第十話:妹の後輩と相談
好きな人の好きな食べ物は。
何となく、好きになるものだ。
夏休み初日にして、バイトの日。
昼の十二時からみっちり八時間のシフトを入れてしまった俺は、いつもより少し遅めの起床をしてすぐに家を出た。
別に遅刻をする時間でもなかったのだが、微妙な時間を家で潰してしまうと労働意欲がなくなってしまうので、仕方なく早めに家を出たというわけだ。
とはいえ、まだバイトの時間までだいぶ余裕がある。
自転車を漕ぎながら住宅街を抜けると、ふと前方に小洒落たパン屋を見つけた。
そういえば、朝食も食べていなかったし、このままバイトを始めれば休憩まで何も食べることは出来ない。
ならば朝兼昼飯をここで食べておくのも悪くない。
幸いにして、そのパン屋の外見を見るに買ったパンをそのまま店内で食べることもできそうだ。
そうと決まれば、俺はパン屋の入口近くの駐輪場で自転車を降りて、店内のドアをくぐった。
「いらっしゃいませー」
若い女性の店員さんの声と店内の冷房の風が心地よい。
トレーを持って、香ばしいパンが並ぶ棚を吟味する。どうやら値札の看板を見るに、ここのおすすめはカレーパンのようだ。
ちなみに俺の好物はメロンパンで、関係ないが妹の好物はチョココロネだったりする。
本当にどうでもいいけどな。
そして何となく、辛いものには甘いものがセットにした方がいいと思い、俺はおすすめのカレーパンと、甘さという意味ではメロンパンより甘いチョココロネをチョイスして、レジに持っていきアイスコーヒーもついでに頼んで一緒に精算をする。
さて、どこに座って食べようかと改めて店内の奥を見渡すと、唯一の先客が二人掛けのソファでサンドイッチを食べていた。
二つ結びの黒髪に、白のポロシャツを着た女性客が、俺の視線に気づいたのか、顔を上げてこちらを見やる。
「あ!」
視線が合うと、ぶんぶんと手を振って招いてきた。
「兄先輩じゃないですか! こんなところで奇遇ですね! ささ、ここへどうぞ!」
久々野空子。
妹と同じ中学で部活の後輩。
現代っ子代表。
俺の認識、オツムが弱い。
「何ぼーっと突っ立ってるんですか? 女子中学生とご飯を食べるチャンスですよ! ほらほら、さっさと座れよ」
何様なんだ、この小娘は。
仮にも――いや仮でもなく真実なのだが、俺は彼女の先輩の兄である。
ならば親しき仲にも礼儀あり以上の礼儀と礼節を持って対応されるべきなのだが、ゆとりゆとってゆとられた彼女に言っても馬の耳に念仏、老害の説教だろう。
そして背後から《知人に招かれているにも関わらず、断るの?》という女性店員さんの視線も痛いので、仕方なく俺は彼女の対面に腰を下ろした。
「よお、久々野ちゃん」
「よお、兄先輩。こんなところで何をしてるんですか?」
「パン屋でパンを食べに来る以外に目的があるのか?」
「道草を食ってるのかと」
「言い得て妙だが、残念ながら俺はパンを食いに来ているんだよ」
「あはは。うける」
意味が分からない。
久々野ちゃんはどうやら一人のようで、服装と持ち物にテニスバッグを持っていないところを見ると、部活に行く途中というわけではないようだ。
「じゃあ、質問を変えましょう。兄先輩は、この後何かご予定でもありますか?」
「一時間後にバイトがある」
俺はアイスコーヒーに口を付けながら答える。
「ふむ。つまり、このお店にはバイトまでの時間潰しで寄ったというわけですか」
「まあ、そうだな。久々野ちゃんは?」
「私も似たようなものです。これから合宿の買い出しに行くので、一緒に行く部員とここで待ち合わせしてるんです」
お互い暇つぶしのようだった。
「さて、兄先輩。せっかくですから、そのバイトの時間まで私とお話ししませんか?」
「そのつもりで俺をここに座らせたんだろ?」
「あはは。うける」
だから意味が分からないって。
「兄先輩も一応年上ですし、それなりにちょっと相談というか、悩みを聞いてもらいたいのでありますよ」
「ふうん。別にいいけど、女子中学生の思春期の悩みなんて、答えられるか分からないぞ」
多感にして繊細。中学生の悩みというのは結構ムツカシイものだ。
高校生にもなれば、ある程度の悩みを《妥協》し《悟る》ものだが、中学生は現実と夢の狭間を生きており、小学生から卒業できないものも多い。
カレーパンを頬張りながら、それでも数年程度の人生の先輩としてアドバイスできる範囲ならということで、彼女の相談に乗ることにした。
