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扉の魔導師<BLUE BLOOD RED EYES>  作者: Cessna
【エピローグ】
411/411

182-3、魔道は続くよ、どこまでも。俺が運命の炎と踊ること。

 ご愛読ありがとうございました!!

 こんなに長い物語を最後まで読んでいただき、本当に感謝に堪えません。


 「扉の魔導師」の始まりと同じ、良い秋の日に終わりを迎えられることが感無量です。

 

 2022/10/26 Cessna

 …………え? 何あれ? あーちゃんとグラーゼイのヤツ、いつの間にあんなに仲良くなったわけ?

 うぅ、二人して俺のことを雑に扱いやがって。

 お兄ちゃんが可哀そうだと思わないのか? 昔は「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」って言ってたのに…………薄情な妹め。

 まぁ、元気ならいいんだけどさ。


 すげなく追い払われた俺は仕方なく、一人で会場をぶらついていた。

 今晩はフレイアと会う約束をしているのだが、まだ合流まで時間がある。腹ごなしをしつつ(食べる暇ができて本当に良かった)、色んな人と挨拶を交わした。


 ナタリーが汗水垂らして働いているのを応援しつつ、エレノアさんとなぜか一緒にいる異邦人の女の子達…………テッサロスタで会った子達だ…………に手を振る。ドラゴンのローストとお花を仲良く食べる淑女と乙女の図はなかなかに異世界感があるが、まぁ、今夜の宴は何でもありだ。

 ああして文化は広がっていくものなのだろう。


 部屋の片隅でクラウスががっくりしているのも見かけた。明日は草むしりだとか何とかボヤいていたが、一体何をしでかしたんだか?


 広場のメインイベントよろしく暴れ続ける赤鬼アードベグと、今は誰が戦っているのだろうか。

 気になって覗いてみると、何と西方区領主のコンスタンティン…………だったっけ? が戦っていた!

 一体何をやっているんだ、あの人は? かなり酒だかリージュだかが入っているようだが…………今夜は本当に、凄まじい夜だ。


 それから特に会いたいわけでもない手合いとも言葉を交わした。

 心底辟易するのは、商会連合の総代はじめ、その子分みたいな連中の猛烈なおべっかだった。


 「サンラインの英雄、勇者様にあらせられましては~」で始まる空々しい文句に、俺は最早苦笑いもできない。

 ほとんどが商談目的なのだが、直接俺に対してではなく、俺と繋がる「蒼の主」やツイード家に対しての話ばかり。


 無論、俺にそんな決定権があるわけがない。

 「やめてくれ」と暗に(時には直接に)伝えるも、ちっとも聞きやしない。

 見るからにチョロそうな俺に気に入られれば、話が通ると思い込んでいるのだった。


 そうこうしていると、知らない方面から謎の嫉妬を買っている始末。いきなり出世した(ように見える)俺が気に食わないらしい。特に見た目にはちっとも箔が無いんもんだから、もうナメられ放題。こっちとしては良い思いなんてマジでちっともしていないのに、当たられ損にも程がある。


 そんなこんなで、ちっとも居心地が良くなくなってきたので、結局俺は会場を離れて待っていることにした。

 人気のない階段下の物陰で、貰ったワイン(のような渋い酒)を手にぼーっとしていると、どこからともなくツーちゃんが現れた。


「やぁ、ツーちゃん。調子はどう?」

「気安く話しかけるな、下郎」

「ご健勝のようで」


 険しい眉間はいつものことだが、赤いワンピースも裸足もいつものこととなると、さすがに今夜はどうなのか。

 ツーちゃんは例の如く俺の胸の内を見通して、つっけんどんに言った。


「私の姿は見る者によって異なる形を映す。その者の品格を表していると言っても過言ではない。つまり…………」

「わかったよ。もう百億回聞いたよ。いいよもう、ロリコンでも何でも。…………で、何の用? 雑用なら今日は勘弁してくれよ? この後フレイアと約束があるんだ」

「何と生意気なワンダめ…………何はなくとも捻り出して命じてやりたくなるわ。…………まぁ、いい。今夜はそのような些事を言いに来たのではない」

「じゃあ、何?」


 琥珀色の大きな瞳が、俺を映して静かに光る。

 彼女は細く白い腕を組み、長い睫毛を微かに伏せた。


「コウ…………貴様は今後、どうするつもりだ?」


 案外マジなトーンに、俺は傾けかけたグラスを止めた。


「今後って?」


 ツーちゃんは大きく息を吐いて、一層高く眉を吊り上げた。


「馬鹿が。…………貴様とて将来のことぐらい考えるであろう。いつまで皆の雑用係を続けるつもりだ? それが気に入っていると言うのなら、それはそれで死ぬまでこき使ってやる所だが、それなら正直な話、賢いワンダでも十分に事足りる。…………ワンダの方が比べようも無く愛くるしい故、その点において貴様は大いに利用価値で劣るがな」


 顔を顰めていると、低くも喧しい声はさらに積み重なった。


「それとも何だ? 一生ツイード家の世話になって、優雅なヒモ暮らしをお望みか? まぁ貴様には似合いというか、実に今まで通り、大成功万々歳玉の輿というところではあろうがな。そうはさせぬと、オーディンは言っておったぞ」

「えっ!」


 聞こえた名前につい身が強張る。

 オーディン・アルバス・ツイードは現ツイード家当主にして、フレイアのお父さんだ。そして恐らくは、いずれ俺のお義父さん…………。

 俺が今、最も恐れている人間の名だった。


「コウ…………貴様、まさか本当にそのつもりであったのか?」


 ツーちゃんが純粋な琥珀色を一瞬で軽蔑に濁らせる。

 俺は慌てて何度も首を振り、言い返した。


「そ、そんなこと一言も言ってないだろう!? お、俺にだって、い、一応プライドってものはあって…………。っつぅか、何で俺抜きでそんな話しているんだよ!? 君達にはどうでもいいだろう!?」

