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扉の魔導師<BLUE BLOOD RED EYES>  作者: Cessna
【エピローグ】
410/411

182-2、退屈を踏み越えて。私が大人の楽しみを覚えること。

 …………あーぁ、学校つまんない。


 なーんて、至極平和なことをのほほんと呟けるようになって、本当に良かったと思う。

 怒涛の如く私の下へ押し寄せてきた剣と魔法の世界(ファンタジー)は、同じく怒涛の如く過ぎ去っていった。


 それにしても、夢のようだった。

 いや、別に今も現在進行形ではあるわけで、ちっとも夢ってわけじゃないんだけど、それでもこうして学校で授業を受けていると、未だに何が現実で何が幻だったのかわからなくなる。


 私は高校で気怠い授業を受けながら、本当はむしろこっちが夢の世界なのではないかという錯覚に捕らわれていた。


 サンラインから帰った後の大騒ぎは、今や完全に昔。

 兄のみならず私まで失踪して、お母さんは完全にパニック状態だったという。特に私の方は「友達の家に泊まる」とかいう浅はかで無茶な工作をしたせいで、かえって混乱を深くしてしまっていた。


 いるはずの場所にいないぞ! 友達も知らないという。ではどこに!?

 誘拐? 事故? まさか…………駆け落ち!?


 最終的に、進路に思い悩んだ末の自分探しの旅ということで片付けられたけれど(当然ながら友達からも滅茶苦茶心配された)、そこについてはやたらと周りに納得されたのは、都合が良かった反面、ちょっと複雑でもある。

 そんなに自分に迷ってそうに見えるのか? 私は…………。

 まぁいずれにせよ、無事でよかった。


 で、お父さんとお母さんにはもう何も誤魔化しようがなく、事情を全て話したのだが…………。

 …………恐ろしいことに、二人とも異世界のことを知っていたので話は凄まじくすんなりと通った。


 意味がわからないよね。兄も絶句していた。

 知っていた? いつから? どうして? っていうか、妙に騒ぎの鎮火が速やかだったのは、そのせいか!


 …………色んなことの答えは、ヤガミさんに繋がっている。

 思えばおかしな話だったのだ。

 異世界から逃げてきた王妃様とその王子達が、縁もゆかりもなく右も左もわからないこの地球で、一体どうやって暮らせるようになったのか?


 魔術の力はある。でも、それ以上に誰かがサポートしていたのだ。

 それも一人じゃない。何人もの人が。


 ありとあらゆる知られざる秘密が、私と兄の失踪事件をきっかけに明らかになった。

 異世界について知っていたのは、私達だけじゃ全く無かった。

 ヤガミさん…………肉体の方…………も、心底驚いていた。


「察しが良過ぎる時があるなとは、思っていたけれど…………」


 彼と暮らしていた「親戚」のおじさんとおばさんは、実はジューダム所縁の人だった。

 彼らはヤガミさんのお母さん…………つまりは王妃様の、遠い血縁者であったらしい。

 幼かった私が兄の死(ヤガミさん…………こっちは霊体の方…………ややこしい…………に刺された時)にショックを受けて世界を壊した後に、仕事で付き合いのあった私のお父さんから事情を聞いて、アルゼイアからオースタンへやって来て彼を引き取ったとか。


 あー…………アルゼイアっていうのは、オースタンの「裏庭領域」? っていう隠れた魔法の国? が存在していて、そこの名前なんだけど。(…………つまり裏地球? ??)


 元々そことオースタンの交流の手引きやサポートを担っていたのが、私のお父さんだったんだ。

 外国での仕事って聞いていたけれど…………マジもう…………頭が痛くなる。


 いつも家にいないから、ちっとも知らなかった。

 本人に問い詰めたら「聞かれなかった」とか抜かすし。

 あの絶妙に人をイライラさせてくるところは、本当に兄と同じでイライラする。今思い出してもイライラする。あぁストレス。


 お母さんはどうして平気なんだろう? っていうか、お母さんもおかしいんだよね。

 まず旦那が異世界で働いているとかいうのを普通に受け入れているのもどうかしているし(「出会った時にはすでに就職していたのよ」)、裏山で途方に暮れていた異世界の王妃様を偶然見つけて拾ってくるまではいいとして、同じパート先にしれっと呼び込んで生活させるのもどうかしているし(「丁度人手が欲しかったのよ」)、私が世界を壊したとか言っても平然としているし(「だって別に、特に何にも変わらないんでしょう? よくあることよ」)…………そもそも兄がニートなのを、どうしてあんなに長らく放置していたのか?(「色々あったんでしょ? きっと色々あったのよ」)


 逆に何で、兄がフレイアさんを紹介しに来ただけであんなに動揺していたのかわからない。


「こ…………こんな綺麗で礼儀正しい子が…………!!! どっ、どうしてウチの息子なんかに…………!?!? 間違いだわ…………あの子は何か間違えているに違いないわ…………!!!」


