45、享楽の獣と蒼き姫の加護。俺がさらなる深みへと潜ること。
ある夜、突如として部屋にやってきた深紅の瞳の少女・フレイアに誘われて、俺(水無瀬孝、26歳ニート)は魔法の国サンラインへと旅立った。
竜の国での空中緊急脱出。影の国での魔術師からの襲撃。あらゆる困難を乗り越え、ついに俺たちはサンラインへと辿り着く。
目的地に着いた俺は、「蒼の主」ことリーザロットの館に招かれ、正式に「勇者」としての役目を引き受けることとなる。
到着して一息ついたところで、色々あって俺は自警団員のナタリーと共に「サモワール」という店への潜入捜査に協力する羽目になった。
そしてその「サモワール」で、俺はまたもや敵の魔術師・リケからの襲撃に遭い、命の危機に瀕する。
ピンチに陥った俺とナタリーを助けに来たのは、なんと館に残っているはずのリーザロットだった。
「リーザロット…………どうして、ここに?」
俺の呟きに、リーザロットは涼やかに答えた。
「霊体ってとても便利なの。どこへでもすぐに行けるし、こうして普通では入れない場所にも入って行けます。
コウ君が困っているとポルコから聞いて、急いで来たのよ」
俺はふと足元に覚えのある気配を感じ、目を落とした。
見れば、いつの間にか出現していたポルコが千切れんばかりに尾を振り、よだれを撒き散らしながら走り回っていた。
「お前、勝手に出入りできたのか!?」
「ワフッ、バゥッアゥッアフッ!!!」
「何を言ってるか、サッパリだ」
俺が苦笑すると、リーザロットが優しく解釈を加えた。
「きっと褒めてもらいたいのよ。ポルコは本当に良い子でしたよ。その子の足と鼻でなければ、恐らく私は間に合わなかったでしょうから」
俺はウロチョロと元気に駆けずり回るポルコの頭を、ぐしゃぐしゃに撫でた。
「偉いぞ、見直した! でも、いつの間に?」
「ワフッ!!!」
褒めて欲しいと言うわりに、ポルコは俺が触ろうとすると全力で手を避けようとした。「うるせぇ、それどころじゃねぇ」ってところだろうか。俺は観念して顔を上げ、リーザロットを仰いだ。
リーザロットは血の付いた爪や毛を丁寧に舐めるリケを、じっと見据えていた。
獣は身繕いのさなかにも、油断のならないオーラを禍々しく立ち上らせていた。ミステリアスな視線をこちらに細く長く寄越しつつ、不気味な沈黙を保っている。
リーザロットは蒼い眼差しをリケから逸らさぬまま、悩ましげに口元に指を添えた。
彼女はネグリジェに似た薄い布地のワンピースをふわりと揺らし、再びこちらに向き直った。
「ところで、良ければそちらのお嬢さんを私に紹介してくださらない? 挨拶したいの」
俺はそこでやっと、隣で硬直しっぱなしだったナタリーに目を向けた。ナタリーは会話を振られて初めて、俺に一言こぼした。
「…………まさか、蒼姫、様?」
俺が答えるより先に、リーザロット自身がにっこりと返事した。
「はい、初めまして。「蒼の主」の、リーザロットと申します」
ナタリーはあんぐりと口を開け放ち、挨拶も忘れて、両手で俺の袖を思い切り掴んだ。
「ちょっ、ミナセさん!? たっ、たたた只事じゃないじゃないッスか!! 蒼姫様って、そんな…………三寵姫ですよ!? めっちゃ偉いんですよ!? わかってます!?
…………ってか、じゃあ、「勇者」って…………マッ、マジだったんスか!?」
俺は何を今更と呆れつつ、動転するナタリーをなだめた。
「ごめん。後で詳しく話すつもりだったんだ」
「嘘だ!! 絶っっっ対、あわよくば適当に流そうとしてたでしょ!? 初めから正直に言ってくれてたら、こんなことには巻き込まなかったのに!! 私の気持ちとか、立場とか、もう、どうしてくれるんスか!?」
俺はうやむやに言葉を濁し、とりあえずはリーザロットにナタリーのことを伝えた。
「リズ。この人が出かける前に話した、自警団のナタリー。俺の説明不足で、ちょっと混乱させちゃったみたい」
「「みたい」って、そんな、他人事みたいに!! 不足も何も、私は一ッッッ切、聞いてないッスよ!? 後でじゃなくて、今、説明してください!!」
ナタリーのもっともな怒りを、俺は肩をすぼめて受けた。今は説明どころではないが、彼女の気持ちも良くわかった。別に騙していたわけではないけれど、確かにそれに似た居たたまれなさはあった。
リーザロットは言い争う俺達の間に、やんわりと割って入った。
「ナタリーさん、どうか堪忍してあげてください。コウ君は、私のために黙っていてくれたの。昨晩の事件が私に及ばないようにと、色々と気遣いしてくれて…………。私からも謝りますので、どうか」
「いえっ、蒼姫様に、そんなこと…………」
ナタリーは語尾を萎ませると、ジロリと俺を睨んでから口を噤んだ。俺はきまりが悪くなって、首の後ろで手を組んだ。ほぼ俺のせいじゃないのに、何だかとても後ろめたい。
リーザロットは再度前方のリケへ目を戻し、静やかに言葉を継いだ。
「ともかく、今は彼に集中しましょう。
