番外編:いつかのクリスマス
戦争をするのは大変だ。
始める前に、ハトを全滅させないといけないのだから。
「ねえ、にぃに。どうしてウチには、サンタさんが来ないの?」
二人きりのリビングで、幼い妹がショートケーキを見つめながら言った。
俺が物心ついた時には、すでに両親は共働きだったため、休みの日でも妹と二人きりで過ごしていた。
それはクリスマスの日でも例外ではない。
だからこそ、幼稚園に通う妹が《クリスマス》というものを理解し始めていれば、当然の質問だったのだろう。
俺はショートケーキのイチゴにフォークを突き刺して、答える。
「サンタさんも忙しいからな。でも、毎年プレゼントはもらってるだろ?」
サンタの存在をすでに知っていた俺は、毎年クリスマスの夜に妹が寝静まった頃を見計らい、事前に両親が用意しておいたプレゼントを妹の枕元に置くようにしていた。
「……うん。でも……」
「でも?」
「サンタさんに会えないのは、わたしが良い子じゃないからなのかなあって」
「このかは良い子だろ? ワガママも言わないし。好き嫌いはちょっと多いけどな」
「むぅ……。だって、ニンジン、美味しくないんだもん」
拗ねたように唇を尖らせた妹は、ショートケーキを一口含んだ。
「……このかは。父さん達と一緒に過ごせないのは寂しくないか?」
「……? ぜんぜん?」
「え、そうなの?」
きょとんとした妹が、「だって」と生クリームを頬に付けて笑った。
「にぃにがいつも一緒にいてくれるもん!」
「……」
俺はこの時、どんな顔をしていたのだろう。
小学校の友達とのクリスマスパーティの誘いを断って、幼い妹と静かな部屋で過ごしていた子供の俺は。
一体、どんな感情で妹を見つめていたのだろう。
「……じゃあ、このかが良い子でいるうちは、クリスマスは一緒にいるよ」
「ほんと? ぜったいだよ、にぃに!」
「うん」
「やったぁ! じゃあ、今日はにぃにのベッドで一緒に寝てもいい?」
「いや、来年にはこのかも小学生なんだから。そろそろ一人でベッドで寝られるようになれよ」
「むにゅ~。でも、クリスマスは一緒にいてくれるって」
「……言ったけど。分かったよ、クリスマスだけ特別な?」
「しかたないなあ、にぃには」
「なんでお前が偉そうなんだよ」
これは幼い頃の儚い約束。
この翌年には、妹は一人でベッドで寝るようになったし、いつの年からか、クリスマスの日だからと言って俺のベッドに潜り込むようなこともなくなった。
そして記憶は薄れ、雪のように積もり、消えていく……。
***
「ふぅー。食べた食べた。満足っ」
「そりゃケーキ6個も食えば満足だろうよ」
家の玄関で靴を脱ぎながら、背後で満足げにお腹をさする妹を眇めて言う。
お互いの別々のデートの帰り道に偶然会った俺達は、ケーキを食べにカフェに立ち寄った。
そして俺の奢りにあやかった妹は、店の定番ケーキを全て注文し、まるでカエルを飲み込む蛇の如く、瞬く間にケーキを完食していった。
甘い物を食べる女子の胃袋は別次元と言うが、まさにそれなのだろう。
食べているのを眺めるだけでも胸焼けした俺は、頼んだチーズケーキの半分を妹にあげるほどだった。
「クリスマスプレゼントは脂肪か。明日が怖いな」
「何か言った、兄ちゃん?」
「何も」
そう言うて、妹は運動部だし、普段からトレーニングを欠かさないから、きっと体重の心配はあまりしていないのだろう。
……どうせなら、胸の脂肪も増えればいいのにな。
「……何か言った、兄ちゃん?」
「何も」
「あっそ。ところで、火がなくなった線香花火を見つめるような目で、私の胸を見ないでくれる?」
「打ち上げ花火って、上から見ても横から見ても、平らだよな」