 まぁそこは同意だけどさ…………。


 …………あーぁ、それにしても授業つまんない。


「次、水無瀬さん」

「ハイ」


 連なった英文を宿題通りに訳していく。プラスチック製品の使用をウン%控えると二酸化炭素の排出量がウン%、どうたらこうたら。


 あーあ、サンラインのあの指輪みたいなのがあればな。

 でもあれ、文字は読めないんだよね。

 まぁ…………いずれにせよ文字通り、夢物語なんだけども。


「うん。いいですね。完璧。…………次、村井君」

「え!? 俺!?」

「そう俺君。問い4」


 前の席の村井君が、今異世界から帰ってきたばかりみたいな顔でカラフルなゲーム機から顔を上げ、しどろもどろに訳を続ける。

 友人が隣から小声で囁きかけてきた。


「すごいね、朱音。今のところ、難しくなかった?」

「うん…………でも、間違えても別に死なないし」

「は?」

「こんなんじゃ絶望しないよ。世界は終わらない」

「…………朱音、大丈夫? やっぱりまだ自分が見つからないの…………?」

「そんなところ」


 とは言うが、本音ではちょっぴりわかってもきている。


 世界を覆う有害ガスに対して私が無力であるのと同じように、私は私の力に無力だ。

 そう。どんな凄まじい力を持っていたって、想像力が追い付かないんじゃしょうがない。


 でも、それは悪いことじゃない。

 私は多分、これからも世界を壊さないだろう。

 壊したくない…………それが私なのだ。

 あの時グラーゼイさんが言ってくれたみたいに、これからも逞しく未来を信じて生きていきたい。


 私は私に出来ることをちょっとずつやっていこう。

 私は異世界の姫でも巫女でもなければ、凄腕の剣士でもない。兄のような自由な生き方も、きっと選ばないだろう。


 だけど、それでいい。

 それがいいと、しみじみこの退屈と平和の中で思う。

 せいぜいほんのりエコに生きていく。


「村井君、そこまでで結構。…………次、室谷さん」

「ハイ」


 座った村井君がいそいそと異世界へと戻っていく。

 大きな剣を高速でぶん回して敵を薙ぎ倒していく画面の中の戦士を見つめながら、私はそれでも思うのだった。


 …………あーぁ、つまんないな。


 つまんないの…………。


 そうして授業が終わりに近付いた頃、鞄の中の端末が短く震えた。

 メッセージ。送り主はヤガミさん。

 それだけでも驚くのだが、開いて見て、私は思わず小さく声を漏らした。


「えっ何、急にどうしたの?」


 友人の問いに、私は慌てて答えた。…………誤魔化した。


「ちょ…………あの…………お兄ちゃん! お兄ちゃんの所に遊びに行くの、今度!」

「え? それだけ? …………前から薄々思っていたけど、やっぱり朱音ってブラコンだよね?」

「いや、違っ…………っていうか何よ、前からって? あんなのはもうどうでもいいよ」

「「もう」? …………ねぇ、じゃあ何でそんなにニヤけてるの?」

「え? だって」


 だって…………、

 また会えるからだ。

 会えるかもしれないからだ。


「…………朱音? ちょっと、マジで大丈夫?」

「多分…………」


 チャイムが鳴って、私は村井君のゲームのキャラクターがあえなく大鬼みたいなボスに何度も頭を踏みしだかれてゲームオーバーになるのを見ながら、溜息を吐いた。

 私の退屈も、たまには粉々にされるべき。




 …………と、いうわけで、私はお誘いに乗って再びサンラインの地を踏むこととなった。

 今回は「勇者」としてではない。私の代わりに「勇者」として名が通っている兄の妹として、晴れて一般人としての来訪だ。


 つまり今日は正真正銘、遊びに来たってこと!

 戦争なんかしない。伝承なんか知らない。

 ただただ夢と魔法の国を存分に味わいにやって来たのだ。


 何せ目的は、パーティだ。

 戦後の復興事業がようやく軌道に乗ってきたサンラインでは、この度、身分も出自も気にせずに参加できる大規模なお祭りを、ツイード家の主催で開くことになった。

 皆の戦の疲れを、そして日々の働きを労うために、この日ばかりは大いに食べて歌って、騒いで楽しもうという趣旨だそう。


 私はヤガミさんから連絡を受けて、すぐに行くと返事した。

 ちなみになぜヤガミさんからだったかと言うと、兄があまりに忙しくて帰ってこられないので、代わりに帰国した際に伝えてくれたのだとか。


「ヤガミさんも忙しかったのに…………ありがとうございます」


 ヤガミさんは来賓のために用意された部屋で休んでいた。

 彼は穏やかに微笑み、私に言った。


「ああ、気にしないでいいよ。あんな連絡ぐらい大したことない」


 今やジューダムの王様でもあるというヤガミさん。

 だけど、私にはほとんど今までと変わらずに見えた。


 見た目の雰囲気は確かに少し変わったと思う。吸い込まれそうな灰青色の瞳が、さらにさらに深くなった。

 表情に少し影もできた。けれど、その陰影は彼を今までよりも一層気高く、誠実そうに印象付けている。


 栗色の髪は、前に会った時よりも伸びていた。それでも汚らしいどころか妙に色っぽく、お洒落に見えるから凄い。

 むしろこの点では、私の方がダメダメかもしれない。リーザロットさんにめいっぱい整えて着飾らせてもらいはしたが、やっぱり元が元だもんなぁ…………。


 何となく恐縮している私に、ヤガミさんはサラリと伝えた。


「アカネちゃんの今日の格好、良いね」

「え!? あ…………これ、リーザロットさんが見立ててくれたんです。わざわざ私用にドレスの仕立て直しまでしてくれて…………」


 最初はリーザロットさんのものを普通に借りるだけのつもりだったが、如何せんサイズが合わなかったのだ。

 主に胸の所が。

 …………。


 …………いや、まだ成長するはず。あそこまでとは言わなくても、少しぐらいはいつかきっと膨らんでくれると信じている。

 …………大丈夫。多分、まだ…………恐らく…………。


 ヤガミさんは「良かったね」と大人びた笑顔を向け、兄のことに触れた。


「そういや、コウは? いつの間にかいないな」

「あぁ、兄はさっきグレンさんのお弟子さんに呼ばれて、走ってどこかに行っちゃいました」

「君を残してか? …………アイツ本当、しょうもねぇな」


 ヤガミさんが眉を顰めて立ち上がり、部屋に掛かっていた上着を羽織る。

 どうやらエスコートに出てくれる雰囲気なのを、私は慌てて止めた。


「あっ、だ、大丈夫ですよ! 一人でも問題無いです! このツイード家のお屋敷は広いけど、案内板もいっぱいあるし、パーティもかなりカジュアルな雰囲気ですし!」

「だからこそだよ」


 ごく自然に寄り添われて、私の心拍数は一気に跳ね上がる。

 こんなの、何だか一人前のレディにでもなったみたいじゃないか。分不相応だ。浮足立っているのが自分でもわかる。


 完全に着られているシルクのドレスに、頭だけお花畑なふわふわヘアセット。極めつけは身の丈に合わない、大人びたお化粧。

 いくら非日常とはいえ、本格的に逃げ帰りたくなってきた。


「あ、あの…………でも、私なんか…………」

「大丈夫。似合っている」


 端正な真顔で見つめられると、ぐらりとくる。

 やっぱりまだこんなのは早過ぎる。

 どうにかして兄を見つけてこよう。私には兄ぐらいが丁度良い。お兄ちゃん、どこにいるの? お兄ちゃん、助けて!


 不安定に沸き立つ意識へ、また別の男の人の声が掛かった。


「おい、ジューダム王。一体何をなさってやがるんです? 少しは立場をお考えください」


 刺々しくも若く溌剌とした、聞き覚えのある調子だった。


「アカネ様がお困りになっているのが、見てわかりませんか? サンライン(ここ)で、一体誰がお前なんぞ連れて歩きたいとお思いで?」


 振り返ると、キツネ頭のクラウスさんがこれでもかと眉間に皺を寄せて腕を組んで立っていた。

 磨かれた白い鎧をこなれた様子で纏った彼は、私を見て一転、紳士的な笑顔を見せた。


「ご機嫌麗しゅう、アカネ様。本日はより一層の可憐さで、私は目も眩まんばかりです。…………またお会いできた、この初々しき恵みに」


 流れるように私の手を取り、口づける。

 私は最早何も言えず、ただ顔が火照るに任せた。


「あ、あの…………」


 ヤガミさんが、一切改まらない声音でクラウスさんに返した。


「お前と一緒にするな。何もクソもあるか。コウのアホがいなくなるから代わろうとしただけだ。…………お前こそ何しに来た? 仕事をしろ。そして口の利き方に気を付けろ。俺を誰と心得る?」


 クラウスさんは肩を竦め、変わらぬ態度で慇懃に答えた。


「これは失礼、偉大なるジューダム王。以降はより適切な口上を心掛けたく存じます。

 …………アカネ様は俺が連れて行こう。蒼姫様がお前をお呼びだ。「準備ができた」と仰っていた。…………たまのご休日に、お前なんぞのためにわざわざ貴重なお時間を割いてくださったんだ。無駄にするな。直ちに向かえ」


 ヤガミさんは大きな灰青の瞳をやんわりと細め、わざとらしく大仰にゆっくりと頷いた。


「ご苦労。…………じゃ、ちょっと楽しんでくるとするかな」


 キツネの顔が尖った犬歯を剥きだす。

 ヤガミさんは無視して私に向き直り、軽く手を上げた。


「じゃあ、そういうことで。…………またね、アカネちゃん」

「あっ、はい。また後で」

「クラウス、手を出すなよ」

「お前こそ、もし姫様に何かあれば許さないからな!」

「それも面白そうだけどな」

「貴様!」


 笑って颯爽と去っていくヤガミさんの背姿は、とても王様らしくは見えない。でも、何か不思議な力強さがある。

 何だか目が離せない人だなと、私は改めて恐縮する思いがした。


 クラウスさんは一度深く溜息を吐き、黄色い獣の瞳を甘えるみたいに滲ませて私を見た。


「…………すみません、お見苦しいところをお見せしまして」

「いえ。むしろ、ちょっと安心できました」

「え?」

「お二人の会話を聞いていると気が抜けます。何だか…………面白い感じ」

「そ、それは…………」


 複雑な顔をするキツネ頭に、私はまたホッとする。

 よし、よし。これなら怖くない。

 私はクラウスさんに連れられて、大広間へ戻った。




 大広間では食べ物が振る舞われている。

 食事も、飲み物も、果物も、お菓子も、全部美味しそうで目がチカチカするなぁ!

