第五十三話:妹とハロウィン
ハッピーハロウィン
10月31日はどうやら世間一般の認識ではハロウィンらしい。
秋の収穫祭を祝うハロウィンは、仮装をしてお菓子を食べたりする。
だが、素直にお祭りを祝えないひねくれた人間である俺は、声を大にして言いたい。
「姿さん、知ってますか? 10月31日って、日本茶の日なんですよ」
「なんだその、モテない男が『2月14日は煮干しの日だから、俺は煮干しを食べるんだ』と僻むようなセリフは」
「いえ、別に。ただ、仕事とはいえ、この仮装は流石に恥ずかしいというか……」
俺のバイト先である不知火書店では、今日この日、ハロウィンイベントを開催していた。
店内は折り紙で作ったコウモリやジャックオーランタンの飾り付けでハロウィンの雰囲気を出し、そしてレジには編みカゴに入ったあめ玉が置かれている。
これはレジで『トリック・オア・トリート』と言えば、あめ玉が貰える。
主に子供向けのイベントだが、そもそもの話、この書店は人通りの少ない場所に立地しているため、普段から客足は遠い。
なので、こういう社会貢献のイベントを催したところで、閑古鳥が鳴かなくなるわけもなく――。
「お客がいない店内で、店員だけが妙に張り切った仮装をするのは一周回ってシュールじゃないですかね?」
肩をすくめた俺は、菅谷姿に無理矢理着せられた吸血鬼の仮装を見つめる。
黒いスーツに黒マントという、果たして仮装と言うべきレベルかどうかのギリギリのラインである。
「良いじゃないか、似合っているぞ、少年。ついつい襲って食べちゃいたいくらいの可愛さだ」
レジに座る俺の対面でニヤニヤと笑みを浮かべる菅谷姿が、ふて腐れる俺を見下ろす。
「いやいや、立場が逆でしょう。普通、吸血鬼が人間を襲うんでしょうが」
「ふむ。だが、少年。もしも、見た目十歳くらいの金髪幼女の吸血鬼がいたとしたら、私は間違いなく襲うな。性的な意味で。約束する」
「約束しないでください。っていうか、吸血鬼じゃなくてもその外見ならアウトでしょう」
「すべからく、この世の中の幼女は私のものだから、セーフだ」
何を胸張って言ってるんだ、この人は。
アウトどころじゃない、レッドカード一発退場の危険人物だ。
「っていうか、姿さんは何も仮装しないんですか? 店長は裏方仕事だから、しなくてもいいですけど」
俺は改めて姿さんの服装を眺める。
いつもと変わらない白シャツにダメージデニム、それに不知火書店の制服であるエプロンを付けた、いつもと変わらない服装である。
「ふむ。少年は私のコスプレが見たかったのかい?」
「別に。そういうわけじゃないですが。俺だけコスプレして、平等じゃないなと思って……」
「少年、この世界に平等と平和と荒木飛呂彦はいないんだよ」
「まあ、そりゃそうですが……って、いるわ! 最後の人はいるよ、現役バリバリだよ!」
「私は常々、あの人こそ本物の吸血鬼じゃないかと思っている。段々若返ってる気がするし、多分、人間辞めてるよ」
いや、まあ。それは俺も同意しそうになるけどさ。
「それに、別に私はコスプレはしていないけど、仮装をしていないわけではないぞ」
胸に手を当てた姿さんが、自慢げに首を傾ける。
「……? いつもと同じ制服じゃないですか」
「今日の私は、『実は異世界から転生してきた魔王であり、世界を支配できる力を持っていながら、そんなことは面倒くさいので、それよりも魔法で幼女ハーレムを作って毎日をハッピーロリータライフで送りたい元魔王のフリーター』の仮装をしている」
「ただの中二病じゃないですか。っていうか、それを仮装とは言わない」
「心の仮装だよ。誰もが自分の心に嘘を吐いている、それを私は今日演じているわけだよ」
「それっぽく言ってもダメですから……」
「ま、それを言ったら。少年は毎日仮装をしているようなものだね」
「……」
結局のところ、この日のバイトは俺が姿さんにたっぷりと弄られるだけ弄られて終わった。
もしかしたら、姿さんなりの《トリック》だったのかもしれないけれど、それでも俺はやはり《トリート》を選ぶ資格なんてないんだろう。
『……少年。君は結局のところ、何も変わらないな。変わる気がないのか、それとも変わることを諦めたのか』
……北海道から帰宅して、俺が姿さんに会った時に言われた言葉。
