番外編:久々野空子とカグヤ
この世界は、誰かの気まぐれで回っている。
「なあ。久々野ちゃん。普通の彼氏彼女って、どんな会話をするんだ?」
たまたま偶然、ほんとーに奇遇にして、偶発的にして、ある意味故意的に。
私こと、久々野空子は、学校帰りの兄先輩と出会った。
もちろん、兄先輩の帰宅ルートはすでに把握しているし、バイトがないこの時間帯にこの道を通るってことくらいは知っていたけど。
そんなことは関係なく、微塵も関連性はなく、本当にたまたま近くのコンビニで立ち読みしていた私が、目ざとく兄先輩の乗る自転車を認めた瞬間にコンビニから出て、スカートのポケットに入れていたテニスボールを兄先輩の顔面向けて投げたのも、きっと偶然だろう。
テニスボールだけに、たまたま……なんつって。
「はあ。普通の恋人同士の会話、ですか」
本当は私の方が色々相談したいことがあったのだけれど、口を出す前に、手を出す前に、先手を出す前に。
兄先輩の方から相談事を持ち掛けられてしまった。
「え、なんですか急に。そんな中学生で初めて彼女が出来た思春期真っただ中……みたいな悩みは」
「帰宅途中にチャリを乗っていたら、真横からテニスボールが飛んでくるほど、急ではないと思うけどな」
確かに。全く、はた迷惑な話ですね。
私は一瞬だけ、兄先輩が押して歩く自転車に視線を投げて、「うーん」と答えた。
「話したいことを話せばいいと思いますよ。それで話が合わなければ、価値観が違うってことですから、別れればいいと思います。っていうか、別れたらいいんじゃないですか?」
「いやいや。別れないって……」
「なんで」
「なんでも」
「兄先輩、あの人のどこが好きなんですか?」
「顔。あと、胸が大きい」
「それなら仕方ないですね」
「仕方ないのかよ」
まさか兄先輩も同意されるとは思わなかったのだろう。若干引き気味にツッコミを入れて来た。
普通の好きの成り方に、普通の恋人同士の悩み。
本当に、兄先輩は普通になりかけている。
いや、もしくは。
……《普通》になりきれないことを、確かめているんでしょうか?
***
「……それで? くーちゃんは、どうしたの?」
キングサイズのベッドに寝転がりながら、お菓子を食べるキティ先輩がつまらなそうに尋ねた。
私の恋人、加賀美・カトリーヌ・カグヤ先輩。
同じ中学の一つ上の女子野球部。すでに引退したから、元が付くけど。
金色の長い髪に、小学生かと見間違うくらいに幼い体躯が特徴の、私の世界で最も愛する人類だ。
身長で言えば、私よりも少し小さい。まるで人形のようで、眺めているだけでよだれが出てしまう。
「くーちゃん? おーい、くーちゃん?」
おっと、私のラブリーエンジェルが呼んでいる。下界に降りなければ!
「すいません、ちょっと脳内の天使と踊っていて、意識が飛んでいました」
「……それは大丈夫なの? 変なお薬とか、やってないよね?」
「もちろん! キティ先輩がいるだけで、頭の中はハッピーですから! はあはあ、ああ切れてきました。ちょっとキティ先輩の成分、補充させてください……」
「くーちゃん、大丈夫? はい、おいで」
「わーいっ!」
私は座っていたクッションの上から立ち上がり、ダイブするようにキティ先輩のいるベッドに飛び込んだ。
そして、キティ先輩が優しく私を抱きしめ、そして……。
「……くだらない男の話を、わざわざ聞いてあげていたのに、勝手に辞める悪い子には、お仕置きだぞー」
声色は変わらない。だけど、どこかドスの効いた声で、小さな腕が、脚が私をロックする。
キティ先輩の右足が私の首にかかり、まるで巻き付くように彼女の小柄な体躯が私の右腕に絡みつく。
そして、細い腕から想像できないものすごい力が、私の身体を締めあげる。
「がふっ!?」
「ねー? くーちゃん。ここは、私の部屋で。あなたは私の恋人だよね?」
「こくこくっ」
「それなのに、自分勝手は、よくないと思うなっ。めっ、だぞ」
腕ひしぎ十字固め。キティ先輩の十八番の一つだ。