「それは」


 言いさして、ツーちゃんがふと階段の上へ視線を送る。

 俺は魔力より何より先に本能的な寒気と恐怖を感じて、彼女より先にその方を振り返っていた。

 噂をすれば影…………。


 麗しいワインレッドの瞳を豊潤に湛えた銀髪の偉丈夫が、歴史ある館の調度に一切見劣りせぬ佇まいで、ゆったりと降りてきていた。


「こ、こんばんは…………ツイードさん」

「こんばんは、ミナセ君。良い夜を過ごしているかね?」

「は、はい…………とても…………」


 緊張で声も笑顔も引き攣れる。

 全身に脂汗のようなものが滲んでくる。この人と会うと、いつもこうだ。


 フレイアに連れられて彼女との交際を知らせて以来、特に何を咎められることもなく、あからさまに気を悪くされることも無く、至って普通に…………むしろ、国一番の貴族の当主という立場からすれば、すごく丁寧に親切にしてもらっている。

 今夜だって、あーちゃんと俺の分の部屋をわざわざ館に用意してくれたぐらいだ。


 だが…………だがな、わかるんだよ。

 共力場を編んだわけじゃなし、魔力場を探ったわけじゃなしだが、それでも通じる時は通じる。

 グラーゼイや商会の連中が俺を気に入らないのとは次元が違う、圧倒的な威圧を。嫌悪ではなく、それをすら超えた一切の妥協無き品定めの眼差しを。

 俺が間違いなく、それに適っていないということを。


 怯える俺をどんな感情で見下ろしているのかわからないが、オーディンさんはツーちゃんに話を振った。


「奇遇ですな、琥珀殿も」

「白々しい。コウに用があるのなら自らの部屋へ呼びつければよいものを、どうしてわざわざこんなシケた場へ出てきた?」

「シケた場とは心外だな。…………この館の主人は私だ。どこへ行こうと自由なはず」


 オーディンさんは階段を降りきり、滑らかに言葉を継いだ。


「それにしても、琥珀殿は人聞きが悪いことを言う。あまりミナセ君を怖がらせないでくれないか。…………私は彼に、そのような不躾な物言いをしたことはない。そしてまた、そのように怠惰な青年だとも思っていない。ただ…………いずれ提案をしたいと考えていただけだ」


 ツーちゃんが軽く唇を尖らせ、肩を竦める。

 俺は息を飲んで、放っておくと震えてしまうグラスを必死で抑えていた。

 提案…………? 一体何だって言うんだ…………?


 オーディンさんは深く威厳ある目つきで俺を見つめ、言った。


「ミナセ君。君は先日、本格的に魔術を学びたいと言っていたね」

「あ…………は、はぁ」


 言ったっけ…………?

 確かに魔術についてもっと知りたいとか、そうしてもっと色々な場所へ旅がしたいとかは、言ったけれど…………。

 え? おいおいやっていけたらいいなぁ~、みたいなつもりだったんだけど…………?


 掠れた声で返事する俺の全てを、相手は見透かしているかのように――――その上で、意にも介さずに――――話した。


「君さえよければ、魔術学院へ通ってみないか。入学には本来厳格な審査が必要だが、そこは私が通しておこう。学院長のロティス氏は魔術師会の会長でもある。賢人会での繋がりもあるし、今回の戦での君の功績を鑑みれば、当然対応して頂けるだろう。

 今季の入学に間に合わせるには、そろそろ動かねばならないのでね。近いうちに、返事を貰えると助かるのだが」


 俺は理解が追い付かず、一生懸命に聞こえた言葉を反芻していた。

 学校?

 魔術?

 通う?

 俺が?


 呆けているワンダに、オーディンさんは悠然と話し継いだ。


「私の経験から言っても、体系的に魔術を学ぶということは実に広範な分野において役立つ。ぜひこの機会を利用してほしい。また、在学生には名門の子女が多く揃っている。彼らとの交流を今の内に深めておくのも良いだろう。

 そうして後に、旅へ出て見聞を広めるといい。その頃には、君にもサンラインの魔術師としての自覚が芽生えているはずだ」

「…………」


 どうしよう。

 断る選択肢がどこにも見つからない。

 形こそ提案の体を装っているが、これは最早命令だ。


 オーディンさんは俺を、自分の求める人間の水準へゴリ押しで持って行こうとしている。

 逆に言えば、でなければ絶対に認めない姿勢だ。

 俺に将来のビジョンがロクにないこと、そしてオースタンでもロクに仕事をしていなかったことを、恐らく完全に見抜いている。


 いや…………実際、良い提案なのだろう。それこそサンラインの普通の人間が聞いたら卒倒しかねない幸運なのだろう。

 でも…………本当にいいのか?

 それってあまりにもあからさまなゴリゴリの裏口入学だし、大体、そんなエリート達に俺がついていけるのか? いや…………このお義父さんのことだから、何が何でもついていかせる算段なのだろうが、それこそが恐ろしい。

 っつーか俺、26歳だぞ?

 今更、学校…………?


 固まっていると、ツーちゃんが口を開いた。


「オーディン。貴様はこやつがどれだけアホかわかっていないようだな。さしもの貴様でも、かような無謀を進めれば大恥と挫折を味わうことになるぞ」


 ワインレッドの瞳が大魔導師を映す。

 俺は同じ色のグラスの中の液体を見つめ、そこに淀んでいる自分の顔を見つめていた。表情がうまく作れない。っていうか、どんな顔をしてらいいのかわからない。

 大魔導師は構わず言葉を続けた。


「この間、こやつとパトリックに会った」

「教会総司教殿と? それは…………」

「如何にも「時空の瞳」は、こやつを映した。…………「そのままの素直なあなたで、頑張ってくだされな」。そう言っておった」

「あぁ、あれ…………どういうことだったの?」


 よせばいいのに俺が口を挟むと、ツーちゃんは意外にも睨み付けずに話してくれた。


「まず、貴様の未来を見るべきとパトリックは判断した。そのこと自体が貴様…………「扉の力」、加えて「まつろわぬ魔の力」の行く先への懸念と言える。次に、それを経てのあやつの言葉」