 たくさん食べたいけれど、混んでいてなかなか割って入れない。あと一応、今はレディみたいな格好をしているし、それらしく振る舞わなくてはならない、気がしている。

 クラウスさんに頼んで取ってきてもらうのも、何度もは恥ずかしくて出来ないし…………うぅ、悔しいなぁ。


 大広間はとにかく大賑わいだった。

 異邦人もいっぱいいるし、ジューダムの人もスレーンの人もいる。大人も子供も男の人も女の人も、友人連れも家族連れも、いっぱいだ。

 これだけの人間を呼び込めるなんて、ツイード家って本当にお金持ちなんだなぁ…………。お兄ちゃん、本当にやっていけるんだろうか? まぁ私の知ったこっちゃないけどね。


 それにしても、クラウスさんは顔が広い。

 あちこちで声をかけられている。

 黄色い声はもちろんのこと、あまり好意的でない声までもがひっきりなしに掛かってきていた。


 それなりに楽しんで連れ立って歩いていると、一際猛々しい怒声が飛んできた。


「おい!!!! やっと見つけたぞ、クラウス!!!!」

「今度は誰です? えーと…………」

「ゾーケルだ!!!! 忘れたとは言わせねぇぞ!!!!」


 ネズミ頭の騎士を見て、クラウスさんがフワフワの首を捻る。私も何となく聞き覚えのある感じがしたが、どうにも思い出せない。

 小汚く毛を逆立てたネズミ騎士は、いきなり剣を抜いて飛び掛かってきた。


「お前のせいで!!! 俺は!!! ジェニに振られて!!! レイラにも振られて!!! 騎士団もクビになったんだぁあぁぁあぁ―――――――――――――――!!!!!!!」


 辺りに悲鳴が湧く。

 クラウスさんは慌てるでもなく、ただスイと剣を躱して相手の足元へつま先を伸ばし、盛大にネズミ騎士をすっ転ばした。


 大騒ぎの最中、クラウスさんは詠唱も無しに這いつくばるネズミ騎士の手足を氷漬けにして拘束すると、しゃがんでもう一度じっくり相手の顔を覗き込んだ。


「うーん…………あと少しで思い出せそうなんだがなぁ」

「テメェ!!!! ぶっ殺してやる!!!! 絶対ぶっ殺す!!!! お前のせいでっ、お前のせいでっ、俺はぁっ、ぁあぁあぁぁ…………精鋭隊なんてぇえぇえぇぇぇ…………!!!」


 怒鳴るか泣くか、どちらかにしなくては聞き取れるものも聞き取れない。

 騒ぎの隙に、近くのテーブルから素早くケーキを3つ頂戴する。あとあのクリームパフェみたいなのも絶対欲しい。あっちのピンクのジュースも凄く気になる。急げ。騒ぎに人が引き付けられている、今の内に。


 手際良く全てを手中に収めて、私はほくほく気分でクラウスさんのもとへと戻った。

 そこへ駈け寄ってくる少人数の集団。

 小麦色の肌の、ロングヘアの美人な女の子が先頭に立っている。

 ナタリーだった。


「あっ、クラウスさん!? その人捕まえてくれたの!?」

「やぁ、ナタリーさん。今日もお美しい」


 立ち上がったクラウスさんが紳士な笑顔で応じる。

 ナタリーは呻いているネズミ騎士を見下ろし、困り顔で溜息を吐いた。


「この人、アナタの名前を叫んでずっと暴れ回っていてねー。ウチの自警団全員で追い回してたんスよ」


 彼女の後ろからやってきた男性の一人が、追って怒鳴った。


「おい!! 結局騎士団の野郎に手柄を持ってかれちまったのか!?」

「モロさん、落ち着いて! 本人が捕まえたんだよ。何事も無くて良かったって」

「何事も無かっただと!? コイツがこれまでどんだけ暴れたと思ってやがんだ!? とっととしょっぴくぞ! ったく、どいつもこいつも手間かけさせやがって…………! これじゃあ落ち着いて酒も飲めやしねぇ!」

「もー、仕事なんだから仕方ないでしょ! クラウスさん、この人連れてってもいい?」

「お手数をおかけします」


 ネズミ騎士が氷の手錠をガッチリかけられたまま、屈強な男性達に肩を小突かれて引きずられていく。まだ何か騒いでいるが、やっぱり聞き取れない。

 ナタリーは立っている私に気付くと、ハッと驚いたような顔をしてから、明るく笑った。


「何だ、アカネちゃんじゃん!! 久しぶりー!! えーっ、めっちゃ可愛いね!! どこの貴族のお嬢様かと思っちゃったよ!!」

「えへへ、ありがとう。…………完全に着られちゃってるけどね」

「そんなこと全然無いよー!! めっちゃ似合ってる!! メイクも髪も、超好き!! 私が隊長さんなら瞬殺だね!」

「ちょっ…………っ! っ…………ありがとう」


 こうストレートに褒めらえると照れてしまう。

 でも、そんな風に言及されたら困る。


「隊長?」


 ほら、クラウスさんに食いつかれた。

 私は慌てて始まりかけた会話を遮った。


「な、何でもないです! あっ、ナタリーはもうこれ食べた? 美味しいよ!」

「えーっ、まだ! 忙しくってさぁー。あー、お腹減ったよー! 羨ましいー!」

「これ! あげるよ!」

「本当!? ありがとー!」


 誤魔化せたか?

