102.戦の火種
定期投稿になります。
別件ですが、遂に「水星の魔女 2nd」が始まりました。
毎週日曜日が楽しみになっています。因みに作者はリアタイで見る派です。
豊臣秀吉に臣従した大友宗麟が島津家からの侵攻に耐え兼ね、秀吉に救援を求めた。秀吉は公家を九州に派遣し、朝廷の権威を利用して停戦を命令する。しかし島津家は秀吉の提示した和睦後の領土分割案に納得できず、停戦命令を拒否する。敢えて火種を残すような分割案を提示したが、それすら拒否した島津家を秀吉は好機と見て喜んだ。
秀吉は命令を無視した島津家への討伐を決定するも直ぐには軍を派遣はしなかった。先発隊として出兵したのは天正14年の8月で淡路の仙石秀久、土佐の長曾我部元親の三万が豊後に大友軍への救援へ向かった。その後、10月には毛利輝元、吉川元春、小早川隆景、宮部継潤、十河存保の西国諸侯に出陣を命じ、大坂からは黒田孝高、浅野長吉、蜂須賀家政らが西へと向かう。
秀吉自身は天正15年の年賀祝儀で諸侯に遠征の為の兵糧調達を命じて、宇喜多秀家二万、羽柴秀長四万、秀吉自身も五万を率いて西へ進発した。その総兵力は十八万、荷駄兵として六万もの人員が招集され九州征伐と称して島津討伐に向かった。
九州征伐は初戦こそ島津軍に惜敗したものの、秀長が九州に上陸してからは圧倒する兵力で力押しが進められ、島津軍は後退する。秀吉が九州に到着してからは二方面からの進軍で島津軍を追いつめ、天正15年5月8日、島津家当主の義久が剃髪して秀吉の本陣を訪れて降伏した。
豊臣秀吉はその後も戦後処理等で九州に滞在し、大坂に戻って来たのは7月に入ってからであった。
その間徳川家康は何をしていたかと言うと、早々に大坂滞在から解放され駿府に戻る事を許された。居城に戻った家康は、秀吉との約束通り関東方面の警戒にあたる。
天正15年11月26日、家康は関東方面警戒の忙しい合間を縫って持舟城跡地を訪れた。供回りは服部半蔵のみで礎石だけになった城内に入る。埋まりかけた空堀を越えて木々の茂る一角まで馬を進めると、小さな墓石の前で止まった。家康は馬から降りると墓石に水を掛けてかぶっていた土を洗い落とした。
「遅くなり、申し訳ございませぬ。」
そう言って家康は墓の前で手を合わせる。半蔵も馬から降りて手を合わせた。暫く拝んだ後、家康は半蔵に目を向ける。半蔵は懐から小瓶を取り出した。そして墓石の下を軽く掘って小瓶を埋める。土をかぶせて軽くトントンと叩くと、もう一度手を合わせた。
「ようやく半三を守りに付かせることができたな。」
「…しかし、母様の御墓をこのままにしていて宜しいのですか?」
「そうだな…墓石は何れ朽ちるであろう。だが、その下の母と半三は、此処で静かに眠れるであろうよ。…出入りの多い寺院ではゆっくりできぬ。」
「…父からは、美しい御方であったと、聞いております。」
「そんな事を言っておったか。…案外惚れておったやもしれぬな。」
「…此処だけの話に致しましょう。」
そう言って半蔵が笑うと、二人はもう一度手を合わせた。他の誰にも見せる事の出来ない、夜次郎としてのひと時の姿であった。
天正15年3月には家康の与力となった信濃の豪族との面会を行った。即ち木曾義昌、小笠原貞慶、真田昌幸との直接の対面である。家康は真田昌幸をまじまじと見る。前世の知識で“表裏比興の者”と評された男の顔は意外とほっそりしており太々しさも図々しさも感じられなかった。だが歴戦の凄味は十分に感じ取れた。型通りの挨拶を済まし、三人が退出するときに家康は昌幸に声を掛けた。
「真田殿…北條はまだ沼田を諦めておらぬか?」
昌幸は立ち上がって外に向かって歩き始めていたが、その場に座して頭を下げてから答えた。
「…北條四代目は執着心の強き者…と聞いて御座います。何時でも沼田の地を得んと狙っておるでしょう。お陰で兵を絶え間なく養う羽目になっておりまする。」
