第二十七話:妹と歯医者
後悔は前にもできるが、反省は後にしかできない。
どうやら世間一般の家庭には、暗黙の家族ルールというものがあるらしい。
例えば風呂の順番。
例えば自分の食べ物には名前を書くこと。
例えば部屋に入る際にはノックを二回すること。
挙げればキリがない家族ルールだが、実のところ俺の家にもそのルールが存在する。
そのウチの一つが、『牛乳はなくなったことに気付いた人が買ってくる』というものだ。
そしてバイト帰りで帰路に就いていた俺は、自転車をこぎながら、ふとそう言えば今朝牛乳が切れていたなと思い出した。
時刻は午後の十時を回っていて、最寄のスーパーは閉まっている。
なので、帰り道の途中にあるコンビニに立ち寄ることにした。
「……そういえば、ここら辺って加賀美ちゃんの家の近くだったか」
加賀美・カトリーヌ・カグヤ。
妹の同級生にして、金髪幼女――ではなく少女。
身なりだけなら間違いなく小学生と大して変わらない幼さ。
いまいち、彼女の性格はつかみきれない。
いや、そもそも遭遇することすら避けるべきなのだろう。
女子中学生という生き物は、動き回る地雷のようなもので、いくら対策をしていても爆発をするものだ。
事実、俺の妹は伏線も情緒も余韻もなく、突然爆発する。
まあ、近寄らなければいいだけの話なんだけどな。
俺はコンビニの買い物カゴに牛乳パックを入れて、さて他についでに買うべきものはあるだろうかとお菓子や菓子パンコーナーを眺めていると、
「……ん」
《新商品! 期間限定!》と派手なプレートが掛けられたプリンが置いてあった。
見ればたっぷりの生クリームに様々なフルーツが乗ったプリンアラモードだ。
こういうの、妹が好きなんだよな……。
「……」
俺は一つだけその豪華絢爛なプリンアラモードをカゴに入れて、レジに持っていった。
そうしてビニール袋に入った牛乳とプリンを自転車のハンドルに提げて、家に向かう。
「ただいまー」
鍵を開けて玄関に入ると、両親の靴はなかった。
どうやら今日も両親は帰宅が遅いようだ。もしくは今日は帰らないつもりなのだろうか。
まあ、どうでもいいけどな。
さて、牛乳を冷蔵庫に入れて、プリンを妹に持って行ってやるか。
と、その前に手洗いうがいをしないと……。
我が家のルールその二:『家に帰ったら手洗いうがいをすること。
俺はまずリビングに向かい、テーブルの上にレジ袋を置く。
明かりは点いていたが、妹の姿はなかった。自室だろうか?
「ま、後で届けてやるか」
最近、妹には何かと世話になってる気がするからな。ここらで一度、お布施をするのもいいだろう。
踵を返して、洗面所に向かう。
すると、そこには……洗面所の鏡の前で大きな口を開けてアホな顔をしていた妹がいた。
「っ!?」
「……口からビームでも出す練習でもしてるのか?」
「なわけないでしょっ!」
赤面した妹が口を閉じて、入り口に立つ俺を通り抜ける。
何をしていたのかは多少気になるが、思春期の女子中学生の行動に意味を見出す方が難しい。
俺は手洗いうがいを済ませ、リビングに戻ると妹がソファ―に寝転がって唸っていた。
「んん~」
……気になる。が、あちらから何も来ないうちは関与せず、だ。
俺はレジ袋から牛乳だけを取り出して冷蔵庫に仕舞い、残ったプリンを妹の目の前に掲げた。
「……何?」
「やる」
「なんで?」
「このプリンが、お前に食べて欲しいと泣きついてきたから」
「何それ、アホらし」
唇を尖らせつつも、妹はプリンを受け取った。
てっきりすぐに食べるものかと思ったが、ジーッとプリンを見つめてから、「……やっぱいらない」と言って俺に返してきた。
「は? いや、お前、プリン好きだろ?」
「好きだけど……今日はいいの」
「なんだダイエット中か? 安心しろ、お前の体重はもう手遅れだから諦めて太ってしまえ」
「死ね。っていうか、そうじゃなくて……。ああもう、いいから兄ちゃんが食べていいって!」
何なんだろう。地雷は踏まなくても爆発するなんて聞いてないぞ。
仕方ない、俺もちょうどバイトの疲労もあり、甘いものはありがたい。
妹が要らないというのなら、素直に頂くことにしよう。
俺はテーブルについて、透明のプラスチックの蓋を外す。
生クリームとマンゴーやメロンなどの輝かしいフルーツ達が顔を表す。
正直に言って、この時点でかなり美味そうだ。
