理想の家族
「ただいま」
夜の暗い闇に消える様に言って家に入る。親達に見付かりません様に、と願いながら入る。ボロボロにくたびれた靴を脱ぐ。そろえる。辺りの気配を窺いながら、忍び足で長い廊下を進む。一歩、二歩、三歩。団欒の楽し気な笑い声が奥から聞こえる。団欒の時間は、俺以外の皆が集まるから、誰かが席を立たないうちに部屋へ戻ってしまえば、出掛けていた事がばれずに済む。四歩、五歩、六歩。まだ、大丈夫。七歩、八歩、九歩。次、居間のドアのすぐ向かいに、階段はある。そこさえ上ってしまえば、見付かることは殆どない。十歩、十二歩、十三歩、十四歩目。ようやく階段に着く。たった十四歩。これが、楽になればいいのに。そう思いながら一段目に足を掛けた時。
「俺、ちょっとトイレ行ってくるわ」
「もう、お行儀が悪いでしょう」
「生理現象なんだから仕方ないだろ」
やばい。見付かる。
ドアの磨りガラスに、一人の影が映る。
爪先で階段を蹴って走る。トトトトト、と音をたててしまう。だけど、十数段ある階段は全部上り切った。間一髪で見付からなかった。息が上がっている。壁にもたれて、ゆっくり、落ち着くように、深くゆっくりとした呼吸に意識させる。そうしながら、忍び足でまた歩き始める。一歩、二歩、三歩。下の階から、ジャー、と水を流す音が聞こえる。四歩、五歩、六歩。大丈夫。ここまで来れば見付からない。耳の毛細血管が破裂するんじゃないかっていうくらい、どくどくと心臓が煩い。それを宥める様に深呼吸を意識し続ける。七歩、八歩、九歩。もう少し。もう少しで屋根裏への階段に着く。十歩、十一歩、十二歩、十三歩、右折。もう、大丈夫。ここまで来れば、誰かが二階に上って来ない限り、見付からない。少し胸を撫でおろすと、膝から力も一緒に抜けおちてしまいそうになる。十四歩。足に再び力を込めて進む。十五歩。足音が下の階に少しも届かないてません様に。十六歩。まだ団欒は続いている。十七歩。父母の声がまだ聞こえている。十八歩。そこで、足が竦んだ。暗い廊下にさらにそれより黒い影が落とされる。一瞬息が止まる。
「ここまで来れば見付からないとでも思ったのか?」
後ろを振り向けない。体中の全ての関節が何かの重さに圧迫された様に、動かせばギチギチと鳴ってしまいそうで。瞬きも出来ず、出来るのは、目を見開いて前方の闇を見る事だけ。
「なんとか言えよ。この時間の家族団欒は全員強制参加だろ。またすっぽかして、どうなるのか解ってんのか?」
恐怖を煽る様に言うのは、この家の次男、淳。
どうしてここに俺がいるっていう事がばれたんだろうか。基本忍び足で移動してるし、精々階段を駆け上がったところぐらいだ、足音をたてたのは。そこでばれた?だとしたら、今は、トイレの帰りのついで?わざわざ?それとも最初からばれてた?