あの人にあそこまで言われて、何も出来なかった俺を、あの人は責めるのでも諭すのでもなく、ただ無情だった。
絶対的に正しく、相対的に等しく、究極的に眩しく、破滅的に終わっている彼女。
菅谷姿はいつまでも俺の傍にはいない。
おそらく、今までの人生のように気が付けばあのバイト先から姿を消してしまうだろう。
風のように、煙のように、砂のように、闇のように。
足跡すら残さず、消えてしまうだろう。
その前に、俺は何かをしなければならない。
もしも、あの人がいなくなってしまえば。
俺は変わるきっかけすら、なくしてしまうから。
「……どうしようも、ないはずなんだけどな」
「ただいまー」
バイト先から帰宅した俺は、玄関で声を上げる。
すると、リビングから「おかえりー」と妹の声が聞こえた。
顔を出してみると、リビングのテーブルで勉強をしている妹がいた。
「飯は?」
「んー、いいや。学校帰りに、友達とファミレスで受験勉強ついでに軽く食べて来ちゃったから」
「そっか」
「うん」
会話終了。
何もない、いつもと変わらない兄妹の会話。
俺はキッチンに立って、夕飯のメニューを考えるが、一人分のためにわざわざ作るのも面倒になり、戸棚からカップラーメンを手に取る。
「カップラーメンは健康に悪いよ」
「お前はいつも健康に良い物ばかり食べてるのか?」
「減らず口」
「うっせ」
俺はお湯を沸かすためにヤカンに水を入れながら、ふとバイト先で貰ったお菓子の余りを思い出す。
予想外に客が来なかったので、店長から少し貰ってきたのだ。
「そういえば、今日は何の日か知ってるか?」
俺は妹に振り返って尋ねる。すると、妹はノートから顔を上げずに答えた。
「日本茶の日でしょ?」
「……正解。って違うわ」
流石兄妹。くだらないことはよく知っている。
「違うくないよ。1192年に明菴栄西がお茶を持ってきた日がそうだもん。『いいくにつくろう、日本茶で』って言うでしょ?」
俺の知らない語呂合わせが出てきた。
「ふうん。じゃあ、バイト先から貰ったお菓子、お前にも分けてやろうと思ったけど、いらないんだな?」
「うそうそ! 日本茶なんて知らない! 明菴栄西? 誰その人、ハゲの人? そんなことより兄ちゃん、ハッピーハロウィーン! トリック&トリート! お菓子をくれたら、悪戯してあげるよ!」
文字通り手放しで、ペンを投げ捨てた妹は、変わり身早く両手を俺に差し出してくる。
「色々間違ってるぞ、そのハロウィン……。まあ、いいや。俺も一人で食べきれるとは思ってなかったしな」
そう言った俺は、ヤカンを火に掛けてキッチンから離れて、カバンを置いてあるドアに近付く。
カバンから色々なお菓子を取り出そうとして、ふむと顎に手を当てる。
背後からエサを待つ犬のように、ソワソワする妹の気配を感じて、俺は振り返る。
「なあ。このままただお菓子を渡すだけじゃつまらないよな?」
「つまらなくないよ。はよ、お菓子」
「まあ、待てよ。せっかくのハロウィンだ。少しくらい、ハロウィンらしいことしようぜ」
「……はあ」
ジト目になった妹を無視して、俺はお菓子が入ったカバンごと妹の対面の椅子に座った。
「そう警戒するなよ。お菓子はやるって。ただ、お菓子の名前を当てられたらな」
「……なにそれ? 私に透視でもしろって?」
ジーっと俺の胸元を凝視する妹が、パッと目を見開かせて言う。
「見えたっ。兄ちゃん、今日はノーブラでしょ。変態」
「うぉ、よく分かったな。確かに今日の俺はブラを付けてな――って、当たり前だろう。付けてる方が変態だわ」
「ちなみに私は付けてないよ」
どうでもいい情報だった。亀が脱皮をするということくらいに、どうでもいい内容だ。
……本当に、どうでもいい。
「……ルールは簡単だ。まず目を閉じたお前の口元に、お菓子を近づける。それでお菓子の名前を当てられたら、そのお菓子を全部やる」
「食べちゃダメなの?」
「食べたら分かるだろ」
「ま、そっか。うーん。いいよ」
「お菓子は全部で3種類だ。どれもメジャーだから、大丈夫だろ」
「いいから、はやく」
すぐに目を閉じた妹が唇を突き出す。
俺はそんな無防備な表情をした妹から目を逸らし、カバンからお菓子を取り出す。
包装を開けるだけでもヒントになりそうなので、ゆっくりとお菓子を摘まむ。
