38-1、夜の街の乱闘と、悲劇の1杯目。俺が異国の店でビールを仰ぐこと。
ある夜、突如として部屋にやってきた深紅の瞳の少女・フレイアに誘われて、俺(水無瀬孝、26歳ニート)は魔法の国サンラインへと旅立った。
竜の国での空中緊急脱出。影の国での魔術師からの襲撃。あらゆる困難を乗り越え、ついに俺たちはサンラインへと辿り着く。
目的地に着いた俺は、「蒼の主」ことリーザロットの館に招かれ、正式に「勇者」としての役目を引き受けることとなる。
到着した晩に館で起こった事件を無事解決し、頼まれていた買い物も終えて、ようやく一息つけそう……だが。
「コウ様! 見えてきました、あそこです!」
クラウスが言うところの「神泉」は一見、ごく普通の大衆酒場に見えた。ランプに照らされた店の看板の文字は読めなかったけれど、そこに彫り込まれた伸びをする猫の絵は、なかなかに洒落ていた。
街の通りは祭日の雰囲気に浮かれた人で溢れ返っていた。酒場が立ち並ぶこの辺りにおいては、いっそ昼間よりも賑やかな位である。大抵の店の前には立ち飲み用のテーブルが置かれていて、そこに多くの男女が集まっていた。テーブルの中央に置かれたささやかな蝋燭の明かりが、何だか万華鏡のように綺麗だった。
菫色に染まった夕暮れ時の空には、もういくつかの星が遠慮がちに瞬き始めていた。当たり前だが、俺の全く知らない星々だ。俺は雲一つない空を横切る小さな鳥の行方をしばし目で追ってから、再び街に視線を戻した。クラウスはその一瞬の隙に、持ち前の貴公子の微笑みで女の子をナンパしていた。
俺は肩をすくめ、クラウスを呼ばわった。
「おーい、またかい?」
クラウスは思わせぶりな眼差しと共に女の子に別れの言葉を告げると、一転して軽い足取りでこちらへ戻って来た。
「すみませんねー、挨拶みたいなものでして」
ハハハと口を開けて笑うクラウスは、やはり「教会騎士」という肩書に似つかわしくは見えなかった。仕事も早いし、さりげなく気遣ってくれるし、一緒にいて面白くもあるのだが、そこはかとない不安は何故かどうしても拭えなかった。まぁ、俺も決して「勇者」らしくは見えないだろうから、そこはお互い様なのかもしれないけど…………。
それに、買った荷物を運ぶ最中、彼はこうも話していた。
「…………巷では今、「勇者様」の話題で持ちきりなんですよ。ジューダム軍がテッサロスタを占領して以来、その勢いは日々強まっていく一方ですね。「勇者様」の到来を伝える流言が毎日の如く飛び交い、最近ではそれが原因で、ちょっとした騒ぎに発展して、自警団だけでは収まりがつかず、我々が出向かわねばならなくなった事件もありました。
今回、私があえて獣人化せずにコウ様をお迎えしたのも、実はそれが理由なんですよね。いつまでも市民にコウ様のことを隠しておけるわけでもありませんし、そうするつもりもないのですが、とりあえず今は、あなたの存在を公にしない方が無用な混乱を避けられるだろうという話になったんです。
と、いうわけで、コウ様の正体につきましては、一応はこれからも内密ということでお願いします。あなたのことは蒼姫様のお客人として、紹介いたしますので」
俺はクラウスの言葉を思い返しつつ、独り彼の誰に対しても気さくな態度について納得していた。おそらく、彼のあの飄々とした様子こそが、一番の役目へのカモフラージュとなっているのだろう。クラウスの限りなく広がる人脈は俺を覆い隠すのに丁度良い。多少浮ついた所はあったとしても、確かに彼はお忍びの「勇者」の同行者としては、一番の適任だった。
…………が。
「見つけたぞ、クラウス…………!!!」
俺は急に背後から聞こえてきた男の声に、ギョッとした。
当のクラウスは出店のおばちゃんにでも話しかけられたか、あるいは野良猫でも見つけたかのような悠長さで、声の方を振り返った。
「クラウス…………テメェ、今日という今日は、もう我慢ならねぇ!!!」
男は鬼のような形相で、クラウスを睨みつけていた。まだ若い騎士で、かなり酒に酔っているようだった。
