第三十八話:文化祭と恋愛
悩める、迷えるってことは贅沢なことだ。
だって君には選択肢があるんだから。
「私ね、昔からお祭りって嫌いなんだ」
隣で歩く見慣れた制服姿に着替えた笹倉桜さんが、俺を横目で見ながら言った。
「嫌いっていうか、苦手? 何ていうか、お祭りが終わった後の虚無感が慣れなくてね」
何となく分かる気がする。
特別から普通へのリターン。
非日常からの日常への帰還。
それは打ち上げ花火のように、パッと咲いて散る一瞬の儚さ。
「最初からそんな感情になるくらいなら、参加なんてしたくない。自分が主役になるくらいなら、裏方でいい。私はいつしかそんな風に生きて来たんだと思う」
そんな風に独白する彼女のセリフには、何故サッカー部のマネージャーを選んだのかを語っているような気がした。
だが、本心は知らない。俺には分からない。
――おそらく、彼女自身も。
「あなたにとって、兄君はなんですか?」
笹倉さんは菅谷姿さんに向かってそう尋ねた。
挨拶も自己紹介よりも優先したその質問を清々しく受け止めた姿さんは、「ふっ」と鼻で笑って答える。
「清々しいほどに無価値なバイトの先輩後輩の関係だよ。あるいは話を交わす程度の友人、もしくは知人。互いの名前と性別以外を知らない、知る気もないただの無関係さ」
そう清々しく俺との関係を並べた姿さんに、俺はズキリと胸が痛んだ。
いや、分かってたけどさ。
この人にとって、俺という存在はただの退屈潰しの玩具だってことを。
それでも、姿さんの口から俺との関係を口にすることなんて滅多にないものだから、勝手に期待してしまう。
勝手に信頼して、勝手に裏切られる。
所詮、俺のこの感情は身勝手なものなのだ。
……いや。自分の感情なんて、そもそも自分勝手なものか。
「そう、ですか……」
サッカーボールの着ぐるみを被ったまま、笹倉さんは歯切れの悪そうに飲み込む。
「だが――」と姿さんの回答は続いた。
「私は少年のこと以外の全てを知っているよ。少年の知らないことを全て知っている。ただ、それだけの関係というわけだよ」
「……」
無言。息を飲む音すら聞こえない無音が廊下を支配する。
そして、姿さんは続ける。
容赦ない言葉を、彼女にぶつける。
「さて、君は……。少年を知っているらしい、君は。――本当に少年のことを知っているのかい?」
そうして、まるでサッカーボールの中の笹倉さんの表情を見透かすように笑うと、
「……ふむ、少年。私はこれで帰るよ。中々青春らしい青春を楽しませてくれた。清々しいことこの上なしだよ」
そう言って姿さんは、満足げに踵を返してその場から去って行った。
――あの人、何がしたかったのだろう。
文化祭をただ見に来ただけなのか、それとも本当に暇つぶしだったのか。
「……好きな人のことを知りたいと思うのは、当たり前の普通のこと」
ポツリと笹倉さんが呟く。
「だけど、好きな人の知らないことを知りたいと思うのは、きっと愛なんだと思う」
誰もいない廊下で立ち止まった笹倉さんは、俺の前に立つ。
「ねえ、兄君はさ。好きな人っているの?」
人混みから離れた校舎。文化祭の出し物の区域外の、普段の学校生活でも中々足を運ばない校舎の隅っこで。
遠くの喧噪が足音でかき消されるほど静寂に包まれた廊下で、笹倉さんは俺に尋ねた。
「今じゃなくてもいい。過去でも、未来でもいい。好きになる可能性のある人、あった人っているのかな」
「いないよ」
即答した。迷うことなく、惑うことなく、躊躇うことも怯えることなく、言い切った。
いつの日だったか。ふと妹と交わした会話が脳裏を過る。
『兄ちゃんって、好きな人いるの?』
『いるよ』
「――俺には、恋愛とかよく分からないから」
『人を好きになるってことは、自分のことを知ることなんだと思う』
だからこそ、俺には分からない。
分かりたくない。
知りたく、ないのだろう。
ずっと昔から。それこそ、笹倉桜という少女が、お祭りを嫌うように。
俺という人間は、自分と恋愛を嫌う。
「……それならさ。やっぱり私と付き合おうよ」
笹倉さんはくいっと俺のシャツの裾を引っ張る。
「私が教えてあげる。君のこと。私の知っている君のこと。私の知らない君のこと。全部。ぜーんぶ」
「……」
何故だろう。この人は。どうして。
「あのさ、笹倉さん。一つ聞きたいんだけど」
「うん? いいよ。ちなみに白だよ」
「え、何が?」
「私の今日の下着の色」
ひらりとスカートの裾を上げる笹倉さん。
「なんで俺がこのシリアスな空気で、同級生の女の子の下着の色を聞くと思ったんだよ!」
「知ったら兄君が嬉しいと思って」
「そりゃ可愛い女の子の下着の色が知れたら、それはそれでハッピーだけどもさ!」
「あ、私のこと、可愛いって思ってくれたんだ。嬉しいな」
ニコリと俺に微笑む笹倉さん。
はあ……何だろう。調子が狂う。この子、こんな感じの雰囲気だっただろうか。
まるでどこかで頭のネジを落としたみたいだ。
いや、どちらかと言えば……元々ネジを失くしていた?
