第二十三話:妹の後輩と悩み相談
悩みがあるということは、希望があるということだ。
ベッドの上で目を覚ますと、すでに時刻は十二時を超えていた。
「……寝落ちした」
今日は祝日ということもあり、特にバイトもこれといって予定もなかったので、昨日は溜め込んだ本を朝まで消化していた。
胸元に落ちていた文庫本を枕元に置いて、ベッドから降りて背伸びをしながらふと引っ掛かりを覚えた。
……何かを忘れている気がする。
それが何かだったのかは思い出せない。
まるで奥歯にゴマが張り付いたような。
まるでTシャツの裏表を間違えて着てしまったかのような。
まるで昔読んだ漫画の一コマを思い出し、タイトルを忘れてしまったような。
――そんな違和感。
「……ま、いっか」
思い出せないものをいつまで経っても悩んでいるのもばからしい。
自室を出て、一階の洗面所に向かい顔を洗い、軽く寝ぐせを整えてリビングに向かう。
「誰もいない、か」
父さん達は祝日でも仕事だろうし、妹は……知らない。部屋にいるのか、それとも出かけたのか。
「いや、昨日夕飯食ってる時に言ってたな……部活に顔を出しに行く、だったか……」
静まり返ったリビングを通り抜けて、キッチンに向かう。
キッチンラックにバナナが置いてあるのを見つけ、一本拝借して皮をむいて口に頬張った。
「……さて、どうするかにゃ」
バナナを食べながら、今日のスケジュールを頭の中で組み上げる。天気もいいし、バイクでも洗車するか――と。
そこで、欠けていたパズルのピースを見つけたような感覚を抱く。
「……バイク? そういや昨日。俺、バイクで何かしようと思って――」
――思い出せそうなその瞬間、《ピンポーン》とチャイムが鳴った。
……。………。
ジッと玄関のある方を見つめる。嫌な予感がする。
バナナを食べ終えて、皮をゴミ箱に捨ててこのまま居留守を使おうとしていると、再びチャイムが鳴った。
――ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。ドンドン。ピンポーン。ピンポーン。ドンドンドン。ピンポーン。ピンポーン。
「だぁっ! うるせぇ!」
チャイムの音に交じって、ドアを叩く音も聞こえ、俺は我慢ならず玄関に向かいドアを開けた。
果たして、そこに立っていた……。
「おや! これまた奇遇ですね。兄先輩!」
「……」
黒髪の二つ結び。大きな二つの瞳。幼いというよりあどけないという印象を抱かせる顔立ち。
それでいてどこか聡明そうな雰囲気を醸し出す少女。
身の丈に合わない太ももまですっぽり覆った白のパーカーを着た彼女――久々野空子を認めた俺は。
玄関のドアをそのままゆっくりと閉めた。
「あ、こら! 無言で閉めないでくださいよ! ちょっと待ってください!」
ドンドンと借金取りのようにドアを叩く久々野ちゃんの抗議に、仕方なくドアを開ける。
「……ごめん、うち。テレビないんだ」
「いや、私別に公共放送の料金徴収に来たわけじゃないですから!」
「でも、お前。《逃げられると思うなよ》《果てまで追いかけてやる》《久々野空子》、略して《NHK》じゃん」
「ひどい略称! 兄先輩にとって私はそんなイメージなんですか!?」
「いや、俺のイメージは、《ノーブラ》《変態》《久々野空子》、略して《NHK》だけど」
「私がいつ、どこで、地球が何回周った時にノーブラになったんですか!」
「そうだった。俺の勘違いだった。ごめんごめん、久々野ちゃん」
「分かればいいのです」
「じゃ、またな」
「はい、ご機嫌よう、兄先輩」
俺は会話を終えて、ドアを閉め――ようとして、久々野ちゃんの足でストップされた。
「って、何勝手に私を帰そうとしてるんですか!」
「え、俺とコントをしに来たんじゃないの?」
「なわけありますか! いいから、家の中に入れてください! 話付けましょう!」
口の悪い女子中学生だった。
仕方なく、久々野ちゃんを家に招き入れ、リビングに通す。
「……で? 今日は何の用事? このかの奴なら、今日は部活に行くって言ってたぞ」
「ええ、聞いてます。なので今日来ました」
いまいち意味が分からない。俺はソファに腰かける久々野ちゃんに、オレンジジュースを出した。
「どうぞ」
「ありがとうございます。ツッコミ疲れて喉が渇いてて……いただきます。……ん、濃厚で美味しいですね、このオレンジジュース。果肉も入ってますし」
「そう、そいつは良かった」
「なんかお高いジュースなんですか?」
「ウチの隣に住む筋肉アーティスト、マッスル正岡さんが脇で絞った、天然100%のオレンジジュースだからね」
「ぶほっ!?」
久々野ちゃんがジュースを噴き出した。きたねえな……。
「げほっ、げほっ……! な、なんてものを後輩の女子中学生に飲ませるんですか!? っていうか、筋肉アーティストってなんですか!?」
「嘘に決まってるだろ。それくらい気付けよ、中学生」