クラウスは動じる素振りもなく、飄々と答えた。
「君は…………確か、第五隊のゾイケル」
「ゾーケルだ! ジェニファーの男っつった方が早いか!?」
「んー、ジェニファー」
クラウスは中空に視線をやった後、すぐに「ああ」と独り合点した。
「あのグレーの目の、ラッセル通りの花屋の娘か。優しい子だよね。よく真っ赤なリルザの花をくれる。彼女が、どうかしたのかい?」
「どうかしただと? シラを切りやがって! 新月祭の時に、アイツに手ぇ出しやがったろう!?」
「デートには誘ったね」
「それだけじゃねぇだろう!? アイツあれから、露骨に俺のことを避けやがる!! 最近じゃ手紙すら届かねぇ!! ふざけんじゃねぇぞ!!」
「それはお気の毒。でもそれ、本当に俺のせい?」
「クソが…………。ちょっと出世したからって、調子こきやがって!! ぶん殴られてぇのか、アア!?」
俺はハラハラしながら成り行きを見守っていたが、ついに我慢出来なくなってクラウスの袖を掴んだ。
「おい、クラウス! そんなに煽るなよ!」
「コウ様? 煽ってなんかいません。正直なだけです」
だが、クラウスが怪訝な顔を浮かべたその時にはすでに、相手の男は猛り狂って拳を振り上げていた。
「テメェ、その澄ました面、肉団子にしてやらぁ!!!」
俺は「ひゃあ」と情けない声をあげて咄嗟に自分の顔を覆った。我ながら女の子のようなリアクションだった。
「まったく」
呟きつつ、クラウスが俺を庇うようにしてひらりと身を躱した。直後、何か大きな物が盛大にぶつかり合う音が辺りに鳴り響いた。
おずおずと覆っていた手をどけてみると、そこには近くの店の荷台に頭から突っ込んで倒れている酔っ払い騎士の姿があった。クラウスは無様な相手を無表情に見下ろしつつ、何事も無かったかの如く、腰に手を当てて肩をすくめた。
「やれやれ。それでも「白い雨」の一員ですか? 情けない」
「ちょっ、何したんだよ?」
俺が再度縋りついて聞くと、クラウスは片手をあげて答えた。
「何もしていませんよ。ちょっと避けたら、勝手に彼が前につんのめったんです。意味不明ないちゃもん付けて、店にも迷惑かけて、本当にしょうもない酔っ払いだ」
男はよろめきながら立ち上がると、いよいよ激しく怒りを爆発させた。
「この…………クッソ野郎がぁぁぁ!!! もう我慢ならねぇ、完全にブチ切れた、ぶっ殺してやる!!!」
男は、今度は剣を抜いてこちらへ突進してきた。クラウスは冷めた目でほんの少し身を横に捌くなり、片足をちょっと前へ出して男の足をつっかけた。(やっぱり、何かしていたじゃないか!)
俺は震えながら、また男が大胆にぶっ倒れるのを見守った。男の仰々しい剣が、これまた惨めに投げ出されて、カランカランと転がっていく。
騒ぎを聞きつけた野次馬が駆けつけて、俺達を囲み始めていた。ワイワイ、ガヤガヤ、喧嘩を囃し立てる文句があちこちから飛んでくる。クラウスはそんな周りの様子を知ってか知らずか、相手を煽った。
「どうかしていますよ、同じ失敗を二度も繰り返すなんて。そんな単純だから、ジェニに愛想を尽かされるんです。それに、剣もまともに振れない君じゃ、俺には絶対に敵わないよ。…………色んな意味で」
「やめろって!!」
俺の制止も虚しく、案の定、事態はさらに悪い方向へと転がった。
「ゾーケル!! 大丈夫か!?」
人混みの中から、新たな酔っ払い達が走り寄ってくる。小太りが一人に、のっぽが二人。全員騎士のようだった。内の赤ら顔の小太りが、倒れたゾーケルを乱暴に押しのけて怒鳴った。
「畜生め、次は俺だ!! オイ、キツネ野郎!! ユリアのこと、覚えてんだろうな!?」
クラウスはのんびりと顎を撫でつつ、「ユリア」と小さく呟いたきり、何も言わなかった。
赤ら顔の男は体型の割に、軽快なフットワークでクラウスに挑んでいった。鋭いパンチに、しっかり乗った体重。酔っているのに、かなり迫力があった。俺はすっかり観客の一人と化して、賑やかしに徹していた。もう、どうにでもなれ!
