第三十四話:妹の後輩とトイレの神様
秘密と信頼は、人に知られるほど信用がなくなる。
個室のトイレほど気軽に誰でも落ち着く空間はないだろう。
扉一枚を挟んだだけではなく、ちょうどいい狭い空間がそう感じさせるのかもしれない。
もしくはトイレで用を足すという行為自体が、無防備を晒しているという意味もあるのかもしれない。
とにはかくにも。
その理論は結局のところ――。
一人であることが大前提である。
「……」
「……」
便器に座る俺と扉を開けた少女の視線がかみ合う。
首元で二つに結んだ黒髪。どこか頭の悪そうなタヌキ顔。小柄で華奢な体躯。
妹の後輩であり、またの名を《壊れたラジオ》こと久々野空子はゆっくりと二回だけ瞬きする。
何かを言おうとして、小さな口を開いた瞬間、廊下の奥から妹の声が降ってきた。
「あ、空子ーっ。トイレットペーパーの予備ってあったー?」
階段を降りてくる妹の足音が俺の心臓の早鐘を助長させる。
……まずい。
このシチュエーションを他人に見られるのはかなりまずい。
いや、十二分にこの状況は誰が見てもアウトであり、イエローカードに匹敵し、4ファウルに相違ないけれども。
まだ救済の余地はある。言い逃れ出来る可能性はある。
だが、他人に――特に妹に見られたのならば、それは紛れもないジ・エンドである。
「……」
そんな俺の青い表情を察してか、妹の声に弾かれたように、久々野ちゃんは慌てた様子で俺から視線を逸らして、声のした方に向かって返答する。
「だ、大丈夫ですよー、このか先輩! 予備どころか潤沢にトイレットペーパーがありましたっ! むしろあり過ぎるくらいです!」
「あ、そう……?」
妹の階段を降りる足音が止まる。
この勢いを殺さずに、まくし立てる久々野ちゃん。
「ええっ! もうトイレットペーパーだらけですよ、このトイレ! 最早トイレットペーパーしかないってくらいのトイレですよ! トイレットペーパーの妖精が住んでいると言われても不思議じゃないくらいのトイレットペーパーぶりですよ!」
「いやいや。それは最早トイレじゃないんじゃないの……?」
妹が一段だけ降りる音がした。
おいおい、過剰な否定はかえって不自然だ。
流石に久々野ちゃんも言い過ぎたと思ったのか、「すみません、このか先輩! 私もう漏れそうなので入ります!」とドアを閉めてしまった。
妹から隠れるように。
自分をトイレの個室の中に押し込むように。
俺が中にいるにも関わらず。
久々野空子は、トイレの個室に入って来た。
……いやいやいや!
「……兄先輩。お邪魔します」
「いや、なんでだよ!?」
大きな声で叫びたかったが、必死にその声を喉の奥に閉じ込めてボリュームを下げて突っ込む。
「普通入るか? 入っちゃうか? 入っちゃいますか?」
「えー。だって、私もトイレに行きたかったですし……」
「それは分かる。誰だってトイレに行きたいと思うし、もちろん自由にトイレに行くべきだ。その権利は誰にでもあるし、トイレは誰も拒まない。だけどな久々野ちゃん。このトイレ、一人用なんだ」
「はあ。でもでも、ほら、兄先輩の足を大きく開けば、私も座れると思いますよ?」
「確かに物理的に座れるスペースはあるだろうけど、精神的に座るスペースではないと思うぞ」
「ワガママだなあ……」
「え、なに? これって俺が悪いの?」
――冷静になろう。
ここは狭いトイレの個室で、その中に二人は入れない。そもそも入るものでもない。
もちろんのこと、先客――という使い道が正しいかどうかはおいておいて――である俺は、便座に座ってもちろんズボンとパンツを下ろしている。
それに対して、久々野ちゃんは俺の足の間に割り入るような形で俺を見下ろしている。
改めて考えてみたものの、冷静に俯瞰してみたものの……心を冷却し落ち着いてみたものの。
……冷静に、なれるはずが、なかった。
「それはそうと。一つ質問よろしいでしょうか、兄先輩?」
いつものピーキーな声を抑えて、久々野ちゃんが首を傾げて言う。
「兄先輩は、トイレでしているところを見られるのが趣味だったりするんですか?」
「なわけねえだろっ」
ひどい誤解だった。
「はあ。ではどうしてこんな状況に? 何故に私は兄先輩の露出した下半身を直視し続けなければならないんですかね?」
「別に直視し続ける必要はないと思うけど!?」
「でもせっかくですし?」
「何がせっかくなんだよ!?」
意味が分からなかった。
ひとまず俺の出す物は出していないが、このまま女子中学生に年頃の異性の下半身を見られるわけにはいかないので、一旦久々野ちゃんには目を瞑ってもらい、素早くパンツとズボンを穿いた。