「まただんまりかよ。ほら、行くぞ」
「え…ぃや……」
ほんの少しの抵抗に淳が負ける筈もなく、呆気なく肩に米俵みたいに担がれて階段を下る。
「嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌!」
肩に担がれると、頭が下になってどこに進んでいるのかも解らない。でも、どこに向かっているのかも、この後どうなるのかも、俺には考えずとも理解出来た。だから、足をばたつかせて、出来る限り大きく速く足をばたつかせて、淳の胸を蹴る。否、蹴っているのは残念ながら空だ。
「大人しくしろ!鼻から階段に落っこちるぞ!」
「嫌嫌嫌嫌!降ろして!降ろして!」
どんなに抵抗しようが、真面に成長しなかった体では、俺よりも九つも年を重ね、丈夫に育った淳に勝つ訳も無く、居間に着いてしまう。
「母さん、すっぽかし常習犯、捕まえてきたよ」
「あら、何か煩いと思ったら、それを連れて来てくれたのね」
甲高い声で淳に返す、母、菊花。
「淳兄すごぉい!ずっと来ないから寂しかったんだよ、姉ちゃん」
そう言うのは三女、明。
「アンタはよくそんな風にあれを扱えるな。俺には到底無理だ」
明に少し大人びた口調なのに子供の声で言うのは、三男、黎。
「そう?でも、こういう風に遊ぶのが楽しいんだよ?」
「どういう風にするかは個人の自由、それより、この後どうしたいか決めた方が良いんじゃない?」
きっと凛とした佇まいで言っているのだろう人は、長女、六華。
「そうだね!だけど、それよりも先に、姉ちゃんの昼間の行動を聞き出さないと、だよね?」
そこでようやく降ろしてもらえた。床に叩き付けられた、と言った方が合っているかもしれない。頭をぶつけなかっただけましだったが、背中全面に痛みは広がり、そのあとも暫くは痛いまんまだろう。
「さて、“家族団欒”の続きだ」
威圧感のある声でいったのは、この家の大黒柱、父。
さあ、始まる。ここからは地獄だ。
☆☆
自室に帰れたのは、午前一時頃だった。自室、なんて本来ない。今いるのは三階の屋根裏倉庫。誰も入らないし、自棄に埃っぽいし、我楽多だらけだし。もしも俺が自室を手に入れられたら、こんなに埃を溜めたり、要らない物で散らかしたりしない。そんな妄想をしたって、どうにもならないのに。
不要な置物と置物の間からそこそこに大きさのある箱を取り出す。リュックサックから今日買った物を入れていく。絆創膏、消毒液、サージカルテープ、ガーゼ、包帯。今回はそれだけしか買えなかった。それも、大した量も買えなかった。本当は湿布も、軟膏も、飴も買いたかった。(飴はご飯にありつけなかった時にちょうどいい栄養源になる上、保存も効く。)今から使う分で今月分が足りるかすら怪しい。足りなくなったら、包帯を水洗いだけで使いまわしたりする事になる。消毒液を水で薄めるのはもう日常茶飯となっている。
絆創膏三枚までで済む程度の怪我は近所の公園で汲んだ水で薄めた消毒液だけにして、広範囲の怪我に何枚も絆創膏を貼っていく。この絆創膏も二、三回使い回している。打撲したところには、我楽多の金属部分でなんとか冷やしていく。こういう時、湿布を使いたいのだが、生憎もうすぐで切れそうなので大切にとっておく。消毒液を公園の水を薄めるのも、包帯やガーゼ、絆創膏の使い回しも衛生的に悪いのは解っている。だけど、こうでもしないと俺は、この家で生きていけない。
誰もが知るOHTAGUROの社長の家で生きていくためにはこれ以外に道はない。
実のところ、交通費も絆創膏や包帯を買った費用も、全部、俺が地道に歩いて回った、ゲームセンターの機械の下、自動販売機の下、ガチャガチャの下から、地道に集めたものだ。極々(ごくごく)稀にお札が拾える。その時は涙が出そうになった。まだ一回しか野口さんに出会えたことはないが。
児童相談所なんて行けば、帰った後、絶対に殴られる。だけど、もう慣れてしまった。このまま変わらないのなら、十分生活していける。 何も変わらないのなら。
☆☆
あれから一週間経った。買い物の袋を二つ、片手で持ちながら、スマホを見る。しかしながら履歴には、非通知の電話番号は入っていない。
「仁太、どうしたんだ?今日は自棄に画面見て。彼女でもこっちに出来たか?」
「そんなんじゃないですよ」