「ありがとうございます。それでは、私の悩みというのはですね。実は私、一つ上の野球部の先輩と付き合っているんです」
「ほう。それはそれは」
ベタな恋愛相談だろうか。
「それでですね、付き合ってから三か月になるんですけど。この間、その先輩に言われたんです」
そこで言葉を区切って、彼女は表情を変えずに淡々と言った。
「《エッチしよう》って」
「ぶふっ」
カレーパンを思わず吹き出しそうになり、必死に対面の彼女にかからないように下を向いて飲み込んだ。
咳き込みながらアイスコーヒーで胃に流し込むと、俺の顔を見た久々野ちゃんは怪訝な眼差しを向けてきた。
「何してんですか?」
「ごほっ。い、いや。何でもない……ちょっと驚いただけだ」
「そうですか。それでですね、《エッチしよう》と言われて、私も流石に困りまして。いや、それなりに私も興味はありますし、思春期ですからね。周りにも経験している人はいますし、私も早く経験しとかないといけないのかなーとか、思ってたり。
でもでも、ちょっと怖いじゃないですか。そりゃ先輩のこと好きですし、先輩のことだったら何でも受け入れるつもりではありますけど、でもやり方とか? あ、体位とかどうなんですかね? 初心者向けの体位とかあったりするんですかね?」
「ちょっとストップ」
まくしたてるように怒涛のディープな少女の悩み相談に、俺はまったをかける。
「なんですか?」
「まず、声を抑えろ。そして場所をわけまえろ。ここはどこだ?」
「兄先輩の《ここは俺に聞け!》の相談部屋です」
「違う、パン屋だ」
「そうです。何言ってるんですか?」
お前が何を言ってるんだ。
アイスコーヒーを一口飲んだ俺は、小さく息を吐いて彼女に言った。
「一つ確認する。久々野ちゃんの悩みって、エロいことか?」
「え? 違いますよ? まだ話の途中ですし」
「そうか。そいつは悪かった。じゃあ、続けてくれ」
「はあ。それでですね。私も色々考えて、結局先輩の申し出を保留にしてもらったんです。で、その後、私なりに色々調べまして。おもちゃとかいいんじゃないかって」
「……なんだって?」
「おもちゃとか、いいかなって」
「……カードゲームなら、俺けっこう強いぞ」
「何言ってるんですか? カードをどうやって穴の中に入れるんですか」
「お前、表出ろや」
そろそろ本気で怒るぞ。
不思議そうにする久々野ちゃんは、「はあ……」と何に怒られているのか分からないようで、サンドイッチをつまらなそうに口に放り込んだ。
「で、ですね。ここから本題です」
「今の前置きだったのかよ」
「兄先輩は初めての時、どうしました?」
今度は吹き出した。
何も口に含んでいなかったので、吐き出すものはなかったけれど、再び咳き込む羽目になってしまった。
「さっきから兄先輩、何してるんですか? 一発芸ですか?」
「ごほっ、ごほっ。ち、違う……」
「そうですか。それで、兄先輩の初めての時はどうでした?」
「……教えない」
「えー。教えないってことは、経験ありってことですか? それともないってことですか?」
ニヤニヤと女子中学生に見つめられる男子高校生の画がここにはあった。
「……ノーコメントだ。っていうか、それが悩みごとか?」
「まあ、そうですかね。うん、それでいいです」
久々野ちゃんは何故か興味がなさげだった。
俺はチョココロネを囓りながら、一応悩みに答えておく。
「俺が経験済みかどうかはおいておいて。まず、ヤるなとは言わない。年頃だもんな、その彼氏の気持ちも同性として納得できる。だけどな、そういう行為に万が一を考慮しておくことだ。考慮というよりかは可能性だ。可能性というよりは責任だ」
チョココロネを食べ終えて、手に付いたチョコを舐めとりアイスコーヒーを飲み干して続ける。
「子供が出来る可能性があることを、親になる責任を。考えておけ。これは中学生だからじゃない、お前が女子だからだ。今後、そういう場面になる度に考えておけ。いいな?」
それなりに真面目な顔で話をした。残念ながらこういうのは俺のキャラではないのだが、彼女なりに真面目に考えているのであれば、俺も真面目に返すのが筋というものだろう。
さて、多少説教くさくなってしまったが、果たして久々野ちゃんは真面目に聞いてくれたのだろうかと思い、彼女の顔を伺うと。
「はあ。女子同士でも子供って出来るもんなんですかね?」
「……あ?」
あんだって?
