第十二話:妹と入部理由
ただ一言。
「すごいね」が欲しかっただけなんだ。
唐突に。突然に。前触れもなく。伏線も、きっかけもなく。
思い出を、思い出すことがある。
「……にぃには、なんで陸上部に入ったの?」
だからこれは、そんな些細な記憶。
いつ忘れてもいいような、昨日の晩ご飯のメニューと同じくらい思い出さなくてもいい会話だ。
俺が中学二年生だった頃のある夏の日だったと思う。
当時、小学五年生の妹は、俺のことを《兄ちゃん》ではなく《にぃに》と甘ったるい呼称で呼んでいた。
夏休み中の部活を終えて、帰宅した俺は真っ先に汗を流すために風呂に入った。
しばらくして、何故か妹が浴室に入って湯船に浸かる俺の対面に座り。
そして俺に聞いたのだ。
「にぃには、なんで陸上部に入ったの?」
真っ直ぐ見つめられ、俺はどう答えたものか困惑した。
答えを迷っていたのではなく、その前に何故に一緒に風呂に入っているのかを問いたかったのだが、疑問に疑問で返すのはどうだろうと思い、まずは妹の疑問に答えるべく、口を開いた。
「そうだな……。足が速い男ってカッコイイよな?」
小学生時代は、とにかく足が速い人は人気者だった。
俺は学年の中ではダントツではなかったが、クラスでは上から三番目くらいに入るくらいには、そこそこ足が速かった。
妹は「そうだね」と頷く。
「つまりは、足が速いとモテるわけだ」
「うん」
「以上だ」
「うん。……え?」
訝しげな表情を浮かべる妹。
「本当に、それだけの理由?」
「まあな。モテたかったんだよ」
「……へー」
まさか小学生の妹に目を細められて呆れられるとは思わなかったので、俺は慌てて訂正する。
「あ、違うぞ? 別にたくさんの女の子にキャーとか言われたいわけじゃなくて、でも少しくらいは言われたくて。いや、じゃないな。えーっと、つまりな」
「もういいよ。にぃには、女の子にモテたかったから部活入ったんでしょ?」
「んー、まあ。それは半分は本当だから、否定しないけど」
「……もう半分は?」
首を傾げる妹を見つめ返すが、すぐに視線を外して言う。
「……カッコイイって言われたから」
「……ふうん。誰に?」
ニヤニヤと笑う妹。こいつ、分かってて言ってるな。
湯船の水をピッと指で弾いて、妹の顔に掛ける。
「わぷっ。何すんの!」
「ガキのくせに、はぐらかすからだ」
「ぶー。……ね、にぃに。じゃあさ、にぃにの苦手なスポーツってあるの?」
パシャパシャと水を弾いて遊ぶように尋ねる。
「そうだな……。あ、テニスとかラケット使うスポーツは苦手だな」
「テニス……」
「そそ。今、体育でやってるんだけどよ。これが難しいんだよな。思った通りの場所にボールが打てないんだ」
「……じゃあ、テニス上手い人って、カッコイイって思う?」
「ん? あー、まあな。俺には出来ないことだからな。すごいって思う」
「ふうん。そっか」
うんうん頷く妹に、俺はもう一度水を掛けた。
「わぷっ」
「何納得してんだよ」
「べっつにー。あ、ねえねえ。お風呂上がったら、宿題教えて」
「えー、俺飯食ったら寝たいんだけど」
「少しだけでいいから! えっとね、算数の問題で――」
そんな、どうでもいい会話。他愛のない兄妹の交わした一片。
それを、ふと。
俺は思い出した。
ばたばたと一階が慌ただしく、その音で俺は目を覚ました。
時計を見ると、午前八時ちょうど。夏休みにも関わらず、規則正しい起床時間だった。
欠伸を漏らしながら二階の自室を出て階段を降りると、玄関に大きなボストンバッグを抱えた妹が靴を履いていた。
「どこか行くのか?」彼女の背中に問いかける。
「夏合宿」
背後を振り返らずにこのかが答える。
「ふうん。全国大会までのラストスパートってやつか」
「そんな感じ。来週からだからね」
中学三年生。ほとんどの同学年の生徒は部活を引退し、高校受験に向けて必死に勉強している頃。
このかは、いまだに部活を続けていた。いや、続けられていた。
「なあ」と俺はこのかの背中に声を掛ける。
「なんでお前、テニス部に入ったんだよ?」
靴を履いたこのかは、ボストンバッグを肩に掛けて玄関のノブに手を触れる。
そして、ドアを回して出て行く瞬間に、小さく呟いた。
「モテたかったから」
行ってらっしゃいとは、言わなかった。
打ち上げ花火。妹を見るか、妹と見るか。




