第四十六話:妹と希望
何よりも誰よりも。
君が怖い。
「終わらない絶望よりも、始まらない希望の方が何よりも絶望的だと思わないかい?」
彼女が何を言いたいのか、俺はこの時分からなかった。
バイト先の先輩である彼女――菅谷姿は独白するように続ける。
「少年。君は自分が壊れているのだと思っているのだろう。それはある意味で正しく、ある意味で不正解だ」
不知火書店の初日のバイトを終えて、スタッフルームで帰宅の準備をしていた俺に向かって言う。
「最初から短針がない時計は壊れていると言っていいのだろうか。いいや、違うね。それは清々しいほどに壊れていない。完成品だ」
そこで俺はようやく背後を振り返った。
パイプ椅子に腰かけた菅谷姿は、まるで赤信号の横断歩道を渡る子供を眺めるような目で俺を見つめる。
「君は、壊れていない。過去に壊れたのでも、最初から欠損しているわけでもない」
俺はやっと気が付いた。
彼女が何を言いたいのか。俺に何を伝えようとしているのか。
「君は、生まれた時点で普通じゃないんだよ」
俺はこの時、初めて自覚した。
菅谷姿という人物に出会ったのは、紛れもない絶望であったと。
菅谷姿という人物は、清々しいほどに絶望である。
「おいおい、そんな絶望的な顔をするなよ。もっと清々しく笑おうぜ少年」
「事前連絡もなしに、大量のエロゲーを持ってきて俺の家に押し入って来た人を、希望で受け入れる器量は俺にはありません」
まだ日も上り切っていない午前十時。
秋晴れの澄み切った晴天の日に、菅谷姿が訪問してきた。
すでに妹は登校し、両親も仕事に出かけており、家には俺だけだった。
まだ自宅謹慎中の俺は、よっぽどのことがない限りは外出は禁じられている。
とはいえ、別に監禁されているわけではないので、外に出ようと思えば出られるのだが、何となくこの一週間は家から出る気がしなく、今日もソファに寝転がってゲームか読書でもしていようかと思っていた時。
「よお、少年。菅谷姿さんが、わざわざバイトをサボってやって来たぜ」
当たり前のように。
ごくごく自然のように。
息をするかのように。
白の七分丈のシャツと黒のデニムパンツを穿いた菅谷姿がリビングのドアを開けて入って来た。
まず、分からなかったことがある。
玄関ドアはカギがかかっていた。もちろん俺に開錠した記憶はない。
「おいおい、少年。私に、この菅谷姿に。一般家庭のカギが通用すると思ったのか?」
答えになっていない答えに辟易しながら、俺は続いて別の質問を投げる
「玄関のチャイム? 鳴らしてないよ。鳴らすわけないだろ。私の登場は私が決める。チャイム如きに私の登場を奪われてたまるものか」
辞書に書かれた文法のように言う彼女に、質問を続ける。
「バイトをサボっていいのかって? おいおい少年。いつからそんなブラック思考になったんだ? いいんだよ、仕事はサボっても。それで私が死ぬわけじゃないし。店長は疲労で死ぬかもしれないけど」
フリーターである菅谷姿を縛ることはできない。店長はきっと代わりの人間を探すだろう。というか、姿さんのことだ。サボったと言いつつ、代理人を寄越しているはず。そう信じたい。
そして、最後の質問である。
「おいおい少年。そんな絶望したような顔で聞くなって。私が少年の家に遊びに来た理由? んなの決まってるだろ」
そう言って、菅谷姿はソファに腰かける俺を見下ろして言う。
「お前に反省ってやつをさせるために来た」
反省はしても、後悔はしない。
後悔はしても、反省はしない。
さて、この時の俺がすべき行動は。
――果たしてどちらだろうか。
「少年。気に入ったゲームがあったら、好きなだけ持って行っていいぞ」
「いや、大丈夫です」
「遠慮するなって。姿さんには分かってる。ここ一週間くらい引きこもってるんだろ? なら溜まるもんも溜まってるだろ。放出しちまえよ」
A4サイズくらいの箱を押し付けられながら、デジャブを感じる。
そう言えば、七神直人が来た時もそんなことを言っていた。
……俺って、そんなに欲求不満に見えるのだろうか。
というか、姿さんが持ってきたエロゲーはどれもタイトルに《妹》が付いているものばかりで、これはきっと単なる嫌がらせだろう。
流石にこいつばかりは受け取れないので、頑なに拒否をする。
「だからいらないですって。そもそも、未成年にこういうゲームを薦めないでください」
「真面目ぶるなあ少年。今はガキがガキを作る時代なんだ。頭固くするくらいなら、別のところ固くしろよ」
最低な下ネタだった。
それでも俺がエロゲーの箱を突き返すと、渋りながらも姿さんは受け取る。
「……まあ、ぶっちゃけこれは単なる土産だから。少年が要らないって言うなら持って帰って、サムライガールにでもあげるかな。最近、パソコンを覚えて何かゲームがしたいって言ってたから、ちょうどいいだろ」
