103.子を儲ける為に
定期投稿になります。
今話では、徳川家を存続させる為の秘策を主人公が家臣らに示します。
天正17年6月11日、徳川家康からの呼び出しを受け、甲斐の北部郡代の平岩親吉は馬を飛ばして駿府城に到着した。いつもの本殿広間に向かおうとすると、服部半蔵に呼び止められ「殿が此方でお待ちです」と言って、親吉を二の丸へ向かい始めた。親吉は不思議そうな表情をして半蔵に付いて行く。親吉が広間に到着すると、既に上座には家康が座して待っており、中座には榊原康政、本多忠勝、鳥居元忠、伊奈忠次、本多正信が各々不安そうな顔で座っていた。
「よく来た、七之助…近う寄るが良い。」
家康が少し厳しい表情で手招きをし、親吉はいつもと違う様子に不安を覚えながらも家康の前に座った。正信が、前に進み出て、机と書状、硯を親吉の前に置いた。親吉が書状に目を凝らそうとした時、家康が声を掛けて来た。
「…七之助、これから申す事は、決して誰にも漏らさぬ事を、この起請文にて誓ってもらう。」
家康の言葉に親吉は驚きながら目の前に置かれた書状を見た。
「き…起請…文?」
「そうじゃ。それに名を書き連ねて貰う。」
親吉は周りを見た。他の者らが不安そうな表情をしている…此れから聞かされる事はそれだけ大事な事であり、少数しか知られていない…親吉は肌でそう感じた。だが親吉も徳川家譜代の家臣である。恐れを為して逃げるような男ではなかった。
「承知いたしました。」
親吉は決意を持って平伏する。家康がそれを見て頷いた。
「七之助…我の顔をよく見てみるのじゃ。」
家康の言葉に親吉は顔を上げて主の顔を凝らして見た。暫くして気付く。表情が強張り、目が見開かれた。
「……福釜…殿?」
普段評定などで顔を合わせていても、まじまじと上座に座る者の顔を見る事はない。敬意を持って接する為、直接目線を合わせるような事はしない。その為、親吉も言われてよくよく見て違いに気付いた。
「え?……明智の追手に殺されたと…聞いておったのだが…?」
上座に座する家康に扮した福釜康親を見て親吉は混乱する。周りを見ると、彼が康親であることを知っているかの如くで他の者は親吉の様子を見ていた。
「…殺されたのは…我ではない。」
康親の言葉が親吉を更に混乱させた。福釜殿ではない……つまり別の誰かが福釜殿に代わって殺された……そして今主君は此処には居ない。…ひょっとして今までずっと福釜殿が主君の代わりに上座に座っていた?
混乱しつつも導き出される答えに顔色が変わっていく。そんなはずは…そう思いながらも、本当の主君はもう居ないという考えが段々と膨らんで来た。親吉の表情を見た康親は静かに頷いた。
「我らが主君は、既にこの世には…居られぬ。」
上座の康親が親吉に信じがたき現実を突きつけた。親吉は手を床に付いて俯いた。とてつもなく巨大な衝撃を受けたかのように、親吉は深く項垂れる。そんな親吉を見ながら康親は話を続けた。
「この事は公表できぬ。他国が知れば徳川家は真っ先に潰される。…我が影武者を演じ、この豊臣の世で安定した地位を確立できるまでは、次代に家督を引き継ぐことができぬのだ。……七之助ならわかるであろう?」
親吉は何かを言おうとしてぐっと堪えた。織田家の事変から既に5年…。本物の家康の死を知る家臣らは文句を言わず福釜康親を主君として仕えて来ていた。今更、自分が何を言おうと状況は変わらないと考えたのであった。
秘密は知る人間が少ない方がいい。この時期になって何故康親は自分に正体を明かしたのか。その理由の方が気になった。
「…某を呼んだのは、秘密を明かす事では御座るまい。」
「…そうだ。だがその前にこれに名を記して貰おう。」
家康は目の前の書状を指さした。親吉は黙って筆を取りすらすらと名を書いた。筆を置くと、本多正信がそれを確認して書状を丁寧に折りたたんで家康に渡した。家康は書状を懐に仕舞うと入り口に控える服部半蔵に目で合図を送った。
机が片付けられ、平岩親吉も中座の位置に並び座る。そして半蔵に伴われて一人の僧侶が広間に入って来た。立派な袈裟を着込んだ如何にも位の高そうな、しかしまだ若さが見える僧侶であった。送料は丁寧に家康に向かって一礼して下座した。
「…名は何と申す?」