 チラと視線だけで確認しようとしたのを、目敏くクラウスさんの野生の好奇心が捉えた。


「アカネ様。「隊長」って何です?」

「グラーゼイさんっスよー」

「わっ、ナタリー!」

「そういえば隊長さん見かけないっスね」

「あぁ、グラーゼイ様なら…………」


 ナタリーさんが果物のたんまり乗ったタルトに満面の笑みで齧りついたところで、またもや会場から悲鳴が上がった。

 続く激しい怒号、物の壊れる騒々しい音。

 会場の空気が一気に沸き立った。


「あちゃ~。マジで息つく暇も無いや」


 ナタリーがタルトを一口で頬張り、騒ぎの中心へ勇んで飛び込んで行く。

 …………までもなく、騒ぎの方が先にこちらへ突っ込んできた。


 取っ組み合った二人の男――――サンラインの人と、ジューダムの人だ――――が、テーブルの上を獣の子の如く転がりながら怒鳴り合っていた。


「テメェ、この栗毛野郎!!! そのスカしたツラ、ぶっ潰してやらぁ!!!」

「触るな、下衆めが!!! 貴様が我が王を侮辱したからだ!!! 礼儀知らずの恥知らずの野蛮人めが!!!」

「何が王だ!!! テメェさっき俺達の蒼姫様になんつった!? もう一度言ってみやがれ!!」

「あぁ何度でも言ってやる、あのビッチ!!!」

「ぶっ殺す!!!」

「やってみろ!!!」


 カッと熱っぽい魔術の気配が高まって、クラウスさんが即座に空色の魔法陣で彼らを囲う。

 一瞬広がるかと思えた爆発は霧に包まれるようにして収束し、男達は「クソッ」と喚きながら殴り合いを続ける。

 ナタリーが割って入ると、乱闘を囲っていたサンライン人の誰かが叫んだ。


「邪魔すんなよー、自警団!! 喧嘩に水差すんじゃねぇや!!」

「うるっさいな! 迷惑なんだよ! それぐらいわかんない!?」

「んだと!? 生意気なガキめ!! 「無色の魂(カラーレス)」の癖に!!」

「何、文句あるわけ!?」


 睨み付けるナタリーに、誰かが倒れ込んだ風を装って襲い掛かる。

 彼女は長い脚で即座にソイツを蹴り飛ばしたが、よろめいた男に運悪く巻き込まれた男が持っていた酒を盛大に床と相手にぶちまけた。


「アッ、テメェー!!! よくも俺の酒を!!」

「うるせぇ、俺じゃねぇよ!! テメェこそ、よくも俺の一張羅を!! 畜生…………全部あのガキのせいだ!!」

「ガキじゃないし!!」


 ナタリーが怒って振り返った拍子に、殴り合っていた男達が隣のテーブルをも巻き込んで暴れ出す。

 私は咄嗟にクラウスさんに庇われて無事だったが、巻き込まれてしまった大勢は持っていた食べ物やらお酒やらを大いに宙へ舞わせた。


 悲鳴が湧く。

 誰かのドレスが裂ける軽快にして残酷な音が響く。

 陶器片で頭を切った誰かが血まみれで走り回ると、さらに悲鳴が上がった。


 殴り合いは止まらない。魔術も小規模ながら、結局ぶっ放される。

 巻き込まれた人同士も参加し、喧嘩はさらに盛り上がった。


「オイ、異邦人がどのツラ下げて歩いてやがる!? ここは人間の国だぞ!!」

「エラソウナ口ヲキクナ、ビンボウ!! ダレノオカゲデ復興工事ガ成リ立ッテイルトオモッテル!? イツマデ古イ世界ノツモリダ!? オモイアガルナ!!」

「「太母の護手」だ!! 「太母の護手」が出たぞ――――!!」

「何だって!?」


 大乱闘の中、クラウスさんが顔を顰める。

 悲鳴が悲鳴を呼び、騒ぎはますます大きくなる。

 私はハラハラしながらケーキを食べきり、パフェに手を付ける。ジュースも手早く飲む。甘酸っぱくてすごく美味しい。


 ドッタンバッタン、ガッシャン、パリーン! キャーッ!


 まさにいっぱしの狂騒曲。何だか楽しくなってきちゃった。ピンクのジュースを飲んでから、もうずっとテンション上がりっぱなし!


「えぇ…………いや、気配はありません。デマかと…………はい」


 クラウスさんが険しい小声で誰かと会話している。無線みたいな魔術でもあるんだろうか?

 いずれにせよ、何に集中していようともスマートに私を守ってくれる。時折半狂乱で襲ってくる輩を軽く肘やつま先だけでいなしながら、悠々と騒ぎを泳いでいく。


 ナタリーは、惚れ惚れするような拳と脚捌きで次々と暴漢を叩きのめしていた。


「さぁ! 次は誰!?」


 いつの間にか楽しげに自ら騒ぎを煽り立てているナタリーが、両手を広げて挑戦者を募った。


「今の私の「無色の魂」は、サンライン一の職人が特別に仕上げてくれた一品中の一品なんだから!! その名も、「極彩の白」!! 真髄はこんなもんじゃないよー!!」

「そうよ!!! この骨無し共!!! このイェービスの技、もっと引き出して頂戴なー!!!」


 やけに押しの強い職人のおばさんまでが名乗りを上げ、広場はさながらプロレスのリングと化している。もう国籍も何もあったもんじゃない。

 そのうちに、大柄な誰かが群衆を割ってリングへ入ってきた。


「頼もう、頼もう!!」


 波と広がるどよめきに、私も和した。


「何だ、アイツは!?」

「赤いぞ!!」

「異邦人か!?」

「スレーンから来たんだと!!」


 スレーンの守護鬼、赤鬼のアードベグさんが真っ赤な顔をさらに顔を赤くして――――酒の匂いをたんと漂わせながら、腰を落として構えた。

 少し上等な着物をだらしなく着崩した赤鬼は、相変わらずの大音声を張った。


「やぁやぁナタリー殿!! 久方ぶりよ!! かの大戦以来か!? 酔い覚ましに一つ、手合わせ願う!!」

「マジー!?」


 ナタリーが翠玉色の瞳を大きく瞬かせる。

 さしもの彼女も、これは予想外?

 だが、衆人の熱狂は止まらない。ナタリーは口を引き結び、気風良く笑って身構えた。


「よし、来い!!! 竜の国の防人、アードベグ!!! 相手にとって不足無しだ!!!」

「うむ!!! いざ、尋常に勝負!!!」


「よーっしゃ!! お嬢ちゃん、ガンバレ――――ッ!!!」

「行け行け――――!!!」

「我らがナタリー嬢に30!!!」

「俺ぁスレーンの鬼に50だ!!!」

「ぶっ飛ばせ――――!!!」

「おい、酒が足りねぇぞ――――!!!」


 クラウスさんが顔を引き攣らせ、何やらまた連絡をしている。(「あっ…………いや、その…………問題はある…………ような、ない、ような…………」)


 衆目の下、喧嘩が始まる。誰もがぐんと引き込まれるような翠玉色の瞳の輝きと、大地すら砕けんばかりの鬼の雄々しい咆哮に、私の気分も上がる。


 まるで踊るようにしなやかに、拳が、身体がぶつかり合う。紙一重で交わされる鮮やかな攻防に、狂乱は加速する。

 ヤバいヤバい! ナタリーはあんなに細い身体で(と言っても私なんかよりずっと引き締まって鍛えられているけれど)、どうしてあんなに筋骨隆々な相手とやり合えるんだろう?

 まぁ、何でもいいか!


「ナタリー!!! ガンバレー!!!」


 私も大きく手を振って、飛び跳ねて応援する。

 淑女らしく?

 もう知らない! 元々淑女じゃないし! 楽しいのが一番!


 試合が盛り上がっていく。

 アードベグさん的には酔っ払いついでの軽い運動のつもりなのだろうが、それでも動きは恐ろしく鋭く、重い。さっきのネズミ騎士の特攻が寝惚けて見える。

 対するナタリーはとっても善戦していた。軽やかでかつ勢いのある、気合いの乗った体術が次々と繰り出される。健康的な足が本当に綺麗! いいなぁ!