「というか、兄先輩。ノックをしなかった私が悪いのかもしれませんけど。普通、家のトイレに入る際も鍵をした方がいいですよ? それとも日常的にいつ、このか先輩に見られるかどうかのドキドキを楽しんでいたんでしょうか? それならばすみません、兄先輩のお楽しみを奪ってしまいましたね」
「いや、普通に鍵が壊れたんだよ。鍵を閉めないわけでも、閉め忘れたわけでもなく。鍵が鍵としての性能を発揮してくれなかったんだよ」
「ほんとですかぁ~?」
「嘘言ってどうするんだよっ」
「まあ、いいでしょう。そういうことにしておきましょう。私は心が大きい女ですからね!」
自らの胸に手を当てて言う久々野ちゃんだが、心が大きい女は普通、先客がいるにも関わらず個室トイレに入って来ないと思うぞ。
まあ、とはいえ誤解は解けたのですぐにでもトイレから出て行ってもらおう。
最早俺の便意などどこかに行ってしまったが、このまま狭い個室に二人がいる状況はどうにも落ち着かない。
俺は小さく溜め息を吐いて久々野ちゃんを見上げる。
「久々野ちゃん。納得したなら早く出て行ってくれよ」
「仕方ないですね……」
何が仕方ないというのかが分からないけれど、頷いた久々野ちゃんは回れ右してドアノブに手をかける瞬間――。
「くーちゃん、くーちゃん! 今、飲み物取りに来たらね、キッチンの冷凍庫にアイスがあったよーっ!」
ドンドンとドアを叩く音と合わせて、幼い声が聞こえてきた。
この声は加賀美・カトリーヌ・カグヤ……妹の同級生のものだ。
「多分、このかのお兄さんが買って来てくれたやつだね! 色々な種類があったんだけど、くーちゃんは何が食べたい? カップ系? コーン系?」
「あー、えーっと……」
バッドタイミングの質問に、ドアノブに手を掛けたまま久々野ちゃんがこちらに振り返り、小声で尋ねてくる。
「……今この場で出て行くのは、まずいですよね?」
「俺と久々野ちゃんの社会性が死ぬということを除けば、まずくはないな」
「はい、それは間違いなくまずいですね」
「……? くーちゃん、何がまずいのー? アイス、嫌いだったっけ?」
薄いドア一枚で声が漏れてしまったのか、ドア越しの加賀美ちゃんが聞いてきた。
ぎくりと肩を震わせた久々野ちゃん。
「なんでもありませんよ! 先に食べてて大丈夫ですよー」
「うん、じゃあくーちゃんの分は残しておくね? くーちゃんのは何を残しておけばいいかなあ?」
久々野ちゃんはボリュームを落として俺に囁いてくる。
「兄先輩。買って来たアイスってどんなのがあります?」
「あー。バニラのカップアイスと、チョココーン、あとはミントのアイスバーとアイス大福だな」
「分かりました。……キティ先輩! 私、ミントのアイスバーが食べたいので、それを残しておいてくれると嬉しいです!」
「え? あ、うん……わかったよー。……んー?」
訝しげではあったものの、ドア越しの加賀美ちゃんの声は遠のいて行った。
何とか虎口を逃れたようだ。
「……しばらくはここから出ない方が良さそうですね」
「そうだな……」
沈黙と静寂。個室のトイレという密室に閉じこもる男女二人。
……流石に、無言はきついので俺は小声で気を紛らわせるために雑談を始める。
「……久々野ちゃんって、加賀美ちゃんと知り合いだったんだな」
「え? ああ、そうですね。そっか、兄先輩は私達が一緒にいるとこ、見たことありませんでしたもんね。そうです、キティ先輩は私の嫁なので」
「ふうん?」
妹のことはあだ名で呼ばず、加賀美ちゃんは《キティ》と親しみを込めて呼んでいる。
尊敬と親愛の違いだろうか。まあ、外見からしても加賀美ちゃんの方が年下に見えるしな。
「それより、兄先輩こそキティ先輩のことを知ってたんですね。まあ、このか先輩から聞いてても不思議ではないですけど」
「いや、あいつに聞いたっていうか、一度バイト先に来たことがあるんだよ。それでいつだったか、公園で犬を散歩してるとこも見掛けたな」
「あー、《メケメケメー大臣》ですよね。キティ先輩に似て可愛いんだよなあ……。こう、もふっとしていて、わにゅっとしていて!」
そういう久々野ちゃんも犬っぽいけどな。
それにしても、まるで好きなアイドルを語るかのような幸せそうな表情をする。
「久々野ちゃんって加賀美ちゃんと仲良さそうだよな」
「ええ、まあ。――《付き合う》くらいには仲が良いですよ」
「そうか。そりゃ仲が良いのもなっとく――」
……ん?
