第五十一話:妹とこれからの日々
私はまだこの感情の名前を知りたくない
――ごめんね。
文化祭の片付けに参加することなく、帰宅した俺を玄関で膝を抱えて出迎えた妹が言った。
……なんでお前が謝るんだよ。悪いのは俺だろう。
そう言いたかった。
そう言って、この話は終わりにしたかった。
だけど言葉が、声が喉の奥から出てこなかった。
――ごめんね。
妹がもう一度言った。
やめてくれ。そういうのじゃないんだ。
謝るのは俺の方で、どうしようもないのは俺の方で。
結局のところ、俺はお前のことが……。
――ごめんな。
三度目の『ごめん』は、俺だった。
***
「ねえ、兄ちゃん。恋人ってなんなんだろうね」
北海道は石狩市にある道の駅の駐車場にバイクを止めた俺達は、道の駅の奥の小高い丘に向かって歩いていた。
俺は隣を歩く妹の歩幅に合わせながら答える。
「法律の話か? それとも哲学か?」
「ううん、ただの雑談」
北海道最終日に、妹が行きたいと言っていた場所がこの先にある。
俺一人ならば絶対に来ようとは思わなかった場所であり、縁もゆかりもない観光地。
海が目前に広がっているせいか、風が少しだけ強い。
「恋人、恋人ねえ。思えば、結構曖昧な関係性だよな。夫婦みたいに婚姻届のような証明書もなく、ただの口約束で成り立っている」
「うん。だからたまに考えるんだ。恋人ってなんなんだろーなって」
「……俺もわかんね」
「カノジョがいるのに?」
「カノジョがいるからこそだよ」
そう答えた俺は、坂道を登り切る。そしてその先にさらに続く、石段の隣に突き刺さった小さな看板を一瞥した。
口にするのも甘酸っぱく、そして同時にむずがゆさを覚える観光名所。
「……《恋人の聖地》、ね」
ほんと、恋人ってなんなんだろうな。
「うわ。ホントにたくさん南京錠が付けられてるね」
石段を登った先の石の展望台には、フェンスに結ばれた無数の南京錠が所狭しと結ばれていた。
永遠の愛を誓って南京錠を付ける……ねえ。
果たしてそれはロマンチックなのだろうか。
当たり前の話だが、錠とは鍵で開けるモノだ。
つまり、それはいつしか誰かの手によって開けられてしまうもの。
そんな脆いモノに、永遠の愛を誓ってしまっていいのだろうか。
それこそ、ロマンティックよりファンタスティックじゃないか?
「ねえ、兄ちゃん」と黙って南京錠を見つめていた妹が、無粋なことを考えていた俺に振り返る。
「私達もせっかくだし、南京錠付けよっか?」
「何がせっかくなんだよ」
「この場所は、何の聖地だっけ?」
「……冗談だろ?」
「うん、冗談だよ」
笑えない冗談だ。
そもそも俺達は南京錠なんて持ち合わせていないしな。
確か駐車場にした道の駅には売っていた気がするが、このためにわざわざ下に降りてまたこの長い丘を登るのは勘弁だ。
「ふうん。ここが恋人の聖地かぁ……」
妹も年頃なのだろう。こういう場所に憧れるのも分かる。
小高い展望台からは、海が水平線の先まで見渡せた。
この場所が夕日の絶景スポットであることが有名なのも頷ける。
恋人と風に揺られて綺麗な夕焼けを眺めて、愛を語らう……。
なるほど。南京錠の違和感は無視しても、間違いなくそれはロマンチックと言っていいだろう。
だが残念ながら、俺達が帰るフェリーの時刻に間に合わせるには、日が落ちるまでここで過ごすことは出来ない。
腕時計の時刻を確認すると、時刻はちょうど昼前だ。
もう少ししたらここを出ないと厳しい。
俺は展望台にぶら下がった鐘を見上げる妹を呼ぼうとして、口を開いた。
「この――」
「――ごめんね」
小さな謝罪が、風に乗って届いた。
四回目の『ごめん』に、俺は無意識で口を閉じる。