家康は僧侶に問いかけた。僧侶は頭をゆっくりと上げ背筋を伸ばしてから返答する。
「…先生と別れるときは瑞心と言う名を頂きましたが…今は無量寿寺北院の別当より法号を頂き“天海”と名乗うておりまする。」
家康は天海と名乗る僧に笑いかけた。
「ほう、その若さで別当から名を…隋風殿の申される通り、この短期間で功徳をよく積まれましたな。」
「…残念ながら隋風様は他界なされましたが、約束通り先生の役に立つ身となって戻って参りました。」
家臣らは二人の会話に首を傾げた。家康の事を「先生」と呼ぶこの僧侶がいったい何なのか分かっていなかった。
「うむ。…だがその前に貴方の事を此処に居る者らに判って貰う必要が御座る。…この中で御自分の見知っている者の前に行き、その御顔をよおくお見せなされよ。」
家康の言葉に天海は「はい」と返事をすると、周りを見回してから立ち上がり、平岩親吉の前に座った。そしてにこやかな表情で親吉に顔を近づけた。これで平岩親吉が此処に呼ばれた理由が判った。親吉はこの僧侶を知っているのだ。だが当の親吉は首を捻っていた。
「…七之助、お主からは将棋を教えて貰ったな。」
天海が親吉に話しかける。親吉は昔を思い出そうとして、ある事に気付いた。
「あ!」
親吉は突然大声を上げて後ずさった。
「ま…ま…まさか!?………三郎様!?」
親吉の放った言葉に家臣ら全員が驚きの声を上げた。
「……私の顔を覚えておいてくれたか。…助かる。」
天海が軽く頭を下げた。親吉は唇を震わせたまま天海を見つめていたが、やがてその視線を家康に向けた。家康は黙って頷いた。
「皆も一旦落ち着くが良い。…七之助が言う通り、このお方は、亡き主君の御長男、三郎信康様である。」
衝撃的な事実を告げられ、家臣一同は驚いたまま何も言えずにいた。信康は徳川家存続の為に自害を命じられ二俣城で切腹したはずであったのだ。
家康は敬意を説明する。切腹の直前に服部衆の用意した神人と入れ替わり、密かに二俣城を脱出して隋風と名乗る僧侶に匿われたのだ。その後、康親の手引きで徳川領を脱出し陸奥で僧侶として生きながらえていた。
「あの時は、只々このお方を死なせるのは偲びないという思いで行ったことだが、この状況において徳川家の為に働いて貰おうと我がお呼びした。」
榊原康政が家康の言葉で、天海に何をさせようとしているのかに思い当たった。
「ま、まさか!?」
「…以前、儂は側室を設けると申したな。三郎様には我の代わりに側室らに子を儲けて頂く。」
家臣らは再び腰を抜かした様に驚いた。
「今、徳川家を継げる男子は二人…此れでは余りにも血縁者が少なすぎる。二人にもしもの事があれば徳川家は無嗣断絶にもなり得る。…それではせっかく斯様な事までして徳川家存続の為に働いてきた事が無駄になってしまうのだ。それを避ける為にも子を儲ける事は必要だ。女子が生まれれば、他家へ嫁がせ縁を結ぶこともできる。……どう思う?」
家康は一番最初に気付いた康政の顔を見た。康政は答えられなかった。余りの事で何も考えられないと言うのが正しいのだろう。だが、家康の言っている事は理解できた。徳川家を大きくするには、祖父清康、父広忠の松平宗家の血を継ぐ者が居ないのだ。
「し、しかし三郎様は…仏に仕える…」
「確かに御仏に仕える身ではあります。…されど家の危機を傍観するは、御仏に仕える以前に“人”としての心を疑われる事となりましょう。親の無念を助けずして御仏の教えを広めて何になりましょうや。私はこれでも宗家の血を引く者に御座います。」
康政が反論しようとしたが、天海がそれを言いくるめた。「宗家の血を引く者」と言う言葉に、天海の強い意志が含まれている事は誰であっても見て取れた。康政も何も言う事は出来なかった。
「…されど、私が生きていたと言う事を世間に公表する事は出来ませぬ。…故にこれから数年掛けて徳川当主の信を得たる僧を演じて行こうかと思います。」
天海はさり気なく家康に目を合わせて自身の立場について提案した。
「ほう…徐々に表に出る数を増やしていくと?」
家康の言葉に天海は「はい」と返事する。
「寺社衆との融和を図る目的で呼び寄せ、徐々に外務や内務の事も相談頂くようお引き立て下されば、先生の御側にお仕えする僧を演じる事もできましょう。」