家康は納得した風に頷いた。真田は臨戦態勢を解いていない。その理由もある。だがどうも引っかかった。秀吉に臣従し、家康の与力を命じられても独立心を見せつける。その意図は…。去っていく昌幸の背中を見つつ家康は考えを巡らせた。家康の考えていた通り、真田昌幸は自分の地位にまだ満足していなかった。
天正16年5月29日、本多正信が家康の私室を訪れ、細かく折りたたまれた書状を家康に差し出した。
「西草殿からの文に御座います。」
西草とは、秀吉に仕える石川吉輝の事である。西にいる草の者、と言う意味で、定期的に服部衆を通じて正信に密書を送っていた。
家康は文を見て一瞬驚き、そして軽く笑みを浮かべた。文を正信に渡すと正信を内容を見て驚いてから笑う。
「これは…事細かにびっしりと書かれて御座いますな。」
中身は九州征伐に従軍した羽柴秀康の戦功を報告するものであった。秀吉は九州遠征軍に秀康を従軍させ、初陣を飾り軍功も上げていた。その内容を細かく書いて寄越して来たのである。
「よっぽど嬉しかったのでしょうな。」
「うむ、与七郎らしい文だ。後でしかと記録しておいてやれ。」
正信は返事をして部屋を出て行った。家康の間者は思った通りに機能できていると安心もしていた。
天正16年6月、九州征伐を終えた豊臣秀吉は大坂に戻ると精力的に諸侯を統率する為の発令を出した。伴天連追放令を出して南蛮への人身売買を禁じ、惣無事令や海賊禁止令を発布して、諸侯同士の勝手な戦を禁じた。これに伴い、家康は秀吉から関東諸侯に対する取次役を命じられる。つまり、関東奥羽の諸侯は秀吉に物申す場合は、家康に使者を送らねばならない。諸侯の家康に対する態度があからさまに変わった。親豊臣の立場にあった佐竹家等は積極的に書状の交換を行い、誼を通じ、反豊臣の北條などは家康に対する態度を硬化させた。
家康は素直に感心した。自分を取次役に任じる事で、こうも派閥が分かりやすくなるものかと、秀吉の政治的なセンスに脱帽していた。だがこれは同時に関東諸侯らへの対応の仕方次第で、徳川家の価値を高める事もできる。家康はそう考えて、国内の整備等は奉行衆に任せて取次役に専念した。
更に秀吉は大坂北野天満宮にて大規模な茶会を催した。これには帝も出席するという異例があり、茶会に出席した者は皆、秀吉の偉大さを称える。秀吉はこうして内外に豊臣家の権力を誇示した。畿内の諸侯がこぞって秀吉の点てた茶を称賛し、秀吉は大いに満足する。
天正15年12月、秀吉は豊臣家の京における活動拠点として広大な敷地に邸宅を構えた。年が変わると、全国の諸侯らにて行幸を行うべく上洛を命じる。徳川家康も3月12日には駿府を発って上洛した。
4月14日、帝を聚楽第にお迎えしての饗応を行いつつ、列席した諸侯らには秀吉への忠誠を誓うよう迫り、この催しを利用して秀吉の政治的な力を直接見せつける。もはや、秀吉の勢いを止める事の出来る者は存在しないと思われた。
4月末に駿府に戻った家康は行幸に不参加の関東諸侯らに、改めて秀吉への臣従を求める書状を送った。特に北條家に対しては、上洛せねば、娘を送り返すよう迫ってまで上洛を促している。これにより、北條家は豊臣家への臣従及び上洛の交渉に入った。先ずは8月22日、北條氏政の弟、氏規が大坂に上洛し、秀吉に対して祝辞を述べる。その後、氏政本人は12月までに上洛する意思を秀吉に報告した。豊臣家と北條家との緊張が緩和されたかに思えた。
暫く平和な日々が続いた天正16年10月9日、三河総奉行を務める酒井忠次が息子の家次に伴われて駿府城に登城した。家康は忠次の申し出を受けて私室に呼んで面会した。
忠次は病を患い、目がほとんど見えなくなっていた。長久手での戦以降、大きな戦いは行われていない。その間に忠次の身体は病によって急速に衰えてしまっていた。
