②
絵本の『ゆきおんな』を万樹は強制的にめくらされる。
収録された物語の最初もまた、小泉八雲の『雪女』だった。
見知った話だというのに、万樹は強制的に読まされる。
今は昔。武蔵の国の若き木こり巳之吉は、吹雪の夜恐ろしく不思議な出来事から一人生還した。翌冬、巳之吉は旅途中の娘と知り合い結婚し子にも恵まれる。夫婦仲良くそれは幸せであった。あまりに幸せで巳之吉は忘れていた。あの吹雪の夜に約束した事を。
万樹は驚いた。改めて読んでみると些細な事ながら知らなかった事があった。
注釈に、小泉八雲の雪女の舞台『武蔵の国』は今の調布市あるいは青梅市だと書かれていた。どちらにせよ今の東京都だった。
雪女は東京出身だったなんて!
万樹はひととき恐怖を忘れ感心した。
絵本は右に文章、左に挿し絵の構成となっていた。
最初の挿し絵は、吹雪に溶け込むかのよう美しく描かれた女の姿。
その表情は謎めいた笑みを浮かべているのに何処か悲しげで。
複雑な表情に魅入っている所へ、強制的に万樹の手がページをめくる。
なんなんだこの強制力は。
怖さの中にムカつく何かを万樹は感じた。
次の挿し絵は氷の城に閉じ込められた真っ青な少年に、薔薇色の少女が裸足で駆け寄る絵だった。
この氷の城は、遠目で見ると冠を被った女の顔にも見える。
複雑な絵だな、と万樹は思った。
このページの物語は『雪の女王』。
雪の精霊繋がり?
万樹はいぶかしみながらも読み進めた。
ある冬の日、少年カイを雪の女王が氷の城へ連れ去る。
幼なじみの少女ゲルダは愛するカイを取り戻す為、冒険の旅に出る。
これもお馴染みな物語だなと万樹は思った。でもゲルダに救われるまで、カイが何をしていたか、絵本を読むまで記憶にもなかった。
雪の女王は凍えるカイに謎かけのようなパズルを渡す。それが解けたら自由にすると約束までして。そして何故か長旅に出る。
なんだか不思議と万樹は思った。
雪の女王は雪女と同じく、見初めた者と共に暮らす。それは楽しそうに。なのに、いつかカイが氷の城を脱出できるようそっと手引きしているようにも取れる。
しかも救出に向かうゲルダが難なく城へ入れるよう自ら城を去って。
パズルの答えは『永遠』。カイ一人では解けず、ゲルダとの再会によって初めて解ける。
そうして二人は故郷へ戻りハッピーエンド。
では雪の女王は?雪の女王の心は?
氷でできている雪の女王は、本当は相容れる事のできない人間のカイに何を望んでたんだろう?
悲しい結末と知ってる雪女以上に万樹はわだかまりが残った。
例によって万樹の手は勝手に動く。半ば恐怖し半ば辟易しながら万樹は読み進める。
次のページは左画面一杯が真っ白だった。よくよく見るとその中に濃淡で白いヤマンバみたいな老女、白い子供達、白い狼が所狭しと飛び回っていた。画面の端に赤い毛布にくるまって倒れている男の子が小さく描かれている。その赤い少年が握る赤い実のついた小枝にそっと触れようとする白い少年が、笑っているようでいて泣きそうな顔にも見えて、酷く万樹の心をざわつかせた。
宮沢賢治の物語だった。タイトルは『水仙月の四日』
宮沢賢治という名前は知っていたが、この話は万樹は知らなかった。
「水仙月っていつなんだろう?」
と、右ページを見ると隅に注釈があった。
『宮沢賢治の造語。現実の何月かは現在に至るまで諸説あり。ちなみに水仙の開花時期は品種によるが冬から春へ掛けてである』
特定する必要はなくイメージで良いってことかなと万樹は思った。
今度の主人公は雪童子。もう女でさえない。完全に雪の精霊短編集じゃないか。
がっくりしながらもちょっと面白くなってきた万樹は、宮沢賢治世界へと入っていった。
一夜の吹雪に巻き込まれた人間の少年を、気が付かれる事なくそっと助ける雪の少年。
雪童子がわざと落としたヤドリギ以外、二人の接点は一切無い。助けられた少年は雪童子の存在どころか渡されたヤドリギの思いさえ知らない。
だから雪の少年の心を推し量れるのは作者と読者だけ。
万樹はさらに不思議な気持ちになった。
作者は全て違う。従って物語も結末も違う。
それなのに雪の精霊達の、人間への一方通行な思いは何なのだろう。
雪女は、もし約束を破られても殺せない理由を自ら作り束の間の幸せを謳歌した。
殺せない理由、つまり巳之吉との子供だ。
正体がバレたら相手を殺すのは昔話の定番だ。
でも、もしバレても殺せない理由があれば?
