38-3、悲劇の3杯目。俺がやっとトイレに辿り着くこと。
ある夜、突如として部屋にやってきた深紅の瞳の少女・フレイアに誘われて、俺(水無瀬孝、26歳ニート)は魔法の国サンラインへと旅立った。
竜の国での空中緊急脱出。影の国での魔術師からの襲撃。あらゆる困難を乗り越え、ついに俺たちはサンラインへと辿り着く。
目的地に着いた俺は、「蒼の主」ことリーザロットの館に招かれ、正式に「勇者」としての役目を引き受けることとなる。
到着した晩に館で起こった事件を無事解決し、頼まれていた買い物も終え、ようやく一息ついたところ…………悲劇は起きた。
店へ駆けつけてきた屈強な自警団の男達によって、俺は町はずれの彼らの待機所へと連れて行かれた。
待機所は、見た目はやや粗末だったけれど、雰囲気は日本の交番とよく似ていた。ただ交番より少しだけ規模は大きく、中には西部劇で見るような留置所と、たくさんの書類が散らかった事務室があった。
俺を取り押さえていた男は、俺とズボンをポイと留置所の中に放り込むと、厳しく言いつけた。
「服を着ろ、変態め」
言われなくたって着るさ…………俺は独りぶつくさと呟きつつ、渋々ズボンを穿き直した。
男は、一応は人の顔をしていたものの、ほとんど獣と言っても差し支えないぐらいの髭にまみれて、さしずめバッファローの化物といった出で立ちだった。道中でも、俺が何か言おうとする度に問答無用で小突いてきたし、野蛮過ぎて、とても話が通じそうになかった。
俺は惨めな気分で牢の隅にうずくまり、沙汰を待った。非常に不愉快ではあったけれど、あまり不安では無かった。もう少しすればきっと、クラウスが騒ぎを聞きつけて助けに来てくれるはずだし、最悪でもリーザロットにまで話が行けば、必ず無事に解放されるだろう。なんたって、俺は仮にも「勇者」だ。いずれきちんと話す機会が訪れれば、痴漢の誤解も解けるに違いない。
俺はそう自分に言い聞かせつつ、それでも耐えきれずに独りごちた。
「…………畜生め」
「何か言ったか!?」
「何でもないです!!」
事務室の方から「チッ」と大きな舌打ちが聞こえてくる。俺は檻から覗くバッファロー男の太った背に、あかんべぇをした。人の話もロクに聞かないで、偉そうにしやがって。
それからしばらくして、待機所の入口から人の声が聞こえてきた。どうやら、クラウスのようだった。
クラウスは門番の男と低い声で言葉を交わし始め、俺はその会話を、檻の間に顔を挟み込んで聞いた。
「…………ですから、私は彼の友人です」
「友人なんかいらねぇっつってんだよ。身元確認がしたいんだ。家族を呼んでこい」
「彼に呼べる家族はいません」
「チッ。アンタ、名前は?」
「クラウス・カイル・フラウリールス。教会騎士団の者です」
「誰が所属まで言えっつったよ、アア? で、教会の騎士殿がわざわざ何しに来たんだ?」
「彼の放免をお願いに来ました」
「放免だと? 馬鹿言え。現行犯だぞ」
「それが誤解なのです! 彼はトイレの場所を探し誤っただけでしょう」
「ほう、あれだけでかでかと書かれた道案内を見逃したと? 寝言は寝てから言えよ、騎士殿」
「彼は外国人なんです。昨日、オースタンから来たばかりで…………」
俺は難航する交渉をハラハラしながら見守りつつ、長く溜息を吐いた。そろそろトイレが我慢できなくなってきたけれど、こんな場所で、こんなタイミングで用を足すのは憚られた。便器は隅っこの方に、壁も仕切りもなく丸のまま設置されていたが、もちろん水洗というわけではなかったし、何より、信じ難い程に汚れていて、近付くことさえ気持ち悪かった。
「…………文字を読めないことが、そんなに理解できませんか? どうすれば納得してもらえるんです?」
「いくら言われようが騙されねぇよ。あんだけ流暢に口が聞けるのに、そんな話があるか」
「ですから、コウ様の言語能力は魔術によるものだと、先程から何度も説明しているじゃないですか! 彼の指輪はあくまでも、意識深層の元型を楔に、我々と意識を同調するための魔法陣を張り巡らせたものに過ぎず…………」
「アー、やめろやめろ! 講釈はもうたくさんだ、騎士殿! 何度言ったって無駄だ! 俺はこの目で、あの変態がパンツ一枚で路上にぶっ倒れている所を見たんだ! 覗かれた女達も、口を揃えてアイツが犯人だって言っている。それで十分だろうが!」
「いいえ、俺…………私は全くもってそうは思いませんね。それにパンツのことは、あの店の偏執的なワンダがやったことでしょう」
「どうだかな」
言い合いはその後も延々と続いた。俺は観念して牢の中のトイレを利用し、また檻の傍に近くに寄って事の成り行きに耳を傾けた。時折事務室から響く、馬鹿でかい男達の笑い声が一層気分を苛立たせた。
