101.前夜の会談
定期投稿で一話のみです。
家康が秀吉への臣従を決め、彼との前夜の秘密会談に及びます。
天正14年10月2日、山城国京都宗誾の屋敷。
静かに庭の草木を眺めていた宗誾の部屋に、佐脇良之が足音を立てぬ様に歩いて入って来た。
「……表門に“瀬名”と名乗る者が訪ねて来られておりまする。……如何致しましょうか。」
宗誾は少し驚いた表情で良之を見返した。少し考える素振りを見せ「通せ」と返事をする。良之は音を立てずに部屋を出た。宗誾は庭先の空を見上げた。何かを懐かしむ顔をして暫く雲の流れを見つめていたが、不意に頷いてから立ち上がった。
「さて…どのような顔で儂を待っておるのか、拝みに行くとするか。」
そう呟いて広間へと向かった。広間では下座に薄汚れた服を百姓のような衣服を纏った男が平伏して待っていた。宗誾は袈裟を少し持ち上げて歩き広間の上座に座った。みすぼらしい恰好をしているが、男は確かに瀬名信輝であった。
「久しぶりだな、源五郎。」
宗誾の声を聴いて男は顔を上げた。顔は薄汚れていて生気に欠けていた。
「あれほど今川の家督に執着しておったお主が…みすぼらしくなったの。」
「…某の夢は、潰えました。…今は雨風を凌ぐにも難儀しておりまする。」
「お主は徳川家から手配を掛けられておるからの。…御正室と御嫡子を惑わかした極悪人としてな。」
「…存じておりまする。」
「何しに参った?」
「……最後に今川様を拝見致そうと…。」
「何じゃ?死にに参ったと申すか?」
信輝は返事はせずに頭を下げた。宗誾は詰まらなそうに信輝を見やる。嘗て異なる道であれど今川家栄達を願って生きた相手をこのまま終わらせるのはもったいないと感じた。暫くの沈黙の後、宗誾は信輝に声を掛けた。
「この屋敷で暫く過ごさぬか?此処は世俗の喧騒から離れたゆっくりとした時を感じられる場所じゃ。此処で己を見つめ、これから何をするか考えても良かろう。」
信輝は黙っていた。嘗ての主が自分に恨み言も言わず、自分に此処での滞在を勧める様に言う。その意味を考えていた。その様子に宗誾は少し笑った。
「はは…別に他意は無いぞ。今のお主が武士としての有り様ではないと思うたのじゃ。風呂で身体も洗うが良い。衣服も用意しよう。飯も食え。…先ずは真っ当な姿になってからじゃ。気にするでないぞ。徳川家からお主一人くらい増えても問題ないほどの扶持米を貰うておる。」
やや間をおいて信輝は再び頭を下げた。自然と何かが込み上げてくる。信濃での争乱に敗れ、腹心でもあった藤林長門守を失い、京まで命からがら逃げて来た彼にとって、己を休める場所が必要であった。そう考えると、先の事について自分の考えが纏まらぬ今は宗誾の申す通りにしてもようと思ったのだ。その様子を宗誾は煙草を吹かしながら見つめていた。
「そうそう、お主の妻子…徳川家によって庇護されたぞ。息子は小姓衆に召し抱えられたそうじゃ。」
信輝が思わず顔を上げた。目の前にはにんまりと笑っている宗誾が佇んでいる。
「…死んでなお、律儀な男ですな、夜次郎という奴は。」
信輝の言葉に宗誾も頷く。
「確かに、律儀な男じゃ。……今の徳川家当主のようにな。」
宗誾は煙草の煙を天井に向かって吐き出した。瀬名信輝は旧主を頼ったお陰で徳川家から匿われることとなる。
天正14年10月26日夜、河内国大坂城豊臣秀長邸
大坂に到着した家康一行は、浅野長吉の案内で豊臣秀長の屋敷を訪れた。今夜は此処で宿泊し、明日、大坂城に登城して秀吉に謁見する事になっていた。
屋敷内では、秀長自身が半蔵を含めた旗本衆の部屋へ案内され、その後、家康を伴って離れへと進んでいく。
「…徳川殿には恐れ入りますが、あの離れにてお泊り頂きます。」
秀長は灯りを持った手で離れを指し示した。主と家臣の場所を遠ざけておく。夜中に密談などをされぬ様にという常識的な対処である。