今は聖と買い出しに来ている。弱小軍なため中央から配給される物だけでは、足りなくなる事があり、その時は買い出しに数人こちらに来る事になる。俺は買い出しは今のところ皆勤賞だ。どうでもいいが。
適当に笑って誤魔化しているが、あの小柄な少年が気になって仕方がない。明らかに大丈夫じゃなくても、大丈夫と言うあの少年が。助けて、と言う事を知らなさそうなあの少年が。
「大田黒君だろ、どうせ」
「えっ」
「自分の弟子が悩む事くらい、大体解る。だけどな、仁太。あの子があの子の全部を掛けられないって言うのなら、仕方のない事だ。アンタの素質を見極める力は確かだが、そこに相手の考える事がそこまで仁太の考えの中に入っていない。だから、スカウトする人数の割に入ってくれる人が少ない訳だよ」
ほら持て、と言わんばかりに買い物袋を前に出される。聖は全部で四袋持っている。スマホをポッケに突っ込んで、その袋を受け取る。その時だった。
ターンタッタ、タッタッタラ、タッタ、タ、タ、タ、タ、タ
軽快な着信音。思わず受け取った袋を落とし、スマホを取り出す。電話番号はーー非通知。迷わず出る。
「もしもし」
もう、と言って聖は俺の落とした袋を拾う。
「ようやく決意が固まったのか、彼も」
聖がフ、と笑ったが、電話からはかの有名な詐欺の常套句が流れた。返答もせず、そのまま切ってやった。
「いや、オレオレ詐欺だった」
「なんだそれ。こっちの世界も、そんなんじゃ残す意味を疑うな。ま、それもここの人が決める事だ。帰ろう」
今度こそ袋を受け取ろうとした時。
ターンタッタ、タッタッタラ、タッタ、タ、タ、タ、タ、タ
再度、軽快な着信音が鳴る。番号はまた非通知。出る。
「もしもし」
〔……もしもし、大田黒です〕
遂に来た。あの小柄な少年だ。
「決意できたのか?」
〔…ん……〕
「ん?」
前に会った時よりも声が小さい。弱々しい。
〔カハッ、ケホッ……〕
夏場に咳?夏風邪でもひいたのか?それにしては、違和感があるような気がする。加えて、若干だが荒く息をしているのが聞こえる。
「大田黒、どうかしたか?何があったか、話してくれ」
〔……………………〕
「大田黒、助けてほしいなら、助けてと言ってくれないとわかんない」
〔……淳が家を出て…険悪な雰囲気のストレスの…発散に使われて…窓ガラスに当たって…ガラス割っちゃって、その破片が……〕
「どこにいるんだ!?」
〔△△駅の公衆…〕
そこで通話は途切れた。ツーツーツー、と虚しい音が流れる。
「大田黒君からだろ。良かったじゃないか、アンタのスカウトで入ってくれる子が増えて……ってちょっと!?」
持っていた袋を全部、聖に押し付けて走る。
「大田黒が大怪我負ってる!」
☆☆
緑色の受話器を元場所に置く。
ガラスで怪我をした事は、少ないが何度かあった。だけど、その時は範囲が狭かった。こんなに全身の殆どに怪我をするなんて、これまでなかった。このままじゃ、俺は死ぬ。だから、賭けたんだ。自分の家の事情を話なんてしたら、帰ってから殴られる。そして死ぬに決まっている。だから、親達が俺を見付けて殺すのが先か、仁太が俺を助けるのが先か。
電話ボックスから出る。一応、殆どのガラスは抜き取って、絆創膏や包帯、ガーゼをありったけ、全部使って止血しようとしたが、足りなかったのか、血は流れているまま。貧血のせいかふらついてしまい、閉めた電話ボックスの扉に少し手を突く。
今が死ぬ時なのか、生きる時なのか、それを決めるのは、俺じゃない。何やっているんだろう、俺は。人の生死を決めるのは、その命の持ち主だ。そう、誰かが言った。それを、今、俺は、仁太に委ねてしまった。何をやっているんだろう、俺は。その誰かの言葉を信じて生きていこうと思ったのにな。とんでもない程に馬鹿で出来ていない人間だ、俺は。
出来ていない人間なら、最後まで出来ていない人間として、恥ずかしい死に方でもしたらどうだろうか。
「……死のうか?」
口に出してから気付く。あの誰かの言葉を信じる人間として、恥ずかしくないよう生きるって決めたのに。一番駄目だ。今は怪我をしている。だから、これを治してくれる人に頼らざるを得ないんだ。だから、仕方がない。仕方ない。
壁に凭れ掛かりながら移動する。せめて電話ボックスの前からは退かないと。今時、公衆電話使う人なんてそんなにいないが。