「…本日は、隠居を願い出たく…罷り越した所存。この通り、誰かの差さえ無し得は歩くこともままならぬ身となり申した。…どうか某の隠居を御認め頂き、新しき三河総奉行を任命下さいますよう…。」
そう言って忠次は深く頭を下げた。家康は、はぁと息を吐いて残念そうな顔をする。暫く忠次を見つめた後、優しく問いかけた。
「三河総奉行の後任は…誰が良い?」
忠次は家康の問いかけを予想していた様で、考える間を見せずに答えた。
「…長篠城主、奥平信昌殿を推挙致しまする。」
忠次の返答に家康は「ほう」と一言言うと暫く考え込んだ。奥平信昌は奥三河の有力豪族で、武田から徳川に寝返る際に、家康の娘亀姫を嫁がせ、一門衆の扱いとなっている。長篠城での戦でも粘り強く籠城して織田徳川連合の勝利に貢献している。冷静にして辛抱強い将として評価も得ていた。
「成程。…だが新たな総奉行が長篠に居ては、何かと不便で都合が悪いな。」
「では、長らく城主不在であった岡崎城をお与えになっては如何でしょう。岡崎城は徳川家にゆかりのある地なれど、亀姫様を御正室とされている奥平殿であれば、異論は無かろうかと存じまする。」
忠次は新たな三河総奉行の本拠に付いても考えていたようであった。よどみなく答える姿に、家康は一抹の寂しさを感じた。
「相わかった。お主の隠居を許す。」
家康の言葉に忠次は改めて姿勢を正して平伏した。
「…後は頼みまする。」
徳川家の筆頭家老であった酒井左衛門尉忠次は、天文16年10月に家督を家次に譲り隠居の身となる。誠実で深謀な忠次は子には総奉行役は任せず、奥平信昌を推挙して奉行職も辞した。これにより酒井家は譜代筆頭の身分から、三河衆のいち武将の地位にまで下がるのだが、家康は忠次の奉公については忘れる事は無かった。
天正17年2月、北條家の外交僧、板部岡江雪斎が上洛した。目的は上野国沼田の領土問題の解決である。北條側としては上野国全土を我が領土として周辺諸国への威信を高めたい考えで、江雪斎の働きで関係良好になりつつあった豊臣家に訴え出たのであった。これに対し、秀吉は真田、徳川から使者を呼び寄せる。徳川方の使者は本多重次、本多正信で真田方の使者は矢沢頼康であった。
秀吉は真田、北條の言い分と徳川の意見を聞いて裁定する。利根川を挟んで東側3分の2を北條領、西側3分の1を真田領と定めた。また、徳川派真田に対して失った分の代替地として信濃伊奈郡から割譲する事となった。
この結果を持ち帰って来た本多正信は評定での報告で他の家臣らから怒号を浴びせられる。正信はその野次を平然と受け止め、家康の言葉を待った。家康は暫く考えた後、立ち上がって文句を言う家臣らを座らせた。
「弥八郎、両者はこの採決に納得しておったか?」
「…某の見た様子では…渋々、と言ったところでしょうか。」
「関白殿下は、敢えて沼田に戦の火種を残すように、そして徳川家と真田家はこれで和睦するように裁定されたのだ。…近く大きな戦となるであろう。真田と細かいことで争うている場合ではなかろう。」
家康の言葉に家臣らは身構えた。…戦になる。それが家臣らを冷静にさせた。西側を全て平らげた豊臣家が狙うは関東しかない。その先頭に立っているのは北條家なのだ。北條からの訴えを利用して火種を作った。前世の記憶で史実を知っている家康は此れが小田原征伐へのきっかけであると考えていたのだ。
「真田には伊奈郡箕輪を代替地として与え、和睦と致す。…平八郎、お主に年頃の娘がおったな。儂の養女とする故、真田の嫡子に嫁がせよ。」
「なっ!!??」
本多忠勝が腰を浮かせて声を上げた。慌てふためく忠勝を家康は手で制す。
「本多平八郎と言えば、殿下にも知られる名うての剛の者。加えて真田家とは因縁もない。真田安房守を納得させるにあつらえの人物ではないか。これより平八郎を真田家との取次役に任ずる。」
言われて忠勝は言いたいことがあったようだが、家康の考えは理にかなっており、ぐっと堪えて一礼した。