女子同士、だと?
俺は数秒ほど脳を回転させ、指を彼女の前に立たせる。
「一つ確認だ。久々野ちゃんは、男子と付き合ってるんだよな?」
「え? いえ、違いますけど。普通に同性、女の子、ついてない方と付き合ってますけど」
「……だって、野球部の先輩とって」
「はい。うちの中学、女子野球部ありますから」
「おーう」
なるほど、なるほど。
……。こいつ、わざとだな。
「ふう。ま、いい暇潰しになりましたでしょ? パンも食べれて道草も食べれた。よきかなよきかな」
けらけらと笑いながらアイスティーを飲む久々野ちゃん。確かに時間はだいぶ経っていた。
俺は腰を上げて席から立ち上がる。
「そうだな、食えないのはお前だけだったよ」
「あはは。うける」
だから意味わからねえって。
俺は「じゃあ、俺はそろそろ行くわ」とトレイを返し、久々野ちゃんに手を振ると、「あ、最後に質問です」と言われて振り返る。
「兄先輩って、このか先輩のこと。好きですか?」
「……兄妹だからな。もちろんだ」
そう残し、俺はパン屋から出た。
照りつける夏の太陽が眩しい。
ああ、このテンションでバイトに行かないといけないのか。面倒くせぇな。
と、駐輪場に目をやると、そこには白い無地のTシャツに紺色の短パンを穿いたボーイッシュ姿の妹がいた。
そういや、あいつ。この店で部員と待ち合わせしてるって言ってたな。
「何やってんの?」
このかは不機嫌そうに目を細めて俺を見やる。
「バイト前に腹に何か溜めておこうと思ってな」
「あっそ」
会話終了。まあ、こんなものだろう。
代わるように俺は自転車に跨がり、このかは店のドアに手を掛ける。
と、そこで俺はこのかに尋ねる。
「なあ、久々野ちゃんに恋人がいるのって知ってるか?」
「知ってるけど。もしかして、兄ちゃん。空子のこと、狙ってた?」
このかの不機嫌度が二割増しになったような気がした。可愛い後輩に色眼鏡を向ける兄を嫌悪しているのだろうか。
「なわけねえだろ。さっき店内で恋愛相談を受けただけだ」
「あはは。うける」
なに、それ流行ってんの?
もういい、早くバイトに行ってもやもやを払拭してしまおう。
そう思い、自転車のペダルに足を掛けようとして「あ、待って兄ちゃん」と呼び止められて、背後を振り返る。
「ちなみに、ここで何食べた?」
「えーっと。おすすめっていう、カレーパンと……」
俺は少し考えて答える。
「……メロンパン食べた」
「ふうん」
それが聞きたかったのか、もう呼び止められることはなく、俺はペダルを漕いでバイト先に向かった。
自転車を漕ぎながら、なんとはなしについてしまった二つの嘘を思い出して。
俺は小さく、呟いた。
「うける」
ちなみに私から告白しました。
もちろん、先輩は驚いてましたが、驚いた先輩も可愛くてその場で抱きしめちゃいました。
恋は積極的に、です!
――久々野空子