☆☆
「……ろ!大田黒!大田黒!」
俺の事だろうか。俺は戸籍上じゃ、家族多いもんな。
「起きろ!大田黒!」
「は、はいっ!」
一気に目が覚める。と、同時に上半身も起こす。すると、額に固い何かが当たって、元の寝ていた姿勢に戻す。
「…った。起きたか」
「…はい」
固い何かは、仁太の額だったらしい。俺にしてはかなり速度をつけて起き上がったのか、結構痛い。ぶつけた箇所を右手で摩る。
はた、と気付いて自分の手を見る。傷が無い。開いたり、閉じたりする。まったく痛くない。何なら、傷跡すらない。
「俺は…確か、ガラスで怪我して……その筈…」
「お前、俺に電話したんだろ、覚えてないのか?」
俺、そんな事言ったっけ?ガラスで怪我した所までの記憶しかない。
「…覚えてない。ごめん、意識が朦朧としていて」
「そっか。橙百里さん呼んで来る。その傷全部治したのあの人だから」
「あ、うん」
仁太の態度が何と無く刺々しい。怒っているのだろうか。俺、俺の全部を棄ててここに来る覚悟してないのに電話したから。そういえば、前、橙百里さんと次お話しするのはここに来る覚悟になってからって言われたよな。
今いるのは、以前お世話になった橙百里さんの部屋のベッド。その掛け布団の皺を見詰める。
「…覚悟」
「そうだよ、アンタはそれが出来ているかい?」
声のする方へ顔を向けると、聖さんだった。それしか見えていない緑の左目は細く強く光を放っている。
「アンタ、助かるために仁太を呼んだのかい?」
「え…」
怒っている。明らかに怒っている。一週間程前に会った時とまるで態度が違う。
「次会うのは覚悟が出来てからだって、アイツから聞いたよな?」
「…はい」
「それで、アンタ自身どうなのさ」
「あんまり、考えられなくて…」
怒られたりするのは慣れている筈なのに、この人は怖い。俺の心を奥深くまで見ようとしている様な目で。掛け布団のシーツの皺に再び視線を向ける。
「だったら、今、決めろ。悩んでるのなら話も聞く」
ガタガタ、と横で音がなったので何かと思うと、聖さんが椅子を持ってきて座っていた。その左目はまだ怒っている様だったが、俺に手を上げたりする気配はない。
「…殴らないの?」
思わず言ってしまった。
「え?」
「人は、起こったら、皆殴ったり、蹴ったり。それか、俺自身で痛い事をさせようとする。聖さんは、それをしないの?」
「アンタ、まさか家庭内暴力とか、虐待受けて…」
座っていた聖さんが立ち上がって前のめりになり、ベッドに両手を突く。
「よ、よく知らないけど、多分、そんな感じ」
はぁ~~~と、長い溜息を吐いて、聖さんは座り直す。瞳に怒りはもう宿っていない。今は、どこか遠い過去に焦点がある。そんな感じだ。
「まさか、自分と同じ様な事を経験しているのが、来るとは思っていなかった。そういう虐待を受けている子っていうのは、身も心も弱り切っていたり、向こうの社会に復帰する子、助けを求めて法を味方につける子、そういうのばっかりだから。まさかだった」
商店が俺に合わされる。
右目を隠す長い前髪を、右手でクシャァ…と掴む。かと思ったら、そのまま手を下にいかせ、マフラーをとる。それから前髪を搔き揚げる。そこには。
「火傷の跡…それに、目の色が一部だけ違う?」
本来、綺麗な緑の瞳がもう一つある筈なのに、下半分が黄色くなった右目があった。まるで、熟れ掛けの蜜柑みたいな。そして、その下には口から目の真下に至るまで、広範囲の火傷跡。
「そう。アタシね、生まれ付き虹彩異色症でね。これが嫌いだった。おまけに身寄りのいない孤児院育ちなもんで、カラコンしたくても出来なかった。だから、前髪でこうやって隠していたんだ」
前髪だけを元の様に、右目を隠すように垂らす。
「だけど、ある時何かの拍子に見られたらしくてね。孤児院の先生に知られて、そこから気持ち悪いと虐められたよ。この火傷、実は二重になっててね。一回目は虐めの時につけられた。二回目は、孤児院の近くが戦場になって、孤児院に飛び火したための火事で負った火傷」
「…戦争?」
「ああ、大田黒君は聞いていなかったか。この世界は、戦争によってこの世界を滅ぼそうとしている」
「え…?」
世界を滅ぼすとは聞いていたけど、戦争で?そんな事が出来るのか?