「……じー」
妹の視線がプリンに注がれているのに気づく。
「……やっぱ食べるか?」
「い、いらない! 武士に施しは受けぬ!」
お前はいつから武士になったんだよ……。
嘆息しつつ、スプーンで生クリームをすくい上げて口に運ぶ。
舌の上に乗ったふんわりとした触感と極上の甘さが、口を通して全身を駆け巡る。
「おお、美味いな。コンビニのデザートだと思って甘く見てたけど、いや普通に甘いんだけど。美味いな」
流石ワンコイン近くする値段だけある。
と、妹の視線が熱線となっているのに気づき、俺は溜め息交じりにマンゴーを手に取る。
「……ほら。マンゴー、お前好きだろ? これくらいなら太らないだろうし、食べるか?」
「……っ。あ、でも……」
躊躇う妹に、俺は彼女の元にマンゴーを近づけていく。
「いらないのか?」
「い、いるっ!」
パクりと。マンゴーを口で受け止めた妹は、幸せそうに頬を両手で包み込む。
「んんーっ! 美味しぃーっ!」
「そうか。残りもいるか?」
「ん、いや、流石にそれはまずいかも――いっ!?」
突然、ビクンと全身を反らせた妹が、ソファ―に倒れ込む。
「おい、どうした……?」
「……にゃ、にゃんへもない……」
涙目で俺に言う妹は、まるで舌をどこかに張り付けたような口調で話す。
俺はそんな妹を凝視し、そういえば幼い頃にもこんな行動があったなと思い返す。
動く地雷も、パターンが分かれば怖くない。
そして妹のこの行動は、知っていた。
「……なあ。お前――もしかして、虫歯か?」
「そ、そんなわけ……ないじゃん」
吹けもしない口笛を吹く妹の行動を見て。
残念ながら、妹よ。
それもすでにパターン化澄みだ。
「い・や・で・ご・ざ・る」
「断るでござる」
翌日の午前中。
幸いにも週末の休日だったため、妹を連れて最寄りの歯医者まで半ば無理やりに連れてきた。
頑なに虫歯を否定していた妹だったが、流石に夕飯と朝食をまともに食べられないことに観念し、最終的には俺が付きそうという形で歯科医院に連行した。
「お前、中三にもなって歯医者も怖いのかよ……」
「全然、怖くないし。ただ虫歯治療に時間かかるし、治療した後は数時間に何も食べちゃいけないしで、色々と不都合があるから嫌なだけだし」
「昨日の夜から何も食べられないよりはマシだろ」
「……うう」
まるで子供のような妹に呆れつつ、俺は診察の受付を済ませる。
「兄ちゃんは怖くないの……?」
「何が?」
「歯医者……。ドリルで歯を削られるんだよ?」
「ドリルで金的を潰されるよりかはマシだろ?」
「それはそうだけどっ!」
病院だからか、妹は静かに俺にツッコミを入れる。
開店直後のせいか、待合室には俺たち兄妹以外には人は二人程度だった。
これならすぐに呼ばれることだろう。
「……」
それにしても、意外なことがあった。
妹が歯医者が苦手なのは知っていたが、まさかこの歳にもなってここまでとは思わなかった。
まるで幼い子供時代に戻ったかのような怯えっぷりは、どことなく懐かしい。
……子供時代、か。
「兄ちゃん? 何考えてんの?」
気付けば、妹は俺の手を掴んで俺を見上げていた。
「ん、いや。ちょっと子供の頃を思い出してただけだ」
「子供の頃……」
妹も何か思うところはあったのか、俺から視線を外して静かに瞳を閉じた。
「……やっぱ、歯医者。無理」
どうやら思い出したのは、歯医者に対する恐怖心だったようだ。
残念な妹だ。
「……兄ちゃん。やっぱ、私、かえ――」
と、妹が椅子から立ち上がろうとした瞬間、妹の名前が受付から呼ばれた。
「……っ!?」
振り返る妹。
涙目。
絶望した顔。
そして、そんな表情が。
とてつもなく。
可愛らしかった。
――そして、赤紙をもらった兵士が死地に赴くが如く。
診察室に向かった妹の断末魔を聞いたのは。
それから十数分後のことだった。
歯医者からの帰り道。このかは暗い表情のまま、俺の方を向かずに言った。
「……兄ちゃん。帰りに昨日のプリン買って」
「いいけど、次は歯医者くらい一人で行けよ」
「やーだ」
「お前な……」
俺は呆れたように頭を掻く。
そんな俺を見たこのかは、小さく呟いた。
「だって……。一人で行っても意味ないんだもん」
兄「大人になれば、親知らずを抜くという大人も泣くほどの恐怖が待ってるのにな」
妹「それは出来れば永遠に知りたくない……」