「……す、すみません。そうですよね、よくよく考えたら、このジュース、このか先輩も飲んでるってことですもんね……」
「本当は隣町に住む筋肉テクニカルプランナー、マルセル政宗さんが脇で絞ったジュースなんだよ」
「ぶほぅ!?」
再び久々野ちゃんが噴き出した。
「げほっ、げほっ……。も、もう! なんなんですか!? 筋肉テクニカルプランナーってどういう職業なんですか!」
あ、ツッコむのそっちなんだ。
「まあ、本当を言うと。ただの果肉入りのジュースなんだけど」
「知ってますよ!」
じゃあ、むやみやたらに他人の家でジュースを噴き出すなよ……。
ジュースを片付けながら俺は久々野ちゃんに尋ねる。
「……で? 久々野ちゃんはこのかに用事で来たのか?」
「いえ、違います。今日はこのか先輩、夕方までずっと部活指導ですから」
「……じゃあ、久々野ちゃん。今日部活あるんじゃ?」
「はい、サボりました」
堂々と言い切りやがった。ひどい後輩だ。
「っていうか、兄先輩。今日の用事なら、昨日お伝えしたじゃないですか」
「……ん? 俺?」
ピシッと指を差され、俺は首を傾げる。
「覚えてませんか? 昨日の夜、連絡しましたよね?」
「……?」
そう言われて、俺は昨晩の記憶を思い返す。
……確か、そう。23時くらいだったか、俺のスマホが着信を鳴らした。
『おこんばんにちは、兄先輩。お久しぶりです。あなたの大好きな妹の後輩にして、女子テニス部の《殺戮ラビット》こと久々野空子です』
と、そんなよく分からないメッセージ届いて、俺はそれに一言だけ返した。
『通報しますた』
『通報しないでくださいよ! もう、相変わらずですね、兄先輩は。先日、飛行機のチケットを譲ったお礼はどこにいったんですか』
『ああ、そんなこともあったな。懐かしい』
『勝手に遠い昔の過去にしないでください。つい1か月くらい前のことじゃないですか』
『久々野ちゃん達にとって1か月は、俺にとって50年くらいになるんだよ』
『どこの神様の部屋ですか、それは。っていうか、話が逸れましたね。明日って、兄先輩お暇ですよね?』
『悪いが予定がいっぱいおっぱいだ』
『そうですか、予定は未定なのですね。ではでは、明日お昼頃お邪魔しますね』
『なんで』
『ちょっとしたご相談がありまして』
……相談ねえ。女子中学生の多感な年頃のお悩みなんて、どうせロクなことはない。
しかも相手は久々野空子だ。俺の知る中で最も厄介な悩みを抱えて生きていそうな人間だ。
厄介な人間というと、姿さんを思い浮かべるが、あの人は悩む前に悩み事を切り捨てる人だからなあ。石橋を叩かずに助走を付けて走って飛び越えるような人種だから、そもそも悩みというのを抱えない。
俺はしばし考えて、『分かった』と文字を打って返した。
『じゃあ、12時にウチに来てくれ』
10時に起きてバイクでツーリングでも行こう。明日は天気良さそうだし、温泉でも入りに行こう。
『分かりました。ちなみに、10時に起きてバイクで温泉ツーリングになんて行かないでくださいね?』
……。………8時に起床して家を出よう。
「あ」
「思い出しましたか」
「今日、温泉行こうと思っていたんだ。じゃ、そういうことで」
すっと腰を上げてヘルメットを取りに二階の自室に向かおうとして、久々野ちゃんに服の裾を掴まれた。
「私の相談を聞いてください! 男なら、二言はありませんよね!」
そう言われたら無碍にもしづらい。
仕方ない、寝過ごして逃げそびれたのは俺の失態だ。
観念した俺はテーブルに移動して、深いため息を吐いた。
「なんで兄先輩の方が悩みを抱えていそうな顔をするんですか……。今日は私が悩み悩んで悩む日ですよ?」
「うるせーな。……前にも言ったと思うけど、俺は女子中学生という生き物が苦手なんだよ。1つずつピーズを嵌める度にジグソーパズルの絵柄が変わるような精神を持った年頃相手に、送る言葉なんて持ち合わせてないんだよ」
「まあ、そう言わないでくださいよ。もしかしたら今日の私のお悩みは、真っ白なジグソーパズルかもしれませんよ?」
それはそれで面倒くさいぞ。
ごほんと咳ばらいをして、久々野ちゃんが俺を見た。
「では、まず1つ目のお悩みを」
「複数あるのかよ」
「そりゃ乙女の悩みは複雑怪奇ですから」
怪奇なのかよ、こえーよ。
久々野ちゃんの相談か……。以前のパン屋での雑談混じりの相談ならばいいが、どうせまともな内容ではないだろう。
俺はチラリとゴミ箱の中に入ったバナナの皮を眺める。
……もう、面倒くさいし、何を相談されても《バナナ》で解決させるか。
【久々野空子の相談】
【ひとつめ】
空子「胸が大きくならないんです。どうすれば大きくなるんでしょうか」
俺「バナナを食べろ。バナナには女性の胸を大きくさせる《ムネオオキクナルヒト》という成分が牛乳の7倍入っているんだ」
空子「なるほど! ありがとうございます!」
俺「よきにはからえ」
――解決!
