50、ツーちゃんの実験室。俺が紅い瞳の天使と再会すること。
ある夜、突如として部屋にやってきた深紅の瞳の少女・フレイアに誘われて、俺(水無瀬孝、26歳ニート)は魔法の国サンラインへと旅立った。
竜の国での空中緊急脱出。影の国での魔術師からの襲撃。あらゆる困難を乗り越え、ついに俺たちはサンラインへと辿り着く。
目的地に着いた俺は、「蒼の主」ことリーザロットの館に招かれ、正式に「勇者」としての役目を引き受けることとなる。
だが到着して一息ついたところで、色々あって俺は自警団員のナタリーと共に「サモワール」という店への潜入捜査する羽目になり、敵の魔術師・リケからの襲撃に遭った。
何とか窮地をしのいだ俺は、今度はリーザロットの館で身体検査を受ける。どうやら怪しい生き物が俺の中に潜んでいるらしいが…………。
奇妙な生物の標本や剥製が大量に並ぶ、いかにも怪しげな館の一室で、ツーちゃんは淡々と検査の準備を進めていった。
壁いっぱいに広がった書架には、本がギッシリと詰まっていた。古そうな本も、比較的新しい本も、ごっちゃになって詰まっていたので、何だか古本屋のような懐かしい趣があった。
背表紙に書かれた文字が読めないのは、いっそ幸いだ。きっと、「人を安全にワニに変える方法」とか、想像を絶する恐ろしいことが書かれている違いない。
夕陽の差し込む窓辺には、使い込まれた流し場と机が、ちょこんと備え付けられていた。
「ここは私の実験室だ。最近は物が増え過ぎて、難儀していてな…………」
机に向かうツーちゃんの傍らには、見覚えのある虹色の液体や、トルコ石色の粘液がとろりと溜まった鍋、凶悪なギザの付いたナイフ、使い込まれた雰囲気のある木製の小槌などが揃っていた。
「手伝え」
ぶっきらぼうに言葉を投げられ、俺は協力することにした。
だが実際、ほとんどの支度はツーちゃん一人の手で済んだ。俺はステレオタイプな医療ドラマよろしく、「メス」と医者に言われたらメスを手渡すだけの、雰囲気だしの看護師の役に徹していた。
「貴様は本当に役に立たないな…………」
ツーちゃんは独り言をぼやきつつ、俺とクラウスが市場で見つけてきた物々をテキパキと処理していった。
「で…………ここで、僧蝶花の種を赤沼の土に植え、聖水をふりかける。まんべんなくな」
ツーちゃんの声はまるで、料理番組のアナウンサーのようだった。
「すると、先程説明した各々の要素が、物質層・霊層の両層において作用し、そこに張ってある月相・魔力色相関図に従った反応速度で、オースタンの気と同組成の気が生じるわけだ。
そこへ九月描の毛皮に包み数日間眠らせた、健康なリルバラ鼠の双生児を放つ。くれぐれも魔法陣の中央に置くことが大事だぞ。でないと、せっかく陣によって抽出した魔力を此奴らが受けとれん。
トレンデの在来種であるリルバラ鼠は、錯綜霊体構造を持つ特殊な生物ゆえ、あらゆる試験の判別に不可欠だ。ただし、貴様の出身地であるオースタンには、此奴らの感度を著しく乱す九月猫の魔力が高濃度で存在する。故に、まだ免疫機構が完成しておらぬ幼体を必要とした。幼体であれば、このように弱い刺激に晒すことで、天敵である九月猫の魔力に対しても適応する」
ツーちゃんは、フワフワのカーペットの切れ端の中で穏やかに眠る、小さな二匹の鼠をしみじみと見下ろしていた。
「稀に、それでも耐えきれぬ個体もある故、双生児を依頼したのだが…………此奴等は、そんな心配が馬鹿馬鹿しくなる程に、本っっっ当に元気でな。よく食うわ、よく暴れるわ、よく寝るわ、寝小便垂れるわ…………。まるでお前とタカシのようだ」
「寝小便は垂れてないよ」