「忝う御座る。」
家康は儀礼的な返事をして秀長に付いて行った。離れの入り口で草履を脱ぎ、奥へと入っていく。やがてとある部屋で秀長は足を止め、襖を開いた。
「どうぞ。」
家康は緊張しつつも堂々とした態度で部屋に入る。そこには灯りが煌々と焚かれ、膳が用意されていた。…それも二つである。
「此処で暫くお待ち下され。」
秀長はそう言って一旦襖を閉めて帰って行った。家康は用意された膳の下座の方に座る。前世の知識によれば、此処に秀吉が来るはず。そう考え家康はじっとして待っていた。
やがて足音が聞こえ、襖が開けられ、見覚えのある男が部屋に入って来た。今や天下人となった豊臣秀吉であった。
「…驚いておらぬご様子だな。」
「膳が用意されていて大納言殿がお座りになられぬとあらば、座られるお方は一人しか居らぬと考えておりました。」
家康の答えを聞いて秀吉は嬉しそうな表情をしながら上座に腰を下ろした。
「徳川殿は限りある情報を元に推測するのがお好きなようであるな。」
「恐れ入ります。」
秀吉は酒壺を持ち上げると家康に向けた。家康も盃を手に取り掲げる。とくとくと酒が注がれ、次いで自分の盃にも注ぐ。
「…先ずは一献。」
そう言って盃をぐいっとあおった。家康もそれに倣う。
「もう何をやっても来ないものと思うておったぞ。」
そう言いながら秀吉は膳に箸を付け、食べ始めた。
「殿下の御母堂まで送られて、我儘を通せる道理は御座いませぬ。」
「徳川殿にはもう一度会いたいと思うておった。」
「再会の場が戦場でない事にほっとしております。」
「戦の支度はしておったであろう。儂に攻める気が無いことを分かっていながらも、念を押した周到な準備…斯様な者を家臣に欲しかったのだ。」
家康は心の中で舌打ちした。戦支度をしていたのは其方も同じであろう。十万もの軍勢を動かせるようにしておいて人質を送り込む。徳川家とすれば動かざるを得ない。戦略的にも有効な策を使ったのだ。
「…正式には明日、皆の前で言うが…貴殿の領有はそのまま安堵致す。与力として、木曾、小笠原、真田を付ける。…此処まで貴殿に有利な条件を用意した理由は…分かっておろう?」
「……殿下は九州を攻めるおつもりであられます。その間の関東方面への抑えとして徳川家をお使いになるおつもりでしょう。」
家康の答えに酒壺を差し出してにやりと笑った。家康が盃を出す。酒が静かに注がれた。
「…惜しいな。関東の抑えに徳川家を使うのは合っているが…九州への出兵は、もう進んでおる。」
家康は驚いた表情をした。本当に驚いたのだ。出兵の準備を進めているのは知っていた。だがそれはと徳川家への圧力の為と考えていた。
「そうだ。儂が進めていた出兵の準備は、九州へ向かう為のものだ。そして、おかか様を駿河に送った後で出陣させた。儂も小一郎も数日中には大坂を離れるつもりだ。…徳川殿には、大坂の街並みをゆっくりと…」
秀吉はわざと一息入れる為に酒をあおった。
「…御見物頂こうと思うておる。」
してやられた。家康は読み違えていた。徳川家を臣従させ関東への警戒をさせるようにしたうえで九州に出兵するつもりだと考えていた。本多正信の見立ても同じだった。しかし秀吉は更に上を行く手を使っていた。徳川家を臣従させる。だが九州遠征中に余計な真似をせぬよう、臣従の為の上洛に合わせて出陣し、家康をそのまま大坂に留め置いておく。主不在では徳川家は何も動けない。そう見込んでの策だったと気づいたのだ。
家康は笑った。肩の荷が降りたというか、気負っていたものが取れたというか…此処に来てようやく負けたと思ったのだ。
「…参りました。そこまでお考えでおられたとは…某はやはり殿下の足元にも及びませぬ。」
家康は頭を下げた。秀吉はそれを見て機嫌よく笑った。ようやく家康は箸を手に取り、汁椀を持って一口すすった。少し冷めてはいたが、味噌の旨味が腹の中に染み渡る。
