第十八話:妹とラブホテル
女の武器は涙と笑顔と忍耐とあと、嘘だ。
これはただの思い出だ。
『私。兄ちゃんの分まで頑張るから――』
テニス部に入部したと言って、新品のテニスラケットをまるで宝物のように眺める妹が笑った。
何を頑張るのか、何故にそれを俺に言ったのかを尋ねることはなく、俺はまだ真新しい中学の制服を着た妹に向かって、『そうか』とだけ返した。
これはただの言い訳だ。
『――どうだ』
地区大会シングルス優勝の賞状とメダルを俺の目の前に突きつけた妹は、眼はキッと鋭く睨み付けていたが、口元は少しだけニヤけていた。
中学三年生、最後の大会で悲願とも言える全国出場。果たして、一体どういう言葉と感情を俺に求めていたのかは知らないが、自慢げに見せる妹に苛立った俺はそれらを『ふうん』と一蹴した。
これはただの独り言だ。
『別に兄ちゃんは見てなくていいよ。ただ結果だけは知っていて。ま、どうでもいいけどね』
全国大会に向かうために玄関口で荷物を抱えた妹が背後の俺に振り返ることなく、呟いた。
緊張しているのか、何度も靴紐を結び直す小さな妹の背中に向かって、『ま、頑張れよ』とスマホを弄りながら俺は言った。
そして、これはただの雑談だ。
『兄ちゃん、いたんだ』
リビングのソファで寝転がって空港で買った本の続きを読んでいると、妹が帰宅してきた。
平然としたいつもの様子で、妹は『あ、これお土産』とテーブルの上にちんすこうの箱を置いた。
『おう、ありがと』
『うん。……あーあ。負けちゃった。まさか一回戦で負けるなんてなー。兄ちゃんのせいだからね?』
ひどい言いがかりだった。
『兄ちゃんが応援してくれてたら、絶対優勝出来てたのに』
『そうか、それは悪かったな』
『うん、反省してね。兄ちゃんが目の前で応援して、《頑張れ!》って言ってくれなかったから、私、負けたんだから』
『おう、そうだな。俺のせいだな』
『うん。そうなんだよ……。ぜん、ぶ……にい、ちゃんの……』
顔を俯かせた妹の声は、そこで止まる。
分かってる。俺のせいだろ? 知ってる。だからお前は悪くない。
『……ごめんね、兄ちゃん……。私、悔しかった。兄ちゃん、ごめん……』
なんで謝っているのか、俺には分からなかった。頑張ったのはお前だ。だから、俺に謝る必要なんてない。
謝るなら、むしろ学校の友達や苦楽をともにした部員達だろう。久々野ちゃんとかに、謝ってやれ。そして感謝してやれ。
泣く妹に俺は何もしてやれなかった。何も出来なかった。ただ、見ることしか出来なかった。
一言も応援の言葉を言えずに、ただ妹が苦しんで、それでも前を向いて戦う妹の姿を遠目で眺めることしか出来なかった。
そんな俺に、彼女を慰める資格はない。
それでも。俺と仲の悪い妹でも。これくらいは、許されてもいいんじゃないか?
俺は妹の頭を撫でる。
何も言わず、ただ静かに。
パチリと目を覚ました。
薄暗い室内に淡い桃色の照明で照らされた天井を認めて、俺は「なんかエロいな」と感想を述べる。
ダブルサイズのベッドの中央に寝そべっていた上半身を起こすと、頭の後ろの壁越しからシャワー音が聞こえた。
ぼんやりと室内を見渡す。
一般的なビジネスホテルより少し広めの部屋。ガラステーブルとソファがベッド脇に置かれており、その上には飲みかけのお茶とミルクティーのペットボトルが置かれていた。
お茶の方は俺、ミルクティーは妹のだ。
一見、普通のホテルと同じ間取りだが、どことなく落ち着かない。
まあ、落ち着かないのも無理はない。俺はベッドから右に視線を移す。全面鏡張りの壁に、顔をしかめた俺が映っていた。
「悪趣味だよなあ……ラブホテルって」
「何が悪趣味なの?」
顔を上げると、シャワーから上がったバスローブ姿の妹が立っていた。
髪の毛の先から雫がぽつりと垂れて、バスローブの上に落ちる。
少しサイズが大きいのか、裾の辺りがダボッとしていて、何というか――。
「……馬子にも衣装とはこのことだな」
「なんか言った?」
「いや、何も。じゃ、俺もシャワー浴びるかな……」
ベッドから降りて妹の横を通ろうとして、「あ、待って」と呼び止められる。
「お母さん達には連絡した?」
「ん、ああ」
「……なんて言ったの?」
半眼で尋ねる妹に、俺は瞬きを二度して「いや、普通に……」と腰に手を当てて答える。