家康は腕を組んだ。僅かに視線が動いて本多正信を見る。正信は目を閉じて黙っていた。
「…わかった。皆もそれで良いか?」
天海のことについてもはや反対意見は無かった。
「では三郎様は、これより“天海”として徳川家に仕えてゆく事とする。普段はこの二の丸の一角に住み、裏では徳川家の為に側室との伽を任せる。三郎様の世話は我が信頼する阿茶とし、側室の部屋への手引きも彼女に任せる。」
家臣一同は一斉に平伏した。
これで家康が難問としていた一門衆の充足と将来的に諸侯と縁戚関係を結ぶ為の布石が確立できた。
天文17年6月14日、大坂から帰った板倉勝重は「申し伝えたき事あり」として家康の私室を訪れた。勝重が行くと既に本多正信が待機しており、気味の悪さを感じながらも家康に挨拶した。
「内密に伝えたき事とは…なんじゃ?」
家康は阿茶の膝枕で寝転びながら問いかける。
「宗誾様の屋敷で…瀬名信輝殿にお会い致しました。」
一瞬だけ家康の動きが止まった。僅か一種運であり、直ぐに平然とした様子で「そうか」と答えた。勝重は家康の思わぬ返答に驚いた。
「あ、あの…驚かれないので?」
家康は寝ころんだまま勝重を見た。
「…いや、驚いたぞ。だが死に損じたか…程度ででしかないがな。」
「し、しかし!奥方様や三郎様を篭絡した張本人で御座いますよ!」
「…昔の話だ。今となっては何もできぬ一介の浪人ではないか。」
家康の反応は勝重が想像していた以上にそっけないものであった。大事になると思い内密な話として此処へ来たのにこの後どうしていいか判らず口をパクパクとさせた。
「殿…板倉様がお困りのようですよ。」
阿茶はくすりと笑って家康に優しく話しかけた。家康は面倒くさそうに起き上がって勝重に指示を出した。
「徳川領に押しを踏み入れる事を許さず。……そう伝えておけ。」
「は?……は、ははっ!」
勝重は慌てて頭を下げて部屋を出て行った。この間本多正信は、ずっと目を閉じて黙ったままであった。
天文17年7月8日、家康の命を受けて榊原康政は沼田領引き渡しの立ち合いを行った。北條、真田間で引き渡し時に諍いが起きないように真田家の立ち退き、北條家の引き取りを監督する。7月9日、役目を無事終えて駿府に戻って来た康政は家康に報告した。
「…双方の様子はどうであったか?」
家康は引き渡し時の様子を聞いて来た。
「真田殿は粛々とで御座りましたが、北條家のほうは荒々しく引き取られました。…そして戦でも仕掛けるかのような物々しさで御座いました。」
康政の報告に家康はにやりと笑った。
「殿下の読み通り…であるな。」
「やはり、事を起こしまするか?」
康政の問いに家康はその場では答えなかった。だがその目が戦の前触れを予期している事を物語っていた。
家康の睨んでいた通り、10月末に北條家は動いた。重臣である猪俣邦憲が真田家の城である名胡桃城を攻め、落城させる事件を起こす。これは秀吉が発令した「惣無事令」に違反する行為であり、真田昌幸は、即座に大坂に使者を送って秀吉に訴えた。
昌幸からの訴えを受けた秀吉は飛び上がって喜んだ。直ぐに使者を小田原城に向かわせ説明を求めたが、北條氏政は申し開きなどせず、沼田は北條領であることを主張した。
11月10日、再び豊臣家の使者が小田原城を訪れ、氏政、氏直の上洛なくば討伐致す、と通達した。氏政はこれに対してその場で「二人共上洛など以ての外」と上洛を拒否した。
11月20日、三度目の使者が成果なく帰って来た事で、秀吉は北條家討伐の兵を挙げる事を決める。その通達は11月中に各諸侯に送られ、各々が出兵の準備をし始めた頃合いを見計らい、12月7日に宣戦布告の書状を北條家に送り付けた。
秀吉が北條家に宣戦布告した事を知った徳川家康は、北條家の同盟者として秀吉に面会する為に、12月9日に上洛する。
小田原征伐は間近に迫っていた。
平岩親吉
徳川家家臣。甲斐北部の郡代として甲府城に在城。嘗て信康の家老を務めていた事から、駿府に呼び出され、天海と面会する。
天海
天台宗の高僧。三郎信康が出家し瑞心と名乗って隋風に従い諸国を漫遊し、幾多の寺院で学を修める。武蔵の無量寿寺北院にて功徳を積み天海と名乗るようになる。史実では隋風が天海を名乗るが、この世界では病で死去した為、瑞心が後を継いだ。