今なんか気になるワードが彼女の口から飛び出したような気が……。
「久々野ちゃん。今のセリフ、もう一回言ってもらえるか?」
「はい? えーっと、私なんて言いましたっけ? 《夢とお金は手の中に収まるくらいがちょうどいい》、でしたっけ?」
「いや、そんなハードボイルドな決め台詞言ってないだろ。もっとシンプルだけど気に掛かるワードだ」
「はあ……。タラバガニって実はカニじゃなくてヤドカリの一種なんですって、知ってました?」
「え、そうなんだ。シンプルだけど引っかかるな……って、それも違う! 今、付き合ってるって……」
得心したように「ああ……」と久々野ちゃんが小首を傾げる。
「そう言えば、兄先輩には言ってませんでしたね。ええ、そうです。私の恋人がキティ先輩なんです」
躊躇わずに言い切った。
惑うことなく、迷うことなく、胸を張って、何も臆することなく。
久々野空子は、事実を言い切る。
「……そう言えば、久々野ちゃんの相手は女の子だったっけか」
「はい」
「……。………まあ、少しだけ驚いたけど。本気なんだもんな」
「はい」
淡々と頷く久々野ちゃんだが、俺の顔から視線を少しも外そうとはしなかった。
なので、俺も彼女から視線を外さずに言う。
「そっか。……うん、お似合いだと思うぞ」
「――っ」
一瞬だけ目を大きく見開いた久々野ちゃんは、「くふっ」と口元を手の平で押さえて笑いを隠した。
「……? なんだよ?」
「ああ、いえ。なんでも。ホント、兄妹なんだなって思っただけです」
よく意味が分からなかった。
「……実は、今日のお泊まり会はこのことを兄先輩に伝えに来たってのも、私の一つの目的だったりしたんですよ」
「別に泊まる必要はないんじゃないのか?」
「いいじゃないですか。このか先輩の記念すべき初お泊まり会なんですから」
……そう言えば、このかが友達を泊まらせたことなんて初めてだったか。
というより、友達が多そうなくせに、ここ最近までは友達を家に招いたことすらもなかったしな。
「きっと、私とキティ先輩だから呼んでくれたんでしょうね。このか先輩は、私達の関係を知っているから」
「ん? なんでこのかの奴が、久々野ちゃん達が付き合ってることを知っていれば、泊まりに来ても大丈夫だと思ったんだ?」
「さあて? なんででしょうね? 愛の巣だからじゃないですか?」
だから意味が分からないって。
「……というか、久々野ちゃん。何も俺に久々野ちゃんが誰と付き合ってるかどうかまでを、教える必要はなかったんじゃないのか?」
俺は頬を掻きながら言う。
「正直に言って俺に伝えるメリットはないし、誰彼構わず伝える内容でもないだろ? それをわざわざ俺に教えるなんて……」
「ありますよ、意味」
久々野ちゃんは口元を隠したまま続ける。
「私達のことは、このか先輩しか知らなかったんです。だからこそ、兄先輩にも知っててもらいたかったんです」
何を――と言おうとして、その先の言葉を、久々野ちゃんに阻まれた。
「――普通ではない恋が、普通みたいに叶うということを」
それを知っていて欲しかった、と久々野ちゃんは呟く。
俺は、何も答えない。
何も言葉を発さない。
ただ見て。ただ聞いて。ただ認めた。
ただ、それだけのことをした。
「……そろそろ大丈夫ですかね?」
ドアに耳を近づけた久々野ちゃんが、物音を探る。
「では、私はここで。あ、早くトイレ交代してくださいね? 催しているのは本当なんですから」
ドアノブを回しかけて、「あ、そうそう」と久々野ちゃんが振り返る。
「連休明けの週末が兄先輩の文化祭でしたよね? それ、私達も行きますから。確か二日間あって、二日目が外部からも参加できるんですよね?」
「……ああ」
「楽しみにしてますよ、兄先輩。それとあちらのデートの方もっ」
……なんでお前がそれを知ってるんだよ。
ドアを開けて出て行った久々野ちゃんを見送り、ようやく一人に戻った個室のトイレで。
俺は溜め込んだ溜め息を思い切り吐き出した。
あわよくば。
全ての悩みと思考を、水に流せればいいのにと思いながら。
俺は便器のレバーを回した。
「……んー?」
「どうしたの、カグヤ? そんな奥歯にナタデココが挟まったような顔をして? アイス、美味しくないの?」
「ううん、アイスは美味しいよ? でもね、くーちゃんが怪しかったから、ちょっとね」
「空子が怪しい?」
「うん。くーちゃん、トイレにいたのに。冷凍庫のアイスの種類を、私が言ったの以外から選んだから。なんでかなーって」
「トイレに行く前に確認したとか? 飲み物取りに行ったついでに、冷凍庫の中を漁る人も目の前にいるわけだし?」
「カグヤはいいのー。このかの家の冷凍庫は、カグヤのもの。カグヤのものは、くーちゃんのものなんだから」
「何そのガキ大将連鎖コンボ……」
「んー。このかのお兄さんもいなかったし……。もしかして、トイレでお兄さんから聞いたのかな?」
「何それ? トイレに二人が入ってたってこと? まっさかー」
「そうだよね、まさかだよねー。GHQだよねー」
「それを言うなら、マッカーサーじゃない?」




