第三十九話:妹と文化祭―前編―
君の幸せは、誰かの不幸で成り立っている。
文化祭2日目。
この日は昨日の晴天が嘘だったかのように、ネズミ色の空をしていた。
天気予報では今夜が大雨らしく、日中の曇天はむしろ不幸中の幸いだったのかもしれない。
日曜日に学校に出かけるという違和感を抱えながら、俺は自宅の玄関で靴を履いていると、背後から妹の声が聞こえた。
「兄ちゃん。今日は空子とカグヤと一緒に行くから」
「そうか」
「兄ちゃん、確か午前中はクラスの手伝いやるんだっけ?」
「ああ」
「じゃあ、終わったら連絡して」
「……分かった」
曖昧に妹に返答していると、ぐいっと襟を引っ張られ、背中を廊下に打ち付けられた。
視界が逆さまの状態で、妹の顔を見上げる。
「いってぇな……何すんだよ」
「……変な顔」
膝を突いた妹が無表情で呟く。
「今まで見たことない顔してる。心、ここにあらずっていうか。なんていうか」
「なんだそれ」
「分かんない。例えるなら、『全世界の女子がトキめいた、青春ラブストーリーの映画を見に行ったら、観客が全員八十歳以上のお爺さんしかいなかった』って顔してる」
「いや、意味分かんねえよ」
「……まあ、いいや。兄ちゃん、遅刻するよ?」
「誰のせいだよ」
上半身を起こして靴を履くと、玄関のドアを開け――ようとして、手を止めた。
「……あのさ」
「なに?」
「……何でもない。じゃ、行ってきます」
俺は妹から逃げるように玄関のドアをくぐり、家の前の自転車置き場に向かう。
……彼女が出来たなんて、わざわざ妹に言う必要はない。
言ってもいいけど、言わなくてもいい。
それなら、言わない。言わなくても別に変わらないだろう。
変わらない。兄妹の関係は、何も変わらない。
「……なのに、なんでこんなイラつくんだろうな」
時計を見ると、かなり遅刻ギリギリの時間だったが、何となく歩きたい気持ちだったので、遅刻覚悟で歩いて学校に向かった。
当然の如く朝のHRに間に合わなかったので、仕方なく文化祭の開場まではどこかで時間を潰そうと思い、中庭まで気ままに足を運ぶと、自販機の前で七神直斗が土下座をしていた。
「……」
ついに自販機に土下座か。確かに今は電脳戦しかりIoTしかり、人間の力を凌駕し始めたロボット社会だが、まさか自販機に屈する人間が現れるとは。
未来の人間とロボットの縮図を見ているかのような感傷に浸っていると、七神は「うっし! やっと取れた!」と自販機の下に入れていた腕を引き抜いた。
「あーあ。制服が泥だらけになっちまった……ん? おー、何してんの、お前。こんな所で」
俺に気付いた七神が、制服の泥を払い落としながらこちらを見る。
「いやいや、七神こそ何してんだよ。俺に未来の縮図を見せやがって」
「は? いや、それが自販機でジュース飲もうと思ったら、小銭落としちゃってさ。中々届かなくて四苦三十六してたところなんだよ」
「それを言うなら四苦八苦だろ?」
「あん? お前アホか? 九九も忘れたのか? 4×9は36だろ。寝ぼけてんのか?」
「……お前がそう思うなら、そうなんだろうな」
朝からツッコミは疲れるのでスルーする。うん、こういうアホにはロボットの助けは大事だろう。
七神はコインを投入してジュースを買う。ペットボトルの蓋を開けて一気飲みすると、「あーあ。HR始まっちまったよ」と肩をすくめる。
「そう言えば、お前が遅刻なんて珍しいな」
「まあ、徒歩で来たからな」
「は? いや、お前んちから学校まで歩いたら一時間くらい掛かるだろ?」
「歩きたかったんだよ。何となくな」
「ふうん?」
大した興味を見せることなく、七神はジュースに蓋を閉めて、俺に放った。
「飲め」
「いや、いらんよ」
「いいから」
「……?」
まあ、少しだけ喉が渇いていたし、ありがたく貰うとしよう。
俺は一口だけジュースを喉に流し込み、七神に手渡しで返す。
「ありがと――」
「……お前さ。笹倉と付き合うことにしたんだって?」
……。ああ、そういうことか。
「笹倉さんに聞いたのか?」
「まあ、な。一応、俺、仲立ちしてたしな。恋のキュー……キュー、とバット? ってやつだからな」
どんな奴だよ。
俺は首の後ろを掻きながら「そっか」と小さく呟く。
「本来なら俺から伝えるべきだったよな。悪い、今日会ったら伝えようと思って――」
「いや、それは良いんだ。良いんだけど、俺としても嬉しいんだけど。何だろうな、応援してた身で言うのも何だけど……」
ジッと俺を見つめた七神が、言葉を選んでいるかのように言いよどむ。
そして、まるで言葉をタイピングしているかのようにゆっくりと紡ぐように言った。
「……お前、無理して進んでるわけじゃないよな?」
七神の、言っている意味が、分からなかった。
言葉の間違いなんかじゃない。まるで七神の言いたいことが、分からなかった。
「なんだよ、無理してって。俺が女の子と付き合うのがおかしいのか?」
「……そうだな。俺の嫉妬かも知れない。俺より先に彼女出来て、これからクリスマスに向けてラブソングを作り始めるお前が、少しだけ羨ましかったのかも知れないな」
いや、作らねえし歌わないけど。
「……とにかく、おめでとう。ラブソング出来たら、俺にも聞かせてくれよ」
いや、聞かせないし、作らないから。
ポンと俺の肩を叩いた七神が踵を返し始めたので、「おい、ジュース」と受け取らなかったドリンクを投げようとしたが、
「いいよ。俺からのお祝いだ。まあ、今日の文化祭も楽しもうぜ」
と言って中庭から校舎の方へ入って行ってしまった。
「……飲みかけのジュースがお祝いかよ」
俺は残りのジュースを飲み干すと、ゴミ箱に投げ入れた。
「……無理なんか、してねえよ」
どんよりとした灰色の空気が、とても気持ちが悪かった。
長くなってしまったので、分割します。
文化祭編も残り少し。




