第三十二話:アホとマジ卍
普通のことを普通のように当たり前のように出来ることは。
きっとそれは普通じゃない。
『デートしよう』
そう妹に言われたのは、俺の記憶が確かならば二度目だった気がする。
一度目は修学旅行の時。
だが、あれは単なる俺を遊びに連れ出そうとした口実であり、実態はそういうものではなかった。
では、二度目のあれは何だろう。
文化祭でデート。
……兄妹で遊ぶならば、それはデートとは言わないだろう。
ともなれば、デートとは? 分からない。分からないことは、人に聞くのが一番だ。
聞くは一時の恥。聞かぬは一生の恥。
なので、聞いてみた。
「なあ、七神。デートすることってどういうことだと思う?」
「デートってーのは、愛がビートして、かつハートがハッスルして、そしてライフがスペクタクルすることだ」
聞いた俺がバカだった。いや、聞いた相手がアホだった。
放課後の教室。静まり返った校舎。
HRが終わり、だいぶ時間も過ぎて教室に残っているのは俺と七神直斗の二人だけになった。
別のクラスの七神が俺の教室にやってきたのには、もちろん理由はある。
だが本題に入る前に、俺と七神は雑談を続けていた。
「つーか、なんだよその質問は? 誰かにデートにでも誘われたのかよ?」
「いや、別にそんなんじゃねえよ。多分。きっと。メイビー」
「煮え切らない答えだな」
「煮ても食えない思いなんだよ」
まあ、あいつが何を思って、何を考えて、何を期待してあの言葉を口にしたのかは分からない。
もしかしたら、そこまでの深い意図はないのかもしれない。
ただ背伸びをして、大人ぶったセリフを言いたかっただけなのかもしれない。
「つーかよ。そろそろ会議の時間だろ? 行こうぜ」
「そうだな」
七神は俺の隣の席の机から飛び退いて、その足で教室のドアへと向かう。
俺も鞄を持って彼の後に続いた。
「にしても、お前が文化祭実行委員なんてやるなんてな」
「これも全て《ウェーイ》がいけないんだよ」
「はあ? なんだそれ?」
不思議そうに首を傾げる七神を尻目に、俺は静まり返ったリノリウムの廊下を漫然と歩く。
「俺はともかくとして、七神こそ部活あるのに実行委員なんて引き受けて大丈夫なのかよ?」
「大丈夫だって。ほら、昔のエロい人は言っただろ? 『我が輩の乳首に、不感症はない』って! つまりはそういうことだよ!」
「つまりはどういうことだよ」
俺の知っているナポレオンはエロくないし、そんなシークレットな性癖も暴露していない。
相変わらずアホな友人だった。
そんな雑談を続けながら、俺と七神はある場所に向かっていた。
栄えある第一回、文化祭実行委員の、実行委員による、実行委員のためのMTGが開催されようとしていた。
第一目的は互いの顔と名前の一致。第二目的は自分達のクラスの出し物の途中報告である。
もしも出し物の内容が他のクラスと被ってしまったり、現実的に不可能なものはそこで調整が入る。
まあ、俺のクラスはよっぽどのことがない限りは大丈夫だろう。
「そういや、お前のクラスって出し物何に決まった?」
七神が階段を上りながら尋ねてくる。
「ああ。ウチのクラスは、ほぼ満場一致でボードゲームカフェに決まったぞ」
「ふうん。なんだか地味なものに決まったな」
「うっせ。そういう七神のクラスは何をやるんだよ?」
そう聞き返すと、ふふっと鼻で笑った七神が階段の踊り場で立ち止まる。
「へへっ。聞いて驚くなよ? 俺のクラスはな……《世紀末の超天才! 七神直斗の吃驚仰天のスペシャルマジックショー!》の開催だぁ!」
七神が顎を思い切り後ろに傾けながら、腕を前にクロスさせる。
ドドーンと背景に擬音が出そうなポージングだった。
「……。七神、それってお前が提案したのか?」
「いや、皆が提案してくれた。『七神君が何かやればいいと思いまーす』って全員が口を揃えて言ってくれたんだよ、嬉しいだろ?」
「そうか。ところで、七神ってマジックなんか出来たのか?」
「いや、皆が『七神君なら何でもやってくれそう』『じゃあ、マジックショーとかどうよ』『いいね』『七神君、練習してきてね』『七神くんなら出来るよ、頑張ってね』って応援してくれてな」
「そうか。お前、クラスの奴らに愛されてんな」
「へへっ。人気者は辛いぜ」