「第一次世界大戦、日清・日露戦争、第二次世界大戦、冷戦。どれも、少しでも間違えれば人類滅亡だっただろう?特に、核兵器の利用について」
「あ…」
なるほど。腑に落ちた。真面に学校に行っていなくても、核兵器の恐ろしさは、買い物の時に電気屋の前を通ったり、並んだ新聞紙の見出しを見るだけで、何と無く凄い威力をもった爆弾なんだな、という事は解る。
「アタシは火事の後、孤児院の皆とはぐれて、一緒にいたのは妹の橙百里と、ここのリーダーだけ。私達三人は前リーダーにスカウトされてここに来た」
聖さんはマフラーを巻き直す。髪の毛も元の様にマフラーの中に入れて後ろに流す。
「アンタは、どうする?」
「…………」
何も答えられない。何にも考えてない。
「アタシはもう、当事者じゃないのに戦争に巻き込まれて、大切な人を失うのは嫌だった。だから、入った。入ってしまえば、戦死したら、アタシ自身の責任だ。恨むものはない。アンタは何に迷っている?何が心に引っ掛かってる?」
「…俺、運動神経悪くて。前も見た通り、鈍足だし。足を引っ張る事しか出来ないと思う」
こんなのただ自分に言い訳しているようなもんだ。こんな言い訳に甘えて、それは嫌だけど、これくらいしか咄嗟に出てこない。
「その点は安心してくれて大丈夫だ。アタシが直々に鍛えてやる。他には?」
「えっと…」
「何かやりたいことでもあるの?」
「ない」
食い気味に言う。希望を与えられずにここまで育って、したい事なんてないから。
「じゃあ、何が心残りなんだ?何に迷っている?」
「その、戦争に駆り出されるってことは、戦死もあり得るんだろ?俺のモットーは、『死ぬときに死ぬ。生きる時はとことん生きる。』だから、それに反しないか心配で」
また出まかせだ。
「大丈夫だ。それがアンタの死に時だって、お天道さんも認めてくれるよ」
「…………」
腕の古傷を見詰める。この人は、俺と似たような境遇にいて、もしかしたら、この残った傷跡も精神的にいやせるかもしれない。
「まだ考えたい?」
「はい」
「じゃあ、アンタの決断、待ってる」
そう言い残して、聖さんは部屋から出て行った。
これからの進退について考えないと。
自分がここに入りたいのか、入りたくないのか正直解らない。多分、入りたいのかな、と思う。でも、考えてみると、戦死するのが怖くなった。確かに、ここに入れば今の家から抜け出せる。今、家はかなり緊張した状態で、このままあの家にいるのは、俺の命が危ないし、それはモットーに反すると思う。だけどやっぱり、戦死するのは怖い。死因が戦争にあるっていうのもそうだし、何より自分は上手く点かなかった線香花火みたいになってしまうのが嫌だ。フシュッと消えてしまって、「ああ、残念だったね」で済まされる様な存在になりたくはない。
「もしもーし」
「あっ、橙百里さん…」
誰かに呼ばれたかと思ったら、橙百里さんだった。
「お考え中の所、失礼しますね~。で、どう?調子は」
「良好。痛いところもない」
そういえば、ガラスで怪我したとは思えないほど、不思議なくらい痛いところが全くない。どんなに頑張って手当てしても、どんな怪我でも直後は傷が残るし、瘡蓋だって痛む事もある。
「そっか。それなら良かった。あそこまでガラスで怪我した人治療すの初めてだったから不安で」
「ごめんなさい…」
「いいの、いいの。怪我とかを治療すのが私の仕事だから。それより、婞君はどうするの?」
彼女の姉の聖さんに似た黄緑色の瞳は、これまたお姉さんに似た怒りを瞳に宿している。
「私、ここの人にしか仕事しない主義なの。で、今回、婞君ここの人じゃないのに治療せって言われて、渋々やったの。それに、巨仁に聞いたよね?次会う時はここに入る覚悟になってからって。それで、どうするの?入らないなら、今回だけ見逃してあげてもいい。だけど、二度と会わない」
声が普段より低い。威圧感がある。
「その…まだ、迷っていて」
「何に?」
怒られるのに慣れていなければ、ひっ、と声を上げてしまうところだ。
「は、半分くらい、ここに来る覚悟は出来ているんだけど」
「残り半分は?」
「その…戦死するのが怖くて…」
「なんだ、そんな事。大丈夫よ。どんな怪我でも、私は一瞬で治せる。それに今、ここは人手不足なのよ。政府側もそこんとこちゃんと理解して組んでくれてるし、実際、ここから死人なんて殆どでやしない。だから大丈夫!」
一瞬でどんな傷でも…?政府側…?組む…?