【ふたつめ】
空子「9月になってもまだまだ暑いですよね? テニス部って外で部活するので、日焼けがすごいんです。何か日焼け対策の方法ってありますか?」
俺「バナナをすり潰して肌に塗りたくれ。バナナには紫外線を抑制する《ムテキシロサホコリウム》という成分がトカゲの尻尾の38倍入ってるんだ」
空子「おおっ! それはすごいですね! トカゲの尻尾が紫外線に良いかは聞いたことがありませんが!」
俺「ググればわかる」
――解決!
【みっつめ】
空子「二学期に入って、学校の授業が難しくなって……。特に数学が分からなくなって来たんです」
俺「数学はつまりはバナナだ。バナナを食べれば自ずと答えは導き出せる。かのピタゴラスも言っていた《バナナ食って三平方の定理思い浮かんだったるで!》と」
空子「ピタゴラスの語尾がすごい気になりますが、分かりました! バナナの公式ですね!」
俺「言っている意味が分からん」
――解決!
【よっつめ】
空子「最近彼女の先輩と色々と玩具で試してるんですが、中々気持ちのいい玩具が見つからないんです」
俺「そういう時はバナナだ。バナナを入れろ。どこに入れるかはお前たちに任せるけど」
空子「ちなみに兄先輩のバナナはどっちですか? 皮をむく必要があるのか、ないのか」
俺「ノーコメントで」
――解決!
「……なあ、久々野ちゃん。相談ごとっていくつあるの?」
流石に疲れてきた俺は、テーブルに突っ伏す形で確認する。
久々野ちゃんは顎に手を添えて「んー」と視線を天井に投げて、答えた。
「どうでもいい雑談なら、いくつでもできますけど、このコント、いつまで続けます?」
「もう面倒だから、本題入ってくれ」
「分かりました」
ふざけてる気付いてたのなら、もっと早めに言ってくれよ。
「実はですね、今日兄先輩に相談に来たのは、進路のことなんです」
「……進路、ねえ。でもまだ久々野ちゃんは中学二年生だろ? まだそんなに考えなくてもいいんじゃないのか?」
とはいえ、志望校を見据えて今のうちに勉強しておくことは大事だけど。
そんなダメな回答をした俺に、久々野ちゃんが首を振る。
「いえ、私の進路ではありません。彼女――私と付き合ってる先輩の進路です」
「そういや、言ってたな。1つ上ならこのかと同じ受験生だもんな」
……関係ないけど、このかはどこに行くつもりなんだろう。全国大会に出場するほどのテニスの腕前だ。それなりにスポーツ推薦のスカウトは来ていそうだけど。
本人からそういう話は一度も聞いたことはない。
まあ、このかの志望校なんて知ったところでどうでもいいけど。
「はい。で、先輩の目指している志望校は私の今の成績では難しくて」
「じゃあ、勉強すればいいんじゃないの?」
むしろ今からなら十分間に合うだろう。その先輩が志望校に受かるかどうかは分からないが。
「いえ、違うんです。私の悩みは、そうではなくて……。えっと、兄先輩。好きな人がいるからって理由で、進路を変えてもいいんでしょうか」
「……あん?」
久々野ちゃんは両手を握り締めて言う。
「先輩は……キティ先輩には、夢があるんです。でも、私には夢がない。なのに、そんな先輩と一緒にいたいからって、進路を決めていいんでしょうか?」
キティ先輩というのが、久々野ちゃんの彼女……まあ、久々野ちゃんも女の子だからどっちも彼女なんだろうけど、それが恋人の名前らしい。
「先生が言ってました。《友達と一緒だからって理由で進路を決めないように》と。ちゃんと自分の将来のことを考えて決めろと」
「……ああ、そういや俺も中学の時、そんな風に言われたっけ」
中学教師の常套句のようなものだ。いや、世間一般の人生の先輩のテンプレ思考というやつか。
「自分の将来なんて分かりません。でも、私は先輩と一緒にいたいです。もっともっと一緒に学校で遊びたいです」
「……いいんじゃねえの? 先生がどうとか、世間がどうとか。そんなの気にするな。ガッコ―ってやつは、どこで学ぶかが大事って言うけれど。俺はそうは思わない。何を学ぶかだ。そういう意味では、日本の高校なんてどこもそんなに大差はない。好きなところに行けばいい」
事実、俺が今の高校を選んだ理由は、家が近くて見知った顔が多いからだ。
本人に聞いたことはないが、直人も同じ理由だろう。あいつはアホだしな。成績が、でなく思考がだけど。
「……キティ先輩もそう言ってました。だから、私と同じ高校に通えるように、志望校を変えるって……。本当はもっともっとレベルの高い高校に行きたいって言ってたのに……」
ぎゅっと握り締めた拳を開く久々野ちゃん。
なるほど、久々野ちゃんは恋人の夢を優先して欲しい。だから志望校を変えて欲しくない。
だが、恋人の先輩の方は久々野ちゃんと一緒にいたいために、志望校を変えるつもりだと。
久々野ちゃんはきっと嬉しいのだろう。自分のことをそこまで考えてくれる彼女が。だが、果たして本当にそれでいいのか? それは正しいのか?
