第五話:妹と料理
あなたの好きな食べ物はなんですか?
そんなことより踊りませんか。
俺の妹、このかは《料理》を知らない。
いや、料理というものがどういう意味で概念的なものは知っているだろうが、
こと具体的に《料理とは》を尋ねてもきっと俺の期待する答えは返ってこない。
例えば、子供に《宇宙とは何だ》と聞けば、「とにかく広くて星がたくさんあるもの」と答えるだろう。
だが、物理学者に同じ問いをしたところで、返ってくる答えはきっと専門用語がふんだんに含まれた呪文のようなものだろう。
ではその二つの回答を聞いた上で、果たして子供の回答は《宇宙》について知っていると言えるのだろうか。
知識ではなく、感覚。
感覚ではなく、知識。
俺の妹は、《料理》というものを知らない。
悲劇は突如として、俺の平和な日常を壊した。
前触れもなく。理不尽に。陵辱していった。
「今日は、私が夕ご飯作るから」
最初、何を言っているのか分からなかった。
まるで異世界に転移したかのように、彼女の言葉の意味が分からなかった。
俺の耳が、声を拒んでいた。
俺の脳が、理解を拒んでいた。
「……? 聞いてる? 今日は私がご飯を作るからね」
妹は呪いの言葉を反芻する。
俺はリビングのソファーに腰掛けたまま、壊れかけの人形のようにゆっくりと首を回して、
背後のキッチンに立つ妹に振り返る。
「……なんで?」
ようやく絞り出した疑問に、だがこのかは呆れたように肩をすくめて、
「はあ……。昨日、聞いてなかったの? 今日と明日の土日は、お母さん達が仕事で出張だからって
ご飯は自分たちで作るようにって言ってたじゃない」
それは知っている。
俺達で作っても、外食してもいいようにその分の食費は貰ってるからな。
だからと言って、お前が料理をするという答えには至らない。
「いや、待て待て。整理させてくれ。まず、前提。なぜに自分達でご飯を作らないといけないんだ?
別に外食でもいいだろ。外食でなくてもコンビニ弁当とかでもいいはずだ」
「それはそうだけど……。でもやっぱり外食やコンビニ弁当は高いし。お母さんが、余ったお金は
そのままお小遣いにしていいって言うから……。ちょっと、欲しい服あるし」
最後に小声でぼそりと言ったのが本音なのだろう。
まあ、いい。それに関しては俺も同意見だ。
俺も出来るだけ食費を抑えて、本やゲームに使いたいしな。
「オーケイ。このかの言い分は分かった。じゃあ、ご飯は家で作るとして――」
そこで俺は一度言葉を切って、言う。
「――なぜにお前が作るんだ?」
暗黒歴史。追憶の悲劇。後悔と積年のリバイバル。
つまりは、トラウマである。
俺はかつて、一度だけこのかの作る料理を食べたことがある。
いや、あれは最早食事ではなく拷問だった。
何の気まぐれか、このかがキッチンに立って言った。
『今日はお母さん達いないし、私がご飯作るから』
そう、あの日も今日と似たようなシチュエーションだった。
その時は俺もバイトで疲れていたためか、『おおー』と空返事をしてしまった。
『で、兄ちゃん。何食べたい?』
『そうだな……』
何を食べたいか、何を食べるべきか。
迷った時は自分の好きな食べ物を食えとは俺の持論だ。
『オムライスかな』
『兄ちゃん、オムライス好きだよね-。分かった、作るよ』
そして……俺はこの日以降、妹に料理を頼まなくなった。
嗅げば今世を諦めたくなるほどの激臭。
スプーンを掬えば、ボロりと崩れ落ちる卵。
パサパサとして思わず農家の人達に土下座したくなる米。
そして極めつけは、皿の中心に置かれたオムライスを囲むように氷が敷き詰められていた。
(ちなみに氷を置いた理由を聞いたら、「猫舌の人でもすぐに食べられるように」とのこと。ああ、神様……)
好きな食べ物を、不味いと思ってしまう自分自身に嫌悪をしてしまい、
あれからオムライスをおいしい食べ物と認識し直せるまで、だいぶ時間がかかった。
もうあんな思いはしたくない!
「ご飯なら俺が作る。だからお前は作るな、いいな?」
釘を刺すように妹に言うと、このかは唇を尖らせる。
「なに? 人がせっかく作るって言ってんのに。その言い方はないんじゃない?」
「うるせぇ。いいから俺が作るってんだよ」
「私が作るの! いいじゃん、たまには! 材料費も私が全部払うし!」
「……マジで?」
ということは、俺の貰った分の食費はそのまま小遣いに充てられるってことか……?
そういや、欲しかったゲームソフトの発売日が明後日だったな。
……心が、揺らぐ。
「……分かった。じゃあ、今回はこのかに任せる」
「最初からそうしとけばいいの。全く」
何の気まぐれかは知らないが、とにかくこのかが料理をすることは避けられないようだ。
ならば、俺は妹が作る料理くらいは外れないように誘導せねばならない。
言うならばこれは神の選択。
簡単なものをリクエストすれば、多少物足りなさはあるが大外れは引きにくい。
逆に凝った料理をリクエストすれば、前回のようにダークマターが生まれかねない。
……運命の決断。
「……このか、ご飯のリクエストだが、俺は――」
「はいはい、分かってるって」
俺の言葉を遮り、このかは冷蔵庫から卵を一つ取り出して、
「――オムライスでしょ? 作ってあげるから、そこで待ってて」
神は、死んだ。