「普通に言ったんじゃないの? これからも頑張ってねーって」

「フン、愚か者」


 そら見たことかとばかりに、ツーちゃんがオーディンさんに視線をやる。

 オーディンさんは表情を変えずに話した。


「なるほど。ミナセ君の性質の変容には重々注意せよというお達しですな」

「うむ。…………パトリックは昔から多くを語らん。全てが見通せている訳でもなければ、見通す未来の焦点距離も大きく変わるが故だ。しかし、あれの瞳は別格だ。此度の大変革…………多次元アイラム浸食以上の危機を予言している可能性は高い」

「ふむ」


 オーディンさんが顎を撫で、紅い瞳を物思いに沈ませる。

 俺は非常に喉が渇いていたが、さすがに飲む気にはなれなかった。いや、きっと飲んだって構わないのだろうが、咽喉が強張ってとても通りそうにない。


 ツーちゃんは俺を見て、それからオーディンさんに言った。


「…………代わりの提案がある」


 オーディンさんが目だけで続きを促したのを、ツーちゃんは腰に手を当てて受け取った。


「コウにはまさにその話をしようとしていた。

 …………コウ。お前、魔導師になれ」


「は」という声すら出ない。驚愕のあまりグラスから少しワインが零れた。

 開いた口が塞がらないのを、大魔導師様はまたもや軽蔑の眼差しで見つめた。


「えっ…………ど、どういうこと? 何でいきなり? いや、ノリでそんな風に大見得を切ったことはあったけど…………」

「貴様のような凡才中の凡才を鍛えるなど、私とて積極的に望むわけではない。だがな」


 琥珀色の瞳がちらつく。

 彼女は小さく息を吐き、腕を組んで小さな首を傾げた。


「で、あればこそ! この大魔導師たる私にしかできぬことであろうからな! …………凡庸か、あるいはそれ以下な頭の冴えとは裏腹に、貴様の力は凄まじいものだ。「扉の力」だけでも厄介だというのに、ここに「まつろわぬ魔の力」まで混ぜよって!

 この先、これらを制御し続けるのは並大抵のことではないぞ。フレイアが幼少の頃より厳しい鍛錬を受けていたのも、強大な自身の混沌に溺れぬようにするためであった。それと同じだけの力を、オッサンになった貴様がこれから身に着けようという話なのだ。険しい道のりとならぬはずがない。…………まず不可能だ。…………だが、私はもう懲りた。出来ぬを成す。…………まだ見ぬを見る」

「オイ、俺はまだオッサンじゃ…………」

「口を挟むな! …………ったく!

 とにかく、これから貴様には私の下で鍛錬を積んでもらうこととする! この私が直々に鍛えてやろうと言うのだ。この私が! 空前絶後の大・大・大魔導師の、このツヴェルグァートハート・ハンナ・エル・デル・マリヤーガ・シュタルフェア様が、だ! 感謝してひれ伏し敬語を使い正座しろ! 学院なぞのお上品な教育では到底辿り着けぬ高みへ、貴様を叩き上げる」

「え、ちょ、ちょっと待って。そんな、いきなり」

「敬えと言ったはずだ! ったく。

 …………思うに、パトリックが言う所の「そのまま」だの「素直」だのは、「裁きの主」やその他の深淵存在への純粋な信仰心…………畏怖と呼ぼうか…………であろう。

 「不信」の入り口は広く、どこからでも溶け入り得る。己の持つ力が強大であればある程だ。…………その恐怖、身に染みて知っておろう」


 口がきけないのは魔術のせいか? いや、そうじゃなさそうだ。

 精一杯の躊躇いを目に込めると、琥珀色が一層横暴に尖った。

 俺は心の内で両手を上げ、納得の意を示した。


 大魔導師の高い声は、次いでオーディンさんへと向かった。


「と、いうわけだ、オーディン! これは私が預かる」

「そこまで仰るのならば構いません。ですが…………」


 オーディンさんはじっと俺を見つめ、それからおもむろに唇を開いた。

 瞬間ドライアイスのように恐怖が広がり、俺の心臓は凍てついた。


「…………エレナ村」


 零れた呟きに俺は息を飲む。

 いや、飲もうとするも飲めない。

 オーディンさんは瞬きもせず、淡々と続けた。


「という名の村を、覚えているかね?」

「…………は、い」


 エレナ村。

 テッサロスタへの遠征の折に、ジューダムの刺客に襲われたフレイアを助けるために立ち寄った村だ。

 大怪我を負ったフレイアはそこで傷を縫ってもらい、浴びた瘴気を癒し、貰ったエルフの軟膏を使って戦線に復帰した。

 …………忘れるはずもない。


 同時に、俺は相手が何を言いたいかも稲妻に打たれて悟った。


「そこで、君と私の娘のことが人の口に上っているのだ。…………君には、随分とお世話になったようだね。大変に甲斐甲斐しく「看病」してくれていたと聞いている」

「は…………いえ、その…………」


 大きく開かれた木の窓。

 青い空と木漏れ日。小鳥のさえずり。

 白く眩い肌。滑るような感触。

 甘い呻き声…………。


 様子を窺いに来たシスイの困惑した声とアドバイスを思い浮かべ、俺はいよいよ血の気を失った。


「あ、あれは…………け、け怪我の、ちちち治療、で……………だ、で、でですから…………」

「誠実は尊ばれる美徳の一つだ。君がそれを知る人間であると、私は信じている」

「…………」


 もちろん、もちろんと何度も大きく頷いて見せる。

 近寄られると、背の高いオーディンさんがさらに大きく威圧的に見えた。


「しかし、ミナセ君」

「は、はい…………?」

「人の口に戸は立てられない。そして人々が何を信じるかは、彼らが何を信じたいかに大きく影響されるものだ。…………君達が如何なる関係と見做されているか。そのことはこの度の戦の話題と絡んで、すでに広い地域において共有されている。

 …………我が一族にまつわるそうした話題は、実にこちらが恐縮する程に好まれるものでね」


 誤解だと言うだけ、無駄だろう。

 その見解は相手と俺で偶然にも一致した。

 オーディンさんは悠然と言い継いだ。


「琥珀殿にも見込まれる聡明な君ならばわかるだろう。…………大事なのは、何が事実かではない。如何なる「事実」こそが相応しいかだ。

 …………魔術学院の卒業とそれに見合う役職ぐらいならば、私にも用意できただろう。実力が伴おうと否と、その気になればどうとでもなる。しかし…………真に魔道を行くとなれば、最早忖度も小細工も施しようがない」


