第十五話:妹と納涼
このドキドキは
きっと怖いからだけじゃない
「暑い」
リビングのテーブルにまるで磁石のように頬をぺったりとくっ付けた妹が、気だるげに呟いた。
叱られた後の犬みたいな垂れた妹のポニーテールを眺めながら、俺は右耳に当てたスマートフォンから聞こえてきた母さんの声に返答する。
「――分かった。こっちは今夕飯食べたところ。はいはい、じゃあ母さん達も気を付けて」
母さんからの電話は切って、俺はソファに深く背を預ける。
「母さん達、やっぱり台風で今晩は家に帰れそうにないって」
「あ、そう」
聞いているのか、それとも今はそれどころではないのか。
空返事をした妹が、「あー、もう!」と顔をテーブルから離して声を荒げた。
「ジメジメしてあっつい! 兄ちゃん、エアコンの温度もっと下げよう!」
「これ以上下げると風邪ひくぞ。大会近いのに、体調崩したらまずいんじゃないのか?」
「うっ……」
顔をしかめた妹は、「でも暑いんだもん……」と手元の団扇で首元を扇ぐ。
台風が通過中ということもあり、室内の湿度は高くべたつくような空気が漂う。
我が家には専用の除湿器がないので、代わりにエアコンの除湿機能を使ってはいるものの、どうも効果が薄いようで蒸すような暑さがリビングを侵略していた。
「アイス、食べる……」
ふらふらと立ち上がった妹が、キッチンに向かい冷凍庫からバータイプのバニラアイスを取り出す。
「太るぞ」
「死ね」
何故か罵倒された。
包みを剥がしてアイスを口に頬張る妹。天国を覗いたような顔を一瞬だけ見せるが、それもすぐに「あっひゅい……」と気だるげな表情に戻ってしまった。
「兄ちゃん……なんか、涼しくなる方法、ない?」
「水風呂に入るとか」
「さっきお風呂入ったばっか」
「冷えピタを張る」
「ウチにあるの?」
「ない」
「ないんかい」
「団扇で扇ぐ」
「もう扇いでる」
「扇風機にずっと当たる」
「風邪ひくじゃん」
「アイスを食べる」
「太るし」
じゃあ、食うなよ。
俺はガシガシと頭を掻く。確かに俺もこの湿気の高さには項垂れる、とは言わないまでも辟易していたところだ。
ただの日差しの強さ程度なら、俺も妹も野外の部活経験から何のことはないのだが、こういうジメジメとした蒸し暑さは専門外、射程範囲外なわけで。
俺はむむっと目を閉じて思考する。
「あ」
そういえば、今日って確か……。
俺はソファから立ち上がり、妹が堕落しているテーブルの上に置かれたリモコンを手に取る。
先ほどまで見ていたクイズバラエティ番組から、チャンネルを切り替える。
すると、真っ暗な画面に薄っすらと古いトンネルの入り口が表示された。
ちょうど始まったところのようだ。
「……なに、兄ちゃん。この番組?」
半眼でテレビを見つめる妹の隣で、俺はにやりと笑った。
「夏で涼しくなる、っていえば。まあ、これだろ」
やがてトンネルの奥から、何かの影が現れた。影はだんだんとテレビ画面に近づいてきて、バンッと叩きつけるような音とともに、真っ青な顔をした女が画面に張り付いた。
その瞬間、「ひっ」と小さな悲鳴が隣から聞こえた。
そしてテレビのタイトルコールが流れる。
《ほんとうにあったかもしれない、恐怖映像スペシャル》
夏の風物詩の一つにして。
納涼。
つまりは。
――怪談だ。
「全く。何かと思えば。心霊番組? 怪談? くだらない。どうせこんなの全部作り物に決まってるじゃない。こんなのでワーキャー言うのは、精々小学生まで。むしろ今どきの小学生でも驚かないかもね。ほんと、時代錯誤もいいところね」
まくしたてるように批判の言葉を並べて妹。
だが、そのセリフは的を射てはいるものの。
その口調は強く気高く誇りを持っているものの。
その態度は腕を胸の前で組んで、偉そうにふんぞり返ってはいるものの。
残念ながらそれはフェイクと言わざるを得なかった。
「全く。ほんとだよな。そういうセリフは、そういう口調は、そういう態度は。俺から離れて言って欲しいものだ」
テーブルにピッタリとくっ付いていた妹は、いつの間にかソファに座る俺の隣へと移動し、腕がくっ付くほどにぴったりと密着していた。
そう指摘すると、妹は不機嫌そうな声を出す。
