第十四話:妹と夏祭り―前編―
夏祭り?
ああ、知ってるよ。浴衣美人のうなじを拝むイベントだろ。
「――帰った」
妹のぶっきらぼうな帰還の報告に、俺はつい《おかえり》というセリフを言いそびれてしまった。
夏合宿から帰宅した妹は、ボストンバッグをリビングのカーペットの上に置く。
まさに肩の荷が下りたような、合宿の疲労をそのまま重さにしたようなバッグの置き方だった。
「お疲れさん」
「……お母さん達は?」
「まだ田舎に帰省してる。今日の夜には帰ってくるって」
「ふうん」
「昼飯は?」
「途中のサービスエリアで食べてきた」
「なに食べた?」
「ご当地おすすめ、納豆おろしラーメン」
どこの地方に行ってきたんだ、お前は。そしてなぜにそれをチョイスした。
「あー。疲れた」
つまらなそうに呟いた妹は、テレビのリモコンをつかんで俺が見ていた甲子園中継のチャンネルを切り替えた。
暇つぶしに見ていただけだから、別にいいけど。
そんなことより……。
「……なに? 人の身体、ジロジロと。キモいんだけど」
「いや、合宿の成果はどうだったのかなあと」
男子三日会わざれば、括目せよ――とまでは言わなくても、それなりに見た目の変化はあったものかと眺めてみるが、腕と首筋以外の日焼け以外の大きな変化は見つけられなかった。
「強くなった?}
「そりゃ、そのための合宿だったからね」
妹はリビングを抜けて、キッチンに足を運ぶ。冷凍庫からアイスキャンディを取り出して封を開けて、口に咥える。
「ほう。ちなみにどれくらい成長したと自負してるんだ?」
「うーん。喩えるなら、宇宙の帝王が第一形態から最終形態になったくらいには強くなったと思う」
「強くなりすぎだろ。今までのお前の努力はなんだったんだよ」
というか、バトル漫画で喩えるなよ。分かりづらいわ。
「テニスで喩えるなら、地区大会編から日本選抜編くらいにはテニス力が上がったと思う」
「それも結局インフレしてんじゃねえか。お前、10球同時に打てるのかよ」
「私の波動球は、53万まである」
「それ、色々と混ざってるぞ」
妹はそれ以上ふざけるつもりはなかったようで、アイスを舐めながら俺の座るソファの前までやってきて、静かに俺を見下ろす。
……?
「だから――」
そこで妹は言葉を飲み込む。俺は首を傾げて、彼女の言葉を反芻する。
「……だから?」
なんだ?
「……やっぱ。なんでもない」
そう言うと、妹はボストンバッグを担いで、リビングを出て行ってしまった。
おそらく、着替えなどを洗いに行ったのだろう。
すると、ちょうどポケットの中のスマートフォンが着信を鳴らした。
画面を見ると、七神直人の名前が表示されていた。
迷わず、着信を切る。
……再びコール。
着信を切る。
コール。切る。コール。切る。コール。切る。コール。切る。コール。切る。コール。切る。コール。切る。コール。出た。
「――ああ、悪い。ちょっとウンコしてて電話取れなかった」
『嘘つけ! お前、明らかにワン切りしてただろ!』
スピーカーから流れる七神の怒声が俺の耳をつんざく。
加えて七神の周囲に人がいるのか、小さな話し声が漏れ聞こえていた。
「はっはっは。親友からの電話を、俺がワン切りするわけないだろ?」
『ホントか……? じゃあ、さっきまで繋がらなかったのは、電波が悪かったのかな?』
「そうだろ。じゃ、また夏休み明けに学校で」
『おう! って電話を切ろうとするんじゃねえ! まだ俺は要件を伝えてねえだろ!』
ちっ。流れで電話を切れると思ったのに。
「はあ……。なんだよ、七神。昨日の今日で、またウチに遊びに来るとか言わないだろうな?」
『ああ。それが俺としたことが、昨日伝え忘れててな。今日って高校近くの神社で夏祭りあるだろ?』
そういえば、もうそんな時期だったか。すっかり忘れていた。
『でよ、今サッカー部のメンツでファミレスに集まっててな。せっかくだからお前もどうかなーって』
なるほど、どうりで電話の向こうが少し騒がしいわけだ。
にしても、何がせっかくだ。サッカー部のメンツってことは、俺は完全に部外者じゃないか。
「いいよ、俺は。サッカー部の知り合いもそんなにいないし」
『まあ、そう言うなって。マネージャーの笹倉も来て欲しいって言ってる――あ、バカ! 笹倉、あぶねぇ! 俺の一張羅のアロハシャツにメロンソーダ零すんじゃねえよ!』