私は左腕でギブアップを見せるが、にこにこと表情を崩さないキティ先輩は、ロックした右手にキスをする。
「うーん。くーちゃんの手。すべすべで思わず食べちゃいたいくらいだよー。はむはむ」
小さな唇が私の右手を突く。くすぐったい気持ちと、痺れるような鈍痛が感情を混乱させる。
ずっとしていたいような、すぐにでもやめてほしいような。
感情と意識がリミックスする。
「……反省した?」
「こくこくっ」
「……。じゃ、かいほー」
パッと拘束を解いたキティ先輩は、ベッドの上で息を乱す私の頭を抱えて膝枕をしてくれた。
「あのね、私はくーちゃんが好き。大好き。だから、私と二人きりの時は、もうちょっと私を構って欲しいな」
「……ごめんなさい、キティ先輩。私も、キティ先輩が、大好きです」
「どれくらい?」
「え。あー。宇宙で一番くらい!」
「そう。私は、くーちゃんのこと、枝豆とたくあんの間くらい、好きだよ」
「ひどいっ!」
キティ先輩の素顔。いつもと変わらない童顔は、少しだけ意地悪そうに歪む。
学校に限らず、他人には可愛げのあるロリっ子を演じるキティ先輩の本当の顔は、かなりのドSだ。
毒舌、意地悪、腹黒、サディスト。
私しか知らない、キティ先輩の裏の表情。
親友であるこのか先輩でさえ、知らないというキティ先輩の本当の姿。
「……キティ先輩は、本当に黒いですよね。まるで黒い天使ですよ」
「金色の悪魔でもいいよ?」
自覚はあるんだ。まあ、そりゃそうか。
キティ先輩は優しく私の髪を撫でながら、呟く。
「人は見た目が八割って言うでしょ? だから、私の性格の八割は外見なの。でも、残りの二割は私本来の性格。この黒くて意地悪な私が、二割なの」
「……」
「誰も、気付かない、私の全て。でも、くーちゃんだけは、気付いてくれた。だから、全部を曝け出すの。だから、くーちゃんが好きなの」
「……ありがとうございます。私も、キティ先輩のこと、大好きですよ」
それは本当だ。
いつもニコニコしていて、誰に対しても癒しを与えてくれるキティ先輩。
でも、誰に対しても本音を言えないのは、きっと辛い。
その辛さを、私はあの日垣間見た。それは、本当に偶然だったけれど。今では運命だとさえ思っている。
「……でも、キティ先輩。誰もキティ先輩の素顔を知らないとは、限らないですよ」
「え?」
ピタリと。私を撫でる手が止まる。
「このか先輩も薄々は気付いてると思います。それに……たぶん、兄先輩も」
兄先輩がキティ先輩に対して、少しだけ警戒しているように見えるのはそれが理由だろう。
本人も意識的なのか無意識なのかはよく分かっていなそうだけど。
「……あの兄妹はちょっと特殊だからなあ。人が隠す表も裏も全部見透かしているようで。それでいて、自分達は隠してる。ホント、生き方そのものがツンデレってすごいね」
「キティ先輩は、違うんですか?」
「……私は、このか達ほど不幸ではないよ」
不幸、不幸か。
案外、言い得て妙なのかもしれない。
きっと、兄先輩達は否定するだろうけど。
「……それで? 話を戻すけど。このかのお兄さんには、結局何て言ったの?」
まったりとベッドで二人して寝転がりながら、お菓子を食べていると、思い出したようにキティ先輩が言った。
「はみゅ? あー、なんでしたっけね。とりあえず、『会話より胸を揉んでおけば万事オッケー』とは言いました」
「……それ、解決になってないんじゃ?」
「へ? でも、私の場合はそうですよ? 会話に詰まったら、胸を揉む。これ、大事です」
「ふーん? じゃあ、今も会話が詰まったってことだよね? ね?」
「え? ひゃっ!? ちょ、キティ先輩、どこ触って……んぅ!?」
***
その日の夜。
俺は久々野ちゃんから、一通のメールが届いた。
『兄先輩。前言撤回です。性欲より会話です。相手の好きなことをどんどん質問しましょう。それで大体オッケーです』
「……アホ」
番外編という名のある意味本編です。