 自分が思った以上に信用されていなかったことに衝撃を受けたが、それ以上に、強く燃える眼力に圧倒された。

 未熟なワインなんぞ比べ物にならない。

 紛れも無い一級品が、俺も見て続けた。


「ミナセ君…………君にはより一層の精進を期待するよ。君は誠実で、実直かつ勤勉な努力家だとフレイアが話していた。必ずやサンラインの…………ツイード家の一員として相応しく成長してくれるのだろう」


 やらなければ、やられる…………。


 覚悟せねば俺という「事実」ごと消されかねない本気に、俺は深く頷いた。


「が、頑張ります…………」


 強烈なワインレッドの眼差しをそのままに、オーディンさんは鷹揚に微笑んだ。


「…………フレイアは私に似て、やや過保護じみたところがあってね。君を私の部屋に呼びつけようものなら、きっとすぐに嗅ぎ付けて飛んでくるだろう。なかなか君と二人きりになれそうになかったのだが、今晩は丁度良い機会だった。…………娘は余程君を気に入っているらしい。この間などは驚かされたよ。いつもは滅多に寄り付かない私の部屋にわざわざ乗り込んできて、「君との婚約を認めないなら家を出る!」などと言い出すのだから。おまけに、もう一人の娘まで妹についてやって来てね。「最愛の父上よ、まさか我らが尊き主の御心を無下になさるおつもりではありますまいな?」ときた。ハハ…………過保護は血筋だな。参ったものだよ」

「ハ、ハハ、ハ…………」


 全く笑っていない紅には、相変わらず引き攣った俺が揺るぎなく映っている。

 ツーちゃんが訝しげに俺を仰いでいたが、俺はもう完全に処理限界を超えていた。


 エレガントな挨拶の後にオーディンさんが去ってから、俺は予防注射を終えたワンダよろしく放心した。

 ツーちゃんが早速何かギャアギャアと喚いていたが、少しも頭に入ってこなかった。


 …………ハァ。俺、これからどうなるんだろう…………。




「…………ってなことがありまして、そんなわけなんですよ」


 事のあらましを粗方愚痴り終えた俺は、廊下のソファでだらしなく横になって休んでいるシスイをもう一度見やった。

 長話を辛抱強く聞いてくれていたシスイは、ひどい頭痛がすると言う頭を片手で抑えながら、黒い瞳を俺へと向けた。


「わかった。で…………その後琥珀殿はどこへ?」

「ツーちゃんは呆れてどっか行っちゃっいました。お腹空いたから、今日はもういいって」

「お腹空くんだな、あの人…………。良かったな、逢瀬の前に解放されて」

「ところで、シスイさんはまだ体調が悪いんですか? 戦の後からずっとだって聞いてますけど」


 散々喋り倒した後で聞くのもアレだとは思ったが、一応尋ねてみる。

 シスイは虚ろな視線を天井へ向け、聞き取りにくい低い声で語った。


「あー…………まぁ、気にするな。別にどこが悪いわけじゃない。…………二日酔いみたいなものなんだ」

「二日酔い? そんなにいつも飲まされてるんですか? 大丈夫ですか?」

「いや、違う…………白竜変化の代償だ」

「白竜変化」

「…………アカネさんから聞いてないか?」


 聞いている。

 なんならナタリーからも、リーザロットからも聞いていた。

 何でも、全身が荘厳な白い竜に変化するという大魔術(というより、体質)だとか。


 まさに伝説の巨竜を生き写す恐るべき魔力と翼を得る、正真正銘のスレーンの頭領の「証」。

 先の戦で、ジューダムの魔竜を倒すためにシスイはその変化を使ったのだという。


「その後遺症がまだ続いてるんですか!? こんなに長く!?」


 シスイは力無く笑い、変わらずぼそぼそと答えた。


「そうだ。俺があれをやらないのは、これがツラいからに他ならない。最悪の二日酔いが、およそ一月の間ずーっと続く。…………ようやくマシになってきたってんで、頭領としてこの宴に顔を出すことにしたんだが…………」


 言葉を途切り、億劫そうに身を起こして近くの水のグラスへ手を伸ばす。

 俺が取ってやると、彼は掠れた声で感謝を述べてまた横たわった。


「ここへ来るまでの旅がいけなかった。…………すごく久しぶりに地竜に揺られたが…………飛竜に乗って来るのと、結果としてはどちらがマシだったのか…………。鳥の鳴き声も、露に濡れた草の青い匂いも、強烈な白い日差しも、道中の獣臭も、全てが頭痛を悪化させた。そうしてやっとサンラインに辿り着いてみれば、逃れようもない砂埃と喧騒の嵐だ。…………この宴も、想像を遥かに超えて騒々しい。…………まるでサモワールだ…………。あぁ、酒なぞ見たくも無い。食べ物の匂いも…………クソッ、ここにいてさえ漂ってくる…………勘弁してくれ…………」


 哀れに思って、もう一杯水をグラスに注いでやる。

 心なしか痩せてしまったようだった。折角の上等な着物がやけにかさばって浮いて見えるのは気のせいではなかろう。

 いつもは瑞々しくミステリアスな面差しも、今は病人らしくしか見えない。


 シスイは「あぁ、すまない」と呻いてグラスに口を付け、また天井に視線をやった。


「なぁ…………コウさん」

「はい」

「少し…………話を聞いてもらえないか?」

「え? そりゃあ勿論。散々聞いてもらいましたし」

「…………実は、俺はあの戦の時に…………白竜変化をした後すぐに、気絶したんだ。急激な気脈と魔力場の変化に、霊体以上に肉体が付いていかなかったのだろう。…………あのまま落ちていけば、俺は山肌に衝突して死んでいたはずだった。だが…………そうはならなかった。落ちていく最中で、ある人の幻が俺を助けたんだ」