何やらバタバタと喧騒の声が聞こえた。
どうでもいいけど、この電話切ってもいいかな。
『悪い、悪い。ったく、せっかく俺がお膳立てしてんのに、恩を仇で返すようなマネしやがって。それで、待ち合わせなんだけどな?』
「いや、行かないって」
『え? なんで? あ、もしかしてもう一緒に行く奴が決まってるとか? フッフー! 彼女? なあ、それってかの――笹倉、バカ、それはシャレになんね――」
七神の悲鳴を最後に、通話が切れてしまった。
何だったんだろう、今の電話。
にしても、夏祭りか……。
俺はソファから立ち上がり、洗面所に向かう。
扉を開けると、浴室でテニスシューズを洗っている妹がいた。
「なあ、このか」
「なに?」
俺に背を向けてこのかが答える。
「今日、うちの高校近くの神社で夏祭りあるって知ってたか?」
「うん」
「行くの?」
「うん。部活の皆とね。空子がどうしても行きたいって言ってたから」
「そうか」
と、そこでシャワーを止めて、このかが顔を上げた。
「それが?」
「いや、何でもない」
「……あっそ」
会話終了。
テニスシューズを洗い始めたこのかを置いて、俺はリビングに戻る。
ソファの上に置いたままのスマートフォンが鳴っていた。
「……夏祭り、ねえ」
今度は電話は取らなかった。
高校近くの神社は、山の麓近くにある。
石段が長いため、運動部のトレーニングスポットになっているらしい。
帰宅部で馴染みのない俺からすれば、場所は知っているもののこうして足を運ぶのは新鮮な感じだった。
神社に近づくにつれて大きくなる祭囃子の音が、自転車を漕ぐ俺の足を重くする。
「……なんで来たんだろ、俺」
高校の駐輪場に自転車を止めて、徒歩で神社に向かう。境内の石畳に広がる出店と、それに群がる人混みを見つめ、踵を返したくなった。
だが、それを阻む声が背後から聞こえてきた。
「お、なんだ! やっぱ来たんじゃねえか!」
振り向かずとも分かる声に、俺はとっさにお面屋で顔を隠したくなったが、それも残念ながら叶うことはなかった。
「さっきまでずっと電話してたんだぞ! ま、でも会えたからいっか! じゃ、一緒に待ち合わせ場所に行くか」
七神に腕を捕まれ、俺は半ば強引にサッカー部の奴らと一緒に夏祭りを巡ることになってしまった。
知らない顔が半数以上いたが、結果を言えばそれなりに楽しめた。
だが、一つだけ。気になることはあった。
「なあ、七神」
「ん?」
射的でオモチャのライフルを構えながら隣の七神に尋ねる。
「女子マネの笹倉さんだっけ? なんであの人、ちょいちょい俺に食べ物をくれるんだ?」
「さーね。なんでだろうね、っと!」
コツンと。七神の放った弾が、キャラメルの箱を落とした。
「あーあ。せっかく一等賞狙ったのに」
残念だったな、と屋台のオジサンがキャラメルを七神に手渡す。
「気になるなら直接聞けばいいんじゃね? ほら、この神社って隠れスポットあるだろ? 本殿の奥の、通称《恋人の密会所》。あそこに呼び出して聞けば?」
「面倒くせぇよ。つか、なんだそのダサい通称」
「俺が今付けたからな」
「ま、いいや。どうせ部外者の俺に気を遣ってるだけだろうし」
「……はあ。報われねえなあ、笹倉の奴も」
俺と七神は雑談を終えて、射的屋から離れる。
互いの戦利品はキャラメル1個。射的代500円の割には、高いキャラメルになってしまった。
「さーてと。喉も渇いたし、俺はカキ氷でも買ってくるかねえ。お前は?」
「俺はいいや。この辺ブラブラしてる」
「うっす」
七神は頷いて、人混みの中に消えていった。
さて。七神もいなくなったし、今の隙に帰るとするか。
出口となる鳥居の方へ踵を返した瞬間、小柄な何かが俺の胸にタックルしてきた。
「うぷすっ。す、すみません! ちょっと人探しをしていて――って、兄先輩じゃないですか!」
視線を落とすと、お団子ヘアーをした小柄な体躯の浴衣姿の少女が鼻頭を押さえていた。
小麦色に焼けた肌に金魚柄の白い浴衣がとても似合っていて、率直に言ってとても可愛らしかった。
きっと七神に言わせれば、こういう些細なきっかけが夏の恋の始まりだったりするのだろう。
だが、その少女は残念なことに。
――俺の見覚えのある顔だった。
「何してんの、久々野ちゃん」
「浴衣姿を見れば分かりますでしょう! 夏祭りですよ、フェスりに来たんですよ! 夏フェスってやつですね!」
