44-3、大いなる獣との邂逅。初めての猫語。俺がキスの仕返しをすること。(後編)
ある夜、突如として部屋にやってきた深紅の瞳の少女・フレイアに誘われて、俺(水無瀬孝、26歳ニート)は魔法の国サンラインへと旅立った。
竜の国での空中緊急脱出。影の国での魔術師からの襲撃。あらゆる困難を乗り越え、ついに俺たちはサンラインへと辿り着く。
目的地に着いた俺は、「蒼の主」ことリーザロットの館に招かれ、正式に「勇者」としての役目を引き受けることとなる。
だが到着して一息ついたところで、俺は不運にも痴漢(冤)罪で自警団に逮捕されてしまう。幸い自警団員のナタリーの助けもあり、一旦は事なきを得たものの、その見返りとして「サモワール」という店への潜入捜査に協力する羽目になった。
そしてその「サモワール」で、俺はまたもや敵の襲撃に遭う。
今度の敵は、獣の大魔術師だ。
「――――ハァッ!!!」
魔術師達が一斉に息を吐くと、リケは飛び上がるようにして背景と同化し、姿をくらませた。
辺り一面に薄い煙が立ち込めた。無味無臭の、濁った灰色の煙である。良く見れば、煙をスクリーンにして、大勢の兵士の影が映し出されていた。
それまで揃って詠唱していた魔術師たちが、別々に文句を唱え始めると、兵士はそれに従ってバラバラと散開していった。
一体どのくらいの数がいるのか、数える気も起きないほどの大軍だった。
兵士らの装備はごく簡素なもので、中には武器の代わりに農具を持っている者さえあったが、それでも士気は異様に高かった。
一体何が彼らを突き動かしているのか、俺にはわからない。だが彼らの深緑色の目を見ていると、底冷えせざるを得なかった。銀騎士と似た雰囲気である。もしかしたら、彼らも本物の魂なのではないかと、頭によぎる。
兵士たちは見えない獣を追う猟犬となって、けたたましい音を立て、美しい海を荒らし回った。怒声、足音、怒声。
煙は時に濃くなったり、薄まったりしながら、海を醜く霞ませていった。兵士達が剣や斧を振り回すと必ず、砂っぽい味の魔力が漂ってきた。
兵士達の飛ばす声なのか、それとも魔術師達の詠唱なのか、場に響き渡る声の聞き分けは最早つかない。今や、翠玉色の海は灰まみれの、薄ぼんやりとした汚れた戦場へとすっかり変貌していた。
リケは、どこだ?
俺はチリチリと痺れる煙の中で、目を凝らした。
しかし、どこを見ても兵士、兵士、兵士ばかり。何一つ見当たらない。口の中はずっと砂利を噛んでいるようで、まともに味を感じられなかった。
やがて兵士たちが、一斉に一方向へ気を向けた。深い緑の目が揃って、不気味な光の尾を引く。
俺の知らない野太い言語が猛々しく、慌ただしく飛び交っていた。あやとり語とも違う、兵士たちの言葉である。兵士たちは魔術師の命に従い、統率の取れた動きで続々と移動し始めた。
見えない獣を、一つの隊は右の方から、もう二つの隊は左の方から、残りは退路を断つように、横に広がった陣形で追い立てていく。まさに無慈悲な猟犬の群れである。
魔術師たちの顔を振り返ってみると、恐ろしいほど何の変化も見られなかった。滔々と詠唱を続ける彼らの横顔は、サメにそっくりだった。精巧に研ぎ澄まされた、ありとあらゆる器官で獲物を感知し、どこまでも執拗に追い詰める。
ふいに、ナタリーが苦しげに口元を覆った。
「どうした?」
俺が尋ねると、ナタリーは声を押し殺して答えた。
「気持ち悪い…………」
「大丈夫!? 怪我のせい?」
「ううん。多分、魔力のせい。この場の魔力…………すっごく嫌な感じがする。鼻の奥がツンとする。頭が痛い。変な匂いもする。何の匂いだろう? 何かが、焦げてるみたいな…………嗅いだことが無い」
俺はナタリーの手を取り、彼女の顔を覗き込んだ。
「あの、助けになるか、わからないけど」
ナタリーは鬱した目を俺に向け、呟いた。
「…………。ミナセさんの魔力に集中して、ってこと?」
「余計なお世話かな?」
よく知りもしない女の子の手を取って自分の魔力を感じろなんて、良く考えたらこの世界ではかなり立ち入り過ぎな気がする。今更だからこそ、余計にそう思えた。
だが、ナタリーはきゅっと俺の手を握り返すと、俺の胸にストンと寄りかかってきた。完全に身体を預けられていると知って、俺は顔を火照らせた。
「あったかいな…………」
目を瞑ったナタリーの囁きに、俺はさらに顔がのぼせ上がるのを感じつつ、視線を戦場へと泳がせた。
兵士たちは先に見た陣形のまま、何を狙ってか、足並みを緩めてきていた。心なしか、魔術師たちの詠唱の具合が変わっている。唱え方に抑揚が出てきて、緊張した色合いが滲み出していた。