「皆は領内の街道整備と検地を急がせよ。奉行衆は東に気付かれぬ様武具の調達、兵糧の買い付けを進めるのだ。」
皆は一斉に家康に頭を下げる。家康は気を引き締めた。やはり大筋は史実通りに進んでゆくのだと肌で感じていた。
天正17年6月2日、再び本多正信が家康の私室を訪れた。正信が一人で来る時は決まって西草殿からの密書である。家康は折りたたまれた文を正信から受け取り目を見張る。此度の文は短い文章だが、家康には強烈な印象を与えた。
「関白殿下の御側室茶々姫、男子を御出産あそばせ候。殿下の御喜びこの上なく、家臣一同は言うまでも無く、城下の者までが男子御誕生を喜び騒ぎなん。」
家康は文を正信に渡す。正信も内容を見て驚いた。そして眉を顰める。
「…豊臣家を継ぐ男子の御誕生…ですか。これは注視する必要が御座りますな。」
正信の声に家康は同意するように頷いた。
「先ずは祝賀の使者を出そうか。…お主、行って見るか?」
「斯様な場は、某や作左衛門殿では似合いませぬな。…四郎右衛門殿にお任せするのが宜しいかと。」
家康は正信の勧めに従い、翌日の評定にて板倉勝重に大坂への上洛を命じた。天正17年6月6日、家康の名代として勝重は秀吉と謁見し、男子の誕生を賀詞奉った。秀吉は早々たる祝辞を大いに喜び、家康を従二位権大納言に任じた。
そしてその帰りに京の宗誾の屋敷を訪ねて、瀬名信輝が厄介になっている事を知った。宗誾が「別に知れたところで今の家康ならば問題なかろう」と堂々と勝重と面会させたのだ。勝重は自分の判断だけで宗誾の庇護を受けたお尋ね者を処する事はできず、駿府の家康に報告することにした。
だが、勝重が駿府城に戻る前に、家康は待ちに待った人物と密かに対面していた。
大友宗麟
室町幕府の名族、大友家の21代当主。父から守護職を継承して九州探題にも補任され、北九州を統治して「豊後の王」と称されるも、キリスト教に傾倒して晩年は精彩を欠いた。島津の圧迫に屈し秀吉に臣従して支援を求め、九州征伐後は豊後一ヶ国を何とか保った。
島津義久
父貴久の代に島津本家を継承し、薩摩、大隅、日向を領する。義久の代に肥後も奪い、肥前、筑後、豊後の一部まで自領とするが、秀吉の遠征軍に敗北し、薩摩大隅を安堵されるに留まった。戦後は出家して龍伯と名乗り、弟である義弘が当主となる。
石川吉輝
豊臣家家臣。豊臣家の禄を食みながら定期的に家康に密書を送っている。駿府で「西草殿」と呼ばれている事は知らない。
酒井忠次
徳川家家臣。松平家の譜代衆の家柄で、広忠の代から仕えた。主が姓を「徳川」に変えて以降も重臣として家康の側で活躍を重ね、信長、秀吉からも高く評された。天正14年に秀吉から従四位下左衛門督を受領している。天正17年に目を患って、家督を長男の家次に譲って隠居する。隠居後は秀吉によって京に屋敷を与えられ、出家して「一智」と号する。
奥平信昌
徳川家家臣。奥三河の有力国人で祖父の代で今川氏、父の代では武田家に従っていたが、家康の長女亀姫を正室に迎え、徳川家に臣従する。以降は一門格として忠義を貫き、長篠城での籠城戦で見事に耐え抜き、信長からも称されている。酒井忠次の推挙を受けて、二代目三河総奉行に就任し、岡崎城を与えられる。
板部岡江雪斎
北條家家臣。外交僧として名が知られており、度々徳川家、豊臣家の使者の任務を行っている。沼田領については、徳川家との和睦時に北條家が受け取る地域であると主張したが、和睦時に記した起請文は「沼田切取り次第」となっていた。
矢沢頼康
真田家家臣。幸隆の弟、矢沢頼綱の子。上田城での徳川家との戦では、籠城戦でも追撃戦でも活躍し、逃げる大久保忠世と討ち合いを演じている。
板倉勝重
豊臣家家臣。北條家取次役から駿河町奉行に役目が変わるも、度々家康によって周辺諸侯への使者役を命じられ忙しい日々を送っている。意外と宗誾に対して恩を感じているようで、京に向かった際は必ず宗誾の屋敷を訪れている。