 酒と料理が近くのテーブルから運ばれてきて、野次も場外乱闘もいよいよ熱を帯びていく。サンラインの言葉でない言葉もあっちこっちで飛び交っていた。

 クラウスさんが苦笑いしながら様子を見守っている。そこへ、私と同じく興奮した状態の女の子達がどっと押し寄せてきて、たちまち彼は相手に掛かりきりになった。


 丁度良いや。あっちのテーブルのクレープとスコーンとピンクのジュースを取りに行こう。騒いでいたら咽喉が渇いちゃったよ。


「クラウスさん! 私、ちょっと向こうへ行ってきますね!」

「あっ、アカネ様! お待ちください!」

「すぐに戻りますからー!」


「あの子誰ー?」「スレーンの子?」そんな会話に埋もれて、クラウスさんの呼ぶ声が歓声に沈んでいく。


 波打つ人混みを掻き分けて、ようやく目的のテーブルに辿り着くと、そこでは何やら陰気な雰囲気の男の人が、まるで体重を気にする思春期の女の子みたいに皿の上の食べ物を突つき回していた。

 こんなに楽しい宴に目もくれないなんて、変な人。


 かなり偉い貴族かもしれない。

 随分周りとは違った服を着ていた。あくまでシンプルだけど、どこかすごく豪華な雰囲気がある。襟や胸にズラリと並んだ紋章も、見るからに由緒正しい感じだ。神経質で高慢そうな顔つきも、如何にも貴族らしい。

 暗くてキツい感じだが、まぁハンサムと言えなくもないか?


 貴族は急に縄張りを睨むカラスのような目で私を見やると、不機嫌に言った。


「おい、そこの」

「…………はい?」

「何故ジロジロと見る? この私が西方区総領主コンスタンティン・リリ・バレーロと知っての狼藉か?」

「えっ…………」


 げっ、やらかしちゃった?

 さっさと謝るかと縮込こまった上へ被せるように、貴族は話した。


「む。そのドレス、もしや「蒼の主」のものか?」

「えっ…………あ、はい」

「何故お前が?」

「あ、えっと…………頂きました」

「三寵姫から賜りものだと? 何故、お前の如き小娘に…………。私には、茶葉以外ロクに寄越さないというのに…………!」

「…………?」


 何だ? 私に怒っているわけじゃないのか?

 訝しんでいると、再びナイフのような視線を突き付けられた。


「お前は何者だ? …………いや、当ててやろう。サンラインの者でもスレーンの者でもないな。そしてその魔力。三寵姫との繋がり。…………「扉の魔術師」の縁者だな?」

「…………」


 黙って頷く。

 何だかあまりにもこちらに興味が無さそうで、口をきく気にすらなれない。

 案の定、相手は勝手に語り出した。


「フン、「扉の魔術師」…………伝承の英雄か。笑わせる。一族の者まで引き込んで蒼姫様に気に入られようとしているようだが、その実がどういう男か、私はよく知っているのだ。あれには高貴な血は一滴たりとも流れていまい。顔つき、所作、全てが庶民のそれであった」

「…………」


 そりゃあねぇ…………。

 私はクレープを食べながら聞き流す。

 貴族は紫色の煮こごりみたいな食べ物をナイフでネチネチ刻みながら、話し続けた。


「蒼姫様も蒼姫様だ。何故あのような者を未だに館に置かれるのか…………。あんなことは、身分ある者の振る舞いではない。淑女の振る舞いでもない。断じてない。幸いにして、あれが「依代」となるような惨劇は回避されたと聞くが…………しかし、解せない。私には何の断りも無かった。「謁見」に当たっては日頃からあれ程までに、時には直接に、この私が、丁寧にご忠告申し上げていたにもかかわらず。…………先の大戦でも、あの方は判断を大いに誤られた。何故私に助言を求めなかったのか? 考えに至るまで、最後までお待ち申し上げたが、ついに無駄であった」


 アンタがキモいからじゃない? と咽喉まで出かかったのを、危うくジュースで流し込む。

 いけない、いけない。見ず知らずの危ない人には、弾みでも話しかけちゃいけない。

 折を見てそっと逃げなくちゃ。


 引き続き頃合いを見計らいつつ、食事とジュースを楽しむ。

 このピンクのジュースは実にテンションをホットにしてくれる。


「…………おい、聞いているのか?」

「あっ、はい」

「庶民的な言い回しではなかったか? ではわかるように言い換えてやろう。蒼姫様は今、どこにいらっしゃるかと聞いたのだ。お前の如きが知っているとも思えないが、一応は答える機会を与える」


 馬鹿なのかな、この人。

 嘘を吐いて首を横に振ろうとした時、逆隣りから優雅な女性の声が掛かった。


「もうお止しなさいな、コンスタンティン。そんなだから、振られてばかりなのよ」

「エレノア様! …………そのようなことなど…………申してはおりません」

「嘘おっしゃい。その子だってすっかり白けているじゃないの。嗜みがわかっていらっしゃらないのは、一体どちら?」


 私はやって来た女性に目を瞠った。

 淑女(レディ)だ。本物の淑女が、目の前にいる。

 菫色の瞳と、綺麗に整えられた流れるようなグレーの髪。洗練された黒いドレスに、星のようなネックレスが一筋、上品に輝いている。

 立ち姿はまるで一輪の薔薇のよう。


 怜悧でありながらも甘やかな美貌に見惚れていたら、その顔がにっこりと微笑んだ。


「ごきげんよう」

「あっ…………ご、こ、こんにちは」

「可愛らしいお嬢さんねと思ったら、本物の「勇者」ちゃんじゃない。お元気?」

「へ」


 私が「勇者」だと知っているのか。

 貴族が、陰険そうな目を大きく見開いて私に言った。


「何だと? ではお前が「扉の魔術師」の妹…………伝承の「勇者」だというのか」

「まぁ…………」

「信じられない。お前のようなありふれた小娘が」


 淑女の手前、心の中だけで舌打ちをする。

 早く話を止めにしたい。もう伝承の夜は過ぎたんだし、どうでもいいことだ。

 心底ウンザリしていると、淑女が溜息混じりに囁きかけてきた。


「ごめんなさいね。その子、意中の相手に色々と伝わらなくてピリピリしているの。一生懸命復興事業に協力してアピールしているつもりらしいんだけれど、やっぱり顔を合わせて、言葉できちんと伝えなくてはね」

「ですね」

「多分、貴方にも普通に話しかけたかったのよ。蒼姫様のことを抜きにしても」

「そうなんですか?」

「そうなのよ。…………あら、そのジュースがお好きなの?」

「はい! これ、とても美味しいです!」

「ふふ、飲み過ぎないようにね」


 話している間へ、誰か知らない恰幅の良いおじさんが笑いながら言葉を挟んできた。


「ハーハハハハ!! 好評で何よりです!! ウチの店、サモワールの自家製なんですよ、そのリージュのジュースは!! この宴のお酒、ジュース、果物、料理!! 気に入りましたら是非是非サモワールへお越しください!! 我がサモワールへ!! 紳士淑女の楽園、サモワールへ!! 是非とも!!」