「幻ですか」

「ああ、亡くなった父上だった」


 ギクリと身体が固まるのを、幸いシスイは見ていなかった。

 リーザロットから、誰か見知らぬ竜乗りがシスイを連れていったと聞いているが…………もしや…………。

 シスイは痛みで強張った顔つきを少しだけ緩めて語った。


「いや…………そんなはずはないとちゃんとわかっている。目まぐるしい乱闘の中だった。きっと兵士の誰かが、俺を連れ帰ってくれたのだろう。余程謙虚な者なのか…………未だに名乗り出てくれないのだが…………。

 …………いずれにせよ、全ては竜王様の加護であったと俺は思っている。竜王様は知らせてくれたんだ。…………父上は今も深き魔海の気脈の内に息づいていると…………。俺は…………今も、加護の内にあると」


「それ本人だと思います」とは、口に出来ない雰囲気。


 シスイはぐったりとしたまま、言葉を続けた。


「…………里では、まだ問題は山積みだ。サンラインとの交易と契約関係の立て直し、ジューダムとの外交、戦へ出た竜達の手当てと、新たな仔の育成。裂け目の魔物の変質への対応や、他国に仕組みの割れてしまった里の結界の再編成なんて課題もある。

 …………ほとんど何も解決しきっていないし、まだその手がかりすら掴めていない問題さえある。喪失の悲しみだって、まだまだ癒えきらない。…………俺はこのザマだし。

 だが…………やっていくしかないんだ。俺は…………いいや、俺達は、どうやら変わらずに生きていくらしい。こんな時に…………伝統の加護はこの上なく心強い。…………あんなにも…………重く、息苦しかったって言うのにな」


 力無く朗らかに笑うシスイに、俺は黙って微笑み返してまた水を注いだ。

 「貴方のお父さん、死んだふりして自由なアフターライフ満喫してますよ!」…………なんて、完全に言い出せるノリじゃなくなったが、まぁ今回は仕方無しとしよう。

 今は何も言わず、新生スレーンの里に乾杯。


 俺は持っていたワインをようやく飲み干し、ホッと一息吐いた。

 シスイはふと思い出したように、話題を変えてきた。


「あぁ、そうだ。コウさん」

「はい?」

「そのうち、アオイに会いに行ってやってほしい。今回もうるさくついてきたがっていたんだが、如何せん誰かしらは防衛上残っていなくてはならなくてな。可哀そうだが、置いてきたんだ。…………君も一応あの子の夫なんだ。たまには顔を見せてやってくれ」

「…………そのことなんですけど、俺、婚約…………」

「大丈夫だ。スレーンでは本夫でない者の重婚は掟に反さない。また、君は異邦人ゆえサンラインのしきたりにも抵触しないだろう」

「…………え!?」

「何だ、知らなかったのか? そんなことを気にしていたとは。…………それなら、これからはもっと気兼ねなく遊びに来て欲しい。また共に竜に乗ろう」

「…………」


 絶句とはまさにこのことだ。

 今日はどれだけ爆弾を浴びせられれば済むんだ?

 俺のハートはもうとっくにボロボロだ。どうして誰も労わってくれない?


「…………あの」

「何だ?」

「でも…………」


 フレイアが…………と、切実に訴えようとした瞬間だった。

 銃声が――――紛れも無い銃声が――――鋭く空気を劈いた。


「な、何だ!?」


 驚いたシスイが素早く身を起こす。

 俺は銃声が聞こえた方へ、すぐさま身を振り向けた。


「リズの部屋からだ!!!」

「あっ、コウさん!! 待て!!」


 只事じゃない気配…………何か事件か!?

 一刻も早く行かなくては…………!!


 全速力で部屋へ走っていく。

 シスイが止めるのも無視して、俺は全身全霊で部屋の扉へ体当たりをかました。




 中には、血まみれのヤガミ・セイがいた。

 腹を押さえて苦悶し、項垂れている。カーペットに広がる鮮血の海を目にして、俺は咄嗟に自分の血が流れ出ているも同然なのだと蒼褪めた。

 彼の正面ではリーザロットが、いつぞやに見たオースタンの古いライフルを構えて立っていた。


 濛々と立ち昇る硝煙に、俺は混乱をさらに激しくした。


「オイ…………何をやってるんだ!? 何でだ、リーザロット!!!」


 あの時、俺は陽炎(かげろう)を介してセイと命を共有した。セイが死ねば、俺も死ぬ。彼女だって知っているはずなのに。

 何故だ?

 どうして…………!?


 思うよりも早く、煮え滾るような力が腹の内で蠢く。

 怒り猛るざわつきにあわや意識が浸食されかけたその時、セイが言った。


「ストップ、コウ! 大丈夫…………もう飲み込めた」

「…………飲み込めた?」


 訝しんで見やると、セイから溢れた血が泡立ち、みるみるうちにカーペットから剝がれてシロワニの…………セイの魔力である、顎門(アギト)の形となって泳ぎ出した。


 顎門は尾鰭を悠然と振って部屋を一回りすると、リーザロットと俺を少し眺め下ろしてから、スゥとセイの背後へと消えていった。


 長く深く息を吐きながら、セイが顔を上げる。撃たれた傷は跡形も無い。一滴の血すらどこにも残っていない。

 静かに凪いだ湖面のような灰青色の瞳が、俺を映した。


「よう」


 あまりにも清々しい調子に、俺は愕然とした。


「よう、じゃねぇよ!! …………何、やってたんだ?」


 リーザロットの、こちらもまた飄然とした声が、それに答えた。


「魔術の修行です。与えられた肉体の痛みを霊体へと即時転写し、魔力場に溶け込ませ己の力として利用する。…………入念な事前準備の要る技ですので、お手伝いをしていたんです」

「…………お、お手伝い?」

「核となるのは、対象となる痛みへの理解です。広範な領域における集中と、没入。同時に、それも瞬時に行うのは至難の業ですが、不可能ではないと先日発見しました。とはいえ、私もまだまだ修行中の身。ですので、セイ君と共力場を編んで感覚を共有し、こうして試していました」

「ごめん…………何言ってるかわかんない。…………何で撃ったの?」

「…………。…………撃ってくれと頼まれたからと、私も撃ってみたかったから」

「…………」


 セイを振り向くと、相手は肩を竦めて言葉を継いだ。


「噂に聞いてさ、前から興味があったんだ。だからこの機会にご教授頂いた。オースタンで苦労して仕入れたあの銃の弾丸と引き換えにな。…………ありがとうな、リズ。滅茶苦茶痛かった」