「フン、ガキがよく言うわ。…………今回は特別に、二匹まとめて使ってやることにしたぞ。理論は省くが、この方が検査の精度が上がる。だが、相互作用によって、馬鹿みたいに長生きになるぞ。こんなうるさい奴らが、一体何十年生きるやら。貴様が責任を持って飼うのだぞ。
というか、おい、コウ。タカシの阿呆はなぜ、まだ来ない? さっき呼んで来いと言ったはずだが、まさか死んだのか? あやつがポムの実の皮で滑って後頭部を強かに打ったのは、昨日のことだったが、よもや本当に逝くとはな!」
俺はとどまるところを知らない罵倒に肩を縮め、口を尖らせた。
「知らないよ、俺はちゃんと呼んできたよ。ただ、老いた体に筋肉痛がどうとかぶつくさ言ってたから、まだその辺を這いつくばっているかもね。全くアイツ、俺の身体に何したんだか…………。
それより、さっさと続きやろうぜ。俺、リズに会いに行きたいし、出掛けたいところがあってさ…………」
ツーちゃんはキッと刀に似た鋭い視線を俺に向けると、小さな手でぴしゃりと俺の額を叩いた。
「痛っ!」
「馬鹿者、誰のためにやっていると思うか!? そもそも今回の事件とて、貴様がフラフラと勝手に出歩くから起こったのだぞ!? 少しは反省せよ! まったく、止めないリズも、騎士団のヤツらも、腹立たしい、実に腹立たしい! どいつもこいつも子供ばかりだ!!」
「…………反省はしているよ。でも」
「貴様はもう黙っとれ! …………次、環椎!」
俺は口を噤み、ツーちゃんにマヌーの環椎を手渡した。こうなると、触らぬ何とやらに祟り無しである。俺は彼女の怒りが鎮まるまで、仕方なく耐え忍ぶことにした。
「大体、貴様には危機感が足りんのだ」
ツーちゃんはトルコ石色の謎スープに環椎を放り込むと、鍋を暖炉に持っていき、短い詠唱で一瞬にして火を起こした。
パチパチと燃える火を見ていると少し鳥肌が立つ。嫌でも熾火のことが思い出された。
「マヌーの環椎は、単体では魔具とはならぬ。だがこうして、トメル妖精の鱗粉と白緑樹の樹液と一緒に、紫英石光の曝露下で煮詰めれば…………。
と、いかん。ランプに取り付けた紫英石の籠に、ガタが来ておる。これでは石が鍋の中に落ちかねん。補強せねば…………」
俺はぐったりと椅子の背もたれに寄りかかった。タカシは一向に現れないし、陽は刻々と落ちていくし、お腹は空いたしで、何だか、もどかしくてしょうがなかった。
変な夢を見たせいで、リズが心配だった。それにフレイアにも会いに行きたかった。あの子、鍛錬とか言って、休んでいる間にも変な無茶をしていないといいけれど。
ナタリーにも「桃色」のことでちょっと話したいと言われているし、早く検査なんて終わらせてしまいたい。
ツーちゃんは俺を横目で見つつ、呟いた。
「…………ときに貴様、死が怖くないのか?」
「へ? 何の話?」
「無知で浅慮ゆえ、事の重大さがわからぬものとばかり思っておったが…………それにしても、貴様とタカシのやりようは度を越しておる。貴様らは、いとも簡単に己の身をなげうつ。毎度毎度、図抜けて能天気というだけでは納得が出来ん。
単刀直入に聞く。コウ、貴様は自殺志願者なのか?」
「…………違う。何でそうなるんだよ?」
俺はやれやれとばかりに首を横に振った。
「俺は別に、何とかなると思っているから、やっているだけだよ。そりゃあ今回は、さすがにマジで死ぬかもって思ったけど、正直、そんなことをまともに悩む時間も無かったし、がむしゃらで、何も考えずに突っ込んだだけだった」
ツーちゃんはランプを直した後、鍋を木べらでゆっくりとかき混ぜ始めた。彼女と俺は段々と透き通っていく不気味なスープに目を落としつつ、話し続けた。
「なぜ、そう思うかと問われれば、貴様があまりにあっさりサンラインにやって来たからだと答えよう。