「はあ? 私は別に兄ちゃんの隣に移動したわけじゃないんだから。たまたま私がソファに移動したいと思って、そしてたまたまその先に兄ちゃんがいただけの話じゃん。曲解しないでよ」
「あっそ。なら俺はテーブルで見るとするかな」
ソファから移動してテーブルに移動する。すると、一緒に移動した妹が密着させるように椅子を俺の方に移動して来た。
「たまたまだから」
「俺は別に何もまだ言ってないぞ」
「たまたまだから」
「……」
俺の方を見ずに、まっすぐテレビの方を向いたまま妹が呟く。
怖いなら怖いって言えばいいのに。
そういえば、妹は昔からこういうホラー系は苦手だったな。
こういうのを怖がるのは、小学生までと自分で言っていたくせに、現在中学三年生、来年高校生になる妹は、いまだに克服できていなかったようだ。
思え返せば、幼い頃の妹がホラー映画や番組を観た後は、カーテンが揺れるのを見ただけで泣き出し、夜中にトイレで起きれば喚いて親や俺を叩き起こしていた。
なのでここ数年は家でホラー系の番組を見ることはなくなり、自然とそういうものを我が家では避けるようになっていた。
さて。
かくいう俺はというと、昔からそういう《得体の知れない》ものに対して、恐怖というよりかは好奇心が強かったので割かし平気だった。
むしろ、何に怯えているのかを理解するまでに時間がかかったほどだ。
虫に躊躇わずに触れる人間と、触れない人間。精々、その程度くらいにしか感じられなかったのかもしれない。
だからこそ、正直に言えば。
地上波で放送できるレベルのホラー番組なんて、面白くもなんともない。
せめての雰囲気作りのために、リビングの電気を消してみたものの、あまり俺には効果はなかった。
妹には効果抜群だった。
そもそもの話。
こういう《素人投降》モノは、全て作り物――とまでは断定できないが、明らかに《このシチュエーションでビデオ撮影なんかおかしいだろ》と思ってしまえば、もうそれは紛い物だ。
だが。
「ひっ」
俺の隣に座る妹は。
「うひゃっ」
それに気付くことなく。
「あうっ」
慄き驚いて。
「……」
挙句無言になってしまった。
ぎゅっと俺の腕にしがみつく妹は、無意識かはたまた意図的か。
いつの間にか俺の手のひらの上に自らの手を乗せていた。
「……」
小さく、細い手。それでいて柔らかい。
「ひうっ」
妹が驚いて俺の腕により一層密着してきた。
腕になにやら柔らかいものが押し当てられる。
寝巻きのTシャツ越しに小さくも生温かい膨らみを感じる。
……こいつ、もしかしてノーブラか?
「うう、こんなの拷問だよ……」
妹が小さく呟いた。
全くもってその通りだと思う。
これは、拷問だ。
そんなこんなで。
とてつもなく長く感じた二時間が経ち、心霊番組を見終えた俺達は同時に「はあ……」と溜め息を吐いた。
リビングの電気を点けると、妹は首元を団扇で扇ぎながら言う。
「ま、まあ。たいして怖くはなかったね。うん、よくよく考えれば生きてる人間の方が怖いしね。ストーカーとかね、うんうん。怖くない怖くない」
まるで自分に言い聞かせるような口ぶりだ。
「でも、まあ。少しは涼しくはなったかな。兄ちゃんはどうだった?」
このかが尋ねる。
俺は首の後ろの汗を手のひらで拭いながら答える。
「ドキドキはしたな」
「へえ? ふーん」
なんだ?
その含みのある笑顔は。
「ちなみに私もドキドキしてたよ」
そりゃ、あれだけ悲鳴上げてればそうだろうよ。
このかが椅子から立ち上がり、背伸びをしてリビングの扉に向かって歩いて行く。
「汗かいちゃったから、もう一回お風呂入ってくる」
「おう」
俺も少し落ち着いて、冷静さを取り戻してから風呂に入ろう。
テレビの電源を消して、キッチンに向かい蛇口から水をコップに注いで一気飲みする。
と、そこで背後から「ねえ、兄ちゃん」と声を掛けられる。
俺はコップに口を付けたまま振り返る。
このかはTシャツの胸元を指さして、
「変態」
と言ってリビングから出て行った。
俺はこのかの言葉を水と一緒に飲み込んで、先ほどの彼女の言葉を反芻する。
――《私もドキドキしてたよ》
「はっ」
どっちが変態なんだよ。
にしても今日は。
「あっついな」
 