「じゃあ、いくぞ」
「ばっちこーい」
俺は妹の唇に、お菓子を当てる。
お菓子越しに、妹のぷるんとした唇の弾力が伝わる。
……なんだろ、これ。ちょっと面白い。
「んー? ん、んぅ。……この独特なとんがり。そして甘いチョコの匂いは……わかった! タケノコの里でしょ」
「おおー。正解」
妹は目を開けると、すぐに口元に触れていたタケノコの里をぱくりと食べる。
「んーっ!」と恍惚な表情を浮かべる。
「ずっと勉強してたから、甘い物がすごい染み渡るんだよね。はい、じゃあ、次」
「ああ。待ってろ」
俺は次のお菓子を取り出して、再び目を閉じた妹の唇に当てる。
「ん、これはチョコ……じゃない。けど、甘い。ん、このタブレットみたいな感覚……」
なんだろう。お菓子で妹の唇をツンツンする遊び。ちょっとはまりそう。
「分かった。ヨーグレット、だっけ? あのラムネ菓子」
「正解。すげーな。味まで分かるのか」
妹はぱくりとヨーグレットの錠剤に似たラムネを食べる。こりこりとかみ砕く妹の目の前に、ヨーグレットの他にハイレモンも置く。
「ほいほい、じゃあ、次」
「ああ……」
頷いて俺は、最後のお菓子を取り出す。
包装を解いていると、妹が「あ、そのお菓子は当てなくていいよ」と言った。
「……え?」
「ロリポップでしょ? 分かるよ」
俺は自分の手元にある棒付きキャンディに目を落とす。
正解だった。
「……すげーな。音だけで分かったのか?」
「……。兄ちゃんは、逆に分からないんだ?」
「何を?」
俺はそこまでお菓子に詳しいわけじゃないからな。
妹はそこで目を開ける。
その目は、どこか暗く、灰色に沈んでいた。
「……そのアメ、《スーちゃん》が好きだったやつじゃん」
「――っ」
ぽとりと。俺の手から棒付きキャンディをカーペットが離れて床に落ちた。
「……知らなかった? それとも、覚えてなかった?」
「いや……覚えてたさ。ただ……」
思い出そうとしなかっただけで。
そうか、そう言えば、《あいつ》はいつもこのアメを舐めていたっけか。
ちらりと、このかを見る。
まるで何ともないような目で、虚ろな瞳で、落ちたアメを眺めていた。
「……ほらよ。包装を剥ぐ前で良かったな」
「うん。ねえ、兄ちゃん」
「なんだ?」
「……。なんでもない。ごめんね」
何故このかが謝ったのかは知らないけど、俺は聞こえないふりをした。
なるほど、俺は意識させられなければ、思い出すことすら出来なくなっていたのか。
果たしてこれは回復なのだろうか、それとも逃げなのだろうか。
ピーとヤカンの鳴く音が聞こえて、俺はテーブルから離れてキッチンに向かう。
コンロの火を止めて、俺はカップラーメンにお湯を注ぐ。
「……ねえ、兄ちゃん。今度は私がクイズ出してもいい?」
「あ?」
「兄ちゃんが目をつむって、今度は私がお菓子を当てるの」
「……いいけど。お前、お菓子なんか持ってるのか?」
「まあね。ほらほら、こっちきてよ」
俺は訝しげにカップラーメンを持ったままテーブルに戻る。
「はい、目をつむって。絶対に開けちゃダメだからね」
「別に反則なんかするつもりはないけど。俺、別にお菓子が欲しいわけじゃ――」
瞳を閉じた暗闇の世界で。
むにっと。
柔らかい何かが。
俺の唇に触れた。
「……さて、何だったか分かる? 当てられたら、あげるよ?」
まるで目の前にいるくらいに近い距離で、このかが促す。
俺は「……さあ」と首を振った。
「……。残念。じゃ、お菓子は貰ってくね」
目を開けると、このかは勉強道具を片付けて、俺があげたお菓子を抱えてリビングから出ようとしていた。
ピタリと、リビングの扉で立ち止まったこのかが、顔だけ振り返って舌を出した。
「トリック・オア・トリート」
悪戯か、ご褒美か。
それを答える前に、このかは二階の自室に戻ってしまった。
少しだけ耳が赤かったのは、見なかったことにしよう。
「……指はお菓子じゃねえだろ」
もしも。正解をしたら、何を貰えたのだろうか。
「……なんてな」
悪戯に、決まってるだろう。
「ちなみに、私、どちらかといえばキノコの山の方が好きなんだけど」
「そうか。でもタケノコの里の方が美味しいだろ?」
「え?」「ん?」
「戦争だね、兄ちゃん」
「戦争だな、妹よ」