曲がりなりにも、誰しも自分の世界で築いてきたものがある。特に人間のような、ごく短い寿命しか持たぬ生き物であれば、その価値は一際重いものとなろう。魔術を知らぬオースタンの人間ともなれば、歩んできた人生は、それこそ己が宇宙そのものとも等しかろうに…………。
それを貴様は、身一つでポイと捨ててきよって。家族が泣くぞ。仕事はどうした? 恋人はおらんのか? いや、最後のは愚問か」
「…………うるっさいなぁ。そんなこと言われたって、最初は夢だと思ってたんだ。夜だったし、オースタンにはあんな小さなサイズの女の子はいないしさ」
「愚か者。夢か現かは、さしたる問題ではない。いずれにせよ、貴様は「捨てる方」を選んだのだ。いかな阿呆とて、その選択がどれだけ業の深いものか、わからぬ道理はなかろうに」
「何が聞きたいんだよ? どう答えていいのか、ちっともわからないよ」
ツーちゃんは俺の方を振り返ると、眉根を寄せてじっと俺の目を見据えた。琥珀色のひそやかな輝きが、俺を深く、強く見透かしていた。
俺はまた金縛りがくるかと身構えたが、今回は違うようであった。
「な、何だよ?」
俺は堪え切れずに目を逸らした。ツーちゃんはそれでもなお俺を真っ直ぐに捉えたまま、話し継いだ。
「貴様は妙な縁に絡まれていると、前に話したのを覚えておるか? 貴様がいとも簡単に捨ててきたもの。それがまさに、重要なのだ。サンラインの行方を占うために、あるいは、かつてオースタンだった国の行方を知るために、な」
「かつて…………? だった…………?」
ふと俺は暖炉から漂う熱に、奇妙な魔力を感じ取った。ブルーベリージャムに似た、甘酸っぱいべとつきが喉に残る。出がらしの紅茶の渋い風味がその後を追った。
「うっ、何これ? 超不味い」
「しばらくの我慢だ。貴様の魔力がちゃんと溶出している証拠だ。この変性環椎から生じた検査用の力場に、身体が馴染みつつある。慣れないうちは嫌な感じがするだろうが、いずれ何も感じなくなるはずだ。
オースタンの気も十分だし、鼠共も寝ていればおとなしい。あとは貴様を、獣性共力場に織り込めれば、検査の準備は完了だ。
それにしても、やれやれ。さすがは貴様の片割れだ。……………最悪のタイミングで到着しおった」
言うなりツーちゃんは、片手を誘うように翻して部屋のドアを開いた。バン! と勢いよく音を立てて開かれた扉からは、目を鳩みたいに丸くしたアホ面が花咲くように現れた。
「わぉ! 自動ドア!」
アホ面が叫ぶ。頼むから、脊髄反射で発語しないでもらいたい。俺は項垂れて長く溜息を吐き、タカシと…………タカシに肩を貸している、凛とした天使の姿を見た。
「遅くなって申し訳ありません、琥珀様」
久しぶりに聞く、ややハスキィな優しい声は、激マズの紅茶に浸されていた俺の気分を一瞬で清く澄み渡らせてくれた。
天使は銀色の繊細な髪を揺らし、小さな顔を上げると、紅玉色の眼差しを静かに俺に向けた。慎ましい微笑みが、その小さな唇にそっと浮かぶ。
「こんばんは、コウ様」
フレイアはタカシを離すと、背筋を綺麗に伸ばして改めて俺を見つめた。俺は彼女に見惚れて、しばらくは言葉を返せずにいた。
ああ、色んな疲れやら何やらが、一気に癒されていく…………。
「タカシ、フレイア!! 魔力場が乱れる。早くドアを閉めよ!」
「あっ、はい! 只今!」
「いいよ、俺がやるー」
ツーちゃんからの叱責を受けて、フレイアより先に、タカシが腕を伸ばしてドアを閉めた。フレイアはそんなタカシをキョトンと見つめ、眼を瞬かせた。
「タカシ様。その腕は、動かせるのですか?」
「ああ、うん。何だか急に元気になってきたんだ。コウがいるからかな?」
タカシは白々しく俺を振り返ると、つかつかとこちらへ寄って来て耳打ちした。
「話を合わせてくれ。実は普通に一人で動けるんだけど、あの子と触れ合いたくてさ」
「お前なぁ、大概に…………」