「今日はラブホテルに泊まってから帰るって」
「それマジで言ったの!? ねえ、ねえ!?」
顔を真っ赤にして俺の胸ぐらを掴んで揺さぶる妹に、「じょ、冗談、だって……」とどうにか妹の拳を剥がす。
「俺は七神とツーリングキャンプ、このかは後輩の家に泊まるって言っておいた」
「……はあ。心臓に悪い冗談はやめてよ……」
ほっと胸を撫で下ろす妹。
「別に何もやましいことないんだから、正直に言ってもいいだろ」
「そういう問題じゃないの……っ!」
「問題じゃないって……はっ。まさか、俺……今夜お前に襲われるの? 性欲にまみれた妹に、純真無垢な兄の身体が蝕まれ――ぐはっ」
ベッドの枕で頭を殴打された俺は、思わず膝をついた。
「そのまま床で死ね、バカ兄貴」
ふん、と鼻息荒くベッドに寝転んだ妹は、テレビのチャンネルを点ける。
と、壁に貼り付けられたテレビに一糸まとわぬ姿の男女が映り出す。
そして猛々しく腰を振る男と、激しく乱れ叫ぶ女の声が部屋に響き渡る。
『あんっ、あん、ああ、んっ。んんーっ、あ、ああ、ああんっ。ああああっ!』
「ひっ」と小さな悲鳴と共に、ピッとテレビの電源を落とす妹。
そして「あ、ああう」と戸惑いながら、何かを探すかのように視線をあちらこちらにやって、ピタリと枕元に置いてあった小さな袋に入った二つの避妊具を見つけ、
「はぐわっ!」と仰け反ってベッドに倒れ込んだ。
何してんだ、こいつ……。
「じゃ、シャワー浴びてくるから。髪の毛、ちゃんと乾かせよ」
浴室から出て俺も備え付けのバスローブを羽織り、髪の毛をドライヤーで乾かしてベッドルームに戻ると、何故かベッドの上で正座をするこのかを見つけた。
「何やってんの?」
「……。何も」
ちらりと視線をこのかから、枕元に移すと避妊具の袋が一つ破かれていた。何に使ったのかは聞かないようにしよう。
俺は溜め息を吐いて、ベッドに腰を下ろす。ぴくんとこのかが身体を震わせた。
ちらりとこのかを一瞥し、そして――。
「じゃ、おやすみ」
と寝た。
「え。い、いや、ちょっと兄ちゃん? あの……何も、しないの?」
「してるじゃねえか。睡眠。くかー、くかー」
「……。………。…………はあ………」
長い溜め息が聞こえ、隣から「……ばか」と小さな呟きが聞こえ、ぼさっとこのかが横になった。
「……兄ちゃん、寝てる?」
「……寝てるよ」
「……そっか。じゃ、私も寝る。くかー、くかー」
兄妹揃って変な寝息だった。
「……私。もう寝たから。だから……これは寝言ね」
俺は目を瞑ったまま、彼女の寝言を聞く。
「ほんとはね。知ってた。兄ちゃんが、応援に来てたの。何気に一年生の大会から、見に来てたでしょ?」
俺は答えない。静かに黙って眠る。
「兄ちゃんが何も言わなかったから、私も何も言わなかった。だから、昨日も何も言わなかった」
俺は眠る。まどろみの中、妹の寝言を聞きながら。
「私、悔しかった。ううん、試合に勝てなかったことよりも。何より兄ちゃんの目の前で負けるのが、悔しくて恥ずかしくて、申し訳なかった」
隣から泣く声が聞こえた。俺は眠る。
「……兄ちゃんの分まで、私、頑張るって決めたのに……。何も出来なかった。ごめんね、兄ちゃん……ほんとうに、ごめん……」
「……頑張ったんじゃねえの? お前なりに」
俺は寝言を呟く。
「俺は何も知らないし、何も聞いてない。このかが何のために頑張っていたのかは分からないし、そんなのは俺には関係ない。でもな」
俺は寝言を続ける。
「頑張ってたよ、お前は。この三年間、ずっと。それだけは知ってる。だから」
俺は腕を伸ばし、隣で眠る少女の頭を撫でる。
「テニス、辞めるなよ?」
何をきっかけに、何をモチベーションに、何を目的に、何を支えに、誰の笑顔のために、誰の償いのために、頑張ってきたのかは知らない。
それでも、きっとそれらが報われなかったとしても、その誰かはこのかが悲しむことを望んではいないはず。
少なくとも。俺は望んではいない。
「……うん。分かった……」
隣から小さな寝言が聞こえる。
「ねえ、それは兄ちゃんの寝言?」
俺はこのかの頭を撫でる手を止めて、代わりに言った。
「……くかー。くかー」
そう。
これはただの。
――寝言だ。
夏場のバスローブは、意外と寒い。
 




