ける。小田原城攻めでの功によって加賀国小松に加増移封される。
佐竹義宣
佐竹家当主。父義重の代から秀吉と懇意にしており、関東諸侯の中でいち早く臣従の意を示している。小田原城攻めでは北関東勢の大将として下野国の城を攻め所領安堵を与えられている。
立花宗茂
豊臣家家臣。大友家重臣、高橋紹運の子で、立花道雪の婿養子となるも秀吉に気に入られて豊臣直臣となる。小田原城へは陣中見舞いとして少数で参陣していた。
堀秀政
豊臣家家臣。豊臣軍の一軍を担うほど秀吉から信頼される。小田原城包囲中に陣中で病を発症するも、家康の薬のお陰で一命を取り留める。
最上義光
最上家当主。家康が関東奥羽取次役を任せられたころから懇意を通じ、小田原城攻めにも早くから参陣を表明していた。しかし父義守が死去する事態が起き、小田原に到着したのは6月中旬であったが、咎めも無く所領安堵を得ている。
松田康長
北條家家臣。馬廻衆として仕え、豊臣家との戦えd山中城主に任命される。同城で落城時に討死した。
北條氏勝
北條家家臣。北條綱成の孫にあたり、松田康長と山中城に籠るも脱出して玉縄城で籠城する。その後家康の勧告に応じて開城して降伏した。
皆川広照
北條家家臣。下野国皆川城主だが、北條氏政の参集に応じて小田原城に籠る。開戦早々に小田原城を脱出して豊臣方に投降し、秀吉から所領安堵を得る。
大道寺政繁
北條家家臣。代々宿老を務める家柄であったが、上杉景勝ら北国勢の猛攻を受け降伏する。上野国諸城の開城に活躍するも、千五秀吉から切腹を命じられる。
津軽為信
津軽家当主。元は南部家臣であったが主家に謀反を起こして津軽地方をかすめ取り、以降は度々南部家と戦果を交えていた。秀吉の参集にいち早く応じて参陣し、所領安堵を得て南部家から独立する。
伊達政宗
伊達家当主。18歳で家督を相続し、破竹の勢いで覆う諸国を平定していくも、秀吉の小田原城攻めに遅参して手にした所領の多くを没収される。
南部信直
南部家当主。秀吉の参集に応じて小田原に参陣するも、先に参陣していた津軽為信に津軽地方を奪われる形で所領安堵となってしまった。
秋田実季
秋田家当主。秀吉の参集に応じて小田原に参陣し、出羽国の所領を安堵される。
多賀谷重経
結城家家臣。秀吉の参集に応じて主家より先んじて小田原に参陣する。その後、結城秀康が主家の跡継ぎとなると、これを不服とし、佐竹家に服属する。
結城晴朝
結城家当主。鎌倉時代からの名族、小山家の三男なるも、同族結城家の家督を継承する。実子がいなかった為、秀吉から羽柴秀康を養子として迎える。
宇都宮国綱
宇都宮家当主。秀吉の参集に応じて北国勢として出陣して所領を安堵された。
戸沢盛安
戸沢家当主。秀吉の参集に応じて早々から参陣して所領安堵を得るも、陣中で病を発する。