第四十八話:妹と寝起き
誰でもない、何者かになりたい。
オレンジの香りがした。
柑橘類の甘酸っぱくもどこか落ち着く匂いに、俺はゆっくりと瞼を開いた。
そして、視界に飛び込んできたのは妹の寝顔だった。
「すぅ……。すぅ……」
口を半開きにして寝息を立てる妹との顔の距離は、鼻先が当たるくらいに近かった。
「……」
覚醒しきっていない頭で記憶を探ろうとすると、波の上を漂うようにベッドが揺れて思い出した。
「……そうか。フェリーに乗っていたんだった」
昨夜――すでに日が変わっていたので、正確には今夜――にフェリーに乗船した俺達は、風呂に入るとすぐに部屋に移動した。
生憎と当日のチケットが取れたのがダブルベッドの部屋だったので、俺達は二人で横になった。
もちろん、一悶着はあった。
「なんでベッドが一つしかないの」
「別にいいじゃん。横になれればなんでも」
「それでも兄ちゃんと一緒にベッドで寝るなんて……」
「昔はよく一緒に寝ただろ」
「そんな昔のことは覚えてないもん」
「じゃあ、最近の話をするか?」
「やめて」
「一緒にラブホで――」
「分かった! もう分かったから! 寝るから! 一緒のベッドで我慢するから!」
「最初からそう言えよ。こっちは運転して疲れてるんだから。もう寝るぞ」
「……うん」
「……襲うなよ?」
「襲わないよっ!? っていうか、それはこっちのセリフだから!」
「我慢してくれよ」
「この流れでそれを言われると、別の意味に聞こえるからやめて!」
結局、興奮する妹をなだめながらようやく身体を休められたのは、朝方だった。
「……今、何時だろ」
枕元に置いていたスマホを探そうとすると、「うにゃう」と謎の寝言と共に妹の足が俺の足に絡みついた。
「……こいつ、こんなに寝相、悪かったっけ」
それとも普段より大きめのベッドで寝ているせいか、身体の制限が無意識で外れて多少アグレッシブになっているだけか。
とにかく、足の拘束を解いてくれないと起き上がることも体勢を変えることもままならない。
「おい。起きろって」
「……ん。……すぅ」
気持ちよさそうに眠っている。
こいつも疲れていたのか、全く起きる気配がない。
「……。まつ毛、長いな」
何となく、思ったことを呟いてみる。
こうして眠っている妹の顔を見ると、まだまだ子供だなと思ってしまう。
歳を取って、生意気になったところで。
思春期になって、身体と心が成長したところで。
来年高校生になる目前で、大人ぶったところで。
見栄や虚勢を張って、背伸びをしたところで。
結局のところ、こいつは。
まだ、小さいんだ。
「……我慢、ねえ」
鼻をくっつけてみる。
近い。
はらりと額に落ちた妹の前髪と、俺の前髪が交差する。
近い。
もう少しだけ、顔を寄せれば唇が触れそうな距離だ。
……けれど、遠い。
近すぎるゆえに、近い関係だからこそ。
とてつもなく、果てしなく。
――遠い。
「……すぅ」
このかの吐息が俺の唇にかかる。
「……このか」
妹を呼ぶ。だが、彼女は起きない。
それなら、今の俺に出来ることは。
「――てぃ」
ビシッと。
このかの額に、思い切りデコピンを放った。
「ったぁ!?」
カッと効果音が入りそうなほど、勢いよく開眼したこのかは、上半身を起こした。
だが、このかの足は俺の足に絡まっているので、「うわっ」と体勢を崩して前のめりに倒れた。
「おはよう。起きたか」
「……おはよ。あと、痛いんだけど」
「お前が俺の足を拘束するからだ。それより腹減った。飯にしよう」
「……うー」
俺はベッドから退いて、顔を洗うためのタオルをバッグから取り出す。
そうしてタオルを背後のこのかに放る。
「顔洗って眠気でも覚ましてこい」
「ん……」
タオルを持って部屋から出ようとするこのかは、一度俺の方を見た。
「……なんだよ」
「……なーんも。……。………チキン」
「朝飯にからあげは重いな」
「ばーか」
小さく舌打ちをしたこのかは、部屋から出て行く。
その後ろ姿を見送った俺は、まだこのかの体温が残るベッドに横になる。
「バカはお前だよ」
嘘の寝息なんか、バレバレなんだよ。
本編のフェリーの部屋はフィクションです。
実在のフェリーとは関係ありません。