パソコン覚えたての少女にエロゲーを渡すのか、この人。まあ、あの人なら別にいいか。
「さて、少年。じゃあ、この一週間。家に引きこもって何をしていたんだ?」
「……。何って……」
何もしていない。
ただ、家にいて。妹と会話して、友達と雑談して、妹の後輩の相談に乗っていた。
何もない。何も変わらない日常を過ごしていた。
――あんなことをしておいて。
――あんなことをしでかしておいて。
俺は、何もしていなかった。
「……そもそも。少年は、なんで一週間も自宅謹慎を受けたんだ?」
リビングのテーブルに背を預ける姿さんは、どこか気だるげに問う。
「姿さんは、知ってるでしょ」
「確かに私は知っている。だけど、私が知っているのは結果だけだ。清々しい事実は、君しか知らない」
「……それで十分でしょう」
「私は、少年の口から聞きたい」
――つくづく。この人は、苦手だ。
俺が見ようとしないモノを、無理やりにでも見せてくる。
正解を突きつけてくる。
姿さんから逃げるのは不可能だということを、俺は痛いほどよく知っている。
ティンダロスの犬の如く、どこまでもいつまでも俺に正当を求めてくる。
逃れられない希望。果たせない絶望。
その場に留まることを許さない菅谷姿は、俺に問いかける。
……なるほど、反省ね。
俺は目を閉じて、思い出す。
文化祭二日目。何が起きて、何をしたのか。
断片的に記憶の中に映るシーンを、言葉にして吐き出す。
「……俺は。人を、殴りました」
――あの日。
俺は、大学生の男を三人殴った。
動かなくなるまで殴った。彼らも抵抗したが、一切の合切の容赦のない拳は、それを一撃で沈める。
手加減という手加減を。
躊躇という躊躇を。
容赦という容赦を。
嗚咽という嗚咽を。
謝罪という謝罪を。
非難という非難を。
自分の理性を。
彼らの後悔を。
全てという全てを無視し、俺は彼らを支配した。
「ふうん」
つまらなそうに姿さんは頷く。
「それで?」
後で聞いた話だが、彼らは俺の高校のOBで、毎年文化祭に来る常連だったらしい。
そして気弱な学生に狙いを付けて、カツアゲ等の軽犯罪を繰り返していたらしい。
だから、というわけではないだろうが、俺の処分は退学ではなく停学。
一週間の自宅謹慎を言い渡された。
彼らも一か月程度の入院を余儀なくされたらしい。
「それで?」
それだけ。それが全て。
「違うだろ。少年が暴行を振るったのは、ただの結果だ。事実がそうとは限らない」
「……事実も同じですよ」
「少年。君は気付いているんだろう?」
気付かない。
「君は、妹ちゃんがケガをすると思った」
分からない。
「だから殴った。助けた。過剰に。人間が、普通が、絶対に超えられない壁を越えて」
知らない。
「それは、普通じゃない。人が人を助けるには理性がある。だけど、君にはそれがなかった。いいや、違うな」
違わない。
何も、違わない。
「君は、妹ちゃんを助けるためなら――何でもする。それが、普通ではない」
……。俺は何も言わない。
「少年。君は、中学時代の時から何も変わっていないんだよ。反省も後悔もしなかったからこそ、変われなかった」
……変わらない。変わったと思いたかった。
「だからこそ、反省すべきなんだよ。このままだと、君は――」
その次の姿さんの言葉は。きっと俺にとって。
「いずれ、妹ちゃんすら傷つける」
希望以上の絶望だった。
***
「ただいまー。……何してんの、兄ちゃん」
俺はリビングで修学旅行の時に使ったボストンバッグに着替えを入れる。
下着と寝間着を丸めてバッグに詰め込みながら、答える。
「荷作り」
「どこか行くの?」
「ちょっとな」
「ふうん」
まあ、こんなもんか。
他に必要なものはありそうだけど、それは後で買えばいいだけの話だ。
さて、と。
俺は背後のこのかに振り返る。
当然ながら制服姿のままのこのかは、キッチンで冷蔵庫を開けて牛乳を取り出してコップに注いでいた。
腰に手を当てて牛乳を飲むこのかを眺めながら、俺は立ち上がる。
「じゃ、このか。行くぞ」
「……? どこに?」
牛乳を飲み終えて、口の周りが少し白くなったこのかが首を傾げる。
そして、俺はボストンバッグを抱えて言った。
「駆け落ちしよう」
「ところで、姿さんのおすすめのエロゲーはどれですか?」
「そうだな。姿さん的には、清々しいほどに《車輪》がおすすめだな。もし少年が『俺つえー』系が好きなのであれば、《暁》とか《グリかじ》がいいと思うぞ。そうそう、この間アニメ化した《ノラ》も姿さん的には清々しくピュアになれる作品であって――」
この後、姿トークが三時間ほど続いたのは秘密である。