 おじさんが笑いながら去っていく。

 貴族が「下品な祭りだ」と血色の悪い首を振る。

 私はそろそろかなと、二人に挨拶をしてテーブルを離れることにした。


「では、私も失礼します。また機会がありましたら」

「…………あるわ」

「え?」

「「勇者」君によろしくね」

「え、あぁ…………お兄ちゃんのことですか。わかりました! それでは!」


 ひらりと舞う花びらのように手を振る淑女の後ろから、貴族がいじけた黒い眼差しを向けている。

 私は瞬時悩み、結局言った。

 さすがに腹に据えかねる。


「あの!」

「…………何だ? 気安く話しかけるな。真の「勇者」といえど…………」

「恐れ入りますが、印象最悪ですよ! 何も食べたくないならすぐに帰って、笑顔とコミュニケーションの猛練習をした方が良いと思います!」


 絶句する相手の隣で、淑女がらしからぬ大笑いをしていた。




 リング際へ戻ってくると、選手交代していた。

 アードベグさんは未だに絶好調だが、相手は精鋭隊の、サイのような頭の…………確かデンザさんに変わっている。

 武器も魔術も使わないけれど、それでもとにかく派手な喧嘩だ。投げ技が決まると、歓声がどっと沸いた。


 乱痴気騒ぎは、すっかり(たけなわ)

 私はクラウスさんと、いつからか合流していたウィラック博士に話しかけた。


「ただいまです。ナタリーはどこへ行っちゃったんです?」


 クラウスさんが肩を竦めてそれに答えた。


「お仕事に戻られました。「アカネちゃんによろしく! また遊ぼうねー!」と言付けを預かっております」

「ありがとうございます。…………えーっと、あっちのデンザさんは何をして?」

「あれが仕事と、言い張っております」


 ウィラック博士が長い耳をピクピクと楽しそうに動かし、話した。


「まぁ、我々がここで見張っておるなら特に問題はありません。結界の調子も上々。通信も上々」


 と、クラウスさんがいきなりギョッとした顔で、私の持っているジュースに目を留めた。


「って、あぁっ!!! アカネ様、そのリージュ…………いつの間に!?」

「リージュ? このジュースのことですか? ずっと飲んでますよ?」

「ずっと!?」


 人の言葉にならない甲高い呻き声を上げて、クラウスさんが頭を抱える。

 無機質な赤い目をつやつやと光らせたウィラック博士は私を見て、またくるりと耳を回し、今度は小さな鼻を動かした。


「…………うむ、すでにかなりお飲みになっているご様子」

「何てことだ…………完全に油断した。…………あぁ、何と言い訳すれば…………」

「とりあえず水でも飲ませなさい。何、この程度ならば体調に支障は無い。中毒の危険性は残るが」

「うぅ…………」


 中毒?

 まぁ確かに、あるかもしれない。

 すでに飲んでいないと落ち着かない気分にはなっている。

 でもどうせカフェインみたいなものでしょう? それなら、いつだって私はプリン大福カフェオレ中毒だ。


 また一層の大歓声が波打ち踊る中で、クラウスさんが優しく私の手を取った。


「…………参りましょう」

「どこへ? お兄ちゃんのところですか?」

「そういたしましょう」


 擦れ違う色んな女の人から様々な声をかけられながら(悲鳴や怒声も混じっていた)、クラウスさんは足取りも浮つく私を広場の外まで連れ出した。


 そうして中庭へ出てみると、夜風が気持ち良いのなんのって!

 お腹も大分一杯だし、ああ、楽しかったなぁ。

 思いきり伸びをしたかったが、ドレスの脇とか背中に負荷がかかる気がして止めた。


「ここに座っていてください。今、お水を取ってきますので」

「はーい」

「…………ハァ」


 心なしかピンと立っていた耳がしょんぼり萎れている。

 キツネ頭の騎士が去っていく背中を見ながら、私は噴水の傍で涼んでいた。


 玄関前の庭と比べれば小さいけれど、それでも広々として綺麗な庭だった。青々とした樹々や丁寧にお世話されたお花達が目に優しい。ウチの半ば荒廃した庭とは大違い。

 優れた技術力の証だとかいうツイード家自慢の噴水も、心地良い音を立てて豊かに雨を降らせている。


 それにしても、賑やかな夜だな。

 本当に夢みたい。もう明日には帰らなきゃいけないなんて噓のよう。


 シンデレラ気取りじゃないけれど、今夜が終わればこのドレスも、髪飾りも、メイクも、全部なくなっちゃう。

 格好良いお兄さん達にエスコートしてもらえることもなければ、そもそも淑女として出迎えられる場に行く機会もない。ビュッフェはあるけれど、私が行けるのはもっと庶民的なレストランのものばかりだ。


 お兄ちゃんはいいなぁ…………とは、必ずしも思わないけど、やっぱりちょっと羨ましくなる。

 ここで生きていくって楽しそう。

 何もかもが生き生きとしていて、熱狂的で、退屈なんかとは無縁。喧嘩で騒ぐなんて、日本の普段の暮らしからすれば本当に異世界。


 私は溜息を吐き、きらめき満ちる濃紺の空を仰いだ。

 星降るあの戦の晩が懐かしい。せいぜい3カ月しか経っていないのに、もうずっとずっと前のことに思える。

 瞳のようにくっきりとした月が私を見下ろしていた。お客様な私のことをどう思っているんだろうな? どうとも思ってないかな?


 …………会えるかも、なんていう淡い期待は、どうやらこのままあっけなく消え去っていくらしい。


 まぁ、そんな気はしていた。というか、お誘いを受けた当初こそ浮かれたものの、こっちについてからは普通に諦めていた。


 だって、忙しいんだもん。

 皆、皆、とびきり忙しい。

 兄でさえひっきりなしにあちこちを飛び回っている。


 とりわけ精鋭隊の人達は、復興事業や治安維持のみならず、対外交渉等に赴く貴人の護衛にも当たっているそうで、文字通り彼らには昼も夜も無い。兄もフレイアさんとはあんまり会えていないと愚痴をこぼしていた。


 そうした隊員達を統括しているような立場の人に、どうしてたった二日の間に会えるはずがあるだろう。

 土台、無理な話だったのだ。


 大体、会ってどうするつもりだったのだろう?

 どうせ軽い世間話以外に話すことなんてない。元からしてお互いにあんまり話す方でもないのだから、すぐにいつもの沈黙が訪れるのは簡単に想像がつく。

 っていうか、別にそれでいいし。

 他に何を期待するっていうの?


 …………あーぁ。現実的になると、途端に退屈が押し寄せてくるな。

 明日学校に行くの、面倒くさいなぁ…………。


 頬杖を解いて、ふと目の前の植え込みに目が行く。

 なぜそこへ目をやったのかはわからない。

 だが私はそこで、恐るべきものを見た。


 小さな獣。

 細くしなやかな四肢。

 白、黒、茶の三色の毛。

 二股に分かれた尾…………。



「リケ」



 全身の血が一瞬にして凍てつく。

 心臓の鼓動が爆発的に速くなる。激しい耳鳴りに世界が歪む。

 震えが止まらない。息ができない。


 いつの間に?

 どうしてここに?

 これ、幻?