「精鋭部隊だか! 何だか! 知らねぇが!」
男は紙一重で攻撃を交わし続けるクラウスに、口汚く罵声を浴びせた。
「てんで! 話に! ならねぇな! とっとと! 尻尾! 巻いて! 女に! 慰めて! もらえよ!」
クラウスは苦々しげに相手をいなしながら、ギャラリーの作った円の中を忙しなく動き回っていた。
「チッ、ちょこまかと! この! ゴマすりの! ヘタレめ!」
そのうちにクラウスが端へ追いやられた。赤ら顔は大きく口角を歪ませると、ここぞとばかりに怒声をあげた。
「ギャミル、ジンバス!!」
途端に、呼びかけに応じた二人の大男が一斉にクラウスに飛び掛かっていった。到底騎士とは思えぬ卑怯な行為である。俺は大口を開けて観客と一緒にどよめいた。
「まったく」
クラウスの呆れ顔が一瞬だけ見えた。
かと思うや否や、クラウスはスッと隙をついて前へ出、赤ら顔に強烈な肘鉄を食らわせた。歓声がわっと湧き起こる。クラウスはそのまま、背後から組み付こうとしてきた男の一人の腕を捩じり上げ、鮮やかに背負い投げた。残った一人が色めき立ち、勢い余って大きくバランスを崩す。クラウスは即座にそいつの空いた懐へ入り込むと、強かに顎にアッパーを叩き込んだ。
観客は大立ち回りに、どっと盛り上がった。俺は息を飲みつつ、黄色い声を上げる女の子たちに混じって拍手喝采を送った。すげえ!
そうこうするうちに、通りに転がされていたゾーケルがのそりと立ち上がって、何かブツブツと呟き始めた。
「っくしょう…………。許さねぇ…………クソったれ…………。こうなったら、マジで…………もう!」
ただの飲み過ぎとは思えない、彼の陰鬱極まりない顔色に、俺は寒気を覚えた。
…………「扉」の気配?
クラウスはハッとゾーケルへ注意を向けるなり、いつにない大声で叫んだ。
「止せ!!!」
俺はそれから、一瞬後に訪れるはずの未来を確かに垣間見た。
扉の奥から溢れ出た無数のドブネズミが、黒灰色の奔流となって通り中の物を喰らい尽くしていく。
生きたまま貪り喰われる人々。
波がうねる。血飛沫。阿鼻叫喚。
月が暗雲に失せる。
むせ返るような、酒と、血と、死肉の匂い――――――――。
しかし、死の闇はクラウスの抜いた剣の一閃により未然に斬り裂かれた。
流麗な刃が雲を割り、月明かりが白く、鋭く刃面にきらめく。
切っ先が描く、美しい弧の合間から、まばゆい光が差し込んでくる。
まさに、「白い雨」のごとく。
冷たくも、優しく。
ゾーケルの蒼褪めた顔に、恵みの光が降り注ぐ…………。
気付けばクラウスは、ゾーケルの正面に立っていた。
クラウスはゾーケルの眼前ギリギリで振り抜いた刃を静かに翻すと、厳かに切っ先を相手の眉間に突きつけた。
俺はクラウスが一瞬にしてゾーケルとの間合いを詰めたことに驚くよりも、あのわずかな間に、何と鮮明な魔術を…………おそらく、さっきのは二人の魔術の攻防だったのだろう…………展開したものかと、戦慄していた。
ギャラリーの人々も、大方俺と同じ思いで刹那の戦いを見守っていたようだった。誰もが阿呆みたいに口を開けて、吐くべき言葉を見失っていた。
クラウスはスカイブルーの瞳を冷たく細めると、ぞっとするほど無慈悲な声音で告げた。
「…………君は、禁術に手を掛けた。これ以上足掻くつもりなら、容赦はしない」
ゾーケルはカタカタと歯を打ち鳴らしながら、微かに首を横に振った。
「すまな、かった」
ゾーケルはすっかり酔いも醒めたようで、蚊の鳴くような声でこぼした。背後で遠巻きに二人を眺めていた彼の仲間たちも、茫然とその場に立ち尽くすばかりだった。
クラウスは切っ先を逸らさずに、低く続けた。
「俺に喧嘩売るのは構わない。いつでも遊んでやる。…………だが、守るべきものを履き違えるな。君のちっぽけなプライドなぞ、どうでもいい。次に市民を危険に晒したなら、斬る」
ゾーケルはほとんど過呼吸状態に陥りながら、「わかった、わかった」と、哀れに喘いでいた。