「感謝しろよ。ここに来るまでに、彼女のこと色々と聞けたぞ。後で話してやる」
「…………ありがとう」
俺たちは表情を変えることなく顔を見合わせ、力強く頷き合った。
ツーちゃんはそんな俺たちの様子をうんざりと窺っていたが、やがて口元をひん曲げると、肩をすくめて言った。
「付き合いきれんわ、馬鹿共め。貴様ら、どうせまだ融合はできんのだろう? ならばそのまま、そこに二人で固まっていよ。そしてフレイア」
「はい」
「タカシの介抱、ご苦労であった。下劣な真似はされておらぬか? もし何かあったなら、遠慮無く私に伝えよ。去勢してやる」
「ああ、いえ。そのようなことは」
フレイアは困り眉で俺とタカシを見やった。
「あの…………お二人共、いつもとても親切にしてくださいます」
「何でも頼ってね!」
タカシが親指を上げ、満足気に微笑んだ。担がれてきたくせに、よくもまぁ抜け抜けと口が回る。だが、俺はとりあえずは文句を飲み込み、横目で睨むだけに留めた。文句とフレイアの話は、後でゆっくりすることにしよう。
ツーちゃんは「やれやれ」とぼやきつつ、鍋を火からおろし、机の上へ持って行った。
「さて、ドアが開かれて多少乱れたとはいえ、概ね力場は安定しておるようだ。始めよう。
フレイアよ、私が術を発動させる間、万が一に備えて侵入者に注意していてくれ。…………まぁ、蒼の館で、しかもこの私の部屋で、何事も起こらぬとは思うがな。サモワールの件もある。注意しておくに越したことはない」
「わかりました」
「それと、これからコウとタカシにコレを打ち込む。そいつらが暴れぬよう、押さえておけ」
「はい」
俺はツーちゃんが虹色の薬が入った注射器を手に取り、瞳を鮮やかに輝かすのを見た。
俺は覚えていた。トレンデであの薬を打ち込まれる前に聞いた一連の言動と、フレイアが見せた稀な無情さを。到底、同じ轍を踏みたくは無かった。
幸い俺はあの時とは違い、口が利けた。
「ちょっ、ちょっと待ってくれ!」
俺は冷たい目をした小さな大魔導師に必死で訴えかけた。
「その薬さ、トレンデで使ったヤツだよね?」
「おお、よく覚えておるではないか。感心だぞ。これは、すごく簡潔に言えば、強制的に共力場を編む薬なのだ。今、手元にあるのはトレンデで使ったものの強化ば…………改良版だが」
「今、強化版っつったよな? …………この場合、俺は何と共力場を作るの? あと強化って、何を強めたの?」
「何だ、興味があるのか? 珍しいな」
「うん、大いにある。教えてくれ」
「また今度な」
フレイアが火蛇を使うまでもなく、何とも軽やかな所作で俺を取り押さえたのと、ツーちゃんが俺の首筋に深く針を刺し込んだのは、まさに同時だった。俺が警戒していたのと同じ様に、彼女らもまた、俺の抵抗を予期していたようだった。
「…………ぐっ…………うっ」
あえなく蹲る俺の上に、タカシの影が覆いかぶさった。
「オ、オイ! 大丈夫か、コウ? …………って、うわぁぁぁぁっっっ!!!」
タカシはツーちゃんに何らかの行為を施され、あっけなく床に倒れ伏した。恐る恐るその顔を覗き込んでみると、明らかに尋常でないレベルで意識を失っているとわかる、極度に顔面筋の弛緩した表情が見えた。
「ヒッ!!!」
怯え惑う俺に、フレイアが柔らかく呼びかけた。
「落ち着いてください、コウ様。タカシ様は眠っていらっしゃるだけです」
「嘘だろ!? どう見てもこれ、どこかの血管が切れてっ…………」
「大丈夫です、それでもフレイアがついていますから!」
「それでも」ってなんだよ!?
怒鳴ろうとした瞬間に、俺の意識は急にプツリと途切れた。いきなりコンセントを抜かれたパソコンってこういう気分なのかなと、わずかに生き残った脳細胞が厭世的に、どこか他人事っぽくこぼしていた。