「…ようやく、素直に膳を味わえました。」
家康の言葉で秀吉は、此処に来たる覚悟を感じ取った。だが同時に違和感も感じ取っていた。
「…貴殿に初めて会うた時とは、随分印象が変わったの…。」
家康はぎくりとしたが、平静を装い言葉を返した。
「幾多の危機が某を斯様な男に変えたで御座る。某から見れば、殿下も随分と変わられた。」
確かに秀吉も変わった。派手な衣装を好むようになり、下手にでる仕草も無くなっていた。そう自身で感じてわははと笑った。
「戦に勝とうが、戦で負けようが、人は変わっていくか…。戦が人を変えると申した方が良いか。」
「あの頃と御比べになられては、何もかもが違いまする。…今や殿下は天下に号令を掛けられるお方。もはや殿下に敵う者はおりませぬ。」
「フフ…だが従わぬ者はおる。…そうじゃ、良い機会じゃ。貴殿であればこの九州攻め、如何様に進める?」
秀吉に問われて、家康は箸の動きを止めた。考えようにも何も浮かんで来ない。秀吉との戦いに全精力をつぎ込んでいた為、九州の状況など全く頭に入れてなかった。
「申し訳ございませぬ。殿下との対峙に一所懸命であったのでまるで状況を把握しておりませぬ。…この家康、とんだ不覚に御座いまする。」
家康は考えるのを諦め素直に謝った。秀吉は意外な返答に一瞬きょとんとしたが大笑いした。秀吉の方は家康と対峙しながらも京の事、自身の官位の事、九州の事、その他雑事も頭に入れつつこなしていたのだ。自分の方が強い立場にある事を再確認したようで満足そうに頷いた。
「では、大坂に残りて九州からの吉報に耳を傾けておられよ。儂の強さを、より噛み締めるであろうよ。」
「痛み入りまする。」
それから二人の間には他愛もない話が続いた。随分と食事が進んだところで、秀吉がまた酒を勧めて来た。家康が盃を差し出し、酒が注がれていく。
「…近々、貴殿を昇進させる予定だ。」
「…は?」
「中納言あたりが良かろう。…貴殿の家臣らも幾人か任命する。…さすれば儂の…豊臣家における家臣筆頭にも相応しいじゃろう。」
家康は直ぐに返答ができなかった。秀吉がこれほど気前よく官位を授けて来ると考えていなかったからだ。
「どうした?儂の配下での地位を欲していたのではないか?」
秀吉は家康の思惑を見透かした様に聞いて来た。家康は軽く頭を掻いて笑った。
「そこまで殿下にお見通しとあれば……有難く頂戴いたしまする。」
「うむ。……関東での貴殿の働きを、期待しておるぞ。」
「ははっ!」
二人はこの夜遅くまで飲み明かした。
天正14年10月27日、徳川家康は大坂城に登城し関白豊臣秀吉に謁見した。本殿大広間に多くの家臣一同が集まる中、秀吉に拝謁し豊臣家への臣従を誓った。そして秀吉の陣羽織を所望し、秀吉自らが家康の肩に陣羽織を掛けるというパフォーマンスを行い、家中からも周辺諸侯からも徳川家が一目置かれることになる。
宗誾
元の名は今川氏真。徳川家の庇護を受け、京都で屋敷を与えられて隠棲生活を謳歌している。服部衆の京での活動を支援する役目も担っており、意外と情報通になっている。
佐脇良之
福釜康親に命を助けられるも、戦働きの難しい身体となり、宗誾の屋敷で世話係として働いている。
瀬名信輝
元々は氏真の小姓衆のから側近として今川家で活躍していたが、今川家督を得る為に氏真を裏切り武田家に内通する。その後は武田の諜報任務に就いていたが武田家滅亡時に浪人し、徳川家から追われる身となる。
徳川家康
徳川家当主。秀吉の妹、母を人質として受け取り豊臣家に臣従する決意をし上洛する。臣従後は秀吉から正三位権中納言を授かる。
豊臣秀吉
天下人。徳川家康を上洛させ、そのまま大坂城に留めさせる事で関東への抑えを形成させ、九州征伐に乗り出す。年末には太政大臣に就任し、大坂城を中心とした新たなる政権を確立させた。