俺は溜め息を吐いて、笹倉さんに言う。
「そうじゃなくて。笹倉さんは、俺のどこが好きになったの?」
自分で言うのもなんだが、人に好かれる性格をしていないと思う。
それもクラスも違うし、間接的な付き合いでいえば彼女の所属しているサッカー部に友達がいる程度。
言うならば、友達の友達。同じ高校というだけの無関係。
それなのに、彼女は俺に好意を持った。その理由――原因を知りたかった。
「うーん。まずは顔、かな。カッコいいし。あとは身長! すらっとしていて横に並んだ時、ちょうどいい身長差なんだよね」
「……」
「……あー。冗談だよ、冗談。いや、嘘じゃないんだけどね!? それも立派な理由なんだけど! えっとね、きっかけは……そうだな」
頬を掻きながら、まるで苦いチョコを口に放り込んだような表情で笑った。
「私に、興味を持たなかったから……かな」
「……興味?」
「うん。ねえ、知ってた? 私と君、入試の時に隣の席だったんだよ」
「へえ……」
それは知らなかった。というか、普通覚えていないだろう。
「入試が終わった後に、一緒にご飯を食べに行ったよね」
「へえ……」
覚えていない。いつ誰とご飯に行ったかなんてどうでもいいだろう。
「一年生の時に同じクラスだったのは驚いたなあ。あ、それでお互い色々と話したよね。覚えてる?」
「もちろん」
覚えていない。何一つ、覚えていない。
「……それで、色々と話して。それでも、ふと気づいたの。君の視界に、私は映っていても。記憶には何一つ残っていないことを」
「……」
それは、きっと同じだから。
言葉を交わしても。どれだけ一緒に過ごしていても。
喩えるならば、それは大好きな缶コーヒー。
毎日同じメーカーの缶コーヒーを飲んだとしても、パッケージに印刷された原材料までは覚えていない。
数回は見ただろう。それでも気にも留めない。覚える気がない。
人も同じ。覚える気がなければ、興味があろうとなかろうと。それは記憶には残らない。
「私ね。それが悔しかった。それでいつしか、この人に私を認めてもらいたい。知ってもらいたいっていう感情になった。多分、それが好きになった理由……」
知ってもらいたい思いが、願いが、消化されずに昇華されて恋になる。
そして俺は、いつしか彼女のことを知りたくなった。
普通な彼女が、普通ではなくなった彼女を。
――それを、恋と。呼んでいいのだろうか。
「……」
じっと笹倉さんを見つめる。
抱きしめたいと思った。細い身体を思い切り抱きしめてみたいと思った。
――なので、抱きしめてみた。
「うわっ!? え、ちょ、ふへっ!?」
腕の中で小さなパニックを起こす笹倉さんが、おずおずと俺の背中に腕を回した。
「……ど、どうした、の?」
「……何となく。してみたかった」
「そっか。何となく、かあ」
「うん。何となく」
これが恋だというなら、それもいいのだろう。
「……笹倉さん。俺、好きとかよく分からないけど」
「うん」
「試しながらでもいいのなら」
「うん」
「付き合おっか」
「うん。うんっ」
この日、俺に初めての彼女が出来た。
そして――。
二日目の文化祭が始まる。
気が付けばもう50話達成していた……。
早く一話完結に戻したい。