その言い方は別のイベントを想像してしまうから、多分正しくはないと思う。間違ってはいないんだけどな。
このかの後輩である久々野空子。俺はどうにもこいつが苦手だ。
普段のテンションでもかなりうざいのに、祭りともなればハイを超えてフルテンションだ。
ビートの激しい4分半の曲を、1時間ループで聞かされるような、そんな少女。
彼女の浴衣姿が可愛いだけに、目の保養として出来ればもう少し見ていたいものだが、年上だからと言われて、たかられる前にこの場を去ってしまおう。
「じゃあ、俺はもう帰るから。遅くならないうちに中学生は帰れよ」
「いや、待ってください兄先輩! ちょうど困ってたんです、助けてください!」
Tシャツの裾を捕まれ、逃げ道を塞がれてしまった。
「え、何? もしかして、俺逆ナンされてる?」
「それは非常に魅力的かつ、コソバユイ誤解ではありますが、違います。実は、私テニス部の皆とこのお祭りに来たんですけど――」
そういえば、このかの奴もテニス部の奴らと行くって言ってたっけ。
「それが、このか先輩が途中ではぐれてしまって。兄先輩、このか先輩を見かけませんでしたか?」
「……いや、見てないな」
この神社の境内はそれなりの広さだから、すれ違う程度では全く気付かないしな。
「うう……。どうしよう、この後打ち上げ花火もあるから、どんどん人が増えて来てるし、見つけるのが大変になってきたよぅ……」
「電話は? してみたか?」
「もち、しましたよ! でも繋がらなくて……」
顔を俯かせる久々野ちゃんを見つめ、「はあ……」と小さくため息を吐いた。
「わかったよ。あいつを探すのを手伝えばいいんだろ?」
元々身内の迷惑だしな。
すると、久々野ちゃんの顔がパアッと明るくなった。
「ホントですか!? ありがとうございますっ! これで安心して、たこ焼きの列に並べます!」
「いや、手伝うとは言ったけど、お前も探せよ!」
「だって。もう私、お腹ペコペコで。このか先輩探してたら、いつまで経っても屋台で遊べないですし」
久々野ちゃんのプライオリティは、どうやら【尊敬する先輩】>【祭りの屋台】らしい。
流石に妹に同情しそうだった。
「じゃ、兄先輩。このか先輩見つけたら、私のラインに連絡ください」
久々野ちゃんと連絡先を交換すると、彼女は「それではっ!」と言って、下駄を履いているくせにもの凄い速さで人混みの中に消えていった。
……このかを見つけたら、チクッてやろう。
さて、まずはこのかに俺からも電話を掛けてみるが、反応はなかった。
電源は切れてはいないようなので、気づいていないか、あるいはスマホを落としたか……。
「……」
思えば久々野ちゃんは、俺にぶつかるくらい、慌てるようにこのかを探していた。
それはきっと、数分程度ではない捜索時間だったのだろう。
それでも、見つけられなかった。
今なお、見つけられていなかった。
つまり、それは。
「……」
万が一を想像する。最悪を想定する。可能性を洗い出す。
もし、もしも。
――電話に出たくても、出られない状況なのだとしたら。
不安が一瞬、脳を過る。だが、すぐに頭を振る。
「ないな。うん、ないない」
それは考えすぎだ。もしそんな危機的状況だとしたら、久々野ちゃんだって屋台を優先したりしない。
ただの迷子だろう。まったく、中学三年生、来年高校に上がる女子が迷子だなんて。
「……ま、どうせ暇だし。ゆっくり探すとしますかね」
汗がシャツにべた付いて気持ちが悪い。
足に重りが付いたようにすごく歩くのがダルい。
息が乱れ、心臓が鐘を鳴らすかのように五月蠅い。
おそらく、今の俺の見た目は最悪だろう。
ただの気まぐれだったはずの夏祭りも、もう来年は絶対に来ないと誓おう。
だから、せめて。
今だけでも。
冷静でいよう。
振舞おう。
一つ、静かに呼吸をして、声をかけた。
「よお、このか」
本殿の奥、七神の言っていた隠れスポット。
境内のざわめきと華やかな光から遠く離れたこの場所は、別空間にいるような静寂と涼しさがあった。
大きな杉の木と腰かけられるような長細い岩が一つあり、それ以外は何もない。
そんな何もない場所に一人、岩に腰かけていたこのかは顔を俯かせていた。
だから、俺はそんな妹に近寄って言う。
言おうと思っていた言葉とは、まったく別の言葉を。
「キャラメルでも食べるか?」
後編に続きます。
 