「……ねえ、兄ちゃん。この鐘、《誓いの鐘》って言うんだって。これだけは、一緒に鳴らさない?」
「……いいよ」
俺は妹の方へ歩み寄り、妹が掴んだ鐘を鳴らすためのヒモの少し上を手に取る。
「何に誓うんだ?」
「もう二度と、謝らないって」
「……」
妹が誓う謝罪とは、一体誰に対してのことだろう。
「……じゃあ、俺も」
後悔も反省もする代わりに。
二度と、謝らないように。
俺と妹は、小さな鐘を鳴らした。
***
「……お前。あの時、何に対して『ごめんね』って言ったんだ?」
鐘を鳴らし終えた俺は、あの日の謝罪について妹に尋ねた。
すると、妹はコーヒー豆を生で囓ったような顔をして、「今、それ聞くんだ?」とジト目で見つめ返してきた。
「いや。もう謝らないって誓ったんだろ? だからせっかくだし」
「何のせっかくよ。……まあ、別にいいけど。……引かない?」
「え、引くような内容なの?」
「たぶん」
ええ……。
いや、まあ。正直、聞かなくてもいいんだけど。
「……。分かった。来い」
「そんな身構えられると、告白するこっちの身も疲れるんだけど……。はあ、いいけど」
溜め息を吐いたこのかは、肩まで伸びた黒髪を風になびかせて俺を見上げる。
ごくりと、どちらかの喉が鳴る。
「……兄ちゃんが文化祭で私を守ろうとして、あの人達に暴力を振るった時。私、正直に言って嬉しかった」
このかは、続ける。
「多分、色んな感情が飛び出してたんだと思う。ぐるぐると回ってた。怖いのも出てた。でも、一番は嬉しさだった」
このかは、語る。
「だから、私は謝ったの。こんな時に、こんな感情が出るのは間違ってるから。兄ちゃんなのか、私自身なのかは分からないけど、謝るしかなかった。許せる方法も分からないけど、『ごめんね』って言うしか、私にはあの時方法がなかった」
このかは、呟く。
「兄ちゃんがあの時に何を考えたのか、この謹慎中に何を考えていたのか、北海道に来るきっかけはなんだったのかは、私は知らない。それでも、私は嬉し……かったから。だから――」
だから、このかは謝った。
《ありがとう》という感謝を抑えて。
間違った感情を抱いたことに対して。
「……でもね。兄ちゃん。この感情は、私のものだから。兄ちゃんがどうこうしようとする必要はないし、することは出来ないから。私の感情は私だけのもの。たとえ、間違っていたとしても……」
ぐいっと俺の胸ぐらを掴んだこのかは、強い眼差しで俺を射貫く。
「これだけは、誰にも――兄ちゃんにも。絶対に譲らない。変えさせない。私は、私のだから」
このかの抱く感情の正体は、俺は知らない。
それでも、俺は彼女の気持ちを自分の身勝手で判断して、変えてはいけない。
これは、多分。境目なのだろう。
俺達兄妹の、唯一の境界線。
譲れない感情の妥協点。
俺はこのかが胸ぐらを掴む手を解いて、小さく溜め息を吐いた。
「勝手にしろよ。俺ももう気にしないから」
「うん。勝手にする。元々、そのつもりだったし」
そう言ったこのかは、着ていたパーカーのポケットから南京錠を取り出すと、フェンスの空いた隙間に取り付けた。
「お前、持ってたのかよ」
「北海道に行くって聞いた時、荷物の中に自転車用の鍵を入れてきたの」
用意周到過ぎるだろ。
「はあ……。なんかすっげー疲れた。……もういいか? そろそろ港に向かわないと、受付に間に合わなくなるぞ」
「はーい。あ、兄ちゃん」
「なんだよ」
俺は展望台から降りて、石段に向かう途中で振り返る。
「カノジョと別れてって言ったら、別れてくれる?」
自分勝手過ぎるこのかに、俺は舌を出して言った。
「ごめん」
謹慎~逃避行編終わりです。
いくつか日常話をやって、あと長編は2回くらいありそう。