「あ、今、訳が解らないって思ったでしょ」
得意気になる橙百里さん。
「え、なんで」
「まあ、この話をすると皆そうだからね。ちなみに、どんな怪我でも一瞬で治せるっていうのは本当の事ね」
「はぁ…」
「ま、このよくわからない話、詳しく聞きたいなら入ることだね。ま、それを聞く為だけに来られるのは嫌だけど」
「はい…」
「じゃ、私、本来の仕事に戻るから。覚悟が決まったら、その辺のひとでいいから声を掛けたらいいから。あ、帰るときも同じく。それじゃ、朗報待ってる」
橙百里さんはそう言い残して、帰って行った。
もし、橙百里の言う事が本当なら、俺が戦死する確率はグンと下がる。だったら。
☆☆
「大田黒さんとこって、本当いいご家庭よね~」
出掛けたある日、家の付近でこんな話を聞いた。多分、明と黎の友達の母親だろう。
「そうそう。お子さん六人のうち、二人は血が繋がっていないんですって。それから、もう一人、里子に貰ったらしいわよ」
「まあ、凄い!流石、あれだけの財力を無駄にせずに正しく使っていらっしゃる…」
血が繋がっていないのは、俺と長男の事。その長男の兄も、俺が幼い頃にどこかに行った切り、消息が解らないまま。ちなみに、俺と長男の兄は、正確に言うとあの糞親父の姉の子、姪と甥にあたる。それから、里子なのは明。偶然にも黎と同じ誕生日だったから、二卵性の双子として周りには扱われている。
「そんな七人で住めるなんて素敵ね!」
「本当、幸せそう!」
そんなの大嘘だ。七人で暮らしていけてるのは、糞親父が大手企業の重役についているから。それだけの才能が糞親父にあることだけは認めてやってもいい。だけど、幸せとは程遠い生活が、あの家にはあるんだ。裕福で満ち足りた生活が、笑顔が絶えないような生活が、目の前でされているというのに、俺は毎日傷付けられて、明日が来るかどうかという日もあった。南北問題だとか、そういう大きな格差よりも、一つ屋根の下の壁一枚分の格差が虚しい。
その日は、いつも幸せそうな家の中が、一層騒がしかった。特に、長女の六華が誰かを呼ぶときは、高く通る声なものだから、尚更だ。
「六華、淳はいないよ。また遊びに行ったまま、帰ってきてないのよ」
「ぇえ…この時期に真っ暗になるまで何してんのよ…」
「さぁ、知らないけど」
次男の淳はよくこうやってどこかに遊びに行った切り、帰って来ない事がある。そしていつの間にか飄々として帰ってきている。そんな行動も、俺を何度も捕まえている功績で清算されているのだろう。だから、この会話を聞いた時もいつもの事だと思っていた。
三日経っても、淳は帰って来ていなかった。いつも、長くても二日程度で帰ってくる。だから、余計家の中は張り詰めた空気になっていた。
「お姉ちゃん」
トイレの帰り。背後から呼ばれる。俺の事をこう呼ぶのはただ一人。
「明」
「はい、明ちゃんだよ。今夜、お姉ちゃんをパーティーにご招待します。団欒後、明の部屋で待ってるから」
明るめの茶髪は紛れもない地毛で、その下には大きな同じ色の瞳が二つ零れ掛けている。大田黒で最も色素の薄い人間、明。彼女がなすことが最も残酷だ。
「『御姉様?私が家事をするのですから、あなたが私の舞踏会の支度を手伝って下さいませ』」
「だ、『だけどね、』し、『シンデレラ。あなた、ドレスはどう…』」
頬をはたかれる。本で。
「『御姉様のを貰いますわ。"姉妹"なんですもの、似合わないわけがございませんでしょう?』」
明は、俺を人間扱いしている様にみえて、まるで違う。やっているのは、シンデレラのパロディ茶番。シンデレラは義理の姉に意地悪されるが、自力で義理の姉にやり返し、自力で幸せになるという設定だ。