特に、バッファロー男はしょっちゅう俺を振り返っては、これ見よがしに下卑たジェスチャーを送ってきた。どうも俺の身体の一部がからかわれているらしかったが、正確な意味はわからなかったので、俺はとりあえずそれに対し、オースタンで最悪のハンドサインを送り返してやった。相手はしばらくきょとんとしていたが、やがて猿みたいに全身で喜んだ。
その間も、クラウスと門番の不毛な言い争いはひたすら終わらなかった。
門番の男はよっぽど魔法だの、騎士だのといったことが気にくわないのか、クラウスが一言「魔術」と口にするだけで、完全に話を聞かなくなった。クラウスはリーザロットの名前を極力出さないで済ませようと努力している風だったが、それもこのままでは限界が近そうだった。口調に、もどかしさが滲み始めてきていた。
俺は檻から手を離してその場に座り込み、汗と前髪を掻き上げた。俺はバッファロー男から投げられた野次(意味のわからないスラングだった)を無視し、黙って項垂れた。
やがて、クラウスの一人称がすっかり「俺」になってきた頃、入口の方からふいに、高く爽やかな女の声が響いた。
「ただいまぁー!!」
クラウスと門番の口論が止まる。声の主は若々しい、飄々とした口ぶりで続けた。
「どうしちゃったんスか、モロさん? こんな夜更けに、そんなにムキになっちゃって…………。何で「白い雨」の人がウチにいるの?」
女性の言葉に、門番がうざったそうに応じた。
「うるせぇ、お前には関係ねぇ。見回り終わったんなら、ガキはとっとと帰りやがれ」
「まだ報告書が残ってるッス。それに、もうガキじゃないです。この間、18になったんだよ」
「ハン、ガキじゃねぇか。報告書なんざ、明日でもいいだろうが。今夜は立て込んでいるんだ」
「何で?」
「うぜぇ」
「アハ、ウケる。マジで機嫌悪いや」
女性は取り合わない門番に呆れたのか、今度はクラウスの方に話を振った。
「っていうか、あなた、噂のクラウスさんでしょう? マジでイケメンなんだね!」
「ありがとうございます。素敵なお嬢さんにそう言われると照れてしまいます。ところで…………あなたは?」
「ヒイロ地区自警団のナタリーです! よろしく!」
「よろしくお願いします」
答えるクラウスのテンションは、それまでとはうって変わって紳士的だった。昼間よりかは大分口数少なだったが、それでも相手の女性はウキウキとしていた。
門番と俺の舌打ちを余所に、クラウスはさりげなく話を進めた。
「それで、少なくとも彼との面会は可能なのでしょうか? 何にせよ、話さないことには誤解の解きようもありません」
「誤解? ねぇ、何の話なの?」
ナタリーと名乗った女性に、クラウスはいかにも同情を誘いそうな、落ち着いた悲しみを含んだ声で答えた。
「ナタリーさん。実は、奥に私の友人が捕まっているんです」
「本当? 何しちゃったの?」
「痴漢だよ」
ぶっきらぼうに言う門番に続けて、クラウスはなおも話した。
「友人は無実なんです。ちょっとした誤解が元で、わけもわからないままに連行されてしまったんです。友人は外国人で、かろうじて言葉は話せますが、文字も読めず、おそらく今の事態すらもよく把握できていないでしょう」
「ケッ、よく言うぜ。また魔術の指輪がどうとか唱える気なら…………」
「モロさん。もう少し、クラウスさんの話を聞こうよ」
ナタリーが門番を遮った。俺は良い流れを予感しつつ、再び檻にしがみついて展開を見守った。
事務室に詰めている男達はいつの間にか酒盛を始めていて、こっちにも入口にも一切気を配らなくなっていた。
俺はクラウスがナタリーに事情を語るのを、じっと聞いていた。クラウスは俺の正体をうまく隠しつつ、事件をわかりやすく、聞こえ良くまとめてくれた。
クラウスは心底悔いているような、ややしょげた声音で最後を締めた。
「…………そういうわけで、私の説明がいけなかったのです」
「そんなことないスよー! そんなにわかりにくい場所にあったのなら、私でも迷いそうだし!」
門番が何かナタリーに悪態づいたが、彼女は気にせず喋り通した。
「そしたら、事情も事情だし、とりあえずお友達とお話だけでもしていきませんか? 他のことは、身元確認とかが要るし、私やモロさんだけじゃ決められないけど」
俺は人生で初めてイケメンに感謝を捧げつつ、檻を強く握り締めた。
クラウスは朗らかな笑顔が目に見えるような、快い調子ですぐに返事した。
「ありがとうございます、ナタリーさん! ご厚意に心から感謝します! ぜひあなたに、案内をお願いします」
「OK。じゃっ、私について来て!」
「オイ、勝手に決めんな! せめて書類ぐらい書いてけ!」
「わかったよ、モロさん」
俺はそれから、一秒を一分とも思いながら二人の到来を待った。会話の様子からして、クラウスは少しだけ書類を書かされたようだった。門番の荒っぽい指示と怒鳴り声が、事務室の男達の下卑た歓声に混じって聞こえてくる。
クラウスとナタリーはその後、ようやくこちらへ向かって歩き出した。ナタリーの、どこか不思議なリズムを刻む、舞踏のような足音が、妙に俺の耳に響いた。