ミケネコのリケは、非常に危険な相手です。魔導師・ヴェルグの派閥において、アルゼイアのイリスと並び立つ、最も強力な魔術師の一人です」
「で、でも、蒼姫様より強いってことはないんですよね? だって、三寵姫って言ったら、国を統べる大魔術師なんですから…………」
ナタリーの言葉に、リーザロットは哀しげに目を伏せて首を振った。
「そうだと良いのですけど。実際は、やってみなければ、なんとも。
「サモワール」の強固な結界を、気付かれずに破って侵入してくるだけの術者ならば当然ですが…………今も、全く隙が見つかりません。こちらから仕掛けて、どうにかチャンスを作りださなければならないでしょう」
俺はおずおずとリーザロットに近寄り、話した。
「けど、何であっちから襲ってこないんだろう? リズが来た途端に、急におとなしくなったんだ。やっぱり、君にビビってるんじゃないか?」
「いいえ。それはポルコのおかげでしょう。ポルコは、私がここへ来る間もずっと先導して、彼の使いの魔獣達を追い立ててくれていました。どんな事情なのかはわかりませんが、ワンダが大の苦手と見えます」
「やるなぁ」
俺は感心し、もう一度嫌がるポルコを撫でくり回した。ポルコはその間も、しっかりと耳をリケの方へ傾け、前傾姿勢で警戒を続けていた。
俺は顰めっ面のリケを眺め、しみじみと呟いた。
「そういや、ポルコが外に出ている間は襲われなかったもんな。どこの世界でも、相性の悪いもんってのは変わらないのかな」
リーザロットはリケから目を離さず、ナタリーへ呼びかけた。
「ナタリーさん。あちらの大きな魂獣は、あなたのものですね。呼び戻すことはできそうですか?」
「はっ、はい。でも、すみません、時間がかかります。あの子、重度の人見知りなんです。
敵がいるのに、あんなに遠くまで離れることは今まで無かったんですけれど…………どうしちゃったんだろう…………」
ナタリーは心細そうに入れ墨をさすり、レヴィの方へ顔を向けた。レヴィはリーザロットが現れたと見るや否や、またしても遠方へ逃げてしまっていた。
ナタリーの焦りと不安が、弱い苦みとなって俺に伝わってきた。
「ナタリー、平気?」
俺が聞くと、ナタリーはいかにも気の張った顔で一度、頷いた。
レヴィはいつの間にやら、俺の視力でも捉えられない程、遠くまで泳いで行ってしまっていた。時折黒い点となった影だけが、ぼんやりと見え隠れするものの、いつ、どこへ潜って行ってしまっても不思議ではなかった。
俺は隣りにいるリーザロットの、麗しくも凛々しい横顔を振り返った。リーザロットは目つきを険しくし、しかし相変わらず柔らかな調子で言った。
「わかりました。それでは、私とコウ君でリケを3階まで追い込みますから、ナタリーさんはあの魂獣と共に、できる限り急いで、私たちの後を追ってきてください。リケは逃げの名手ですが、何とか追ってみます。
…………魔海の力場を模した3階であれば、ナタリーさんの魂獣はもっと力を発揮できるはずです。私たちの持てる力を全て出し切って、リケを仕留めましょう」
俺はナタリーの顔に、サァッと青みが差すのを見た。ナタリーは怯えた、暗い光を瞳に灯らせ、応じた。
「魔海の力場で、レヴィを…………ですか…………?」
ナタリーはおよそ彼女らしくない、歯切れの悪さで続けた。
「それは…………3階にいる市民を、尋常でない危険に晒すことになります。私にはまだ…………魔力の濃い領域で、レヴィを制御しきる自信がありません。正直に言いますと、連れて来るだけでも困難なのです」
リーザロットは言い淀むナタリーにチラと視線を向けると、冷淡とも言える、あっさりとした態度で言い放った。
「わかりました。でしたら、私たちの方だけで対処します。ナタリーさんは安全な場所に避難して待っていてください。2階、いえ、1階であれば、ほぼ確実に安全でしょう。もしもの場合には、「白い雨」が常駐する聖堂まで仔細の連絡をお願いします。それと」
俺はナタリーの塞ぎこむ顔を見守りつつ、続くリーザロットの言葉を聞いた。リーザロットの話しぶりはやはり、どこか乾いていた。
「なるべく早急に、リケに葬られた方々のご遺体を保護してもらってください。呪術の媒介になりかねませんので」
リーザロットは言うなり俺を振り返ると、全く変わらぬ、冷めた調子で告げた。
「では、参りましょう。コウ君は、私のサポートをお願いします」
「OK。任せて」
俺は深呼吸をし、リーザロットの目を真っ直ぐに見た。
蒼く、荒れた波の立つ不穏な海がその奥に見える。彼女は雫の落ちるような瞬きをし、俺にこぼした。
「…………私、また恐ろしいことをしてしまいそう」
俺はリーザロットの深みに、あえて自分から飛び込んだ。
彼女の膨大な魔力が、俺を暗い深みへと吸い込んでいく。
「俺がいる。――――大丈夫」
それから俺たちは揃って、リケを睨んだ。リケは毛繕いを止めると、これでもかとばかりに大きく欠伸をしてから、退屈そうに言った。
「さて…………やるか」
リケの瞳が黄色く、艶めかしく光った。