 リーザロットがクラシカルな銃によく似合いのこなれた笑みを返す。

 セイの言葉はスラスラ続いた。


「ただ、万が一があれば大問題だからな。下手を打てば、また戦になる。それでこうして、こっそりやっていたってわけだ」

「お前…………」

「使える技は多いに越したことがないからな。良い経験になった。自分で言うのもなんだが、相変わらず敵がわんさかいてな。隠し玉は常に用意しておきたい」

「違う…………」

「そりゃあ、隠し事が多過ぎるのは問題だ。俺は、これからはもっとオープンに国をやっていこうと思っている。だからこそ、こうしてこの宴にも顔を出して…………」

「違ぇよ!!! テメェ、自分が死んだら俺も道連れだってこと、わかってんのかコラ!!!」


 胸倉引っ掴んで怒鳴る俺を、セイはわずかに驚いた風に見る。

 くっきりとした瞳を思案げに横へスライドさせ、また俺を見て、動じるでもなく言った。


「…………生きているからいいだろう?」

「よくねぇよ!!! さっき自分で万が一とか言ってたじゃねぇか!!!」

「万が一は常にある」

「アホか!!!」


 そういう問題じゃねぇと、怒鳴りきる前に気力が萎んでいく。

 諦めて手を離すと、セイはごく自然な所作で襟を直しながら言った。


「ま、その辺りはお互い様で行こうぜ? お前だって好きに生きたいだろう?」

「この野郎…………」


 頭を抱えて溜息を吐くも、続く言葉は思い浮かばない。

 どうせ何を言ったところで無駄だし、これだけ色々あって変わらなかった性格がこの先変わるとも到底思えない。

 っつーか、いくら何でも立ち直りが早過ぎるんだよ。普通、もっと落ち込んだり引きずったりするもんじゃないのか?

 そうなってほしかったわけじゃないけれど、まったく…………。


 リーザロットが蒼い星空のようなドレスから大胆に覗かせた白い肩を軽く揺すった。


「ふふ、いつも仲が良いんですね」


 俺は彼女に向き直り、訴えた。


「リズも、面白いからってあんまり無茶に乗らないでくれよ。いつか本当に万が一があったら、責任が…………」

「だめ、コウ君」


 リーザロットが自らの桜色の唇に人差し指を当て、遮る。

 彼女は艶っぽく甘く、言い重ねた。


「だめ、そんなことは。…………もうできない…………したくない」

「…………リズ」


 何でか頬が赤らむのを感じる。と同時に、やっぱり何も言えなくなる。


 セイがテーブルの上の澄んだ茶褐色の液体――――近くにあるボトルからすると、オースタンのブランデーだ。よくガラス張りの棚の中に鎮座しているやつ――――を飲み、言った。


「そういうことだ、コウ。…………俺はもう少し遊んでいくから、もう行っていいぞ」

「とっとと出てけってか? 王様」

「そう、とても賢いな」

「叩き出したければ、そのブランデーを俺にも寄越せ」

「あとでボトルごとくれてやるよ。でも今はリズと飲む」


 憤慨した俺は、直ちに部屋を出た。

 汚らわしいブルジョワめ! 仮にも一国の王と姫が一緒に酒飲んでライフルぶっ放してお遊びだなんて!

 本当に…………アイツには心配して損することばっかりだ! あれが親友に対する扱いか!!




 廊下をシスイのいた方へ戻っていくと、横たわる彼の隣に今度は翠の主が座っていた。

 安らかな寝息を立てているシスイの横で、他の三寵姫と比べると遥かに地味な佇まいの翠の主が、やはり地味な淡い色のドレス姿で――――さすがに今晩は毛玉もツギハギ部分もないが――――じっと俺を見つめている。

 どうやら俺を待っていたようだった。


「あー…………こんばんは?」


 敬いつつ話しかけると、挨拶するでも微笑むでもなく、いきなり彼女は話し始めた。


「女王竜の逆鱗、砕いちゃったんですね」


 彼女の、肥沃な大地のような焦げ茶色の瞳に、俺はついその場に釘付けられる。

 翠の主は両手で頬杖をつき、話した。


「貴方は炎を手懐けた。運命を焼き尽くす業火を。…………それって、とってもすごいことですよ」

「え…………っと、何のお話でしょうか?」

「貴方はそれを知る必要がなくなった。…………貴方は自由になった」

「…………?」


 どうしよう、困ったな。

 いつもはエレノアさんが一緒にいたから、どうにか彼女の言葉を受け取れていたのだけれども…………。

 翠の主は困惑する俺なぞ気にも掛けずに、話し継いだ。


「一つびっくりすることをお話ししましょうか」

「と…………言いますと?」

「貴方は、自分がどこから来たと思いますか? …………いいえ、やっぱりこう聞きましょう。貴方はいつから「貴方」だったのですか?」


 えぇ、急に哲学…………?

 どこからとか、いつからとか、そんなこと気にしたってどうしようもないじゃないか。究極、俺が知らぬ間にグラーゼイの陰険さに絶望したあーちゃんが0.1秒前に創り上げた世界かもしれないし…………。


 答えあぐねていたら、翠の主はいつもより少し落ち着いた髪を片手の指でいじりながら、勝手に喋り出した。


「まぁ、確かにあの子のことを考え出したらキリがないんですけどねー…………。ひとまずそれは抜きにしておいてって話です。

 正直な話、「貴方」の始まりはそう簡単なお話じゃあないです。…………終わりもですけどね。…………貴方と「女王竜の逆鱗」が結びついたその時、貴方は終わりなき因果に囚われてしまうはずだった」

「それって…………」


 俺に逆鱗を渡したのは、誰あろうこの人なのに。

 一体何を言おうとしているんだ…………?


