第三話:妹と傘
天気雨のように。
彼女はただの気まぐれに動く。
その日は夕方から雨が降ると天気予報で言っていた。
たまたま朝のニュースのコーナーでそれを見た俺は、
「行ってきまーす」と玄関に向かう妹のこのかを追いかけるようにリビングを出た。
テニスラケットの入ったバッグと通学用の鞄を二つ抱えた妹は、朝練に遅れそうなのか、
慌てた様子で靴を履いていた。
「このか、今日の夕方に雨降るみたいだから、傘持って行った方がいいぞ」
そう親切心で教えてあげたつもりだったが、彼女は不機嫌そうに「はあ?」と俺の方を向かずに唇を尖らせた。
「見れば分かるでしょ? バッグ二つ持ってるんだから、傘なんて持つ余裕ないってーの」
「じゃあ折りたたみ傘持ってけよ」
「うっさいなあ! 私の折りたたみ傘、二階の部屋だし。今取りに行ってたら、朝練遅刻しちゃうから無理!」
「じゃあ、そこの傘立てに入ってる俺の折りたたみ傘持ってけよ。俺はビニール傘持ってくから」
「余計なお世話! どうせ降るわけないんだし、いらない!」
その言葉に、かちんと来た俺は「あーそうかよ!」と腹を立てる。
「だったら勝手にしろ。大会近いくせに、雨に濡れて風邪ひいてもしらねえぞ」
「……っ。わかったよ! もううっさいなあ! 持って行けばいいんでしょ! 持って行けば!」
妹は乱暴に傘立てから俺の黒の折りたたみ傘を引き抜くと、通学用の鞄に無造作に突っ込み、
「行ってきます!」と怒鳴るように玄関を出て行ってしまった。
「……んだよあいつ。せっかく人が教えてやったのに」
まるで小さな台風が通り過ぎて行ったようにシーンと静まり返る玄関を見つめ、
軽く溜め息を吐いた俺は、頭を掻きながらリビングに戻った。
そんな朝の小さな兄妹喧嘩もすっかり忘れた昼休み後の四時間目の授業中。
昼食を取り腹が満たされて、うつらうつらと瞼が重くなっていた俺の耳に、
雨音が落ちる音が窓の外から聞こえた。
ちらりと左を見れば、曇天の空からポツポツと雫が降り注ぎ、校庭の土をぬらし始める。
「おー。ついに降ってきたか。これじゃあ今日の部活は自主トレだなあ」
現国教師であり、野球部の顧問を務めている小林教諭が窓の外を見つめて呟いた。
ふと俺は心の中で妹に向かって「ほら、見てみろ」と満足げに勝ち誇った気分で授業を受け続けた。
だが、一日の授業が終わり。
本格的な土砂降りになってきた雨音に眉をひそめながら昇降口に辿り着いたところで、
俺は自分が勝者ではなく、敗者だったことに気付いたのだった。
昇降口の傘立てから朝持ってきたビニール傘を引き抜き、開いて気付いた。
「……あ」
傘の屋根部分に大きな穴が空いていた。
そうだ、忘れていた。この前使った時に破けて、処分しようと思っていたがそのまま傘立てに入れてしまっていた。
だから俺は代わりに自分の折りたたみ傘を傘立てに刺していたのに、まさかそれを妹に貸してしまっていたとは。
「アホか俺は……」
傘を閉じて傘立てに戻し、小さく舌打ちをする。
仕方ない、雨の勢いが収まるまで時間を潰すかと校舎内に戻ろうとした俺の背後から
「ねえねえ」と声が掛けられた。
振り返るとそこにはクラスメイトの女子生徒がぼんやりとした表情で俺を見つめて、一本の新品らしきビニール傘を俺に渡してきた。
「はい、これ」
「……え?」
思わず受け取ってしまったが、すぐに「いやいや!」と傘を突き返す。
「悪いって。別にこれくらいの雨なら傘借りなくても大丈夫だから」
「ん? ああ、違う違う。この傘、私のじゃなくて、頼まれたの。君の妹さんから、渡してって」
「は?」
手を振って否定した彼女は、きょとんとした俺の表情を認めてからかうように笑った。
「可愛い妹さんだね。まさかわざわざお兄ちゃんに傘を届けに来るなんてさ。羨ましいねー。ふふっ」
可愛い? 妹? 誰だそれは。
俺の知ってる妹という生き物は、素直じゃなくて人の親切心を怒りで突き返してくるような女だぞ。
「妹さんに感謝することね。じゃ、お役目を果たした私は、やっと家に帰れまする。それでは!」
敬礼するようにビシッと手のひらを額に当てた彼女は、花柄の可愛らしい傘を開いて、まるで雨の中を踊るように校門の外へ消えていった。
呆気に取られた俺は、彼女を見送った視線を右手に掴んだビニール傘へ移す。
ふと、取っ手の部分に書かれた文字が視界に入り、俺は目を細めた。
その文字を認めた俺は、「お前がな」と鼻で笑い、ビニール傘を開いて帰路に就いた。
黒ペンで『ばーか』と書かれた取っ手をくるくる回しながら。