「《幸せ》と《辛い》の漢字が似てて良かったな」
「おうよ! ……ん? それってどういう意味だ?」
残念でアホな子ほど可愛いという奴だろうか。いや、まあ本人が楽しそうであればいいんだけどさ。
そんな雑談をしていると、集合場所の教室までやってきた。
文化祭実行委員長の所属する三年の教室。何気に初めて訪れる場所だ。
まず俺が最初にドアをノックしようとすると、七神が「あ、ちょっと待って」とストップを掛けてきた。
振り返ると、七神が腹を押さえて苦痛の顔を浮かべていた。
「俺、ウンコ」
そんな突然過ぎる自分を卑下した彼の発言に、俺は悲しげに表情を曇らせる。
「おいおい、七神。どうした急に? そりゃ誰しも自分のことを、一度くらいクソみたいに嫌うことはある。でもな、何も今このタイミングで卑屈になることはないだろ? 大丈夫、お前はウンコじゃないよ」
「いや、ちげぇよ!? 俺、別に自分自身のことをウンコだとは思ってねえよ!?」
「大丈夫だ、七神。仮に全世界中の人間が、お前のことをウンコウンコと蔑んだとしても。俺だけはお前のことをアホアホと呼んでやるからな」
「そこはせめて名前で呼んでくれよ!? ってだから違うって。普通に腹痛くてトイレ行きてぇってことだよ!」
「うん、知ってる。行けば?」
律儀にツッコミを入れるアホが可愛らしい。
「ちっ。じゃあ、俺ちょっと遅れるって言っておいてくれ! ……あー、ここの階のトイレってどこにあるんだ?」
前屈みになりながらトイレを求めて立ち去った七神を見送り、俺は改めて教室のドアをノックする。
……返答はない。まだ誰も来ていないのだろうか。
「失礼します」と言って、俺はドアを開けて中に入る。
教室の中には一人の女子生徒が教壇の最前列の椅子に座っていた。
耳の後ろでカールしたボブカットの少女は、入室して来た俺に気付き、振り返る。
そして俺は彼女の顔を認めて、目を見張った。
「――お疲れ様、兄君」
「……お疲れ様。笹倉さん」
彼女は――笹倉桜は、小さく微笑んだ。
修学旅行の告白以来、何も俺は一度も彼女を見掛けたことがないわけではなかった。
同じ学校にいれば、否応なくすれ違うことだってある。
ただ、以前のように普通に会話をしなくなっただけのこと。
いや、以前の会話を覚えていない俺にとっては、何一つ変わらない日常だったとも言えるだろう。
笹倉桜。サッカー部のマネージャー。ポニーテールの似合う可愛らしい女の子。
七神の友達。つまりは、友達の友達。知り合いですらない、知ってはいるけれど意識したことがない知人。
ただ、それだけの関係。それ以上もそれ以下もない。
――なかった。あの修学旅行がなければ。それ以上も、それ以下も。今は、違う。
「……髪切ったんだな」
見れば彼女の背中ほどまで伸びた髪はバッサリと切られていた。
それでも短くなった髪型も、すでに十年以上同じ髪型をしていたと言われても信じてしまうほどに、違和感はなかった。
素直に言って。率直に言って。躊躇わずに言って。
可愛らしかった。
「うん。つい昨日ね、切ったの」
「そっか」
「似合う?」
「うん。可愛いと思う」
「えへへ。ありがと」
笹倉さんは照れたように頬を掻いた。ごく自然な仕草だ。
何故だろう。無意識に彼女の方を意識してしまう。
そんな矛盾する感情から逃げるように、俺は彼女から視線を逸らして言う。
「他の人達はまだ?」
「あ、うん。先輩達がさっきまでいたんだけど、なんか配る予定だったプリントをコピーするのを忘れたとかで、さっき出て行ったよ」
「そっか」
まるで台本を読むかのように教えてくれた笹倉さんは、「ねえ、座らないの?」と丁寧に彼女の隣の席の椅子を引いてくれた。
何を緊張しているのだろう、俺は。
別に俺が彼女を好きだったわけでもないのに。告白を断った側なのに。ひどく不器用に振ったくせに。
俺は頭を振って、「じゃあ、失礼して」と彼女の隣に座った。
「……ねえ、兄君のクラスは文化祭の出し物、何やるの?」
他愛ない会話を振ってくる笹倉さん。まるで、全てがなかったような振る舞いだ。
……もしかして、もう俺のことなんか好きでもなんでもないんじゃないだろうか。
女子の失恋は尾を引かないと聞く。恋人と別れた次の日には、別の人と付き合う……なんてことが珍しくもない。
