181-2、さようなら、幼き世界。俺が青春と決別すること。
――――――――…………夜が明ける…………。
紺青の空を最後の流れ星が一筋、駆けた。
黒く重たい海に鮮やかな茜色が染み始める。
たなびく雲を染める藍色と朱色は、刻一刻とその表情を変えていっていた。
まだ煙のくすぶる街の上空を、レヴィが悠然と泳いでいる。
遠く深く、今や誰にでも、いつでも聞こえるようになった魂の歌を、雄々しく優しく歌い上げていた。
――――ppp-p-pppn……
――――rrr-n-rrr-n……
――――tu-tu-tu-n……
レヴィの上に誰かが乗っている。さすがによく見えないけれど、伝わる魔力のこの青く爽やかな感じは間違いなくナタリーだろう。
それと一緒に感じる、ほんわかした土のようなこの感触は…………。
…………あーちゃんか! 無事で何よりだ。
他の大勢の魔力も、何となくだが漂ってくる。
レヴィが伝えてくれているらしい。
この新しい世界では、多くのことがただいるだけで伝わってきた。
たくさんの声が…………レヴィだけじゃない、誰かの歌が、絶えず魂に囁きかけてくる。わかることも、わからないことも。喜びも、悲しみも。
はっきりと状況が見えるわけではないけれど、雰囲気とでも言うのだろうか。同じ場所に誰かいる…………命があるってことが、滲み入ってくる。
少し耳を澄ませれば、白く透明な雨音だって聞こえる。
魔海の波飛沫が強い。
それは苦くてしょっぱくて、冷たく清らに澄んでいる。
どこからか小さな大魔導師が、俺の隣へやって来て呟いた。
「コウ…………貴様がこの大変動を起こしたのだな? 何ということを…………」
自分の琥珀色の瞳がどんな風に変わっているのか、きっと彼女にはまだわかっていない。後ろで剣を携えている紅の主もまたそうだろう。
二人とも、今までと同じ琥珀と真紅じゃない。それは昨晩までよりもずっと美しく、それ自体が語り掛けてくるみたいに毅然と輝いている。
さらに一歩後ろにいる霊の宮の宮司は…………相変わらずの血色と淀んだ緑の眼差しだが、それは恐らく俺が彼のことを理解しきれていないせいだろう。
彼はじっと、味わうが如く世界の歌に聞き惚れていた。
俺は目の前で打ちひしがれているジューダム王を眺めた。
俯いて荒く呼吸する彼の表情は見えない。
どんな処置を施したのかは知らないが、あの肉体の大怪我がこの短い間に完治したはずはない。身体はもうとっくに限界を超えていたのだろう。
彼が操っていたジューダムの力場は、新しい扉が繋いだ時空をも超えた大気脈の中に取り込まれて、今や全く様相を変えていた。
ジューダムの民がそれぞれ宿していた本来の魔力が、響き渡る歌声の中で血を通わせ始めている。
あたかも彼らを繋ぎ止めていた王自身が、そうありたいと願ったのを映し出すように…………。
止まらぬ出血に苦しむ王は、それでもゆっくりと立ち上がった。
唯一人、ただの意地だけで身体を支え、俺を睨み付けている。
哀しいぐらいに冴えた灰青色の瞳が、差し込む陽の色を浴びて一段と美しく、鮮烈に研ぎ澄まされていた。
「来い…………顎門!!!」
王の魔力である巨大なシロワニが、淡く夜の残る空から姿を現す。
力漲る世界の景色と比べて、大鮫は遥かに貧弱で孤立して見えた。
「…………まだやるのか?」
俺の問いに、ヤガミ・セイは掠れきった声で返した。
「…………俺は「王」だ! 世界がどうなろうとも…………俺だけは…………!」
「無意味だ。もうお前にやれることはない」
「俺は命じた! 「戦え」と…………! …………俺自身に、対しても!」
ツーちゃんが歩み出ようとするのを、俺は片手で引き留めた。
琥珀色の冷淡な目がすぐさま俺へと刺さった。
「コウ! この期に及んで情けをかける気か? …………こやつを生かしてはおけぬ。あまりに殺し過ぎた」
「わかっている。…………だから、俺にやらせてほしい」
「本当に理解しているのか? この大変動で、一体どれだけ気脈の分布が変わったか? 少なくとも、ジューダムとの力場の交雑は必ずや甚大な脅威となる。そのような状況で…………」
「頼む!!!」
少女の顔が強張る。
怒りとも当惑ともつかない目つきが、瞬きもせずに真っ直ぐ俺を見つめている。
やがて琥珀色の眼差しは試すように、微かに細められた。
「…………できるのか? 貴様に…………」
黙って頷く。
大魔導師は睫毛をわずかに伏せ、小さな背を向けた。
「貴様が負け死ねば、すぐに私が止めを刺す」
「…………ああ」
つまり、最後まで手を出さずにいてくれるということか。くどくど言っていたくせに、大概だ。
ふと見やると、紅の主と目が合った。
彼女は一言、涼やかに告げた。
「貴公を信じよう」
「感謝します」
俺は右手のカッターを改めて握り締め、黒銀色の刃を親指で押し出した。
もう片方の手で刃を手折り、まっさらな切っ先を相手へと向ける。
彼は明るみゆく空の下で、血まみれの手を前へかざした。
顎門が地獄の底から臨むが如き目をこちらへ止める。剥きだされた無数の牙の白が、それだけが、世界の中で痛ましく白く輝いていた。
…………ツーちゃんに言われるまでもなく、わかっている。
この戦は「王」を殺すまで止まらない。
アイツ自身がどれだけ願っていようとも…………望んでいようとも…………それでは済まない問題なのだ。
例え自国の民を食わせるためであっても、「王」の呪いに魂が縛られていたのだとしても、ケジメはつけなければならない。
命の歌は美しいばかりではない。
人の心は、今も叫び続けている。
魔海へと還っていったたくさんの魂が彼を呼んでいる。
生きている魂もまた、強く強く彼を願っている。
「王」への呪い…………永遠の祝福は、未だ民の心を彩っている。
「王」は、自由にはなれない。
…………最後まで生き抜くことだけが、せめてもの祈り。
償いなどできるはずもない。
赦されるなど、あってはならない。
死にたい程わかっているからこそ、アイツは戦う。
自ら望んだのではない。
それでも、自らが選んだ道。
人としての最後の意地が、格好つけることだけが、叫べる唯一の自由。
無惨に踏みしだいてきた全てへの、誠実。
…………本当に、何も変わらないヤツ…………。
「――――――――行け!!!!!」
顎門が猛然と飛び掛かってくる。
凄まじい勢いと速度に、世界が軋む
魂の吠え声が響き渡った。
言葉よりも感情よりも激しく、世界を鋭く貫き通す命の閃光。
天国も地獄も引き裂く詩…………。
琥珀色の眼差しが、長く伸びきった世界の端で微かに光る。
レヴィの歌が彼方から重なって、遥か轟く。
たくさんの竜達が応えて一斉に鳴き続く。
三寵姫の祈りが、
白い眼差しが、
水底からの瞳が、
ゆっくりと風を動かす…………
「…………さようなら、「魔王」」
牙が降りかかる寸前で顎門の脇へと踏み込む。
滑らせた黒銀の刃は、一直線に顎門の口から腹を深く斬り裂いた。
――――――――…………花火の最後の一片が落ちるように、灰青色の灯が闇に失せた。