 翠の主は表情無く淡々と語った。


「でも、そうはならなかった。貴方は絡み合う運命の糸を全て焼き焦がし、因果の外へと飛び出た。それは恐らく…………「貴方」という情熱が、ついに求める灯を手に入れたということ。…………逆でもいいですけどね。灯を手に入れ、運命を焼いた」


 酔っ払っているようには少しも見えず、それが故にこちらの戸惑いも強い。

 シスイの小さないびきが静寂を規律正しく震わせている。

 翠の主は彼を横目に窺い、また俺を見た。


「…………寝ています。ひどくお疲れのようでしたので、楽にしてあげました」

「楽にって…………」


 さすがにもう少し言い方ってものがあるのでは…………。

 ともあれ、翠の主の話は続いた。


「…………貴方は自由です。永遠を捨てて、一度きりを見事手に入れた。…………選んだ貴方は本当にすごい。…………私との縁は、残念ながら途切れてしまったのかもしれないですけれど…………良いと思います。…………面白い」

「ありがとう…………ございます?」


 私との縁? ?? ???

 わからないことだらけだが、とりあえず褒められてはいるらしい。

 俺の頭上にいっぱい浮かんでいる疑問符を数えるように、翠の主は瞬きした。


「それで、お待ちかねのびっくり情報なんですけども」

「は、はぁ…………」


 その話、まだ続いていたのか。

 翠の主はぱっちりとした一重の眼差しを、子供みたいに俺へ真っ直ぐに向けた。


「一つの運命では、貴方は今とは違った安寧を得ます。…………きっと途轍もなく大きな何かを諦めて、長い放浪の果てに、小さな温もりを得た。そんな未来が、確かに一つあった」

「…………」

「それは運命を焼く業火じゃない。でも、とても大切な明かりだった。貴方の全てだった。そして貴方はそれが故に、結局運命の糸に絡め取られてしまう」


 もうどこにも無いはずの逆鱗の光が、記憶の中で鮮やかな虹を散らして去っていく。

 翠の主の声は、フラッシュバックと裏腹にどこまでも淡泊だった。


「どういう経緯だったのかはわかりません。私はあまりに幼かったから。世界は、今とはかけ離れていたから。…………貴方はその時、貴方自身ではなく、貴方に連なる最も近しい者へと逆鱗の運命を託したんです。…………それがいつかまた、「貴方」へ繋がると信じて」


 ふいに、翠玉色が長い前髪の下でキラリと輝く。

 かと思えば、またすぐに元の濃い豊かな茶色が湛えられていた。


「おしまい。…………どういう意味に取るかは、自由です。今はもう関係無いことですし。

 …………おやすみなさい。貴方に、この先もたくさんの雨の降り注がんことを願っています」


 初夏のヒマワリのような笑みが、去り際にパッと明るく咲いた。




 翠の主の話の意味をつらつら考えながら、俺はフレイアとの待ち合わせ場所のバルコニーへ出た。


 もうそろそろあの子がやって来る。

 本当は初めから一緒にいたかったのだけど、何のかんの言っても彼女は名家のお嬢様だ。色々と挨拶して回らねばならない場所があるのだという。

 俺を連れて行かなかったのは…………恐らくオーディンさんの思惑やら、何やらだろう。

 まだ正式に顔を出して回らせるわけにはいかないということだ。


 …………翠の主の言っていたことは、とりあえず心に留め置くことにしよう。

 彼女自身も言っていた通り、仮に俺の考えていた通りだったとしても、もう離れていく運命だ。

 互いに幸せであるなら、それでいい。

 …………少なくとも、俺ならそう思うはず。


 しかし、熟睡状態のシスイを置いてきてしまったな。丁度通りがかった霊の宮の宮司が様子を見ておこうと言っていたが…………はたして任せてよかったものか。


 あの宮司、会場で見かけないと思ったが、どうもずっとリーザロットの周辺をうろついていたようだ。

 いや…………現在進行形でうろついてる。シスイがその徘徊ルート上に偶々いるから見ておこうというだけで、やっぱり任せてよかったのか、どうか…………。


 っていうか、一周してセイが心配になってきた。

 もう呪われてんじゃねぇかな、アイツ…………。

 カメラの件に言及される前にと急いで逃げてきたが…………ううむ…………。


「…………まぁ、いっか」


 降り積もるモヤモヤをひとまず横にどけて、欄干に身をもたせて夜風に当たる。

 仰ぎ見る満天の星空が美しい。

 穏やかな夜。

 賑やかな夜。

 耳を澄ますと、庭の噴水の降る音が聞こえてくる。


 大きな人影が音も無く隣に寄り添ってきた。

 俺はもうすっかり慣れた漆黒の騎士の気配に、笑みを返した。


「やぁ、タリスカ」


 死神は挨拶代わりに一つ頷くと、欄干に背を預けて低い声で言った。


「ツヴェルグから話を聞いた。…………本気か」

「耳が早いなぁ」


 無いのに、とは言わない。耳のある(あった)位置にちゃんと穴はある。

 彼は腕を組み、厳かな調子で続けた。


「魔道を行く者は魔道に死す。…………戦は終わった。それでもなお血濡れた混沌を望むか」

「…………やっぱり、血濡れてるんでしょうか?」

「穢れず辿りうる道ではない」


 俺は星を数えていた。

 窓の無い空はどこまでも広く、眼差しは果てなく伸びていく。

 闇と無のさらにさらに先へと吸い込まれていくように、心が泳いでいく。


 永遠を捨てた、と翠の主は言った。

 だが、俺はそうは思わない。

 永遠は常にここにある。

 俺はそういう一瞬一瞬が好きだ。

 命はこのためにこそあるし、それでこそ燃えている。


「魔導師は魔道を探求する者。行先に頂は無い。…………ひたすら、朽ちるまで歩み続ける。歩む足が無くなれば這い、這う腕も失くせば、ただ見据える。両の眼が一筋の光をも失うまで」