むしろ、その心の切り替えこそ、学生らしい気軽な恋愛だったりするのだろう。
熱しやすく、冷めやすい。そう考えれば、笹倉さんのこの接し方も不思議でも何でもない。
……少しだけ寂しいとか、思ってないからな。
「兄君? ねえ、聞いてる?」
つんつんと俺の額を指で突いてくる笹倉さんに、俺は不器用に笑いかける。
「あ、ごめん。えっと、出し物だよな。ウチのクラスはボードゲームカフェにしたよ」
「ボードゲームかあ。いいね、私そういうの好きなんだー。カタンとか人狼とかだよね?」
「うん。笹倉さんのとこは何に決まったの?」
意識しない。普通の会話を続ける。いつも通りの上辺だけのコミュニケーションを行う。
記憶にも残らない、きっと数分後には忘れそうな言葉のキャッチボールが投げ出される。
「私のクラスはねー。ふふっ、聞いて驚くよー」
「ええ? なんだよ」
興味がない。きっとメイド喫茶とかお化け屋敷とか、そういう定番のありふれた回答だろう。
それでも前のめりになって、話を合わせるように好奇心を演じる。
普通の会話に合わせるように、適当な意味のない言葉を紡ぎ合わせようとした俺の耳に。
それは、前触れもなく訪れた。
「《笹倉桜プレゼンツ! 『そんなのマジ卍! 百花繚乱のぶった切り相談室!』だよ」
「……は?」
彼女の口から吐き出された暴投が、俺の顔面に直撃する。
「つまりはね、私こと笹倉桜ちゃんが、寄せられた質問相談悩みごとを、ヤッハー知恵袋の如く、ぶった切る相談室を開催するんだよ」
「いやいや。ぶった切っちゃダメでしょ! 解決しようよ!」
「『ハンドルネーム《転生したい高校生君》より。身長を伸ばすためにはどうすればいいでしょうか?』。ああ、男の子は身長気にしちゃうよねー。分かる分かる」
「なんか急にシミュレーションが始まった!? っていうか、男子の気持ち分かるの!?」
「でも大丈夫! 君の身長なんか周りは気にしてないし、正直私にとってはどうでもいいと思います! ぶっちゃけ関係ないし!」
「回答がひでぇ! まさにぶった切りだ!」
「……とまあ、こんな感じの相談室をやろうかなって」
「いやいやいや! 待って待って。ちょい待って。ウェイトからのステイアップ!」
混乱してきた。今、彼女は何を言った?
「あはは。何その言い回し。ふうん、そっか。それが兄君の《本当》なんだね」
何がおかしいのか、笹倉さんはケラケラと笑う。
「なんだかやっと見れた気がするよ。本当の君に」
「……ごめん、言ってる意味が分からない。……冗談だよな?」
「ホントだよ? 文化祭だもん、これくらいハッチャけちゃってもいいと思うだよね」
「いや、まあ、いいとは思うけど……。なんか……」
七神みたいなことを言うな、この子。というか、笹倉さんってこんな性格だっただろうか?
「……ねえ、兄君。修学旅行のあの日以来、私なりに考えてみたんだよね」
まだ少しだけ気になるのか、カールした髪の毛を撫でながら笹倉さんが言う。
「兄君の言ったこと。《普通》と《普通》じゃないこと。でもやっぱりわかんなくて。振られたんだけど、なんか振られた感じがしなくて」
「……」
「だからね。次もダメだったら、ちゃんと諦めようと思ったの。ちゃんと振られて。前を向こうと思ったの。ねえ、兄君」
下を見れば、俺の手の上に笹倉さんの小さな手が重ねられていた。
少しだけ、どきりとした。
「……今の私でも。まだ君の視界に入らない存在なのかな?」
その質問に。俺は先ほどの彼女のように、バッサリと答えられなかった。
だけど、十分過ぎるほどに。その沈黙は、彼女にとっての求めていた回答だったのだろう。
ジッと俺の顔を見た笹倉さんは、「へへっ」と恥ずかしそうに笑う。
そして、廊下の方から賑やかな会話が聞こえてきた。
おそらく出ていた先輩方が戻ってきたのだろう。
笹倉さんもそれを察したのか、すっと俺の手のひらから離れる。
「ねえ、兄君。もし、次もチャンスをくれるなら」
そう言った笹倉さんの表情は、俺にとって無視できないほどに魅力的に映った。
「文化祭の日、私ともう一度デートしてくれませんか」
さて、七神君や。
デートってどういうことだっけか?
マジ卍! 意味はない!