 …………違う。

 この恐怖は、紛れもなく…………。


 私のすぐ目の前に迫った獣は、一つ高く鳴いた。

 その声は私の思考の全てを奪い、あらゆる記憶と感情を打ち壊した。


「狙った獲物、リケは絶対逃さない。どんな結界も、無意味ナ」


 え、嘘…………。

 死ぬの…………?

 私、ここで…………。


「退屈は粉々。

 …………望み通りナ」


 真っ黄色に獣の瞳が輝く。

 黒く走る瞳孔が迫る。

 飛び掛かりくる獣に、私は悲鳴すら上げられなかった。


 時が遠退く。


 ああ、

 私――――――――…………。



 その時、突如として鋭い風切り音が現実を十文字に斬り裂いた。



「――――――――ギャッ!!!!!」



 獣の無様な悲鳴が空を割って、小さな身体が地面をあえなく転がる。

 空を斬った閃きの名残が、まだ瞳を眩ませていた。


 舞い散った血飛沫が地面に赤い花をポタポタと咲かせる。

 痙攣する獣の腹から溢れた内臓と大量の血液が、すぐにそれを飲み込んだ。


 次第に獣は動かなくなる。

 戻ってきた静寂を殊更強調するように、背後から低い声が響いた。


「…………死んだか。…………いや…………」


 振り返った私は、短く悲鳴を上げて地面へ転がり落ちた。


「ヒッ…………し、死神…………!?」


 立っていたのは、漆黒の衣と古く使い込まれた鎧をまとった巨躯の骸骨騎士だった。

 両手には二振りの曲刀…………鮮やかな血に濡れた、やはり使い込まれた刃。

 彼は真夜中の海よりも遥かに濃く、重く、罪深げな闇を湛えた眼窩に私を映すと、地獄の底から引きずり出してきたが如き声で呟いた。


「…………勇者の妹か」

「え…………え!?  私をし、知ってるの!?」

「気を抜くな、勇者の妹」


 見ろ、とばかりに骸の騎士の剣が前へ突き出される。

 未だ暴れる動悸に耐えてそちらへ視線を送ると、果たしてあの三毛猫が毛を逆立てて立っていた。


 同じ瞳。

 毛色。

 でも、尾は一つ…………。


「リッ、リケ…………!? で、でも…………!!」


 ここにある死体は…………!?


 ハッと見ると、みるみるうちに死体が灰色の砂となって風に攫われていっていた。流れ出た血の跡も、跡形もなく砂と化していく。

 残った砂粒が完全に流れきり、私は再び獣に目をやった。


 化け猫は威嚇の姿勢で牙を剥き出し、唸った。


「…………リケの魂、一つ減った! 折角の魂、減ってしまった! お前がやったナ!」


 死神が前へ歩み出し、おもむろに剣を構える。

 未だかつて感じたことの無い圧倒的な威圧感に、私はまた息を潰しかけた。


「だが、死神! お前は仕損じた。リケの魂、あと一つある。だがリケはもうやらニャイ。…………いつかこの借り、きっと返す。…………覚えていろ!!」


 シャッと鳴き、リケがひらりと身を翻して闇に飛び去っていく。

 骸の騎士はリケが消えた闇を一瞥してから、滑らかな所作で刃を収めた。


「あっ、あの…………」


 死神は短く言った。


「礼には及ばぬ」

「え、えっと…………いや、それもなんですが…………あの…………」

「ヴェルグの腹心の魔術師のうち、アルゼイアのイリスの死亡は確認した。だが、あの魔獣は未だ逃亡を続けている。…………ゆめ油断するな」

「あ…………ハイ…………」


 っつってもなぁ…………。

 っていうか、貴方は魔物ではないの…………?


 骸の騎士はこちらを向きもせず、淡々と続けた。


「とはいえ、かの獣はしばらく…………少なくとも数百年の間は身を潜めるであろう。喪った魂を養わんがために」

「…………はぁ」

「万一があれば私を呼べ。我が名はタリスカ。…………蒼に仕える魔」

「え」


 と、目を丸くした時には、もう死神の姿はどこにも無かった。

 どこへ消えたのか、やって来た時と同様に物音一つしなかった。


 あのリケをいともあっさり退けた、最強の剣士。

 蒼の騎士。

 「死神」…………。


 まさかあの人が、噂の蒼姫様の「運命の人」?


「ウッソだぁ…………」


 独りごちたのと機を重ねて、館の方から忙しない足音と声が聞こえてきた。

 力強い、闊達な男性の声だった。


「そこの方、ご無事ですか!?」


 傍にやって来た大柄の騎士を私ははたと仰ぎ見る。


 最初に目に飛び込んできたのは、鋭く研ぎ澄まされた…………プラチナを思わせる、灰と銀の瞳。

 くっきりとした彫りの深い二重。明るく丈夫そうな肌。

 皺の無い白いシャツから覗く、太い血管の目立つ腕と首筋。

 少しうねりのある黒い髪が、額にこぼれ掛かっていた。


 …………知らない人?

 ううん…………素顔を見たことなんてなかったけれど、わかる。

 私はこの人を知っている。


「グラーゼイさん…………?」


 驚いた私以上に、相手は狼狽した。


「ッ! アカネ殿!? …………大変申し訳ございません! 直ちに」


 瞬きの後には、見慣れたオオカミのモフモフ頭があった。

 黄色い獣の瞳はリケのそれとは大きく違っている。真っ直ぐで凛然とした、間違いなく心のこもった眼差し。


 その目が、困ったように微かに細められた。


「はしたない姿をお見せいたしました。…………所用で出ておりました故、このような出で立ちで失礼いたします」


 跪いてこちらを見る相手に、私は首を振った。


「いえ…………来てくれてありがとうございます。あの…………タリスカさん? が来てくれたので、大丈夫でした。…………怪我もないです」

「そうでしたか」


 険しい顔つきが一瞬だけ緩む。

 私はグラーゼイさんが差し出してくれた手を取って立ち上がり、軽くドレスの砂埃を掃った。

 汚れちゃったけれど、今更になってまだ生きていることに実感が湧いてくる。


 私はきちんとした私服姿のグラーゼイさんを見上げ、改めて尋ねた。


「あの、ごめんなさい。お仕事、お休みだったんですよね? それなのに…………」

「いえ、お構いなく。いつでも警戒は続けております。それが教会騎士の務めですので」

「…………」

「…………」


 噴水の流れ落ちる音だけが清らかに響いている。

 もう少し何かあるでしょう、と自分を追い立ててみるも、やっぱり会話が思いつかない。

 何をなさっていたんですか? なんて聞くのは立ち入り過ぎだし…………。いや、これがクラウスさん相手とかだったなら全然気にせずに聞けるんだけど…………。


 …………そういえば。


「そうだ。クラウスさんを知りませんか? お水を取りに行ってくれると言っていたんですが」

「今、聞いてみましょう」


 グラーゼイさんが小さく印を組み、しばし待つ。何か会話をしているのが、これまた何となくわかる。多分、目つきの変化や眉間の皺の寄り具合とかによってだ。


 …………見ている限り、どうもあまり良い機嫌とは言えなさそう。それ程深刻とは言えないまでも、強い叱責がこちらまで聞こえてくるよう。

 グラーゼイさんは厳めしい目つきで印を解くと、尖っていた瞳を一旦落ち着けてから、こちらに話した。


「途上で急用を頼まれたそうです。…………責任感の無い部下で大変申し訳ございません。重ねてお詫び申し上げます」

「いえ、そんな…………」

「水は、後で私がお部屋にお持ちいたしましょう」

「ああ、いや。部屋でなら、自分で…………」

「リージュのジュースをたくさん召し上がられたと伺いました。ご気分の方ははいかがでしょうか?」

「は…………」


 あまりに一直線な視線に、つい竦んでしまう。

 ちょっと、ちょっと、もうどうしたらいいのか…………。


 じっと真剣な黄色い瞳が私を見つめている。

 答えに窮したまま見つめ返していると、意表を突いてその目が和らいだ。


「…………アカネ殿」

「は…………はい?」

「いや…………やはり、アカネ殿ですな。…………お変わりは無いようで、安心いたしました」

「え?」


 どういうこと?