「そして、何も見えなくなったら考える。考える魂も失くしたなら」


 俺は骸の剣士を振り返り、もう一度笑った。


「…………そこからが始まり。そういう道だろう」


 タリスカは深い闇を宿した眼窩を向け、わずかに顎骨を引いた。

 地獄の底からの声は、人間の名残をほんの微かに漂わせていた…………かもしれない。


「…………蒼の姫達は皆、同様に笑った」


 漆黒の剣士の姿は不思議とこの夜によく馴染んでいた。この星空の瞬きの歌を、彼はどれ程長い間聴いてきたのだろう。

 彼の言葉は、どこか遠くから響いてくるようだった。


「水底へ挑む者は皆、我が剣の及ばぬものを信じている。…………祝福か、呪縛か。私には未だわからぬ。

 …………勇者はいつか、それをすら突き抜けんと願うだろうか? 永遠に寄り添う唯一無二の眼差しを…………お前は如何に見定める」

「どうでしょう…………」


 …………腹の底の火炎が静かに重く熱を噴き上げている。

 右手のひらが心地良く疼く。

 俺は意外なぐらい、その感触全てを好ましく思っていた。


「…………まだ見ぬ一瞬が、その向こうにあるのなら」


 俺は夜空へと高く手をかざした。


「――――俺は扉を開くよ」


 骸の騎士が欄干から離れ、同じ空を仰ぐ。

 彼は漆黒の衣を大きく翻すと、広い背を向けた。


「さらばだ、「扉の魔導師」。…………近く修行をつけてやろう。如何なるものをも斬り裂くというその魔の刃、我が双剣がさらに研ぎ澄ませて見せよう」

「シュギョウ!」


 と、聞き覚えのある素っ頓狂なトカゲの声が、死神の肩から聞こえる。

 俺は目を剥いて、タリスカを呼び止めようとした。


「ちょっ…………待ってタリスカ! そいつ、そこにいたの!? 俺の欠片…………! どっかで脱走したとばっかり…………!」

「ドコニデモー!」


 エメラルドグリーンの鱗を煌めかせ、トカゲが漆黒の衣の内へ潜っていく。アイツ、一番強いヤツの懐に隠れていやがったのか…………!

 俺は去り行く背中に、追って叫んだ。


「っていうか…………タリスカの修行まではさすがに無理だよ! そこまでいっぺんにやったら…………本当に俺、死んじゃうって!」

「フ、そこより始まる」


 死神が泰然と肩を揺らし、木陰へと飛んで消える。「グッナイ!」と元気な声だけが後から届いた。


 がっくり泣きそうな俺を、背後から優しい声が呼んだ。


「――――コウ様?」


 明るい館の方を振り返る。

 バルコニーの入り口に、待ちわびた人が立っていた。


「お師匠様とお話していらしゃったんですか? コウ様のトカゲさんの声もしましたが」


 綺麗に梳かされた灰銀の髪から、ほの甘い花の香りが漂ってくる。

 ドレスの胸元に広がる白い肌が、夜をとても眩く、清らかに飾る。

 紅潮した頬と唇が、彼女をいつもよりもうんと柔らかく、愛らしくしていた。


 白と銀の繊細なレースが幾重にも重ねられた、深い真紅のドレス。

 袖のフリルから覗く白い腕は、普段と違った華奢な印象を俺に与えた。


 その腕が膨らんだスカートの前で、恥ずかしそうに組まれている。

 紅玉色の鮮やかな瞳が、俺を映して大きく瞬いた。


「あの…………やっぱり、変でしょうか…………?」


 俺は間近にやって来た相手の言葉に、やっと我に返った。


「あっ、いや…………そんなこと……………! むしろ、綺麗で」


 聞いたフレイアが、嬉しそうにはにかむ。

 揺れて流れた髪から、また良い香りがした。

 俺は夢のような幻のような気分に浸っていた。


「髪下ろすと…………やっぱり、かなり雰囲気が違うね」

「そうですか? 何度もご覧になったことがありますのに」

「でも、その…………白い花の髪飾りとか、とっても可愛いよ。…………ドレスも、すごくよく似合っている。…………滅茶苦茶可愛い」


 同じことを繰り返してしまったが、フレイアは気にせずまた嬉しそうに俯く。

 頬がさらに赤くなってしまった。


 俺はそんな彼女をしばらく見守り、それから言った。


「…………ねぇ、フレイア。聞いて欲しいんだ」

「はい」


 顔を上げた彼女はいつも通り凛としている。

 真っ直ぐな眼差しに、俺は誓った。


「俺、魔導師になる。ツーちゃんに師事して、あと多分、タリスカにも教わって、修行を始める」

「そうなのですか」


 紅玉色が一際明るく輝く。

 フレイアは両手を胸の前に合わせ、とびきり嬉しそうに笑った。


「いつかコウ様は必ずそう仰ると思っておりました! 早くもその日が来たのですね…………。フレイアも、精一杯応援いたします!」

「ありがとう。…………でも、驚かないのかい? 俺なんかにできるもんかって、不安になったりとかは…………」

「そんな! だって貴方は」


 言葉を止めて、フレイアがじっと俺を見つめる。

 照れた顔が、また一層赤くなった。


「サンラインの英雄で、勇者様で、私の…………運命の君なのですから。…………当然、成し遂げられるに決まっております。どんな困難な道のりでも、貴方が歩み止めるお姿などフレイアには想像もできません。

 コウ様の瞳は、ぜひとももっと色んな世界を映すべきです。…………貴方が彩ってくださる世界を一緒に見たくて、フレイアは魔海から舞い戻ってきたのです」

「…………」


 胸が熱くなる。

 リンゴみたいに火照っているのは、どうやら俺ものようだ。


「…………頑張るよ」

「はい」

「君に、数え切れないぐらいの景色をプレゼントしたいんだ。…………君が、好きなんだ」

「フレイアの方が、もっともっと好きです」

「どうだろう?」


 熱い頬に触れて、唇にキスをする。

 真紅に潤んだ瞳が、今にも滴り落ちそうだった。


「…………コウ様」

「何、フレイア?」

「あの…………共力場を編まれるのでしたら、お部屋に参りませんか? …………ここでは、ちょっと恥ずかしいです…………」

「ああ…………そっか。ごめん、夢中で」


 俺は頷き、改めて彼女の手を取った。

 そうして絡めた指を弄び合いながら、歩きだす。


 賑やかな人々の歌声が、夜をきらめく星々の歌声が、いつまでもいつまでも響いていた。




 ――――ppp-p-pppn……

 ――――rrr-n-rrr-n……

 ――――tu-tu-tu-n……




 扉の魔導師<BLUE BLOOD RED EYES> 終

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