第八話:妹とドライヤー
え? 何だって?
……なんて、言わせないから。
その日も休日であるにも関わらず、両親から帰宅が遅くなると連絡があり、夕飯は俺と妹の二人で食卓を囲んだ。
「……」
「……」
無言。
別に食事中は沈黙を美としているわけではないのだが、なんとなく今日は妹の手首を見て、何となく声を掛ける気にはなれなかった。
妹が利き手である右手を部活動で捻挫して、三日目。
箸でご飯を食べるのは難しいと判断した彼女は、左手でスプーンを使い食事を取っている。
「……ごちそうさま」
夕飯のメニューであった麻婆豆腐を平らげた妹は食器を重ね始める。
それを見た俺は、ようやく口を開く。
「片付けなら俺がやってやるよ」
「別に。これくらい出来るし」
一蹴されて断られてしまった。
せっかく差し出した手が空を切り、所在をなくしたためそのまま首の後ろを掻いた。
「そうか。手首の調子はどうだ?」
「お陰様で。だいぶよくなった」
「さいで」
「うん」
会話終了。
妹はちらりと俺を一瞥して、何故か軽い溜め息を零して食器を洗い場に置くと、そのままリビングの扉に向かう。
「ねえ、もうお風呂って入ってる?」
「ああ、さっき入れた」
「じゃあ、先に入るから」
ああ、と返事をしようとして気付く。
片手が使えないのに、上手く身体を洗うことが出来るのだろうか……?
片手で洗ったことはないが、背中など洗いづらいところはあるはずだ。
――情けは人の為ならず。
他人への善意は巡り巡って自分に返ってくる。
「なあ」と声が出かけたところで、妹の「言っておくけど」という冷たい声に阻まれた。
「まさか、《身体、洗ってやろうか?》なんて言わないよね?」
「……は?」
「確かに片手だと洗いづらいけど、洗えないことないし。それに一昨日と昨日はお母さんに洗ってもらったけど、お母さんいないなら今日は自分で洗うしかないから」
そこで妹は早口に言っていたセリフを止めて、俺をキッと睨み付けてきた。
「流石に妹と一緒にお風呂入るつもりなのは、キモいよ」
嫌悪感の込められた眼差しで射られた俺は、眉を寄せて答える。
「いや、俺はただ《浴室の壁にボディタオルを貼って、背中で擦るように洗えば、手を使わずに背中を洗える》って言おうと思ったんだけど」
親切心とはいえ。思春期の妹と一緒に風呂に入るわけないだろう。
それこそ余計なお世話というやつだろう。
それを聞いた妹の目が大きく開かれ、顔を逸らしてしまった。
「……あっそ。じゃ、お風呂入るから!」
リビングのドアを勢いよく閉めたこのかの背中をぼんやりと見つめて、「何なんだ、あいつ」と首を傾げた。
どれだけ時間が経っただろうか。
ぼーっとテレビを見ていると、妹がタオルを頭に巻いてリビングに入ってきた。
「上がったから、次いいよ」
ぶっきらぼうにそう言った妹は、リビングの床に腰を下ろしてドライヤーをコンセントに繋いだ。
スイッチを入れてドライヤーで髪を乾かせ始めたが……。
「……」
どう見ても片手では髪が乱れて上手く乾かせないようだった。
……。
………ったく。
俺は腰を上げて妹の持つドライヤーを奪う。
「あ」
「俺が乾かしてやるよ。やりづらいだろ?」
「いいって! 別に――」
「うるせぇ。前向け」
振り向こうとした妹の頭を前に向かせて、小言を無視して勝手にドライヤーの風を髪に当てる。
扇状に広がる髪を撫でながら、一本一本の髪の毛を丁寧に乾かしていく。
「……で」と、このかが小さく呟いた。
ドライヤーの音で聞こえづらく、俺は「何だ?」と聞き返す。
「……なんで助けるの」
妹の質問がよく分からなかった俺は、このかの頭を見つめながら返す。
「言ってる意味が分からん」
「……私たちって、仲悪いじゃん」
「そうだな」
「……なのに、助けるんだ?」
「そうだな」
「……なんで?」
なるほど、そういう意味の《なんで》か。
俺は一瞬だけ考えて答えた。
「どんなに嫌いな奴でも、困ってたら助けるのが普通だろ」
そこに理由なんてない。
特に。妹に対しては、助けるのに、手を差し伸べるのに。
論理的や思考的な《言い訳》はない。
「……そういうところが……」
妹は小さく呟くが、果たしてその続きは口にしたのか、それともドライヤーの音で俺の耳では聞こえなかったのか。
どちらにせよ、俺には分からなかった。
しばらく髪を乾かされる人形のように言葉を発しなかった妹が、言葉を紡ぐ。
「……ねえ」
「何だ?」
「やっぱさ。片手だと身体洗うの大変だった」
「そうか」
「だから、次捻挫した時は。兄ちゃんに身体洗ってもらう」
「そうか――」
ん? ちょっと待て。今、何て言った?
思わずドライヤーのスイッチを切ってしまった俺は、驚いて妹から一歩離れる。
このかは自分の髪の毛をぽんぽんと触りながら、「ま、こんなもんか」と言って立ち上がる。
「髪、ありがと」
「いや、それよりも。お前、今――」
このかが振り向いて、俺と目が合うと鼻で笑った。
「どんなに嫌いな奴でも、困ってたら助けるのが普通、なんでしょ?」
捻挫編終了。