「何が言いたいの?」
「さあ?」
靴を脱いで、一足先に洗面所に向かう。
風呂掃除は出かける前にしておいたから、後は湯船を入れるだけだ。
「もう夕飯はいいよな? 今日は疲れたから、俺から先でいいか?」
「ん、いいよ。どうせなら、一緒に入る?」
「……は?」
「……冗談だよ」
俺の表情を認めた妹は、小さく舌を出して二階に上がっていった。
きっと、先ほどの皮肉の仕返しだろう。
俺は頭を振って、風呂のお湯を入れるのだった。
「上がったぞー」
風呂から上がり、寝巻きのジャージに着替えてからリビングに顔を出すと、そこにはソファで寝息を立てている妹がいた。
「そんなところで寝たら風邪ひくぞ」
「んぅ……。すぅ」
肩を揺すって起こそうとするが、すっかり深い眠りに入っているせいか、起きる気配はない。
仕方なしに、俺は妹の部屋から毛布を持ってきて、彼女にかぶせた。
「……やっぱデートって疲れるのかな」
俺も今日は菅谷姿に振り回されて、色々疲れたし、珍しく瞼が重い。
クリスマスに異性と出かけるなんて中学以来だったから、そのブランクもあるのだろう。
「……いや、どちらかといえば、トラウマか」
中学時代。
俺の記憶に深く根付いている”彼女”。
顔も声もロクに記憶はしていないけれど、いまだに彼女の言葉に縛られている俺にとって、クリスマスのデートというのはあまり嬉しくないイベントなのだろう。
「……寝よ」
ゆったりとした足取りで俺は二階の自室に向かう。
自分のベッドに倒れるように横になると、俺は真っ暗な部屋で静かに目を閉じた――。
……。
………。
…………どれだけ時間が経っただろう。
最初の違和感は、音だった。
部屋のドアを開ける音。ペちぺちと裸足が床を踏む音が聞こえた。
次の違和感は、匂いだった。
音はやがて俺のベッドに倒れ込んだ。そしてふんわりと甘い匂いに、そこで俺の意識は目覚める。
「……?」
真っ暗な部屋で、手探りで匂いの正体を認めた。
柔らかい。ふにふにする。何か丸いものがある。手のひらにすっぽり収まる大きさの何か。
「んっ。あぅ」
吐息が目の前でした。生温かい空気に、俺はようやく自分が触れているものの正体に気付いた。
これ、胸だ。たぶん。小さいけど。
「……」
「……」
次第に暗闇に目が慣れてくる。
うっすらと俺の隣に寝転がる人物を見つけた。
「……へんたい」
「なんでいるんだよ、お前」
あまりよく見えないけど、ジト目で俺を見つめる妹がそこにはいた。
「……お母さん達が帰って来て、起きちゃったから」
「あっそ。じゃあ、自分の部屋で寝直せよ」
「やだ」
「なんで」
「……兄ちゃんが言ったんじゃん」
「何を」
「――クリスマスの日は、一緒に寝てもいいって」
「……」
すっかり溶けて消えたものだとばかり思っていた記憶。
俺は何も言わず、ただ暗闇の中のこのかを見つめ返す。
「……だから。今日だけは、一緒に寝てあげるよ」
「何様だよ、お前」
「妹だよ」
「……だな」
もしかしたら、気付いていたのかもしれない。
中学のあの日から、クリスマスの夜に俺があまり眠れなかったことに。
あるいは、気のせいだったのかもしれない。
デート終わりで駅にいたこのかが、少しだけ泣きそうだったことに。
これは、妹の甘えなのだろうか。
それとも兄の甘えなのだろうか。
分からない。分からないけど。
俺はこのかの髪をそっと撫でた。
くすぐったそうに、彼女はあの日のように笑う。
「しかたないなあ、兄ちゃんは」
この話は、《番外編:それぞれのクリスマス》のさらに番外編です。
ということを、後書きに書きます。後ろめたいことは、後に言うのです。