誰にとって正しく、誰にとって間違いで、どうすればいいのか。
それを目の前の少女は悩んでいた。
「……兄先輩。私はどうすればいいんでしょう?」
真っすぐ見つめられた俺は、少しだけ考えて。言葉を選んで。だが、思い浮かんだ言葉を捨てて。答えた。
「俺の知ったことじゃねえ」
「……は?」
きょとんと、まるで埴輪みたいな顔をした久々野ちゃんに、俺は肩をすくめて続ける。
「知らねえよ、んなの。どうでもいい。俺には関係ないしな」
「ちょ……っ。それってひどくないですか!? 私、真剣に悩んで――」
「なら、その真剣な悩みを相談する相手は、俺じゃねえだろ」
「……あ」
ハッとしたように、口を開ける久々野ちゃんは、小さく頷いて「……そうですね」と笑った。
「確かに、兄先輩にする相談じゃありませんでしたね……」
「別に俺に相談するのは良い。誰に相談しても良い。このかだったり、両親だったり、友達だったりな。でも、誰もきっと、久々野ちゃんが欲しがる答えは持ってない」
解決できるのは、ただ一人。いや、二人だけだ。
「……ふふ。そうですね、まったく。兄先輩に諭されるなんて。久々野空子も落ちたものです」
お前はそもそも羽ばたいていねえよ。
「いやはや。失礼しました。悩み解決……とまではいきませんでしたが、うん、ちょっと話してみます。まだ、きっと間に合うと思うので」
そう言って立ち上がった久々野ちゃんは、リビングを出ようとする。
「お邪魔しました、兄先輩。そしてありがとうございました、相談にのってもらって」
「俺は別に久々野ちゃんの相談にはのってねえよ。《雑談》に付き合っただけだ」
「……はは、そうですね」
空笑いをした久々野ちゃはドアに手を掛ける。だが、俺はそこで彼女を「なあ」と引き留めた。
「ちょっと聞きたいんだけど。なんで俺なんだ?」
「……はい?」
久々野ちゃんが振り返って俺を見やる。
「前の時もそうだったけど。悩み――っていうか、《雑談》か。それを俺にするのはなんでなんだ? 仲の良いこのかにすればいいじゃねえか」
本人もいつだったか、敬愛する先輩と呼んでいたはずだ。
なのに、直接関わりのない俺に話を持ち掛ける理由が分からない。
そう問うと、久々野ちゃんは「ああ、それはですね」と悪戯めいた笑みを浮かべる。
「兄先輩が、私と同じだからですよ」
「……いや、意味が分からないんだけど」
そう聞き返すと、久々野ちゃんは「まあ、正確には同じではありませんけど」とぼそっと呟く。
「まあ、同種って感じですかね。同類でもいいですけど。同じイバラの道を歩く同士ですよ、私たちは」
「……俺、別にイバラ道歩いてるつもりねえんだけど」
「はは、うける」
だから意味がわからねえって。
久々野ちゃんはドアに触れて、「それではまた。あ、飛行機のチケットのお礼はまた今度でいいですよ」と嫌な置き台詞を残して、帰ってしまった。
「久々野ちゃんと同じ、ねえ」
俺は独り言を呟き、苦笑した。
「俺の方はイバラじゃなくて、道がないんだけどな」
まあ、どうでもいいけどな。
マッスル正岡。
彼は筋肉四天王の一人であり、日本の上腕二頭筋を司る。
本編に出てくる予定は、今のところない。(そもそも存在するのかどうかも怪しい)