クラウスは剣を収めると、シンと静まり返ったギャラリーを見渡して短く言った。
「お騒がせしました」
彼は俺の方を見やると、さっきまでの威圧感がまるで嘘だったかのようにニッコリと微笑んだ。
「さ、コウ様。見事に場が白けましたので、先を急ぎましょう!」
俺はかろうじて、乾いた笑いを漏らした。
いよいよ「神殿」の中に足を踏み入れた俺は、扉の先に見えた世界に思わず絶句した。
だが例によって、クラウスは何てことのない表情でこちらを振り返ると、やはり何てことのない口調で、実にあっさりと言ってのけた。
「どうされました? 何か問題でも?」
俺は唖然として、意外に広い店内を前に立ち竦んでいた。
店の中にはたくさんの、露出の高い服を着た女の子がいた。街で見かける子よりも幾分化粧が濃く、その分豪華な雰囲気を纏ったその女の子達は、客のテーブルに寄り添って会話と酒を優雅に楽しんでいた。
客席の奥には、派手なステージまであった。舞台袖には楽器と、きちんとした服を着込んだ奏者が揃っており、ショーの準備のためか、陽気な音楽の一節を途切れ途切れに演奏していた。
俺はふんだんに灯されたランプの下で歓談する人々を眺めながら、どういう顔をしていいか、段々わからなくなってきた。
実のところ、舞台までは無かったとしても、こういうスタイルの店に来たのは初めてではなかったし(昔、バイトの友達とテンションに任せて行ったことがある)、こうした店を題材にしたゲームで遊んだこともあった。思い切ってしまえば案外楽しいものだということも知っていた。
…………だがな。
「問題、あるだろう」
俺は女の子の短いスカートから伸びる、すらりとした生足を確と目に焼き付けながら、クラウスに険しい顔をして見せた。
「なぜです?」
クラウスが間髪入れず、真剣な顔で問い返してきた。問いかけの短さと、青く澄んだ挑戦的な眼差しに、俺は紛れもない彼の魂を感じた。
理屈ではない、本物の情熱を前に、俺のもやもやとした倫理観はあまりに頼りなく、欺瞞的だった。
いやだって、俺を呼んだリーザロット本人がOKを出している上に、やるべき仕事は全て終えた後なのだ。この2、3時間を惜しんで、他に何の仕事ができる? 修行? 馬鹿な。
それとも、もしかして俺は怯えているのか?
すでに自ら扉を開き、旅に出たというのに。
俺はもう一度女の子達に目をやった。
…………ぶっちゃけた話をすると、フレイアやリーザロットの方が可愛かったけれど、それでも皆明るく、健康的で美しかった。クラウスの趣味なのだろうが、本当に良い趣味をしていると絶賛したい。
しっとりとした白い肌と、大きく開いた胸元。引き締まったウエストと、ふっくらとしたスカートとの対比が素晴らしい。その子の隣のほっそりとした、チャイナドレス風の子も素敵だった。特にヒップのラインが情熱的で刺激的だ。
と、ふっくらスカートの子がこちらに気付き、人懐っこい笑顔で手を振った。
俺は機械的に手を振り返しながら、クラウスに言った。
「いや、俺が悪かった。…………遊ぼうぜ」
クラウスは
「やったぜ!」
と、威勢良くガッツポーズを決めると、手早く店と話を済ませて、さっき手を振ってくれた女の子達のテーブルへと走り寄っていった。酔っ払い騎士を止めた時の、凛々しかった彼は幻だったのかもしれない。
席に着くなり、甘えるような声音で女の子が俺に話し掛けてきた。
「はじめまして。黒い髪の、優しそうなお兄さん」
俺が寄せられた谷間に戸惑ってどもっていると、急に店中からどっと歓声が上がった。
「え、何?」
「ショーが始まるのよ」
俺の問いに答えながら、女の子が給仕の運んできた陶器製のジョッキをスススと寄せてきた。
「一緒に、飲みましょう?」
俺はジョッキの中の、ビールに似た酒をまじまじと見つめた後、よく考えもせずに返事した。
「もちろん!」
異国のビールというのには、単純に興味があった。俺は隣の女の子と一緒に、思い切って一杯目の酒を仰いだ。
スカッとする、甘酸っぱいエールの味がした。