 グラーゼイさんは微笑み――――そう見えた――――言い継いだ。


「いえ、リージュ中毒については専門外ですので詳しいことはわかりません。ですが…………」


 言葉を探す横顔が、ふとまた厳格な表情に切り変わる。

 グラーゼイさんは言葉を途切らせた。


「いえ、何でもございません。…………お泊りの部屋へお連れいたします。よろしいですか?」

「…………はい」


 特に言えることもなく、黙って連れられて行く。

 大きな身体が隣に並んでいるのを意識すると、急に眠気のような、疲れのような感覚がどっと襲ってくる。

 緊張の糸がいよいよ切れかけているようだ。


 だけど、今は…………他はともかく今だけは、気取らなくては。

 出来る限り背筋を伸ばし、精一杯に淑女らしく歩いていく。

 その様子を見ているでもないグラーゼイさんが、何気無く、あるいはそれ風に、話し出した。


「アカネ殿は…………戦の折に助けた、両手首を失くした異邦人の子を覚えておいででしょうか?」


 私は変わらぬオオカミの横顔を見て、小さく頷いた。


「はい。あの可愛い、トカゲみたいな子…………悲しいことでしたけれど」

「あの少年は、まだ生きております。異邦人の特性なのか、生来の生命力が非常に強かったようでして。…………今は、私が面倒を見ております」

「えぇっ!?」


 思わず声を高くした私を、グラーゼイさんは微かに目を細めてみた。

 とても優しい表情で、なぜか胸がギュッと苦しくなった。


「え、と…………それは、どういう…………」


 経緯を尋ねたつもりなのは、どうにか伝わったようだった。


「北方区にある実家の領地に、孤児を世話している施設がございます。そこで、この度の戦で親を亡くした異邦人の子供も預かることにしたのです。

 ご想像の通り、孤児は大勢おります。それ故…………なかなか、資金繰りが苦しく」


 緩やかに続く声を、私は静かに聞いている。

 窓の外の表庭から聞こえてくる喧騒が、妙に遠く聞こえた。


「そうした事情で、今日は所縁のある方々に支援のお願いをして回っておりました。…………慣れぬ仕事でしたが、剣を振るうばかりでは叶わぬことも多くあります。…………様々手を尽くすべきだと、この頃は考えております」

「…………」


 見上げる私に、彼はわずかに肩を揺すって続けた。


「半ばは自身のためでもあります。…………ヤドヴィガ団長は、かつて御子を流産なさって以来、尋常ならぬ気勢で仕事をしておられました。そうした中で、育ててきた後輩を喪い、弔い続けて…………やがてはあのような安息を求めるに至ったのではと、私は考えております。…………剣を振るうより無かった、その果ての悲劇なのだと」


 獣の輝き溢れる眼差しが、夜空へと向かう。

 私はまだ何も言えず、ただ同じ空を眺めていた。


 オオカミの語りは、続いた。


「己が剣のみに寄らない、強さ。…………アカネ殿が世界を賭してお守りになったものを、私も紡ぎたいと思いました」


 私が見つめると、黄色い瞳も見返す。

 彼はまた…………今度はもっと人間らしく、微笑んだ。


「いきなり不躾な話をして申し訳ありませんでした。しかし、滅多にお会いできる機会もございませんので…………。どうか戯言とお聞き流しください」


 私は首を振り、もう一度大きく振って、やっと声を出せた。


「戯言なんかじゃ、ないです」


 立ち止まると、相手も止まる。

 広間の大歓声が、空気を少し震わせた。


「私…………あの…………嬉しいです。何か…………その…………」


 私は浮つく足を気合で踏ん張らせた。

 退屈を遠くぶん投げる、淑女の姿勢。


「その、貴方のきっかけになれて、すごく! すごく…………嬉しいです! ずっと…………私も、お話したかったんです!」


 何て頭の悪い言い方だ。

 顔が子供みたいに赤らんでいくのがわかる。

 最低。お兄ちゃん並の稚拙。


 泣きそうになっている私を、グラーゼイさんは茶化さなかった。


「…………ありがとうございます。私の方こそ、光栄です」


 グラーゼイさんは私の肩にそっと手を添えると、それとなく先を促した。


「やはり、少し飲み過ぎのご様子。…………クラウスには後で厳しく言っておきましょう」

「クラウスさんは悪くないです。私が、勝手に…………」

「悪いのですよ」


 静かな口調に、有無を言わさぬ険しさがこもっている。

 クラウスさんはちょっと可哀そうだけれど、何だかもう言うことを聞いてはもらえない雰囲気だ。

 …………飲み過ぎ? でも、所詮カフェインでしょ? 大袈裟な。


 やがて、廊下の向こうから兄が走ってくるのが見えてきた。

 何だかやけに驚いた顔をしているが、アイツは昔から何を考えているのかさっぱりわからない。

 何か叫んでいるけれど、それもさっぱり聞き取れない。


 構わず私は、大声で返事した。


「お兄ちゃぁん!!」

「あーちゃん!! どこへ行っていたの!? っていうか、何でグラーゼイ…………さんと!?」

「私、グラーゼイさんと帰るから!!」

「えっ!? …………えぇっ!?」

「どっか行ってて!! もういいから!!」

「えっ、でも…………」

「ミナセ殿」


 グラーゼイさんが毅然とした調子で兄へ呼びかける。

 兄は呆然と足を止めた。


「アカネ殿はお疲れです。もうお休みになるべきと、ウィラックも申しております」

「え? あ、そう…………なんですか?」

「私が部屋までお送りいたします。ミナセ殿は、あとはもうご自由になさってください。フレイアも、今日は一日休暇ゆえ」

「えっ、あー…………」


 私は頭を掻いている兄へ擦れ違いざまに手を振り、ふわつく足を前へ進ませた。


 この先には退屈が待っている。

 それは確実なことだ。


 だけど、楽しみもある。

 驚きもある。

 良いことも、悪いことも、予想出来ない未来がきっと待っている。


「…………アカネ殿」

「はい?」

「次にお越しになる際は、あまりリージュを召し上がり過ぎませぬよう。…………もう子供ではないのですから…………」

「それなら、飲んでも構わないのでは? 大人の飲み物と誰かから聞きました。…………次も、呼んでくださるんですか?」

「それは、まぁ…………ですが…………」

「ふふ」


 笑顔で仰ぐと、相手は目元に皺を湛えて口を噤んだ。



 まだ見ぬ退屈を楽しみに踏みしめ、私は歩いていく。

 どこまでも。

 どこまでも。

次回、最終回です!

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