兵士達の影がドロドロと色濃くなっていく。人影が重なり合い、形の境界がみるみる失せていく。
稲妻の落ちる前と同じ、不穏な気配が広まっていた。魔力の圧で息苦しいぐらいなのに、煙のザラザラとした感触のせいで、舌は相変わらずちっとも利かない。
レヴィは、どこへ行ってしまったやら、皆目見当もつかなかった。
やがて俺の耳元で、ナタリーがこぼした。
「ミナセさん、聞いて」
何も言わずに俺が見やると、ナタリーはより強く俺の手を握り締めた。
「嫌な予感がする。レヴィが私に伝えてくる。逃げろ、って」
「…………どうしたらいい?」
「ミナセさん。万が一の時はもう一度、私の「扉」を開いて」
ナタリーの真摯な眼差しを真っ向から受け、俺は一度、大きく頷いた。
「わかった、必ず開く」
煙は今や、黒々と湧き立っていた。兵士達の姿形はもう全く見えない。彼らは煙と溶け合い、一塊の暗雲と化していた。
唐突に、魔術師の一人が甲高い掛け声を上げた。右方の雲塊に一条、黄色い閃光が差す。
閃光は瞬時に稲妻となり、闇をジグザグに貫いた。
間髪入れず、別の魔術師が詠唱を加える。すると左方の雲塊から、二筋の稲妻が走った。新たな稲妻は曲線を描いて闇を縫う。
さらなる詠唱に、さらなる閃光、稲妻が続く。魔術師たちは狂ったように同じ言葉を連呼し、お互いこだまするかの如く、詠唱を投げ続けた。
稲妻は獰猛な大蛇となり、闇の中を縦横無尽に駆け抜けた。
次第に、四方八方を巡る光に当てられ、不可視だった獣の姿が垣間見えてくる。
リケは四肢をしならせ、ひらすらに逃げていた。時に跳ね、身を翻し、軽快に、だが紙一重の危うさで、稲妻の猛追を躱した。
リケらの攻防を見守る兵士の雲は、続々と光の軌道の周りに集合し、一際巨大に聳え立つ雲塊を作りつつあった。入道雲のように伸びていくその雲の内では、閃光はすぐに放たれることなく、じれったげに、内側だけで迸っていた。
「まだだ、時間を稼げ!!」
魔術師たちを統率していると思しき男が、リケを見据えて叫んだ。
リーダーの男は雲を練り上げながら、部下へも絶えず指示を飛ばし、左へ、右へ、急加速、急旋回する光の矢でリケを翻弄し、追い詰めていった。反撃の隙を与えない、苛烈な追撃。
リケの動きは徐々に鈍ってきているように見えた。軽やかで流麗だった動作の端々に、荒々しい雑な回避や、見切りの甘い、場当たり的な進路変更が混じってきている。あわや稲妻に逃げ場を絶たれるかと思う瞬間が、確実に増えていっていた。
入道雲はその合間にも、濛々と成長を続けて、傲然と俺たちを見下ろしていた。
「これ、いけるんじゃないか!?」
俺は興奮し、ナタリーに呼びかけた。彼女の勘が外れるに越したことは無い。少しでも、元気を取り戻して欲しかった。
しかしナタリーは張り詰めた表情のまま、成り行きをじっと見守るだけだった。胸に深々と穿たれた穴が、どんな言葉も暗闇へ吸い込んでいってしまうようだった。
ナタリーはまた黙って頭を俺の肩に沈め、刺青をゆっくりと撫でた。
稲妻の蛇が、リケを追い続ける。リーダーの男が作る巨雲はいよいよ膨れ上がり、ひっきりなしに閃光をこぼしながら、膨大な力を蓄えていった。
リケを追って、稲妻が目まぐるしく走る。
曲線を描く矢を追って、ジグザグの矢が容赦無く次々と突き立てられていく。リケはかろうじてその合間を抜け、振り切らんと身をよじる。細い足がもつれそうになるが、間一髪で抜けていく。
そのうちに、魔術師のリーダーが、詠唱の調子を甲高く切り替えた。応じて巨雲から盛大な鬨の声が上がる。兵士たちの魂が、怒涛となって場を震わす。
「放てェ—―――――――ッッッ!!!」
リーダーが叫ぶと、積乱雲からついに、稲妻が溢れ出した。
凄まじい光の爆発が、急激に闇を払う。途方もない雷鳴が、世界をぶち割って轟き渡った。
押し寄せる強烈な光と音の衝撃波に、俺は目を閉じた。全身が痺れて、呼吸すらままならない。舌に纏わりつくザラザラした感覚が、無数の微少な棘で突き刺される痛みに変わっていく。
俺はナタリーをきつく抱き締めた。ナタリーは俺の腕の中で、ぐっと深く頭を埋め、身を縮めた。
「扉…………お願い」
微かなナタリーの呟きが、閃光にあっけなく飲まれていった。
本作の関連短編に『酒と詩、そして戦闘機』http://ncode.syosetu.com/n0342du/という話があります。
本作の主人公コウの中学時代のエピソードで、『扉の魔導師』でも重要人物となっている、コウの友人ヤガミが登場します。
それほど時間をかけずに読める短編となっておりますので、よろしければこちらもご覧ください。