もう2度と会えなくても、少なくとも愛した男を殺さないでいられる。
万樹は、雪女は生き別れる日が来るのを覚悟していたのではと思った。そしてそれを巳之吉が悲しむだろう事も。だからさみしくないよう沢山の子供をわざと置いて―――
雪の女王はいつかカイが去ると知っていて、むしろカイが幸せに去れるようお膳立てまでした。
なら、そもそも連れ去らねば良いのに。
雪女と同じく束の間一緒にいたかったのだろうか。
それでいながらカイの成長を促し人知れず去る。
もしかしたら助けに向かうゲルダより、雪の女王の方が愛が大きいのではないか。
雪の少年はそもそも気付かれもしないのに心を寄せて助けた。
怖がって泣く人間の少年の、甘いお菓子の夢にまで寄り添って。
どれも思いの報われる事はないまま。
いや、報われない思いとはそもそも何だろう。
恐怖も忘れ複雑な気持ちになる万樹を置いて、万樹の手は次のページをめくった。
異様なページだった。
そのページは左一面が真っ黒だった。水仙月の挿し絵のように目を凝らせば何か浮き出て見えるかと、万樹が顔を近づけてもやはり一様にただ黒いばかり。紙質がピカピカしているせいか、黒い表面に万樹の顔が暗く歪んで映り込む。紙の向こうの暗い自分はどこか目が虚ろで…。
思わず万樹は顔をを離した。
それは作者名もない知らない話だった。
主人公はズバリ化け物だった。
雪の山に閉ざされた孤独な世界に、その化け物は棲んでいた。
氷の奥に潜むその姿は、ただ黒く暗い闇だった。
人の生成される頃に生を受けたその孤独な化け物は、何故かこよなく人を愛した。空に舞う雪や氷の破片に人の社会を映しては、人の喜び悲しみに共感すると共に自らの慰めとし、そっと人を見守り続けた。
それは何百、何千、何万年と。
時々強く人恋しくなっては山を降りあるいは山へ誘い入れ、人の魂を喰らっていた。人間社会からすると善なる者とは言いがたいが、化け物の持つ破滅的な力の割には被害は微少と言えた。
そうして化け物は人に知られる事なく孤独に生きてきた。
だが、ここへ来て化け物はおのが命運が尽きかけている事を知る。
それは彼が愛した人そのものによってもたらされる。
彼を構成する雪と氷が人によって破壊されていく。それはもう致命的に。
彼の世界は壊され引き裂かれ消えていった。
彼はそれを受け入れようと思った。それが愛する人の業だというなら本望だとさえ思った。
でももし、これが自分の最後ならと、ふと彼は考えた。
これが最後なら、愛する人と恋をしてみたい。
我ながら愚かしい思いつきとは思った。
だが、長い年月に喰らってきた人間は、その最後に伴侶や恋人を想う者が少なくなかった。そういった類いの魂はこの上なく切なく旨かった。
化け物は決意した。
恋をしよう。
そう思ったら自分の最後が浮き立ってくる。
では恋人はどんな人間が良いだろう。
自分の感覚は男との女のどちらだろう。
それは自分を見た者に決めてもらおう。
ただ1つ共有したい気持ちがある。
それは『さみしい』という気持ちだ。
自分はひとりぼっち。
自分は要らなかったんだ。
誰も自分を望んではくれない。
こんな気持ちを共有できる人間が見つかったら、自分の命の果てるまで大事にしよう。身を寄せ合って、笑い合って、最後には食べて、死ぬ。
それはとても素敵な事に思えて。
だから。
僕が見えた君ならきっと素敵な恋人になる。
ずっと一緒にいるしさみしい思いはさせない。
最後に君を食べる時は僕の死ぬ時。
ここまで読んでわかってくれたら、明日来て欲しい。待ってる。
ふいに万樹が動けるようになる。
万樹の手、万樹の顔、万樹の感覚が戻ってくる。
そうして万樹は戦慄した。
たった今読んでいたはずの絵本が万樹の手にない。
つまり、これは、この本は。
万樹は混乱する。
だって背表紙シールの、バーコードに、貸出カードだって。
急いで確認する貸出カードに貸出の記載がそもそもない。
万樹は悪寒を感じて身震いする。これはどこまでが現実?今は夢?
つまりあの化け物は?絵本を渡した麗人は?
つまり私は?巳之吉やカイ、赤い毛布の少年のように。
――――冷気に心を寄せられた――――
タイマーが鳴りヒーターが切れる。
冷気が万樹を覆い始める。
「助けて…お母さん…」
万樹は恐怖に震えた。