「えっと…」
「んもう!そこは『でしたら私のドレスはどういたしますの?』でしょう?ちゃんと役に入ってよね!」
俺が台詞に詰まると怒られる。男として生きようとしているのに、一人称がワタクシなんて小っ恥ずかしい。
「ほら、お姉ちゃん。今日は右手。右手出してよ」
そう言う明の手にはカッターナイフ。台詞に詰まると、怒られた後体のどこからを傷付けられる。もう恒例の事なので、素直に右手を差し出す。それを明は掴む。
「…詰まんない」
「え…?」
ボソリと明は言う。それから俺の肩を押して倒される。
大きな目は醜く細められ、口元にはいつもの笑みはない。
「そんなに簡単に出しちゃうの?お姉ちゃん右利きだよね?利き手だよ?そんなに簡単に利き手を傷付けられていいの?いい筈ないよね⁉」
今日は、不味い。明は淳と仲が良かった。淳が遊びに行っていない日は、明は淳に構ってもらっていた。それが、三日も続いているからストレスが溜まって不機嫌になっている。
「もうちょっと躊躇してよ。抵抗してよ。あ、そうだ。嫌がってよ。嫌だ嫌だって淳兄にするみたいにしてよ。ちっちゃい子供みたいにさ」
「え?」
「しないと縦にブッ刺すよ?この大きな血管に」
「ぃや…」
流石に、死ぬ。あの鋭い刃が手首に垂直に刺されば、確実に失血死する。
「ほら、嫌がらないと刺しちゃうよ」
「ぃやだ…ゃだ、ゃ、いゃ…いや…嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌!」
お尻を床につけたまま、明から手を放してとする。だけど、下手に掛ける力がちゃんと作用する筈もなく、俺の右手は明の手の中に強く握られているまま。
「やだ、やめて。嫌!放して!」
「フフ…淳兄の言った通り、面白いね~。いいよ。これで許してあげても。今回はね」
良かった。これで解放される。
「じゃあ、おやすみ」
こうやって嫌がられる事の何が面白いのか、全く解らないが無傷で帰れて今日は良かった。安心しながらドアノブに手を掛けて部屋を後にしようとする。
「おやすみ?まだだよ。私言ったよね、『今夜、お姉ちゃんをパーティーにご招待します』って。招待を受けたなら、ちゃんと参加しないと。"パーティー"はもうすぐだから、ね?」
あの時、一瞬でも安心した俺が馬鹿だった。あの時の明は機嫌が悪いんだ。それに、もう小学校高学年だ。表情を繕う事だって、出来てくる年頃だ。だから、この家で油断なんてしちゃいけないんだ。
―――窓ガラスに当たって大怪我するんだから。
そんな理由で救急車を呼ぶ事態になるなんて、誰が想像するだろう。ましてや、周辺で理想の家族と噂されるようなところが。
あの明の友達のお母さん(と思しき人)の家族が、"理想の家族"にならなきゃいいな。
こんな、幸せな"理想の家族"に。
皆さん、お久しぶりです。約一ヶ月振りでしょうか。
今回は主人公、婞の家庭環境について迫りました。私自身、ちょっとやり過ぎかな、くらいの酷さで書きました。七人家族という大家族のなかで、たった一人の見方もいない、本来自分も幸せな輪の中に入れる筈なのに、一つ屋根の下で凄惨なまでの格差が起こっていて、それに地域の人は気付いていない…我ながらやり過ぎですねw
さて。実を言いますと、この話、正月に投稿するつもりだったんです。(新年早々辛気臭いですよね。)しかし、話を長く書きすぎてしまいまして、もう、予定から二十日も過ぎてから、という形になりました。
いつにも増してダラダラと長く、辛気臭くなってしまいましたが、これからもこの話を宜しくお願いします。